メダルを取ったら次は出場しないルール
考えてみれば、まずオリンピックで勝った経験があるのだから
強くなるに決まっている。
精神的にも相手に対して優位に立てる。
そこまではまあ、個人の技量の問題としてもいいのだけれど、
現実には、メダルを取ったことによって、
経済的に恵まれ、練習の条件も優遇され、
その人の事情を勘案していろいろなスケジュールが組まれ、
それでその人が嫌っている後輩にはなかなかチャンスが回っていかなかったり、
いろいろな「副作用」があると思う。
だからこそ、連覇は結構多いのだと思う。
正直言って、日本柔道なら、怪我をしないで、後輩をいじけさせれば、
連覇が出来そうである。
伸びそうな後輩に意地悪するのも、
代表選考会で負けたとしても自分を選べとプレッシャーをかけたりするのも、
いかにも日本のスポーツ界でありそうなことだ。
国内では負けないのに意外な海外選手に負けたりするのもそんな事情があるだろう。
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そこで、一度メダルを取ったら、オリンピックに限っては、卒業ということにしたら良いだろう。
世界選手権などで記録を競うのはそのまま続けたらよい。
団体競技ならば、参加した全員を、卒業とする。
オリンピックビジネスは一度だけでいい。
あとは他の人にチャンスを与えた方がいい。
金メダルがひとつよりも二つの方が偉いともすごいとも思うものではないのだから。
そうすれば、メダル獲得者は、後継者育成に励むことになる。
自分が一番でいるよりは少しは風通しがよくなる。
多分複数者を競わせて後継者を育成するだろうから、それは望ましいことだ。
4年に一度なのだから、新しい顔でもいいはずである。
顔が新しくならないのは、その人にまつわるいろいろな事情があって、
簡単には新しく出来ないのだと想像できる。
後輩にお金が回るようになる。
コーチ、マッサージ係、栄養係、雑用係、マスコミ係、いろいろな系統の人たちが
引き継がれて、世代代わりを促進する。
一度勝ったら次にはますます有利になるというのでは不公平というものだ。
どんなに優れた才能のものでも、今のままの制度では腐ってしまう。
次の才能が伸びなくなってしまう。
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栄誉は一度でいつまでも讃えられる。
そして次のヒトにチャンスを与える。
それが貪欲でないスポーツマンシップというものだ。
公平さと全体の繁栄を願う心だ。
お金の流れが変わるので、
人気競技にも変化が生まれるのではないか。
いろいろなスポーツが盛んになり、
サッカーにも出るけど射撃にも出るとか、そんな人がいてもいい。
競技の偏りもどうにかならないかと思う。
おかしなものだ。
よく知らないが、馬術の方面で、遊牧民の名人が勝つことは多分ないのだろう。
それほど特殊なルールということであって、
スポーツを規定するルールのあり方の問題でもある。
ルールの解釈を緩めるかどうかで、
メダルの行方が違ってきてしまうのもよくある話だ。
体力に限界のある民族は技術で挑む。
技術とは、しばしばルール違反すれすれの行為を意味する。
こんなのはスポーツの本質とは全然関係がないと思う。
たとえば競歩の世界。
ルールぎりぎりでずるをして早く歩いたとして、
何が偉いのか、金メダルに値するのかといえば、
多分値しない。
競歩は分かりやすいのだけれど、
競泳だと分かりにくくなる。
ルールのとおりに特殊な泳ぎをしてその速さを競うということの意味がいまだに分からない。
速さを競うなら自由形が一番理にかなっている。
型を競うなら速さよりも、美しさとかの問題であって、飛込みなどの点数の付け方に似てくるだろう。
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そんなこともありこんなこともあり
年々変化しつつ、スポーツは存在していて、おもしろいものだ。
軽トラはいいなあ
軽トラはいいなあ
電気軽トラを走らせて愉快に農作業をしよう
六本木も銀座も軽トラで走ろう
ほぼ何でも運べる
高速道では怖すぎるので走らない
軽いから風に弱い
何かあると取り返しがつかない打撃を受ける
デモデモ星人
何かアドバイスしても
でも、だって、と抵抗する。
さらに何か説得しても、
でも、だって、と抵抗する。
好きなようにしなさいというと
どんどん自分をだめにする。
親としては大変困る。
デモデモ星人はどうしたらいいのだろう。
上司の曖昧な指示
結果が悪いからと部下の無能さを責める
部下は疑心暗鬼になる
仕事の手応えも感じられない
嫌な雰囲気の中で疲れていく
上司からみれば
状況判断の悪い部下ということになるが
部下としては組織の目標や価値観を共有した覚えはないという気分だ
ネット社会と脳原理
いまでも全般にそうだ
生物が人間に近づくにつれて
DNAの生存のために脳を発達させた
現在の少子化現象は
脳原理がDNA原理を超えてしまった結果のように思われる
利他主義や自殺については、脳原理よりもDNA原理が優先していると計算する見方もある。
したがってまだDNA原理の範囲内であるとされる。
DNAが喜ぶよりも、
脳が喜ぶ選択をしているとしたらどうなるか
もともと脳はDNAのために発生して選択されてきたものだったのだから
ここでは明らかに倒錯が発生している
この倒錯は多分袋小路である
脳が脳を自己保存して生き延びるくらいしか方法はない
脳が自分の情報をネット空間に記録して
擬似的に生き延びる
脳の本体は情報であるからそれで充分生きていると言える
その時点でDNAからは独立したと見なすことができる。
これまでも、人類のすべての知識の図書館という仮想的な空間を考え、
各個体の脳はその総合図書館から学び、後にその拡大に貢献することで、生きていると考えることはあった。
それはそのままネット社会と見なして良いだろう。
その場合、各個体の脳が、もともとDNAのためのものであり、現実に腸管栄養に養われているのか、
脳と同等の機能のものが、太陽電池で養われているものか、
ネット社会・総合図書館からみたらどちらでもいいことである。
脳を含む人体がDNAの乗り物だった時代を過ぎて、
脳が原理の中心に座る
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しかしその場合、
個々の脳はネット社会・総合図書館に奉仕しているだけとも考えられ、
生き延びる「実体」・本質はネット社会・総合図書館だろうとも考えられる。
DNA原理にしても脳原理にしても
自由意志はあまり尊重されず、という点では変わりがないようだ
芸能人の孤独
と芸能人は語る。
落ち目、貧乏、孤独を見せてはいけないと考えている人も多い。
改革者と追従者
改革者は改革することだけが目標で
それが広まるかどうかは環境次第だと決めている
自分にはそのようにしかできないから
そのようにするだけだろう
追従者はそれが広まると思ったから追従したわけで
広めようとするし、そのことが世間には評価される
パーティ会場で二つの人種がいる
真ん中でわいわいがやがやと騒いでいる人たちと
壁際で孤独に時間を過ごす人たちと
つまりチクロチームとシゾチームである
革新は壁際から始まる
いずれにしてもそれは変な考えでしかない
改革者でさえないのだ
真ん中にいて仲間も多い人たちが
次はこれだと思ったときに
改革者が定まり
真ん中にいる人たちは追従者とはいうものの
実質的な改革者であり賞賛される
それはいつもの構図であり
人間社会はそのようでしかあり得ない
たとえばイエスは壁際で黙想し神と直接交信する人であり
パウロは真ん中で議論してみんな組織してまとめる人であっただろうと思われる。
自分のDNA
それとも多分迷惑だろうから立派な人たちのDNAを残した方がいいと思いますか。
わたしは半々です。
うまい相撲取りは上手に負ける
負けるのも技術である
いつも勝っているとうまい負け方が
分からないだろうと思う
けがをしないように
本当らしく見えるように
あと一歩のようにして上手に負ける
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強い相撲取りは圧倒的に勝つ
インターネット依存性・嗜癖性
インターネットが高度に依存性があり嗜癖性があることは分かっていて、
本来しなくてはならない勉強や仕事や友達づきあいを投げ捨てて
ネット中毒が進行する。お金をなくして健康を損ねて未来の所得を喪失し、友人を亡くし、人生を毀損する。
しかしそれでもいいと思えるだけの現在の幸せがあるのであって、
嗜癖の不思議なところである。
脳回路としては、ドーパミン系などの快楽系回路と結合してしまうのだろうといわれている。
今までになかった新しい刺激が快楽系と結合しても特におかしくはない。
古い脳が新しいネット情報に対して割り当てた脳の部分が快楽回路の近くであれば、当然嗜癖になるだろう。ただそれだけのこと。不運であるし、進化の過程で取り除かれるだろう。
殺人ページとか自殺ページとかに特に嗜癖性を示すこともあり、それもその脳の特性であって、仕方がない。
自転車にうまく乗れる人、乗れない人、暴走する人、様々にいるだろう。
自動車ではもっと顕著で、性格が変わってしまう場面がはっきりと分かることがある。
、
コンテンツの不足
訳が分からん
こんなにも技術が進歩しているのに
相変わらず女性の裸である
もう珍しくもないだろう
ネットで携帯で何が見たいのか知りたいのかというと
結局そんなもの
日本の印刷技術は完全に世界一であって
フランスが日本の印刷物の色合いがどうのといっても
圧倒的に日本の印刷物の品質はいい
和紙の伝統を引き継ぐ紙の質にうるさいし、
色合いには特にうるさいのだ
と威張ってみても、
印刷しているコンテンツは結局そんなもの
ネット社会という環境に対する進化的選択はこれから始まる
ネット社会は新しいものである。脳はネット社会よりずっと古いままである。
脳の情報処理能力には確かに限度があって、限度を超えるようになると、比喩で済ませたり、抽象化したり、要するに脳の機能を節約するようになる。あるいは、別の脳回路を横滑りで適用したりして、節約する。
ネット社会に対しての適応も新しいものに対しての適応であるからそんな面があるのかもしれない。つまり、脳はネット社会用の脳回路を用意していない。昔何かに使った脳回路をとりあえず機能させているだけである。だからいろいろな不具合が起こる。かなりの年月がたって、ネット社会に適応した脳がセレクトされて、生き残り、数が多くなっていくのだろう。それまでは時間がかかり、いろいろな不具合が起こるはずだ。
ファン・ジニ第二回
遠藤久美子に目がよく似た子どもが
わたしはお父さんに捨てられて
お母さんにも捨てられたの
と泣く
そしてわたしはお母さんにまた捨てられるの
と泣く
いいものだ
懐かしい風景なのである
キーセンは自由なのだ
一人の男に尽くしたりしないのだ
と言い張ればまるで現代の芸人と同じである
キーセンは本当の心は一番奥に隠して誰にも見せないものだとか
分かりやすく
教訓をたれる感じで
しかし共感的に
懐かしい何かの文章を思い出してしまうような感じで
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日本人だってこんな風にくさく作ればいいのだ
宮沢りえが和服を着て
母を許しておくれ
などと言えばもう充分である
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藤田さんが八百長相撲について何か情報を提供しているらしい
文学的感動の鋳型について
文学とは何か。
感動とは何かなどをふと考える。
子どもの頃に感情の鋳型ができる。
私の場合は大衆芸能であり、
口ずさんでいたのは歌謡曲である。
だから今でも歌謡曲的な何かに反応しているのだと思う。
それはとても古典的な感覚で
だから万葉集にも古今集にも反応するのだと思う
逆に言うとここ千年で進化していない部分で感動しているのだから
高級文学には反応していないと思われる
たぶん教養として接しているだけだろう
高級すぎる文学的要素は特殊な階級のもの、特殊な感性のものと感じられる。
場末のキャバレーで歌われて、
ろくに歌を聴いていない酒飲みの心にもいつか残る歌が
私の思う文化の原型であり感動の原型である
酒を飲みくだらないことをしゃべりみだらな想念に満たされて
それでも何となく心に残ってしまう港町のキャバレーの歌
高級趣味を気取っている人たちがモーツァルトなどをありがたがっているのもおもしろい
あのオペラなどは静かに全場面を見るものではないと思う
大人がいろいろなことをしながら眺めて
時々ハイライト場面で「いいぞ!」なんていうものだろうと思う
ブラームスなんかと違う
静かにかしこまって聞いて感動しているモーツァルトというのは
なんか変だと思うのである
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鋳型というからには再生産である
DNAみたいに保存的な何かである
全然最先端ではない
とても原始的な感覚
しかしだからこそ安心感がある
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Joumonなどとローマ字でつづって
焦らないでおおらかにとか
いっていたが
縄文時代はおおらかどころではないだろう
何を言っているのかまったく意味不明である
縄文を見ておおらかという人間の嘘の心を悲しむ
黒澤「天国と地獄」
俳優もなんだか日本映画史の総決算みたいな感じで出ている。
昔の日本映画は良かった。
富士山みたいないい姿をしている。
かつての湘南地方の様子が描かれているのも興味深い。
烏帽子岩が映っていた。
腰越の漁協みたいなものが映っていたり。
日本文化のピークを過ぎた実感がわく。
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一方、ヨーロッパでは日本アニメがブームとのこと。
ドリス・デイ「夜を楽しく」
たぶん、かろうじてカラー映画の、「夜を楽しく」
1960公開らしい。
楽しいものだ。こんな感じの脚本がいいと思うが、それは年寄りの感覚なのだろうか。