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第五次医療法改正

第五次医療法改正があり、2007年4月1日から施行されている。
いろいろな論点はあるが、今日は医療法人に関しての一点だけ。

今回第五次の改正では、医療法人に関しても大きな変化がありました。
たとえば改正法40-2では医療法人の役割の明確化、つまり監査のあり方などを強化したようです。
42-八号では有料老人ホームの設置可が盛りこまれ、医療法人の業務拡大が可能になります。

中でも44-4項では、解散時の残余財産の帰属について、ついに規定されました。
省略して言えば、医療法人内部の剰余金は、解散するとき、出資者に返されるのではなく、
国などに帰属するというものです。

これはすごい話で、財産権の侵害であり、憲法違反だと反対している人たちもいます。

だって、一所懸命働いて、会社(病院)が大きくなって、最初資本金(出資金)1000万円で始めたものが、最後には一億円になっていたとして、その一億円は、当初出資金は出資者に返還するものの、あとの9000万円は国(など、最初に法人約款で決めておく)に取られちゃうんだそうです。

何でこんなことが!
というと、厚生労働省は、医療に株式会社はなじまない、なぜなら、医療法人は営利組織ではないからだ、というあたりに出発点があります。
「営利活動は認めないといっても、残余財産を分配するときに、配当とはちがう形だけれど、実質的に利益になっているじゃないか」という批判はあった様子です。

そこらあたりを、法律的にもすっきりさせたいというので、儲けが法人内部に残ったら、それを利益として分配することはダメ!としたらしい。

それだと旧法の医療法人との整合性とかの問題もあり、未解決の部分もある。

そもそも医療法人が解散するということは現実にはほとんどないことなので、
もっぱら、株式会社参入を禁止したい勢力の考えたことらしい。

もちろん、運用としては、いろいろ方法もあるので、そんなに悲惨な法律ではないのだけれど、
今度は、そんな性質のお金には税金はどうなるのか、などの問題が生じて、
国税とはやっと調整段階で、
来年には間に合わせるということらしく、
結局、あと一年は、待ってくれということらしい。

実際、このあたりで、新法になったら医療法人も運営が難しいなんて思った人も多く、
駆け込み法人成りが多かった。



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人生に不可欠なもの

長崎市長がなくなってしまった。
冥福を祈る。
事件の意味について新聞の主張しているところでほぼ全部尽くされているし、
私としても賛成である。
暴力に反対、言論の自由をすべての市民、マスコミの手によって守ろう。

ここから先は長崎市長銃撃事件とは関係のない話。

私は個人的に多くを失ってしまったと述べているが、
実際に何を失って何が残ったか、考えた。

死んでしまう人に比較して、
私には何と多くのものが残っただろう。
命もある、とりあえず生活するだけの資産もある、友人もいる、そして未来への自由もある。

失ったものを数えれば
確かに強い後悔を感じる。
しかしそれでも私に残されたものを考えると、
それこそは本当に私のものなのだとも思える。
いま私にここされたものは実にありがたいものばかりだ。
それをありがたいと思って感謝して生きていたい。

死んでしまえばあの世に持っていけないようなものに執着していても益はない。
古来、文人はむしろ捨てることで、処世の術とした。
また捨てることは、認識の術でもあった。
そうした態度は世俗に生きる家族を幸福にしないから、
しばしば家族をも捨てることになった。
捨てられた家族としても、どうせ付き合いきれない人間なのだから、
捨ててくれてよかったと考えていたものだろう。

捨てられるものならばすべて捨て去り、
なるべく死に近い状態をつくる。
その時点で、未来に届く言葉を語ることができるようになる。

若いころ清潔に几帳面に考えていたことも、
いまは多く忘れている。
しかしそれでよいはずはない。

人生に必要なものは数少ないし、
ただそれだけを大切にして生きればそれでよい。
物質的条件としては単純にした方がよい。



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山手線で認知症予防

今日、山手線に乗って経験したこと。
偶然両隣に退職も近いくらいの年齢の男性、
両方とも、魔方陣に数字をはめ込んでいる。
右側の人が高度で、左側の人が初歩だ。
一体、電車でこんなことをしている人が
給料をもらって仕事をしているのだろうか?

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目取真俊「帰郷」「剥離」「署名」

目取真俊「帰郷」
他の話が心理劇であるのに比較すると、冒頭に置かれているこの話は、
夢幻的で半ば幻想の体験のようにも思えるものだ。
話をつくるという点ではよくつくっていると思う。

「剥離」
これは学級崩壊によって小学校教員である妻が身体的・精神的危機に陥り、
それと連動する形で夫である中学教員が危機に陥る様子を描いたもので、
よく描けている。
しかしこれは「文学」なのだろうか?
この文章に目取真俊の刻印がどれだけあるのかといえば、どうだろう?
もちろんうまいし、的確である。そのゆえに、素直ないい文章になってしまっているのだろう。
それで悪いはずはないのだけれど。
直球が素直すぎて、模範的過ぎて、とてもいいのだけれど、多分、三振を取ることはできない。
もう少し汚いスピンがかかっていればいいと思う。

「署名」
これはなんとも不条理劇である。
不条理の中に陥れられた者の苦悩は実によく描かれている。
しかし一方、陥れる側の、動機とかメカニズムとか必然性とか、
そんなものが知りたいと思う。
それを提示していないから、不条理劇と呼んでいいものになっているのだろうけれど。

全体に、沖縄の風土の中で語られることの意味は充分にあると思う。
日本に生活している人は、テレビに出ているような抽象的なTOKYOの中で生きているのではなくて、
具体的などこかの土地で生きているのであり、
だとすれば特有の言葉があり特有の風俗があり、従って特有の感情と思考があるのだと思う。
それをすべて脱色して、成功するとも思えない。
リアリティを付与するには積極的に、土地や時代を特定することもいい作戦だ。
夏目漱石にしてもとても地域的なローカルな言葉である。
森鴎外のほうが歴史的に見てグローバルな言葉遣いである。
ただ、夏目漱石の言葉が後の時代には東京の言葉になり、
文章の言葉になっていったわけで、その点でローカルと単純にはいえないけれど、
でも本質的にはローカルなのだと思う。

沖縄の言葉で書かれる部分に、とても光るものがあり、深い響きがある、
言葉の語数以上の含蓄がある。

これには私の個人的な沖縄体験も関係していると思う。



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巨人第16戦目

今日は広島黒田に完敗。
いいんじゃないでしょうか。
黒田にはたま~に勝てば充分です。

西武涌井、好投。
でもスタントがガラガラ。

中日・山本昌、阪神相手に好投。
いい投手は打てません。

ピッチャーの給料を上げるわけには行かないんだろうか?

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グールドのモーツァルト

芸術の表現を語る時、
「何を」と「どのように」とがあり、その幸福な一致が目標なのだといわれる。

グレン・グールドがモーツァルトのピアノソナタを弾く時、
モーツァルトの音楽と
グールドの弾き方は
どうもあまりぴったりしないようなのだがと言われることも多いだろうが、
それでも、グールドらしさの刻印がくっきりときつく押されていることは間違いない。

これでいいのだと思う。
芸術の表現における多様性を目指し、
社会としては多様性を保持する方向を目指す、
それでいいのだと思う。

現代のように情報が重複しつつ駆け回り、
真実の一時情報は少なくなり、
それでも手を変え品を変え情報が分散して行くなら、
ゴツゴツするくらいその人らしい表現の仕方があってもいいと思うのだ。

グールドはグロテスクなくらいにまでグールドである

そのように表現様式にこだわる時、
たとえば顯微鏡が新しい世界を開いてみせるように、
突然新しい世界が開けるのではないかと思う。

表現様式は、単に、表現の仕方ではなく、
世界の発見の仕方なのだ。

それは
世界観の発見なのである。

それは究極の成功例であるが、
少なくともその程度の意気込みを持って
表現様式にこだわりたい。

グロテスクだけどリアリティにあふれている。

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被爆地・長崎が訴える核兵器廃絶の基本は人を殺さない、いかなる暴力も許さないということ

長崎市長銃撃:「2代続けて銃撃は異常」…本島・前市長
 90年1月に長崎市役所前で右翼団体幹部に銃撃され重傷を負った本島等・前長崎市長(85)は17日、毎日新聞の取材に応じ「驚いた。二度と長崎で僕のような事件が起きるはずがないと思っていたのに。事情がどうにせよ、暴力は無条件に悪いことだ。(伊藤市長は)撃たれるような悪いことはしていないはずだ。被爆地・長崎が訴える核兵器廃絶の基本は人を殺さない、いかなる暴力も許さないということ。なのに2代続けて、その市長が撃たれるのは異常だし、不名誉なことだ。背後に暴力を容認する風潮があるのであれば本当に恐ろしいことだ」と話した。

以上、毎日が伝えている。
重い言葉である。
くだらない文章の中に、このような大切な文章も畳み込んで、しまっておきたいと思う。
忘れないために。
私は、忘れません。



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不撓不屈の魂

ピッチャー・桑田の人生を思うに、入団時にバッシングがあり、
その後も投げる不動産屋とか言われたりしたものだ。
大リーグを希望しても、ナベツネさんに借金はどうするなんていわれたり。
そのあとは怪我との戦いだ。
さらに起用法をめぐっての問題もあったように思う。
よくぞしのいできたものだと思う。

彼ほどの才能の人にして、これほどの苦難の道である。
打者との戦いはもちろん中心だけれど、
そのほかに、世間、マスコミ、悪意、誹謗中傷、怪我、トレーニング方法、チーム内の人間関係、
とにかくいろいろな方面と戦いの連続だった。

怪我で手術して、一休みしてまた出直した。
二軍球場を走って作った「桑田ロード」は私の励みになる。

私もしばらく休んで出直しだ。
他人とは比べない。
私は桑田と比べる。

桑田が不撓不屈であったと同じ程度に
私もまた不撓不屈でありたい。

私も再起して、ピッチャーズ・マウンドに相当する場所で感謝の祈りをささげたい。

神様が用意した関門を、ハードルを、一つずつ真心を込めて、越えてゆきたい。
だってそれしか私の生きる道はない。

人間にできる努力なら、私は引き受けて、やってみようと思う。

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