銀座アスター お総菜
銀座アスターのお総菜コーナーで
病院食は丁度良いから
海鮮チャーハンと餃子と春巻きを買う
餃子は塩辛い どうしたんだ?
海鮮チャーハンも塩味がきつい
海鮮の具の味、はっきりせず どうしたんだ?
ごはんに塩をふりかけて食べているのとかわらない
あとで水をたくさん飲んだ
世間の標準に合わないと生きにくい
老人性の味覚変化だと塩味も消えてうまみも消えるはずなんだけど
病院食は丁度良いから
やっぱり塩辛いのだろうと思う
たくさん汗を書く人とお年寄りに合わせて
塩辛くしている可能性はある
前にもこんな感想を書いた覚えがあるな
このあたりは老人性の健忘である
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春巻きはそんなにも塩辛くない
塩がいっぱいのものを食べたら
なんだか血圧が高くなったような気がして
眼裂がいつもより開いたような気がする
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春巻きはそんなにも塩辛くない
塩がいっぱいのものを食べたら
なんだか血圧が高くなったような気がして
眼裂がいつもより開いたような気がする
少し興奮しているような気もする
ドラマ「遙かなる絆」
ドラマの中で
中国残留孤児男児と養母となった母親の
ちょっときついくらいのべたべたした感じの愛情
しかしこのようなドラマを見ていると
人間はべたべたした愛情もいいのかなと思う
本気で信頼すれば
こんな風になるのだと思う
逆境を切り抜けるために信頼しあうしかなかったとも見える
逆境がくれたものは
本当の信頼だとすれば
ありがたい得難いものをもらったと考えていいのだと思う
病的嫉妬 小早川伸木の恋
奥さんが病的嫉妬の場合
どんな風になるかという話
この奥さんの場合は設定としては抜群に美人だし
性格にはかわいらしい部分もあるのだけれど
また時には改善して夫と仲よくできるのでまだしもだし
子どもはかわいいようで大切にしているけれど
それでもなんでも大変であることに変わりはない
このような発作的で一時的な感じがときどきあるというものは
少しは対処がしやすい
たとえば生理周期に一致して悪化するという場合は
それを頭に入れて何とか対処する
ずっと持続して病的嫉妬だと打つ手がなくなる
湾岸戦争の年 タヒチ
湾岸戦争の年 タヒチ
今でも 洗面所 には
香ると バニラ の 匂いがする小さな石鹸 が ある
箱には ゴーギャンの絵が描かれている
1991年 2月
海外旅行自粛ムードの中
お世話になった方の ひとり娘が タヒチに行くことになり
心配だから 同行して欲しい と 頼まれた
旅費 は 全額 もってくれる という話である
行きますよね
お嬢さんは 一回り年上だった
こちらは 旅費の負い目もあり ボディガード気分である
見た目にも 異質な ふたり連れだが パワーバランス は 明らかだ
タヒチの黒い砂 原色あふれるマーケット 働く女たち 木陰で涼む男たち
モーレア と ボラボラ は 白い砂 夕日が美しい
タヒチには ゴーギャンのレプリカしか ないのだという
残念 に 思った
スコールを彷彿とさせる雨に ふと 記憶がよみがえったようだ
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タヒチのうつ病はどんな風だろうかと思う。
国際的なうつ病診断基準が難しいのもよく分かる。
季節はまたひとつ前に進む
ゴールデンウィークが過ぎて
季節はまたひとつ前に進む
今朝、SL広場の温度掲示は23度
会社では季節を先取りしたように湿気のある暑さを感じる
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改札を通るときに誰かが引っかかってピンポーンと音が鳴っている
見ると音を出した本人は通り抜けてしまっていて
次の人が通れなくなっている
自分でも経験があるが機械の反応の方が少し遅いのだと思う
東京の人は速く歩きすぎるということなのだろう
読み取り部分と機械扉部分の距離を少しだけ伸ばせば良いのだろうけれど
そうすると次の人との区別が出来なくなるのかもしれない
手前で常時閉じている扉があれば分かりやすいし引き返さなくてもすむのだけれど
その場合も別の問題が出そうだ
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たくさん眠るにはいい季節だ
そのうち暑くて寝ていられない東京の夏が始まる
フォーレのレクイエム 1994年
ボストン交響楽団
指揮 小澤 征爾
真夜中に 聴いている
合唱が含まれている曲は 音量をしぼって聴くのには つらいものがある
合唱部分で 急に大音量になってしまい 音量を下げると 他の部分が聞こえない
クラシックに詳しい友人が 『フォーレク』 と 呼んでいた
縮めるのか
社交ダンス出身の人が アルゼンチンタンゴ を 『アルタン』 と 呼ぶのに等しい
そにには リスペクト が 感じられない
親しみとは 別な ものだろう
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最近ヴェルディのレクイエムの一部分がコマーシャルで流れている
モーツァルトのレクイエムが流行したことがある
たぶん30年くらい前になるだろう
モツレクといっていた
レクイエムのなかでもフォーレはやはり別格の良さがある
怒りの日がない構成なのでやさしいとかいう
コマーシャルで使われているヴェルディのレクイエムは
その怒りの日の部分
何のコマーシャルか分からない
台所にいて音だけ聞いたのだと思う
最後の審判の日、すべては裁かれる
なんという壮大な審判
「すべて」が裁かれるとは
そして「すべて」でなければ意味がないのだ
人によって感じ方は違うと思うが
わたしは最後の審判を強く望む
公正無比な審判を強く望む
お前はそれでも日本人か
お前はそれでも日本人か
というセリフが映画で叫ばれていた
他人に自害を強要する手紙の中で
お前も日本人ならと理由が書かれていた
このようなあまり精密でない思考は
いつの時代にもあって
あまり精密ではない脳が取り入れて結論を出している
それが奈良仏教の時代もあった
西方浄土のこともあり
即身成仏のころもあり
鎌倉仏教の時代もあり
こう並べると仏教ばかりになってしまうが
鎌倉幕府への忠誠でもいいし
武士道でもいい
二宮尊徳的勤勉でもいい
一億玉砕と八紘一宇と
100年に一度の未曾有の経済危機となる
とにかく精密な思考を放棄して
時代の流行のスローガンを頭につけていきなり結論を言い
それでいいんだと思っている精神構造である
実際にはそのようなレベルの人は多いので
影響力は大きいことになる
そこに論理構造はなく
ただ帽子のように頭の飾りにつけられているだけである
そして任意の結論が導かれる
何も考えませんというわけである
やりがいのある仕事がない? 未熟な自己愛との関係
若い人は働く意欲も能力もあるのに
やりがいのある仕事が上の世代に独占されていて
回ってこない
閉塞した時代
夢を実現できない社会構造
というようなことが一部でいわれる
また一部では
そんなのは甘えた言い方であって
本当にやりたいことがあるならやればいいじゃないかとの意見もある
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そもそも本当にやりたいことにまだ出会っていないという
若い人も多い
どうやったら出会えるのか
分からないとも言う
いつまでかかるのか分からないそんなものを
待っているのは賢くないとも言う
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やりがいのある仕事を見つけるということと
本当の自分を見つけるということはほぼ等しいようだ
人生の時間の大半を使うのが仕事であるのだから
それは当然のことだ
本当の自分を見つけるということについていえば
自分とは何かについては
成長につれて
幼児的空想的自己から
現実的社会的自己に変化して行く
ここの成長が止まっている人格を自己愛性人格と呼ぶ
幼児的空想的自己の場合にはこの社会で生き甲斐を見つけることは難しいはずだ
現実的社会的自己の場合にはこの現実の中で生き甲斐を見つけることができるだろう
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ただ、空想的自己がいけないというのではない
それもあった方がいい
人生が楽しくなる
ただそれだけでは実際の話生きていけないだろうという
普通の話をしているのである
空想的自己から脱却して現実的自己を生きると決めたときにも
成熟した人格ならばそれほど摩擦なく受け入れられるだろうと思う
資本の支配する社会構造の問題や
やたらに年寄りばかりが多い社会構造というのも
問題ではあるだろうけれど
もうひとつは個人の自我の成長がそのような事情にあって
昔のような成長のプロセスと少し様相が違うことがあって
そのことが
若者がやりがいが感じられないとか
本当の自分を見つけられないとか
好きな仕事が見つからないとか
社会参加ができないとか
そんなことの根っこにあるような気がする