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人の心は温かい

人の心は温かくていいものだと思う場面もあり

悪いことばかりではない

いろいろあっても
それでもやはり報われる部分もあるものだ

*****
頭脳も身体も衰えるのだけれど
生きていかないことには何も経験できない

徐々にゆでられたカエルに似ていることは自覚しているが
それでもいいだろう
当面は前に進む

共通テーマ:日記・雑感

トヨタ CSR 派遣 リストラ

ビジネス系の新聞雑誌でCSRなどという略語をよく見かける。Corporate Social Responsibility。

下請けは今回も不況の調整弁。トヨタは下受けに5000万の機械を設備投資として購入させる。 今回の不況であっさり下受け切り。 5000万の借金は返しようがない。

トヨタの場合、この10年間の内部留保 13兆円 、昨年の営業利益 2兆2千億円 、今年の赤字 1500億円 で、この先もだめだというので派遣切りを行っている。
自動車絶望工場の昔からのもので伝統芸である。

輸出戻し税は前から話題になっている。2005年の数字だと輸出企業10社に1兆円支払われている。全体では大企業に13兆円の消費税収入の23%、3兆円が国民の税から還付金として回っている。

下請けと派遣を調整弁にして何がしたいのだろう。
数年後にまたお願いしますという段になってばつが悪くないのだろうか。
株主の顔と下請けさんと派遣さんの顔と両方見えているに違いないとは思うのだが。

それぞれの人にそれぞれの立場があるとは思うけれど。
実際には温情派も滅びているし
冷酷派も滅びているし
いずれにしてもだめらしい



共通テーマ:日記・雑感

今年最後の土曜日

今朝、東京は寒い
吐く息が白くて冬を実感する

会社は昨日でおしまいのところが多いらしくて
電車は閑散としている

会社は休みだけれど
中華料理屋、そば屋、美容院はいつも通り準備をしている

ホテルなどは忙しい時期になるようだ
郵便局も忙しい

*****
事業を公営から民営に移せば効率化できるとの一般論であるが
そのときに大量の精神疾患が発生していることはどうすればいいのだろう
あんまり保護的でもいけないが
あんまりきつくても人間の住む場所ではないと感じる

共通テーマ:日記・雑感

経済学は葬式ごとに進歩する

「経済学は葬式ごとに進歩する」
サミュエルソン

共通テーマ:日記・雑感

不自由と貧乏と

自由は制限するけど豊かになるよという路線と
自由は保障するけど貧乏になるよという路線と
どちらを選ぶだろうか

どの程度の貧乏でどの程度の自由の制限なのかということになるのだが

不必要に自由でなくていいから
ある程度豊かで貧困から来る教育の欠乏とか病気とかそんなことにならない社会がいいと思うが

リバタリアンの意見は
不思議なことに医療界以外のことに関してはなるほどと思うところもあるが
医療界に関してはなかなか賛成はできないと思うわけで
新聞記事を読むときと同じ感想だ
新聞記事に関しても医療関係については浅薄な記事だとか判定できるが
経済法律その他についてはそういうものかととらえていることが多い
個人では批判の材料になる事実の収集ができないからだ

共通テーマ:日記・雑感

日本の政治の現状とリバタリアニズム

採録

1、日本の政治の現状とリバタリアニズム

 

小泉構造改革の勝利とリバタリアン

  2005年9月11日は、日本の政治において重要な節目だったといえるでしょう。小泉首相の率いる自民党が歴史的な大勝利を収め、政権与党としての安定多数をはるかにうわまわる296にものぼる議席を獲得した日だからです。これはまた、いわゆる「改革路線」を国民が支持したといえるでしょう。

 そもそもこの選挙は、郵政民営化法案が衆議院で可決された後に、参議院で否決されるというきわめてまれな事態の後におこりました。法案を提出した小泉内閣は、民意を問うためとはいえ、法案に賛成した衆議院を解散するという、前例のない行為に出たのです。この衆議院解散は「郵政解散」、あるいは俗に「小泉劇場」と呼ばれました。

 そこで小泉首相は、「郵政民営化、賛成か、反対か?」というわかりやすい選挙スローガンを打ち出し、それのみを選挙の論点とすることに成功しました。結果として、自民党は過半数をとる大躍進をとげ、いわゆる「改革路線」は晴れて、国民の圧倒的な支持をえたのです。

 それではいったい、ここでいう改革路線の「改革」とは何の改革を意味しているのでしょうか。

 それまでの自民党の政治は、地方では大きな公共事業をばら撒くために大きな支持を受けるが、都会からは金を集めるばかりであるためにあまり受けないという、地方利権を重視した政治だったといえます。こういった地方偏重の利益配分型の政治に対して、大きな危機感を抱いたのが小泉首相です。

 このままでは近いうちに自民党は支持されなくなる、そうなる前により公平で、効率的な政府をつくろうと考えたわけです。都市住民重視型の政治だといってもいいでしょう。彼は、利権をあまねく地方に分配するという自民党の体質について、大きな変革が必要だと主張しました。その結果、就任時には「自民党が変わらなければ、私がぶっつぶす!」とまで息巻いたのです。

 彼は就任時に公約していた、郵便局や道路公団の民営化を断行しました。これを実現するために電撃的に「郵政民営化大臣」というポストをつくり、慶応大学教授とはいえ、民間の経済学者でしかなかった竹中平蔵を入閣させました。

 全国津々浦々まで張り巡らされた郵便局というシステムは、いうまでもなく都会から地方に金銭を再配分する公共システムです。全国均一料金の郵便という制度は、人口が多く、人が密にすんでいる都会では明らかに黒字となります。その反面、広い地域にまばらに人がすむような過疎の地方では、当然ながら赤字になります。さらにいえば、そういった地域に、世襲が可能な特定郵便局というネットワークを維持することが大赤字であることは、まちがいないでしょう。

 道路公団にしても、採算の合うはずのない有料高速道路を整備するのが、おもな仕事となっていました。道路の維持管理というよりも、あまねく辺鄙な地方にいたるまで、有料道路をえんえんと整備するという計画を着々と実行していたのです。これでは、もはや地方の一般住民への利益誘導でさえありません。それは単なる地方の土建業者の利権を温存するためにおこなっていたとしか言えないでしょう。

 こういった「大きな政府」による旧態然とした国民経済への過大な干渉は、日本経済全体としてみれば明らかに非効率的なものです。国民、とくに若年層もそのことをある程度理解して、小泉首相による過大な政府活動に対する「改革」をある種、熱狂的に支持したのだといっていいのではないでしょうか。

 ところで、このような小泉首相の政治をどのように呼ぶべきかについては、いろいろな意見が出ています。いわく、新自由主義、新保守主義、などなどです。ここで、日本経済新聞社の前政治部長であった芹川洋一編集委員が、2005年の10月3日に日経センターの政治講演会でおこなった次のようなスピーチがあります。

 

 小泉首相が掲げている理念は、新保守だとか新自由主義だとかいろんな名前で呼ばれているけれども、実はアメリカでいう「リバタリアン」がもっともしっくりいくのではないか。つまり究極の「小さな政府」主義というか、個人の自由を尊重する考え方である。小泉さんが来年引退したら、小泉チルドレンが自民党を割って「リバタリアン新党」を作るというのも面白いかもしれない。

 

 ここでいう「リバタリアン」が本書のキーワードです。リバタリアンは個人の自発的な活動を重視するという社会哲学です。私は小泉首相がリバタリアンだとはあまり思いません。それは彼が、「個人の自由を尊重する考え方」を強く意識しているとはいえないと思うからです。とはいえ、たしかに「小さな政府」は目指しているとはいえるでしょう。

 小泉首相の目指すところの、「民間でできることは民間にまかせる」というスローガンがあります。これが、経済活動という市民の自発的な行動への政府の過剰な介入を排除するべきだというものだとするなら、やはりそれはリバタリアン指向だといえると思います。

 そしてまた、日本の有権者の多くが既得権益を守る守旧派に愛想をつかし、より効率的で小さな政府を目指す方向への大きな政策転換を望んでいるのかもしれません。この意味では、日本において、徐々ではあっても次第にリバタリアンな思考様式が広がりつつあるといえるのではないでしょうか。

 

「小さな政府論」の背後にあるもの

 「民間でできることは民間にまかせる」という考え方は、いうまでもなく小泉首相がその創始者なわけではなく、ずっ以前からあったものです。少なくとも戦後の社会哲学には一貫して、力強く存在し続けてきたものだといっていいでしょう。それが80年代から、世界的な規模で急速に力を増してきたのです。

 その背景には、大きく分けて二つの考えがあります。

 まず第一の考え方は、政府と民間を比べると、同じ業務をするのに必要な費用が政府の場合には2倍になってしまう、というものです。これは時に、フリードマンの法則と呼ばれることもあります。これは、「同じことをするのに必要な費用」という、純粋に経済的な効率の観点からものをいっていることに注意してください。

 たとえば、私立と市立の幼稚園・保育園は完全に同一の業務を行っているといっていいでしょう。しかし、現実にはこれらの2種類の施設には、ほぼ2倍の運営費用の差があるのです。なぜでしょうか。

 答えは単純で、人件費がおよそ2倍かかっているのです。勤続15年の保育士の給与は、公務員である公立の場合には年功賃金となっているのに対して、私立の場合にはそれほどには新卒とかわりがないのです。

 もちろん、私立の保育士というのは短大を卒業してすぐに採用されることが多く、結婚を機に退職を強制されているような側面はあり、それが私立の保育園の保育費を押し下げているのでしょう。これはこれで別に論じるべき問題だと思いますが、ここで重要なのは民間がやれば半額でやれるという事実なのです。

 おそらく県庁や市役所などの業務も、そのほとんどを外注(アウトソーシング)してゆけば、公務員の人件費が現在の派遣業界の水準にまで下がり、費用は半額になるでしょう。現に、自治体が直接にゴミの収集をしている場合と民間業者に委託した場合を比べてみると、やはりおよそ2倍の格差が存在するのです。

 昭和の時代を生きた読者のみなさんに思い出してもらいたい例は、それこそ山のようにあります。日本電電公社が分割民営化されてNTTになってからは、毎年のように新規参入業者が相次いで通信の自由競争が激化しました。その結果、かつて3分300円もした東京大阪間の通話料金は3分8円にまで下がっているのです。

 JRの分割民営化しかり、国際通話のKDDしかり、携帯電話のドコモしかり、です。およそすべての公営事業の民営化によって、公営の時代よりも低価格のサービスをより満足のいくレベルで供給しているのがおわかりになるかと思います。

 これらが純粋に経済効率的な面からみた、「小さな政府」の意義です。けれども小さな政府には、単純に物質的な基準で物事をはかるという経済効率などとは比べられない、はるかに重要な意義があります。

 それは「個人の自由」です。

 私たち個人が、自由に他者と契約を結び、それを実行するという経済活動の自由は、小さな政府によってのみ実現されるのです。このことについてももう少し考えて見ましょう。

 今ここに、ハガキや手紙の配達という郵便事業を始めたい企業家がいるとしましょう。こういった信書の類は、都市部では数多く配達されるべき大きな需要があります。ある運送業者がすでに配達ネットワークを持っているとすれば、信書の配達業務、つまり郵便業務に参入することはそれほど難しいことではないはずです。

 郵便局が郵政公社になり、さらに郵便株式会社になる前の法律では、信書の集配という業務は郵便局のみがおこなうことができました。その他の一般運送業者は、信書の集配は法律的にできないということになっていたのです。とするなら、これは日本国憲法22条に定められた職業選択の自由を侵害しているのではないでしょうか。

 念のために、憲法22条第1項の文言をみてみましょう。

 

 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転、及び職業選択の自由を有する。

 

この文章を素直に読めば、「公共の福祉に反しない限り」という留保がついてはいますが、原則的に職業選択の自由が国民に保障されていることは明白です。

 信書の集配はあまりにも公共性が高いために、その業務を民間業者が行うことは公共の福祉に反するのでしょうか。たしかにそういう側面もあるかもしれません。そもそも民間業者は営利の追求を目的としていますから、もうからない過疎の地方は信書の配達ネットワークから切り捨てられてしまうかもしれないからです。

 しかし、それは「公共の福祉に反する」とまではいえないと思います。過疎地に関してのみ、信書集配を行う政府機関があってもいいでしょうし、あるいは過疎地の信書集配業務に対してはなんらかの補助金をつけることも可能なはずです。

 憲法で保障している職業選択という自由は、そもそも人間の自己実現・幸福追求権の一環として存在するほどに重要なものなのです。安易に「公共の福祉」という名の下に制限されるべきではありません。

 知識人階層の中には、一般的な職業選択の自由が自己人格の実現にとってそれほど重要なものだとは思われない、というように感じる方もいるかもしれません。しかし、考えてほしいのです。大学で教鞭をとるなり、新聞社などのマスコミで報道関係の職業につくなり、といった職業はほとんど精神の自由そのもの、自己人格の陶冶そのものではないでしょうか。

 2006年現在、郵便業務を行うためには全国に10万本以上の郵便ポストの設置を義務付ける法律が存在するため、業界への参入が相次いでいるとはいえません。

 しかし、いやしくも自由な社会を標榜するのであれば、個人がその責任において他人の信書を集配する業務をすることを禁止する必要などないはずです。こうしたことからすれば、個人の自由は小さな政府でなくては実現できませんし、逆に大きな政府は必ず民間業者の経済活動を制限する、つまり自由を尊重しない社会にならざるをえないのです。

 この意味で、小さな政府論の背後にあるのは、経済活動の効率性の議論と共に、個人の自由のできるかぎりの尊重なのです。

 後でより詳しく述べますが、国家的な医療保険制度とは、「自分は完全に健康であり、また仮に病気にかかったとしても医療を受ける気はまったくない」という確信をもった個人に対しても、国家がその人の財布から無理やりにお金を集めて保険に加入させる制度です。こういった行為が、個人の自由な経済活動とは相容れない強制的な要素を持っていることは、いうまでもなく明らかでしょう。

 同じように年金制度はさらにひどい制度です。自由主義社会の建前では、私が今現在において、個人的にかせいだ金をどのように使うのかは、そもそも完全に自由なはずです。しかし国家はまたしても私の財布から金銭を無理やりに供出させて、ほとんどは現在の高齢者年金にばら撒き、わずかな残りもたいして利率の高くない日本国債等の金融資産としているのです。これもまた全体としてみれば、私たちの財産権の処分の自由を著しく制限していることです。

 自由な社会では、個人財産はそもそも自由に処分できるはずです。しかし大きな政府の持つ意味は必然的に私たちの生活全体への干渉にならざるを得ません。どのみち政府が何らかの活動するためには、税金を使って官僚機構を整備、運用する必要があるからです。

 それにもましてさらに悪いのは、「私たち国民のために」という後見主義的な(パターナリスティックな)干渉は、医者しかり、弁護士しかり、放送免許しかりで、私たちの職業選択の自由を事実上奪うことが多いということです。そしてそのような職業選択の不自由は、個人の職業選択の自由を侵しているだけにはとどまりません。それらの制限された職業では、一般的にいって高価格のサービスを購入せざるえないことになります。つまり消費者としての私たちをも苦しめるという、二重の愚をおかしているのです。

 以上をまとめるなら、小さな政府論の目指すものは、経済効率の上昇と、それにもまして個人の職業選択、幸福追求の自由という精神的な自由の尊重だといえるでしょう。

 

社民リベラル VS リバタリアン

 ここでやや原理的な議論をしたいと思います。端的にいって、現代の資本主義社会には、基本的に2種類の類型があります。

 まず自分自身に質問してみましょう。

 あなたは社会規制が多く、所得に対する税金が高くても、きちんと国家が福祉を制度運営してくれて、病気や老後の心配のない国がいいと思いますか?それともその反対に、社会規制が少なくて、大きな所得を得た場合にも税金が低い、そのかわりに福祉制度は国家によって制度化されていないような国がいいと思いますか?

 もちろん、この質問には正しい答えなどありません。答えは、私たち一人一人の価値観によって決まります。前者は高福祉型で、社民リベラルな多くの経済規制を持つ社会であり、後者は国家は福祉制度を行わないかわり、個人は経済的に自由な社会だといえるでしょう。

 社会的に分配、あるいは結果の平等を重視する人たちは、いわゆる社会民主主義的なリベラル層だといえます。そういう人たちは一般に、個人活動の自由を過剰に認めるならば、社会秩序や結果の平等が毀損されてしまうと憂える人たちなのです。これはこれで、一貫した正義の思想だといえると思います。

 その反対に、大きな政府による国家的な福祉制度は人間をスポイルしてダメにしてしまうから、望ましくない。そして個人の自由を尊重したほうが、一人一人の創意工夫が社会的に積み重ねられて経済成長も高くなり、結果的により豊かな社会になるのだと考えるのがリバタリアン、あるいは自由尊重主義者だといえるでしょう。

 大まかにいって、この二つの考え方が、現在の社会哲学で議論される国家理念の2大類系だといえます。

 ところが、これに民族主義が絡んでくると、とたんに話がややこしくなってしまいます。詳しくは後述しますが、一般に民族主義者は精神の自由を認めない傾向があるようです。これはつまり、自分たちと違ったものは民族的ではないから、ダメなものだ、あるいは違うやつらはこの地から出て行け、というような単純で排他的な考えにつながることが多いということです。

 現在の日本で吹き荒れている新自由主義運動などの民族主義では、国家教育などは喧伝されているようですが、あまり平等は重要な要素ではないようです。この意味で平等を重視してきた社会民主的なリベラリズムとは正反対の方向にあるといえるでしょう。

 実際、多くの民族主義者は右翼的守旧派です。彼らは、私有財産制度の打破を目指すマルクス主義を目の敵にしてきました。私有財産制度こそが不平等の根源としてが指弾されることが多かったことを考えれば、彼らは保守であって、リベラルではありません。

 とはいえ、民族主義者は通常、個人の人権よりも「国家」というものを重視します。この点について考えてみると、ナチスが民族主義であったと同時に社会主義政党であったという事実が納得できます。現在の民族主義者たちは「愛国主義的国民教育」という合言葉をもっているように、多くの側面において多様な見解をもつという個人の自由をあまり尊重していません。

 また後述するように、BSE問題や遺伝子組み換え食品などに関しても、日本独自の安全基準を策定実施するべきだとしているようです。つまりこれは、経済活動に関しても、国民一人一人の自由な選択に基づく経済活動を制限するのは政府の当然の役割だと考えているという意味において、大きな政府を指向しているといえるでしょう。

 というわけで、民族主義は大きな政府とも小さな政府とも結びつくことが可能である、つまり経済活動の自由とは異なった次元を持つ座標軸だということができるのです。これについては後ほど、図表を使ってもっと詳しく説明することにしましょう。

 

事前規制から事後調停へ

 前述したように、自民党は、1970年代の田中角栄首相の時代に、都市部から吸い上げた金を農村部に回すことによる、「列島大改造」をくわだてました。都会から集めた税金によって、地方にも発展の資金を均霑(きんてん)し、日本全国の「均衡の取れた」発展を目指していたということができるでしょう。

 日本全国を平等に発展させるのだという考えは、なるほど国民の琴線に触れたことはうたがいありません。小学校しか出ていなかった彼は、当時「今太閤」とまで呼ばれ、ロッキード事件で収賄疑惑を受けて逮捕されるまで、国民の間では大人気だったのです。

 ロッキード事件の後においても、この分配ばら撒き型の政治は続きました。田中角栄の後継者として田中派を継承した竹下登首相は、「村おこし」運動と称して各地方自治体に対して一律に1億円をばら撒くという愚行に出ているのです。

 こういった農村政党としての流れが、自民党内の郵政民営化反対路線に続いていたのだといえるでしょう。民営化を憂えていたのは、いうまでのなく過疎地の人びとだからです。それを「ぶっ潰した」のが小泉純一郎です。

 彼は旧来の派閥による利権型政治を否定し、都市住民を中心にした支持を集め、自民党を都市政党へと転換させたといえるでしょう。それにともなって自民党の政治だけでなく、霞ヶ関の官僚の間でも事前規制を主だった手段とする規制型の大きな政府から、事後調停型の小さな政府へとむかう大きな意識の変化が生じているのです。

 戦後の日本の政治は、おもに事前の規制によって、各企業を直接に管理しようとする事前規制型だったといえます。なかでも金融機関の護送船団方式はつとに有名です。これは、もっとも船足の遅い、つまり体力のない地方金融機関をつぶさないために、各種の規制を都市銀行にも課すというものでした。

 その結果、日本の金融機関は、全体として足腰が弱ってしまいました。バブル処理にいたるまでには、金融先進地域である欧米の金融機関に対して、デリバティブを使った多様な取引の開発能力から、融資のための事業リスクの査定能力にいたるまで、大きな差をつけられてしまったのです。

 これは、この間にトヨタやソニーなどといった、国家規制によって保護されていなかった製造業が、世界的にますます発展を遂げてグローバル企業になったのとは好対照です。何かを市場で試してみる前から、原則禁止的に、あれはしてもいいが、これはダメ、などと、市場競争のプレイヤーでもない官僚が決めること自体が、自由で健全な企業活動の発展を阻害してしまうということなのです。

 しかし、事前規制をやめてしまうなら、おそらく多様な問題が生じることもまた明らかです。たとえば、一律に証券業者が可能な取引の種類を決めてしまえば、取引相手にとって危険な行為はなくなるかもしれません。それに比べて、自由な取引形態を認めれば、どうしても事後的には法律問題を含む多くの問題が発生するでしょう。

 さらに話を具体的にして、銀行業務について考えてみましょう。かつて銀行の株式投資信託販売が禁止されていた頃は、「投資信託は銀行が取り扱っているのだから、元金保障の安全な商品だと思っていた。」などという投資信託の購入者からのクレームなどは、そもそも発生しようがありませんでした。よって損害賠償義務の発生を主張するような法律紛争も、原理的に起こるはずがなかったのです。

 ここで、将来的に銀行が、未上場株式や商品先物などを含む、すべての金融商品の販売を許されることになったとしましょう。商品ごとのリスクは格段に異なっている以上、おそらくは説明義務違反や、過剰な売り込みがあったと主張する訴訟事件が相次ぐ可能性はけっして低くはないでしょう。

 事前に、何ができるのか、を決めてしまえば、そのほかのことはできないのですから、紛争の発生する余地はありません。事前に何ができないのかを決めた場合には、実際に行われたグレーゾーンの取引が、できないと決められたことにあたるのかどうかをめぐって、法律紛争が頻発だろうことは、自由な社会における、やむをえない必要悪だといえるでしょう。

 政府自民党や霞ヶ関の官僚はすでにこれを見越して、弁護士の合格者数を昭和時代の年間500人から、年間3000人へと大きく舵取りをしています。かつて1万人しかいなかった弁護士の数を今後は10万人にまで増員しようというのです。

 10万人といえば多いようにも思われますが、社会制度全体の事前規制型から事後調停型への

転換という大きな変化を考えれば、その程度の人数は最低限度の必要を満たすものでしかないでしょう。人類の科学技術が進歩すればするほど、経済活動、精神活動の多様性も増し、それが大きな社会問題となり、解決するための法律化が必要となるからです。

 たとえば、インターネットのサイト上での書き込みによる名誉毀損があります。ネット上では、誰にでも書き込みは可能であり、誰からも読める以上、名誉を毀損する表現がなされる可能性は、紙媒体しか存在しなかった時代に比べれば、飛躍的に高まっているのです。

 実際、アメリカのように典型的な事後調停型の社会では、弁護士の数は100万人にも上ります。これは人口300人に一人が弁護士であるということです。ひるがえって、日本においては人口1万人に1人が弁護士です。日本では弁護士費用が高すぎて自己破産もできないなどと揶揄されるのは、そもそも弁護士の数が少なすぎるからではないでしょうか。

 それはともかく政府自民党は、経済規制に関しては、ある意味で小さな政府を目指していることはまちがいありません。「間から民へ」という合言葉は、少なくとも法曹人口の増加という国策に反映されているといえるでしょう。

 もう一つ、政府自民党の変化をあらわしているのが、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた、佐藤優の言葉です。彼はロシア通の外務省元主任分析官でしたが。鈴木宗男事件に関連して検察庁から逮捕され、500日以上も拘留された人物です。

 その著書『国家の罠』において、彼はいいます。鈴木宗男議員の逮捕は、そもそも国策捜査であった。内政的にはケインズ型の所得の公平な分配システムから、ハイエク型の自由主義へ、外交的には、国際協調主義から排外的なナショナリズムへの「時代のけじめ」であったのだと。

 このような視点が本当に正しいのかどうかは、正直なところ私にはそれほどはっきりしません。しかし、こういう見方をすることも可能であるということは重要だと思います。それこそ、官僚組織や政府内部での機運、あるいは常識というものが徐々に変化しつつあることを意味しているからです。

 

民主党の迷走

 さて2005年の衆院選挙では、衆議院を解散した自民党の小泉首相は「郵政民営化賛成か、反対か?」というわかりやすい表現で国民に訴えかけ、スローガンとして「改革を止めるな。」と郵政民営化を錦の御旗としました。それを国民に訴えかけるため、自民党は郵政民営化に反対する議員を公認からはずしたうえで、さらに彼らの選挙区に「刺客」と呼ばれた対立候補を擁立するという処分に出ました。

 これに対して、2大政党にさえなるべきだという国民的期待をもたれていた民主党はどのように対抗しようとしたのでしょうか。

 マニフェストが多く、論点がわかりにくかったためでしょう、結果的にいえば、有権者は岡田代表率いる民主党に対して厳しい判決を下しました。議席数は改選前の177から113に激減し、まさに大敗北を喫してしまったのです。これを受けて岡田代表は辞任し、前原誠司新代表が選出され、l現在は旧自由党の小沢一郎が党首となっています。

 さて、政権与党としての地位を磐石なものとした自民党に対して、民主党は今後どうするべきなのでしょうか。あるいは、もはや民主党の将来などはないのでしょうか。

 前述の日本経済新聞の芹澤洋一解説委員は、2005年9月21日の論説「大機小機」において、

 

1、小泉はリバタリアンの御旗を掲げて戦って、自民党に勝利を呼び込んだ

2、菅直人が民主党首であれば、社民リベラル対リバタリアンとなったかもしれない

3、しかし岡田民主党は改革合戦という理解しにくいスローガンで戦い、敗北した

4、とはいえ、自民党内には多くの守旧派が存在しており、ゆり戻しがある可能性は高い

5、そのときこそ前原民主党がリバタリアンな政策を打ち出して勝利することができる可能性がある

 

という内容のことを書いています。

 この見解はつまり、民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによって、その将来が開けるということです。これは前原氏以上に小さな政府を掲げる小沢代表に当てはまるものです。

 そもそも自民党には、大きな政府を指向する利権政治にどっぷりつかった古参議員も多く、彼らは小泉首相の目指す小さな政府に対して、内心では反感を持っているはずです。2006年10月からの安部晋三首相は。

 郵政民営化反対を唱えて2005年の衆院選挙で自民党から追い出された議員たちの多くを、古巣の自民党に復党させましたが、これによって反動政治はさらに強固なものになるでしょう。

 これに対して、芹沢編集委員の意見は、民主党がリバタリアンな政治、つまりは小さな政府を目指すべきだということになります。民主党が自民党よりもさらに小さな政府を目指すことになれば、利権政治と大きな政府を目指す自民党との対立軸がはっきりして、民主党の将来が開けるというのです。

 これはいかにも、経済を重視する日本経済新聞社の編集委員らしい考えだと思いますが、そのようにことがうまく運ぶのかについては、二つの疑問があると思います。

 まず第一の疑問は、はたして今後の民主党が小沢代表のもとで、小さな政府を標榜して一致団結することができるのか、というものです。いいかえれば、前原代表が偽メール問題で退陣し、国民の党への信頼が危機的な状況にある中で、本当に民主党がリバタリアンな政策にコミットすることができるのかという疑問だといえるでしょう。

 そもそも民主党は社会民主党や新党さきがけのメンバーを中心として、鳩山由紀夫や菅直人を中心として1996年に結成された政党です。議員の中には旧自由党であった小沢一郎から旧社会党であった横路孝弘まで、さまざまな考え方の人がいるのです。

 彼らに共通する政治理念は全く存在しないといえるでしょう。旧自由党はたしかに自民党よりも小さな政府を標榜していました。しかしその反対に、旧社会党は明らかに政府による所得の再分配などの大きな政府を求めていたのです。

 「自民憎し」というだけで集合した議員たちが、小さな政府の掛け声の下にまとまるというのは到底ありえないように思えてしまうのです。それはいくら小沢代表が百戦錬磨の豪腕政治家であっても、容易に解消しない問題ではないでしょうか。

 このことがはっきりと見て取れるのが、2005年の衆院選挙時のマニフェストの内容です。8つのマニフェストのうち、一番目こそ、「衆議院定数80の削減、議員年金廃止、国家公務員人件費2割削減など、3年間で10兆円のムダづかいを一掃します」と小さな政府をうたっています。しかし、3番目には「月額1万6000円の「子ども手当て」を支給します」と大きな政府に戻っているのです。

 さらに6番目にいたっては、農業の「10年後の自給率50%実現のため、「直接支払い制度1兆円」をスタートします」となっています。これはつまり、農業に限っての分配型政治に逆戻りを意味しているのです。とてもじゃないが、小さな政府を指向したものとはいえないことは明らかです。

 ありていにいってしまえば、民主党は政治理念がないといわれる自民党以上に理念のない政党なのです。そんな民主党が近い将来に一本化した政治的なビジョンを持つことなど、到底できないように思われます。

 第二の疑問は、はたして2005年の選挙で自民党が勝ったのは小泉首相がリバタリアンな政策を公約に掲げたからなのか、というものです。いいかえるなら、小泉首相の個人的な人気が自民党の大勝を生んだのであって、国民は別にリバタリアンな小さな政府など求めていなかったのではないのか、という疑問が残っているのです。

 実際、朝日新聞社が選挙後に実施した緊急全国世論調査をみても、自民党が圧勝した理由のトップは58%で、「小泉首相が支持されたから」です。反対する議員に刺客を送るような、従来型の政治では予想できない行動をとる首相の、個人的な「小泉人気」が選挙に与えた影響こそが圧倒的に大きな勝因だったのです。逆にいえば、小さな政府を目指す郵政民営化などの政策は、それほど有権者に支持されていなかったといえるでしょう。

 この問題は根深く、かつ深刻です。私がみるところでは、日本人は以下に述べる「クニガキチント」の罠からいまだに抜け出していません。そして小さな政府を声高に求めているとは到底思われないのです。

 

クニガキチントの罠

  私はごく普通の日本人です。もっと具体的にいえば、1966年に富山に生まれて、東京で4年間の大学生活を過ごしました。それからアメリカにしばらく遊学、留学してから、今は岐阜の大学に勤めています。こういう私の両親は地方公務員でした。

 ですから、国家がさまざまな制度を、国民のためによかれと考えて政治的に実行するということは、高校時代まではしごく当然のことだと思っていました。大学にはいってハイエクなどに代表される自由主義的な、あるいはリバタリアンな政治哲学を知るまでは、むしろそういった考えの礼賛者でさえあったのです。21世紀に入った今でも、こういった後見主義的な考えは、日本全国の片田舎で地道にはたらいている公務員をはじめ、多くの年配の知識人にとっては当然といえるものだと思います。

 いわく、高齢になってもきちんと生活できるように年金制度は国が運営するべきだ。子どもを育てながら働く母親をサポートするためには、国や地方自治体がだれでも利用できるような保育施設をきちんと用意するべきだ。すべての家庭の子どもになるべく平等な初等教育を受けさせるように、国がきちんと教育制度を立案して実行するべきだ。高齢者の福祉の増進のために、国や地方自治体が特別養護老人ホームなどをもっとつくるべきだ、などなど。

 ここでのキーワードは、国民生活の向上のために、すべての制度を「国がきちんと」整えることです。本書を通じて、このような国家による個人に対する後見主義的な考えを、「クニガキチント」

の誤りと呼ぶことにします。

 私はこのような考えは、私たちの精神的経済的自由への脅威だと考えています。さらに悪いことには、このような国家主義(statism)は経済的な自由を束縛するだけではなく、物質的にも社会における集権的な資源の分配を肯定し、結果的に精神の自由の束縛へとつながる危険思想なのです。

 すでにハイエクは、社会主義が世界的に広く蔓延する以前の1943年に、その著書『隷従への道』を著しました。ここでいう「隷従」とは、支配者、資源の分配者という権力者に対しての、一般市民である人びとの奴隷的な状態を指しています。ハイエクは、すべての国家主義思想、社会主義思想は、必然的に資源を権力的に配分することを要求し、それは表現の自由を束縛する可能性が高いことに、強く警鐘を打ち鳴らしたのです。

 その後60年以上がたちました。ハイエクの指摘がまごうことなく正しかったことは、誰の目にも明らかになりました。精神の自由、表現の自由を維持するためには、それを行うために表現者が生存する必要があるのです。そして、そのためには生存のための食べ物や衣服と、表現するための紙やパソコンなどの物質が必要なのです。表現の自由は空虚な形而上の存在ではなく、肉体を持つ私たち一人一人が実行する必要があるものだからです。

 ソヴィエト時代のロシアが誇った芸術は、バレエ、クラシック音楽など、帝政ロシア時代のものばかりです。これだけでも、表現や芸術が花開くためには、いかに多くの質的に異なったなパトロンが必要かを物語っていると思います。

 まとめてみましょう。クニガキチントすべてを行うことは二重に誤っています。

 一つは資源が効率的に使われないという誤りです。公務員が民間企業と同じことをすれば、2倍の人件費や施設費が必要であることは経験則からよく知られています。業務が非効率的でも自分の給料とは関係がない公務員では、効率的に仕事をしようとするインセンティブがそもそも存在しません。経済効率を上げるための創意工夫をする必要など、そもそも存在しないからです。

 これに対して、非効率的な運営をNPOがすることはあまりないでしょう。NPOの資金は、親方日の丸ではないので、そもそも有限です。組織とそこにはたらく個人自体が、ほとんどの資金をできるだけ目的の実現に効果的に使うようなインセンティブを持っているのです。

 また、クニガキチント社会福祉をするためには、そういった活動に対して疑義をさしはさむ市民からも税金を徴収する必要があります。私にとっての障害者福祉の意義は別の人の障害者福祉の意義とは異なっていて、使うべきだと考える税金の量も違います。それを集権的・強制的に決定して徴収しようとするから、節税活動などのバカげた行為がおこなわれるのです。

 国家がやれば効率が悪いのです。社会福祉などはそれを重要だと思う人が、自らの責任と資源を持ってすればいいのです。なんでもお上がやってくれる、あるいはやるべきだなどという人は、根本的に誤っています。それならば、そもそも自分が率先して社会福祉のような意義のある活動をするべきです。どれだけの労力を差し出し、寄付金をする気があるのかを、自ら口先ではなく、行動で示すべきなのです。

 もう一つ、もっと重要なことがあります。それはクニガキチントいろんなことをすればするほど私たちの経済活動、そして自己実現の自由が失われていくということです。クニガキチント銀行業務をおこなうなら、どういった産業が優先的に融資を受けることになるのかを国が決定し、それを強制的に、あるいは税金からの補助金つきで実施することになります。クニガキチント義務教育をおこなうなら、ほとんど必然的にどのような内容の教育を受けるべきかを国家が決定し、それを強制することになります。クニガキチント保育をおこなえば、どんな境遇の子どもがいくらの保育料で何時から何時まで、どんな場所で保育されるのかを議会が集権的に決定して、それを税金の補助でおこなことになるのです。

 これらの国の決定からもれた人びとは、たとえば郵便業務や医療行為のように行為が禁止されるか、あるいは、住宅金融公庫を使わない納税者や私立学校での子女の教育を望む親のように、自らの収入を他人のために税金投入として、強制的に使わせられることになってしまいます。どちらにしても、私たちの精神活動の自由や経済活動の自由を侵害してしまうのです。

 クニガキチント医者や弁護士になれる人を決めてしまえば、医者や弁護士のおこなうような業務をすることで社会に貢献したいのに、国の基準からもれてしまい、それらをおこなうことを禁止された人たちの職業生活を通じての自己実現を阻害してしまいます。なぜある人が自らの責任でおこなおうとする社会的行為を、クニガキチント制限してしまう必要があるのでしょうか。

 詳しくは、また後で詳しく論じることにしましょう。

 とにもかくにも、日本人はクニガキチントの呪縛から逃れる必要があります。クニガキチントの縛りがある限り、私たちは急増する外国人労働者などを含めた、誰に対しても開かれた自由な社会をつくることができないのです。

 かつて中高生のとき、クニガキチントの忠実な信奉者であった私は、10代の終わりから20代をへてリバタリアンになりました。私のようなリバタリアンが信奉するリバタリアニズムとはどういう考えか、それはどこから来て、どこへと私たちをつれていくのか、それをこれから説明していきたいのです。ぜひとも、お付き合いください。

 



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累進課税

採録
5、日本の税制を見てみると
 一般に福祉国家では、累進課税が当然視されている。社会から多くの所得を得る人間には、それ相応の負担義務があると考えられているのだ。私は学校で、少なくても建前ではそのように習った記憶がある。
 さて、実際にわかりやすいところでは、年間十億を超える年俸を得ているレッドソックスの松坂やヤンキースの松井などは、最高税率近くを国税としてアメリカ合衆国政府に収めているだろう。日本人ではあっても、彼らの場合はアメリカに居住しているため、アメリカに納税義務が発生するのである。
 では、日本の累進税制において、最低枠である10%の国税に属する納税者は、日本では何%にあたるのだろうか。2007年3月11日付の朝日新聞の記事にあるように、これは日本人の81%にもなる。大多数の日本人が最低税率にあるというのは、日本がひじょうに累進性の弱い税制をとっていることを意味している。
 これは政府の税制調査会のレポートでも報告されているように、多様な控除が存在する結果である。結果、夫婦二人と子ども二人という家計では、年収が831万円まで上がっても、10%の税率に収まってしまうのである。
 超高額所得者の場合には、こういった控除額は相対的に小さくなるため、税率は確かに上がるだろう。しかし、年収の少ない一般人にとっては、このような各種の控除による税制のゆがみが、国民の大多数が最低税率という類例を見ない状況を作り出しているのである。

累進性のほとんどない税制度
 もともとは、日本の最低課税率の限度額は330万円となっており、これは高くはないのである。しかし、配偶者控除や扶養控除などの、各種の税制控除が重なり合って適用されるために最低限度が引きあがっているのだ。
 実のところ、この低い税率という事実は広く知られていて、別に驚くような事実でも何でもない。例えば、政府の税制調査会での2005年度の答申においても、

 「個人所得課税は・・・累次の減税により、諸控除の拡充のほか、税率の引下げやブラケットの拡大が行われた結果、わが国の個人所得課税については相当の負担軽減が行われてきた。国際比較で見ても、その財源調達機能が顕著に低下してきている。例えば、租税負担率(国民所得比ベース)で比較した場合、主要国が二桁の水準であるのと比べ、わが国はほぼその2分の1程度にとどまっている。特にドイツ、フランスといった間接税中心の国と比較しても、その負担水準が低くなっている。」
と、はっきりと断言されている。
 もっと具体的に、累進性についての経済学者の研究例をあげてみよう。
 一橋大学経済学大学院の田近栄治は、2002年の論文で、実際に3万3千人のミクロデータを使って、1997年時点での累進税率を計算している。ここでいう税には国税、地方税、社会保険料が含んだものだが、所得階層を10階層に分けてみると、最低の第1分位の平均が約67万円で、最高の第10分位の平均年収は約1200万円となる。
 結論的には、所得が最高位の集団に限っては、税率が高くなっている。しかし、第9分位までは下がっているのである。これをもっと平たくいえば、驚くべきことに第9分位までの所得階層では、所得が上がるにつれて税率が下がっているということなのだ。
 さて、第9分位の平均年収が750万円だから、日本では年収がおよそ1000万円以下の場合、実効税率は所得が上がるにつれて下がっているわけである。これは例えば、消費税などの間接税は所得ではなく、消費にかかるために、収入を消費にまわす割合の高い低所得者層に、より大きな負担がかかっているためだろう。また、社会保障税についても、特に自営業の場合には金額が一律に月額1万3千円程度であるため、所得が低ければ課税率が上がるのである。
 このような累進性の低さはまた、高所得の男性のほうが配偶者を主婦として早くから得ており、控除によって納税を逃れているという現実にも起因している。このような傾向は、『希望格差社会』で「格差問題」を論じ始めた東京学芸大学の山田昌弘によっても確認されている。
 この点に関しても、ほとんどの経済学者は、配偶者控除という制度によって主婦が増え、女性の労働市場への不参加につながっているとして、制度そのものに反対している。またフェミニストも、このような制度は働く女性に対して不利な税制度であるとして非難している。私も、これはまったくその通りの悪しき制度だと感じる。
 しかし、税制を作り出したのは、官僚の起案ではあっても、それを可決した国会、その議員を前出してきた有権者である日本人自身なのだ。これはまさに「民主的な」税制なのである。
 余談になるが、多くの場合、税の研究では、社会保障費についても「社会保障税」や「年金税」として扱われるのが普通である。これは、多くの社会保障費用が、政治的な決定による税金と同じく、任意支払いではないことや、交付される社会保障そのものも税金から大きな補填を受けていることが普通だからである。
 この意味では、NHKの受信料は、それこそ高い逆進性をもつ税金である。実際には、支払っていない家庭も多いとはいえ、低所得の一人住まいからも、高所得の6人家族からも、年間3万円近い受信料を同じように取るのだ。NHKの受信料は、それだけでネットの接続料金と同じくらいに高額なものになっているのである。
 NHKの番組の主な視聴者は、放送内容からしても間違いなく低所得の若年層ではあり得ない。NHKなどという組織は即刻、完全な報道だけの放送内容に変えるか、民営化するべきだ。それでも、これだけネットが発達した現在、スクランブルをかけて受益者負担にでもしなければ、その意義と受信料の高さは、あまりに常識を超えた悪税としか呼びようがないだろう。

高級官僚にやさしい退職金優遇制度
 福祉国家主義に関連して主張されるように、国家は所得階層の低い人びとを優遇するべきであるとしよう。すると、ほとんど定義によって、低所得者層からはなるべく税金を集めるべきではないということになる。反対に高額所得者からはより多くの税を徴収するべきだということになるはずである。しかし、例えば、現実の退職金への課税の減免制度はそうなっていないのである。
 低所得者の多くは、一生涯同じ会社に勤めているということはあまりないだろう。大企業や官庁に比べて、賃金の低い中小企業に勤めているほうが、企業の倒産確率も高いからである。とすれば、退職金に対して税金を控除するというのは、そもそも制度化された退職金制度を持つ程度の、比較的安定的な職場に長い間勤めていることが、その優遇制度の活用の前提になる。
 そうだとすれば、退職金についての税制優遇はある程度の所得のあったサラリーマンに対する、さらなる優遇措置であり、もっとも低賃金に甘んじてきたような人びとへの優遇策でないということは明らかとなる。
 実際、退職金の税金控除は大きなものである。勤続20年までは、1年につき40万円、さらに20年以上40年までは、1年当たり70万円の控除がある。計算すると、勤続40年の労働者の場合、2200万円が控除の対象となる。40年間も同じ場所に勤務し続けることができるのは、主に大企業や官庁であることはいうまでもないだろう。
 この意味では、最大2200万円の控除額というのは、そもそもはサラリーマンや地方公務員などといった手堅い有権者層をねらった政策であったのだろう。拡大成長を続けてきた日本の組織に勤めていた多くのサラリーマンには、いくばくかの退職金が出たのが過去の現実だからである。
 しかし退職金という制度が広がったために、そのような仕組みに税制優遇を与えてしまうと、ますますそのような制度が税制上も有利になってしまうのである。退職金制度の存在のために転職者は経済的に不利になり、本来は経済的に転職するべきときでさえも転職をしなくなってしまう。結果、経済全体は効率性をどれだけか落としてしまい、誰もが少しずつ貧しくなってしまう。
 日本では、終身雇用が前提であったのだから、これは国民全体を保護しているのだと考える人もいるかもしれない。しかし、これは我われ日本人のもつ神話である。日本的雇用の研究者として有名な小池和男の研究でも、1980年代の最盛期においてさえ、終身雇用の恩恵を受けていたのは労働者の3分の1でしかないのである。
 低賃金の作業をするような被雇用者の多くにとっては、退職金などは大きな額にはならなかったし、現在もなっていないのである。もちろん、自営業である農林水産業や商店主には関係のない制度である。退職金優遇税制とは、政治的なマジョリティを占める安定したサラリーマンの利益を守り、低所得層を踏みつけにする制度なのである。
 このことは、サラリーマンの内部格差においても当てはまっている。退職金の算定実務では、最終基本給に勤続年数がかけられることで、金額が決まるのが普通である。これは、会社で出世した人間には大きな金額となるが、万年平社員であれば小額にとどまることになるからだ。
 結局、退職金の制度や、さらにそれを税制で優遇するというのは、社会の成功者を過剰に遇するものだと結論できるだろう。民主主義の税制控除とは、こういった強者への大きな配分の抜け穴になっているのだ。
 しかし、話はこれにとどまらない。終身雇用の典型としての保護を受けている高級官僚には、2200万円どころではなく、数千万から数億の退職金が出る。これに対しては、2200万円を引いた残りが全部課税されるのではなく、退職金に限っては、残りの金額は半額として計上される仕組みになっている。2200万を超えて退職金をもらうような高給取りが、なぜさらに優遇される必要があるのか理解できるのは、おそらく財務省の官僚だけだろう。
 さらにダメ押しがある。この2200万超の半額課税は、給与所得とは別の分離課税が許されているのだ。これはつまり、別に給与が何千万円か出ていても、それとは全く別に退職金から2200万を引いて、その半分に課税されるという制度で、所得税による累進課税をさけているのだ。
 これは驚きである。ここまでの退職金優遇というのは、中央の特権官僚のためにつくられた暗黒制度だと考えるのは私だけではないだろう。退職金もほとんど出ないような民間の多くのサラリーマンと比べて、数千万から数億の退職金の税金を、控除枠の拡大によって大きく下げる高給官僚への優遇政策が炸裂しているのだ。
 これはまた、多くの高級官僚が、退職後に多くの公団の総裁などを数年おきに転職し、給与に比べてはるかに莫大な退職金を何度ももらうための制度ともいえるだろう。よく知られているように、このような官僚OBは「渡り鳥官僚」と称されている。
 庶民には関係のないこういったシステムが、高級官僚や都道府県知事などのために節税目的に存在している。都道府県知事は一期勤めるたびに退職金が出て、兵庫・千葉・長野・福岡などではその額は2007年現在、5千万円をこえている。なぜ前述のような制度が用意されたかがおわかりになるだろう。
 官僚のほうはどうだろうか。繰り返しになるが、2000年に総理府の調査から、国家公務員から省庁所管の公益法人へ役員として天下った人たちを見てみよう。天下り先を退職する際に3000万円を超える退職金を受け取っていいた者は、過去10年でのべ200人に上ることが明らかになっている。
 調査対象となった公益法人は6878で、10年間に3776人の天下りを受け入れ、そのうち複数の公益法人を渡り歩く「渡り鳥官僚」は442人で197人が移動ごとに退職金を受け取っている。退職金が3000万を超えるのは200人、5000万円を超えるのも47人であった。
 天下りを受け入れた公益法人には、事業や補助金や「おいしい仕事」が舞い込んでくることになっている。とすれば、特殊法人やその下請け会社にとっては、天下り官僚の給料や退職金は営業経費であって、数千万の給与も当然だということなのだろう。
 公益法人をつくるのは、所轄の官僚である。「公益」などというものがほんとうにあるのなら、それは一般の参加可能なオープンな市場か、あるいはボランティアな組織によってのみ追求されるものだろう。現在のいわゆる法律で守られた公益法人が追及しているのは、官僚集団あるいは省庁の組織的な利益なのだ。
 
現行の年金制度
 年金制度もまた、弱者に厳しい制度である。厚生労働省の2004年の調査によると、年金額の平均は地方公務員が23,3万円、国家公務員が22,5万円、サラリーマンなどの厚生年金受給者が17,1万円、国民年金では5,9万円である。
 もちろん、国民年金は現役時代に納付している額が低いので、こういった金額自体が直接的に弱者保護に反するというわけではない。しかし、生活保護を受けている世帯でも、月額およそ8万円の支給を受けているのである。それに対して、25年もの長期間にわたって国民年金のために年金費を支払ってきた人たちに対する支給額が5,9万円なのだ。これはあまりにも低い金額だという批判はまぬかれない。
 実際に、現代の日本国内で、年間71万円で暮らしていくことができるだろうか。これは、家賃を考えれば、ほとんど限界的だろう。これに対する私の考えは至極単純なもので、年金制度はすべて廃止して、一元的に生活保護で国民をカバーするべきだというものである。
 より詳しくは、負の所得税の説明の部分で詳述しよう。しかし、これによって社会保険庁などという無駄な役人組織もいらなくなることは重要である。また、完全に税金で生活保護をするため、将来の給付金も未確定なままに、形式的な年金支払いをする必要もなくなるだろう。これは、人びとの不安を解消するだけでも、たいへんに有意義である。
 年金制度は、すでに道徳的にも会計的にも破産している。これだけ高齢化が進んだ現在、人生80年に備えて現役時代に貯蓄をするのは、人間として当然だろう。また、共済年金や厚生年金などに入るような人たちは、ある程度は自分で貯蓄を管理できるはずだ。
 本当の弱者はほとんどが、国民年金の加入者だろう。彼らに対しても、年金などという形式的な言葉を使って政治的な偽善を続けるよりも、生活保護と一体化した救済策を用意したほうがすっきりとするはずだ。現在の複雑な社会保険制度は、社会保険庁、年金福祉事業団などの、厚生労働省の天下り機関を焼け太りさせ、天下り官僚の天国をつくり出しているだけである。
 預かり資産の運用効率も悪く、おまけに役人が高額の給料をもらい、トップは天下り官僚だというのでは、弱者保護の理念の正反対である。我われは社会全体でたいへんな無駄なことをしている。役人天国のための制度はすべて廃止して、生活保護に一元化して、それを負の所得税として支払ったほうが、はるかに能率もよく弱者保護にも資するのだ。
 日本の現在の税制は、公平でもなければ、簡素でもなく、累進性もないという、まさに政治的妥協と惰性の異形の産物なのである。



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電気ガス水道

電気ガス水道について採録 

2、生活インフラを考える
 この章では、地価と並んで日本経済の非効率性のシンボルとしてよく知られている、公共料金の高さについて考えてみる。まずは電気料金、ガス料金、そして水道料金をとりあげよう。
 以下に述べるように、水道料金は完全な公営であるため、最悪の状態になっている。しかし、電気・ガスなどは民間会社が供給しているので、それほど悪い状況にはないように思っているかもしれない。しかし、現実の電気・ガス会社は、地域独占を認められているのをいいことに、自分達の高い給料と系列会社の優遇をそのまま価格に転嫁して、消費者を搾取しているのである。
 公共選択理論が示しているように、政治的な意思決定には、かならず利権を持つ団体が大きな利益団体としてカゲにヒナタに議会工作をおこなう。その結果、我われは、地域的に独占を保証されたこうした公益会社から、諸外国の倍額を超える料金支払いを余儀なくされてしまうのである。

電気料金
 OECDによる各国のエネルギー価格調査によれば、2004年における家庭用電力料金は、日本と比較するとアメリカ45%、フランス72%である。産業用の電力ではより大きな差があるが、ここでは生活インフラについて考えるのでとりあげない。
 さて、これは私のアメリカでの生活実感とも符合する。私を含めて、多くの日本人はアメリカの電力料金が日本の2分の1から3分の1くらいであると感じている。
 ところが、電力会社のホームページでは、とんでもない主張が一般公開されている。

 「当社の電気料金は、主要国の電力会社と比べ、単純に為替レート(2004年1月時点)で比較すると割高に見える場合もありますが、各国の物価水準や所得水準を反映した指標(購買力平価、1時間あたり賃金)で比較すると、おおむねほぼ同等、もしくは割安となっています。」

 私は一般的な態度としては、官僚であれ、企業であれ、少なくとも彼らの活動の目的自体の善意を疑うことは少ない。しかし、ここまで露骨な情報操作にはあきれを超えて、明らかな悪意を感じる。誰であれ、外国生活をした人で、このような電力会社の弁明を信じる人はいないことは保証できるからだ。
 電力会社の主張はつまり、所得水準の高い日本では、高い平均時給に換算してみれば、電気料金は高くはないというものである。これは、電気がサービス業のように、ほとんど労働力のみによって生産されるのであれば、それなりに納得できるかもしれない。しかし発電するための機材も燃料も国際商品であり、おそらく配電設備の構築やサービスのみが時給と関係している。生産性の高い日本では、電気はそれに比べて割安だというのは、あまりにも消費者をバカにした意味のない主張だろう。
 本題に戻って、なぜ日本の電力料金は高いのか。単純な結論でつまらないのだが、地域独占を許された地域会社には、競争が実質的に全く存在しないためである。地域独占企業であるのに、従業員は高級取りで、会社の福利厚生も過剰なほどに存在している。系列企業には入札制度がないか、入札制度があっても公開義務もなく、電力会社からの天下り社員によって割高な受注を受けることができるのである。
 つまるところ、電力会社とは、テレビ局と同じように、政府から特別許可を受けた独占者なのだということなのである。
 これに比較して、例えば、フランスでは電力会社は国営だが、外部からの監視を厳しくして電気を安く提供している。反面、私企業が電力を供給するアメリカでは、公共事業体として州政府からの外部監査がひじょうに厳しく、従業員の給与から公示の入札まで多くの公的な監視が存在している。
 アメリカの企業の研究でさえも、競争がない地域の電力会社では競争がある地域の会社よりも非効率な部分が多いことが知られているのである。いまや古典となった1966年の研究において経済学者レーベンスタインは、それをはっきりしない原因に基づくものとして「X非効率」と名づけた。
 競争のない日本の電力会社は、つまり単なる特許会社である。電線を二重に引くのはばかげているように思う人も多いだろう。しかし、新規の参入企業が既存の電力会社とは独自に配電網をつくるようにならなければ、この問題は根本的には解決しないのである。
 東京や大阪などでは、多くの私鉄の路線がJRと並行して走っている。純粋に技術的に考えれば、複数の路線が独立してあるよりも、一つにまとめたほうが効率は高まるに違いない。しかし実際の人間の組織とは、独占が許されれば、できるだけ自分達の都合がいいように料金を設定するように、徐々に組織慣習を形成するものなのである。
 このため、一見して非効率であっても、電力業界に新規参入がなければならない。新規の参入企業があって、はじめてコストを低減する必要性が、組織レベルで発生するからである。
 近い将来に実現するだろうと思われる電力供給の多様性の第一候補は、家庭用燃料電池によって発電しつつ、熱源としても利用するというコ・ジェネレーションである。これは日本でも松下電器やホンダなどの多く企業が参入を試みている。現在の天然ガスを改質して、ガスの供給ラインを使って、熱と電気を各家庭で分散的に発生させるものである。
 北欧で実用化されている、この分散型の電気と熱のコ・ジェネレーションでは、熱の使用や電気の使用に応じて、他方もまた生産されることになる。そこであまった電気や熱をローカルなコミュニティで共有することによって、その有効利用を促進できるのである。
 現在のところ、コスト的には大きな問題がある。しかし、自動車用の燃料電池の進歩は家庭用にも転用できるので、近いうちに技術的な進歩によって損益分岐点に到達するといわれているのである。いわばこれは、現在のガス会社が電力会社にもなるという競争のあり方だといえるだろう。
 あるいは、複数の会社の複数の電圧のコンセントがあれば、消費者は家電製品の購入に際して、当初は小さな混乱を生むかもしれない。しかし日本のように豊かな社会では、電気の供給についても潜在的に多様なニーズがあるはずである。
 ある電力会社の電力供給は、安定しているが料金は高く設定されており、また別の電力会社は停電が多くて供給が安定していない代わりに、料金が安いということがあっても、不思議ではない。このような複数の電力会社は、十分に並存するべき理由があるのである。
 停電が多かったとしてもかまわないという人が実際にいるだけでなく、一時的な停電があっても電源安定化装置があればすむような場合も多いのである。これは、現在急速に進歩している多様な二次電池やキャパシタによる蓄電技術の改良によって、将来はもっと小さな問題になるはずである。
 日本の配電システムは、ひじょうに高度に安定しており、平均的な停電時間も諸外国の3分の一程度と圧倒的に低いことで知られている。そのかわりに2,3倍の高価格で電気が売られているのである。これは過去の通産省(現経済産業省)による公共投資の行政指導の結果である。しかし、電力会社の従業員以外のほとんどの人は、もっと停電してもいいから、半額以下の安い電気を欲しているのではないだろうか。
 例えば、私をはじめ多くのネット愛好者はIP電話を使うことが多い。私は特に無料のスカイプがお気に入りだが、スカイプは回線品質が低く、安定性もあまり高くはない。「ぶち切れ」というのもしょっちゅう起こるが、そもそも切れてもかまわない電話のニーズというのは、誰にでもあるだろう。大事な電話は安定した固定電話でかけるが、どうでもいいような要件では無料の不安定なサービスを選好するというのは、おかしな話でもなんでもない。
 現在の電力の供給自由化のスキームでは、新規発電事業者は顧客のところまで、地域独占の電力会社の配電網を借りることができるだけである。そして、これでは結局のところ、いろいろな難癖をつけて、発電事業のみの企業は十分に市場に参加することができないままに、価格は高止まりすることになる。
 今後は電柱の共有化や新たな電柱の速やかな許可によって、配電網をゼロから構築することすらも許すべきだ。また新規企業だけでなく、水道やガス会社などにも送電網を構築することを許し、実質的な競争を確保しなければならない。でなければ、ヤフーの会社説明によれば、つぶれることのない東京電力の電力会社の社員の平均給与は800万円である。そして、競争がない限り、この800万円は永久に高い電力料金に転嫁され続けるのである。

ガス料金
 電気料金と並んで、日本のガス料金もまた極めて割高なことで知られている。
 前述のOECDの調査報告から、2004年の家庭用ガス料金を単位熱量あたりで見てみよう。アメリカでは日本の約32%、イギリスは33%、フランスでは43%である。日本のガス料金は、西欧の3倍も高いのだ。
 また、経済産業省の「都市ガスなどの内外価格差について」というレポートを見れば、1999年の時点で、上記の国々に加えて韓国との価格差でも3、5倍になっていることがわかる。
 これもまた、私の生活感覚と符合している。アメリカではガス料金も低く、一般庶民が生活するために必要となる熱源も安く供給されているのである。なお、ここでも産業用ガス供給では、この差ははるかに小さなものになるが、それでも二倍に近い大きな開きが存在する。日本は、物価が安くて生活がしやすいという生活大国には程遠いのが現状なのだ。
 日本の住宅では部屋ごとの個別冷暖房が普通だが、欧米や韓国、中国ではセントラルヒーティングが一般的である。これにはより大きなエネルギー消費を必要とするため、あるいは原理主義的なエコロジストは反対するかもしれない。
 しかし、日本ではリビングだけを暖めるため、フロ場やトイレなどに入る際には大きな温度差があり、それが心臓に負荷をかけることになっている。このため、屋内移動による心筋梗塞によって先進国にしては多くの命が奪われているのである。
 これは欧米や韓国、中国で暮らした人であれば、誰でも感じていることである。日本ではガス料金が高すぎて、局所暖房が当然になってしまっている。しかし、これは世界の先進国の生活からは大きく劣ったものであり、特に体の弱ってくる高齢者には厳しい住居環境なのである。
 韓国から帰ってきた知人が、「韓国から東京に帰ってきたら、風邪を引いたよ。ソウルだと家の中じゃ、Tシャツで過ごせるからね。」といっていた。これは人間がゆったりと生きるという、もっとも大事なことが難しい日本の現状なのだ。
 この理由が、日本のガス会社が許可制であり、地域独占であるためだということは間違いない。前述の経産省「都市ガスの内外価格差」レポートには、ガス調達コストは日本でもイギリスでもほとんど同じであることが示されている。アメリカと比較して1、5倍程度、フランスの2倍程度である。
 ガス料金の内訳をみると、日本のガス料金の3分の2以上は、運営費や人件費などが占めている。つまりこれは、ガス会社の株主利益や従業員の給与、関連会社の利益などのことである。日本では、ガス会社が地域独占を許可されているため、非効率的であり、さらに高額な請求をしても顧客が逃げる道は、これまた地域独占の電気会社しかない。
 これは比較的に競争の存在する産業用のガス価格が、家庭用の半額以下であることにも明らかだろう。結局、建前はどうであれ、ガス会社の地域独占を許している日本国の政府は、低所得の庶民ではなく、ガス会社の利益を守っているのだ。

水道行政では
 日本の水道料金はどうなのだろうか。
 水道は市町村レベルでの水道局が運営しているため、水道料金は地域によって大きく異なっているが、全世帯の平均的な月間下水道料金はおよそ4000円程度だといわれている。日本人は水を比較的に多く使っている国民だが、支払っている水道料金も世界平均に比べると多いのだ。
 東京都の平均的な家庭用上下水道料金は、固定料金プラス1立方メートルあたりおよそ200円である。これに対して世界銀行による1999年の世界の物価調査によれば、アメリカの価格では1ドル120円換算で60円、カナダで49円である。OECD諸国の中では高いといわれるドイツでは217円、イギリス138円、フランス140円程度となる。
 日本の水道料金は当然に総じて高いことがわかるだろう。しかし、一般人の生活を優先するということで、日本の水使用料金は家庭用については安く設定されてもいる。東京都では、工場や病院などの大口の需要家の場合にはトンあたり700円の課金となっていますから、もともとの水の価格が高いのである。
 その説明としては、ダムなどの過去の先行投資を回収するために、水の料金が高くなるというのであるが、しかし、そもそも必要でもないダムを作ってからその投下費用を回収するという方式のために、水の料金設定が高くなっているのだ。この意味では、今後の人口減少社会で不必要だと批判されているダムを、今後も作り続けるという国土交通省の計画は実に摩訶不思議である。
 この点は保屋野初子による『水道がつぶれかかっている』に詳しく報告されている。そのなかの一つには、長良川河口堰の利用がとり上げられている。もはや利水の必要がないと主張する三重県に対して、河口堰の膨大な建設費用の負担を押し付ける水資源開発公団の実態が告発されているのだ。
 この点に関しては、猪瀬直樹もまた『日本国の研究』の中で生き生きと詳述している。長くなってしまうが、彼の素晴らしい文章を、まるまる引用させていただこう。

高秀秀信第五代総裁(86~90年)は、三重県の対抗を意識してだろう、以下のように語っている。
「卑近な例として、バスの運行があります。団地の将来計画ははっきりしていますが、とりあえず百軒入ってきた。それでは五百軒になるまでは市営バスを走らせないかということです。何年もかかって団地が形成していくので、そのぶんはその企業会計ではなくて、政策路線としてのバス路線と考えて市が補うというか、私はそうすべきではないかと思います。」
 団地がずっと百軒のままなら、どうするのか。三重県の場合、当面、五百軒になる見通しがない、と悲鳴をあげていたのである。高秀発言には、財政負担に押しつぶされる自治体への配慮は感じられない。歴代の水資公団総裁による座談会は、気楽な内輪の会話だからよくホンネが出ている。「想定通り二十年なら二十年先に水需要が発生しなかったらこうしますということは、なかなかこっち側からいいにくい話です」と勝手なことを言っている。
 水資公団はスタート時の定員は六百名だったが、現在は二千名、事業費は二千億円(年間)の大所帯に膨らんでいる。二千億円は維持管理費であり、建設費用ではない。長良川河口堰の場合、水資公団は財政投融資からの借り入れで建設費を払う。いったん立て替えるだけで、すでに記したように治水分の四割は建設省が出す。残り六割は三重県と愛知県が負担する(約30%の補助金がつく)。三重県と愛知県は二十三年ローンで水資公団に返済する。水資公団は、自分の腹は痛まないから平気でこんなことがいえるのだ。
 高秀元総裁は、日本中を運河にしたいらしい。
中部地方などは豊川と矢作川と木曽川を結ぶべきではないかと思いますし、また、極論をいえば、木曽川水系と琵琶湖を結ぶとか、これは地方の実情、地域的なものがありますから、そう簡単なことではないと思いますが、これからは複数水系でどうやって安定化を図っていくかでしょう」
 水資公団の規模が大きくなればなるほど、受益者の事業費負担も増える。結果として長良川河口堰のような固定資産、施設が残る。その維持管理が水資公団の仕事である。施設がどんどん増えれば、公団の人員も増える。事業費も余計にもらえる。

ここには、天下り官僚の身勝手な組織拡大への欲求が、あからさまに表現されている。この現状に怒りを感じない人はまずいないだろう。
 また『水道がつぶれかかっている』では、神奈川の宮ケ瀬ダムに一兆円をかけて、水が3トンしか使われていないことも指摘されている。実際、こういった状況は日本ではなんら珍しいものではない。
 日本全国いたるところで、まったく不必要な水資源の確保のために財政投融資を通じて、郵便貯金が使われてきた。水道事業が公営であるために、水道価格に上乗せし放題のムダな支出が過大となっているのである。
 いまや必要でもない水資源を確保するという名目で、10兆円を超えるムダが累積赤字となっている。なお、現在は水資源機構と改称しているが、もちろん、これは単に看板をかけかえただけのものである。
 長良川河口堰は必要もないのに、反対運動を押し切ってつくられた。徳島県の吉野川の河口堰の反対運動にしても、岐阜県の徳山ダムの反対運動にしても、住民の反対を押し切って、政府は水を管理するための施設を建設しようとしている。
 それが地方の建設会社の利益になるからなのはいうまでもない。しかし、それもこれも、上下水道は独占的に地方時自体によって供給されているために、その建設費用を、最終的にはすべて消費者に転嫁できるからこそできることなのだ。
 現在、シンガポールや香港などの都市国家や、観光都市として大発展中のドバイやバーレーンなどの砂漠の都市では、海水をろ過して真水を作り出している。その費用は1トン当たり60円だが、東京都のダムからの取水価格は1トン当たり180円!なのだ。
 もっと詳しくみてみよう。現在もっとも低廉な海水の淡水化法は、日本の東レがつくった逆浸透膜を使ったもので、トンあたり0.707ドル、つまり85円である。興味のある方は、東レのホームページをご覧いただきたい。逆浸透膜というのは、海水に高い圧力をかけて、海水を塩分を通さない特殊な膜を通すことによって、脱塩するというものだ。
この浸透膜はカリブ海の小島であるトリニダード・トバゴで活躍しているということであるが、アラブ首長国連邦をはじめ、世界的に急速に利用されている方法である。これまで離島や砂漠では、真水をえることができなかったが、この方法は海水から真水を作り出せるためである。
 2007年6月1日の日本経済新聞の記事にも、東レの逆浸透膜では1トン60円で真水が作られること、この費用が過去10年に半減したこと、下水を浄水すれば、30円かかること、河川水の場合では25円であること、などが記されている。
 なお、発電所などからの廃熱で海水を温めることによって、この費用はトンあたり50円程度にまで下がるという。現行の方法でも価格差はすでにトンあたり120円にもなるが、この差は将来の科学技術の進歩によって、ますます大きくなっていくだろうことは明らかである。
 いつの日にか、1トン20円、あるいは10円で真水が作れるようになれば、もう少しマスコミも、あるいは多くの人びとも、日本の水道行政のもつ非効率を認識し始めるかもしれない。しかし残念ながら、それでも東京湾から10円で真水が作られることはないだろう。政治システムのゆがみのために、永遠に東京都民にはダムから取水した水が200円で供給され続ける制度が確立しているからである。
 フランスでは、水道会社は民間会社であり、今やひじょうに高い競争力を持っている。また、実際にドバイやパーレーンなどで水供給システムのプラントを建設しているのは、伊藤忠や三菱商事などの日本の商社である。
 例えば、丸紅は3600億円をかけて、アラブ首長国連邦で発電と海水の淡水化事業のプラントを作っている。このプラントは巨大なもので、10施設もあれば、関東地方全体の発電と給水ができる規模のものである。
 いまや、こういったノウハウを利用して純然たる民営の水道会社ができるべきなのである。東京湾や大阪湾、伊勢湾の海水から真水を作り出したほうがはるかに安い水を供給できるのだ。東京の水はまずくて有名である。あるいは、民間会社のほうがおいしくて塩素臭の少ない水を供給するだろう。自由な競争がなければ、それが可能であるのかどうか、人びとがそれをどのくらい望んでいるのかもわからないのである。
 また、日本の水道業界はJIS規格に守られているため、上水道の水圧も低く、シャワーも快適には浴びられないような有様である。電線と同じように、複数の水圧の上水道網でさえも、存在理由があるだろう。
 中国ではヨーロッパの水道会社にインフラの整備をまかせている。例えば、四川省の成都では、フランスのビベンディと丸紅の合弁会社が上下水道事業をおこなっている。そもそも水道事業が、市町村という非効率的な区分けに従った公営事業である必要性など、効率性を考えればどこにもない。
 もろろん、過去のダム建設行政のツケは償却するという形で認めざるを得ない。しかしそれはそれとして認めるべきであり、今後もダムを作り続け、自然を破壊し続けながら、我われの社会をより貧しくしてゆく必要などどこにもない。
 現在のドバイは海水の真水化技術の低廉化によって、800メートルを超える世界最高のビルに象徴されるように、中東経済の中心都市としての大発展を遂げつつある。各国の中でも降雨量の多い日本の水道料金が、砂漠の真ん中に位置する高層都市のドバイよりも、あるいは島国のトリニダード・トバゴよりも高いというのは奇妙だ。
これはつまり、建設会社と水道局などの役所の利権優先で走ってきた日本社会の持つ、にわかには信じがたいバカげた矛盾の発露なのだ。

光熱水費を総合すると
 さて2000年の総務省の家計調査年報によれば、1世帯平均の電力料金は9555円、ガス料金は都市ガスとプロパンガスを含んでの平均で5920円、上下水道料金は6002円である。これらを合計してみると、月に2万1477円で、年間25万7724円になる。
 これが仮に半額であれば、たいへんに生活がしやすいのではないだろうか。家計の所得が下がれば下がるほど、光熱水費の支出割合は増えるはずである。後述するように農業保護もやめて、食費も含めて半額で生きることができれば、マクドナルドで働く月収10万円台のフリーターにとっても、日本ははるかに暮らしやすい国になるだろう。
 年金生活者や生活保護の受給者にとっては、光熱水費と食料が半額であるというのは、生活のクオリティがまったく違ってくるほどであろう。実際、アメリカでは日本と同じ所得が得られるのであれば、たいへん優雅に生きることができる。ほとんどすべての生活必需品の価格が半額以下だからである。
 私がカリフォルニアにいたころ、日本の大学から一年のサバティカル(学術休暇)をもらって、サン・ディエゴに研究のために家族で滞在していた方と知り合った。私は、そのお宅に高校生の子どもの家庭教師として、週に一度ずつうかがっていた。
 そこで、その方の奥さんの言葉が印象に残った。「日本では、生活するための費用がすごく高かったけど、ここでは3分の1ぐらいですね。ほんとうに助かるし、生活がゆったりとしていてすみやすいところだわ」としきりにおっしゃっていたのである。
 私は、大学院生であり、限界的に貧しい生活をしていたので、そのことに気づかなかったが、たしかにアメリカの生活に文句をいう日本人はほとんどいなかったと思う。もちろん、アメリカ人の日本人やアジア人に対する待遇に文句をいっている人や、犯罪の危険性について危惧しているはいたが、物質的な生活が豊かであることは誰にも否定できない事実であった。
 上述の、電気、ガス、水道のどれをとっても、まったく異なった供給者が行っている。ある特定分野では、日本のほうが、アメリカやイギリスよりも、あるいは少なくとも旧大陸にあるフランスよりも安いものもあっていいはずだ。しかし、現実にはそうはなっていない。
 この原因が詳細にどこにあるのかは、私のような素人には簡単に診断できることではない。しかし、すべての活動を完全に民営化して、競争にさらすことが必要であることだけは間違いないだろう。
 NTTと第二電電などによる通信料金の高止まりを打ち破ったのは、ヤフーを日本に導入して既得権益を完全に否定した孫正義であった。彼はそれまでの通信会社のおよそ半額でADSLサービスを提供することによって、今ではソフトバンク・モバイルまでを買収によって獲得し、巨大な通信企業集団を作り上げたのである。
 日本でも、フランスの水会社のビベンディやイギリスのデムズ・ウォーターのような外資企業が、東京に新しい水道網を作り直す必要があるだろう。あるいは、新しいガス管をゼロベースから引きなおして、異なった熱量のガスを供給する企業が必要なのだ。
それくらいのことを許さなければ、永遠にダムは作られ続け、自然は破壊され、その建設費用は水道料金の上昇に転嫁され続けられるだろう。そして時給で生きなければならない庶民の生活は、独占を許された公営企業に搾取され続けて永遠に苦しいままだろう。



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農産物保護と自由貿易

採録
4、農産物保護と自由貿易
 19世紀はじめにイギリスの経済学者ディビッド・リカードによる比較生産費の説明以来、自由貿易は貿易にかかわる国のどちらにとってもよりよい生活のためになることが認められてきた。このことには、ほとんどすべての経済学者が納得している。
 これは単に、輸入や輸出という貿易活動に従事する人びとにとって都合が良いというのではない。そのどちらの経済もが、貿易によって可能になる国際分業によって、得意な産業に労働を特化することができる。それによって両方の経済の総生産力が向上し、どちらの国民にとっても福祉が増進されるということなのだ。
 とするなら、自由貿易に反対する人はいないはずだが、実際には多くの人びとが自由貿易に反対している。特に農産物の保護は、日本に限らずEU諸国をはじめ、アメリカを含めてほとんどの国で実施されているのが現実である。
 この章では、外国産の農産物の輸入を制限する、日本の貿易制度について考えてみよう。

外国産の安い食材
 各種の農産物の輸入関税について、2005年11月7日付の日本経済新聞の記事を参照して考えてみよう。関税は輸入額に対して賦課される税金額の割合で表されるが、WTO方式での試算によれば、コメには778%(実質的には禁止)、小麦には252%、バターには482%、砂糖には325%、牛肉には50%もの関税がかかっている。こんにゃくやえんどう豆などにはもっと大きな関税がかかっているが、それほど家計には影響はないので、ここでは日本人の食卓にもっとも普通に関係するものをあげてみた。
 この農産物への関税率というのはWTOの方式に従って計算したというもので、実際には例えば小麦や豚肉には差額関税がかけられており、関税率が決まっているわけではない。
 差額関税というのは、国内に輸入される農産物に対して、国内産の基準金額と同じ価格になるまで税金を負荷するというものである。小麦の生産には麦作経営安定化資金という名目で60キロが8000円になるように関税かかっており、ウルグアイ・ラウンド合意によって豚肉は1キロ当たり410円になるように関税がかけられているのである。
 とはいえ、付け加えるなら、日本の農産物の平均関税額は12%であり、アメリカの6%オーストラリアの3%などと比べれば高いが、しかしEU諸国などの20%、スイスの51%、ノルウェーの124%に比べればはるかに低いのである。またほとんどの途上国は農産物にひじょうに大きな関税をかけており、日本の農業保護が行き過ぎであるとまではいえない。
 しかしここでは、そういう相対的な関税の多寡を問題にしたいのではない。なぜなら、日本の農産物関税は富士山型になっており、コメや麦、牛肉や豚肉などの生活にもっとも直結するような品目にひじょうに高くなっているからである。このような関税がかけられて大きな損をするのが、一般の低所得家計であることは間違いない。
 日本での主食といえば、コメを炊いたご飯であり、多くの家庭では同じくらいに小麦を原料とするパンやめん類も食べられているだろう。低所得の家庭であればあるほど、全所得における食費の割合であるエンゲル係数は上がり、フルーツなどよりもご飯やパンなどの割合が高くなる。
 マンゴーやパパイヤなどの奢侈的な農産物にかけられる関税は高くはないが、そういった農産物関税はあってもなくても、あまり低所得の人たちに大きな影響を与えることはない。それにくらべて、コメや小麦粉の関税が高ければ、所得の低い人びとの被る金銭的な影響ははるかに大きい。
 小麦と小麦粉の価格が40%になり、コメは14%になるのなら、豪華とはいえない食卓の食費が現在の半額になることは十分にあるだろう。あるいは食べるもののメニューによっては、それ以下になることも考えられよう。

農業従事者だからといって経済的弱者なわけではない
 こうした農産物に対する関税や輸入規制は、これまで様々な理由から正当化されてきた。これまでもっとも強力に支持されてきた主張によれば、「日本のような島国での農業生産性はどうしても高くならない。だから社会的な弱者である農業従事者を、外国産の農産物の流入から保護する必要がある」というものであったように思う。
 確かに農林水産省の公式統計である農林水産統計を見ると、2005年度の農業従事者における平均的な農業所得はおよそ124万円でしかない。これは農業所得としての398万円から、必要経費としての274万円をさし引いたものである。これを見ると、農業に従事する人たちがおしなべて低所得であるように感じるだろう。
 しかし、この数値は、日本では農業を副業とする第二種兼業農家が圧倒的に多いためである。農産物、特に主食としてのコメや麦などが保護されているために、それらを作る兼業農家が多くなり、ますます農業の全体としての生産性を下げてしまっているのだ。
 農家における農外所得は219万円である。これらを足し合わせると、農家の所得総額は503万円になるが、これより低い所得階層にある世帯はサラリーマン世帯においても決して少ない数ではない。
 ここで農業という産業が他の製造業にない特別な「何か」を含んでいるという考えを別にしよう。原理原則論からいえば、生産物が豚肉なのか、あるいはネジなのかなどという特殊な事情によって、同じ所得を得ている世帯、あるいは人びとが国家から別意に取り扱われることなどが倫理的に許されるはずがない。
 同じように働く人びとが同じ所得をえているのであれば、基本的に同じような取り扱いを受けるべきである。これは常識的な公平感覚からくる当然の要請だろう。現に課税率などは、こういった取り扱いを受けている。
 しかし、農産物に関しては、この原則はまったく当てはまっていない。なぜ麦の関税率が252%なのか、あるいは砂糖は325%なのか、というような問いに対しては、もちろんそれぞれに政治的な経緯はいろいろとあっただろう。しかし、そのような数値を正当化するような要素はまったく存在しない。まさにその場しのぎの「場当たり」な政治的対応が、変更できない制度となって我われの生活を全体として窮乏化させているのである。
 このような場当たり主義は、豚肉には国内価格を固定するための差額関税制度が適応されるのに対して、牛肉などには通常の関税がかけられているという方式にもあてはまるし、それらへの課税率にも当てはまる。これらのまったく理由のない制度が既得権益となってしまっているのである。
 私には農業が何か特別なものであり、特段の政治的な保護に値するという考えにはまったく賛成できない。しかし仮にこの点については譲歩して、農業を保護するべきだという考えをとるとしても、現行の制度にはあまりにも大きな問題があると考える。

関税と直接補助のちがい
 日本で現在行われているような農産物の価格支持制度の根本的な問題は、これから農業をしようとする人間に誤ったシグナルを送ってしまうことである。単純な国際価格の比較によれば、そもそも豚は日本で飼育されるべき効率性を満たす動物ではないということを意味している。しかし、差額関税によって1キロが410円に固定されていれば、これから農家になろうとする個人や農業法人にとっては豚肉は1キロ410円で売れるものだとして設備投資をし、さらには飼育の専門知識を獲得してゆき、将来に向けての政治圧力となってしまう。
 これに比べると、養豚業者への一時的で直接的な補助金は、さらなる養豚事業への参入を人々がしないという意味において、長期的にはより望ましい。現にほとんどの農業経済学者とはじめ、WTOやOECDなどの中立的な国際組織は長い間そのように指摘し続けてきており、その考えにそってEUなどでも政策を徐々に変更してきているのである。
 例えば、日本よりも合理的な見解の強いアメリカでは、基準価格と市場価格の違いを農家への直接補助として支払っている。またEUでも、東方への拡大に向けて直接支払い制度に切り替えてきた。
 しかし、こういった農家への直接的な資金の提供は、民主党が主張しているものの、容易には大きな政治的な手段とはならないだろう。なぜなら、それらは政策として望ましい透明性をもっているがゆえに、有権者から見たコストがはっきりしすぎて、予算に盛り込むことに反発があるからである。
 法律を制定して輸入量や輸入価格を規制したり、あるいは差額関税を課したりしても、多くの人の反感を買うようなことはない。被害者は一般消費者であり、数多く存在するが、一人一人にとってそのような政策が採られることからくる被害はいくらなのかはっきりしない。これは政治家やあるいは政党にとって、きわめて都合がいい状態だ。一人当たりの被害額もはっきりせず、それらを知るためのコストもかかるため、被害を受けているという認識もひじょうに薄くなるからである。
 反面、直接的な補助のためには予算をつけて執行する必要がある。予算案を通す過程では、援助の規模の適正さについて、はるかに多くの注目がなされ、審議会から国会の委員会、さらに本会議におけるまでの議論がなされる。また国民一人当たりの負担額もはっきりとせざるを得ない。とするなら、これは政治家にとって都合のいい方法であるはずがないだろう。
 よって、直接的な補助は、政治的な目的を達成するのに理想的なはずだが、現実には政治によっては使われにくいことになる。国民の一人当たりの損失ははっきりしないために、その算定をすることも難しくなり、かくして多くの人びとは被害に気づかないままに永遠に生活し続けることになるのである。
 このような政治的な決定は、いかなるリベラリズムの文脈においても肯定することはできないだろう。しかし、我われの持つ「政府が何かを政策として行うのは、当然なのだ」というまさにリベラルな感覚が、各集団の利益の対立とそれを集票に生かそうとする政治プロセスに落とし込まれれば、こういった結果を生み出しがちになる。

食糧自給率と安全保障論
 日本の食料自給率の低さは、長い間多くの人が問題視してきた。実際に農水省の公式統計でも、日本の2005年の食料自給率はカロリーベースで40%でしかない。そして、日本は世界最大の農産物輸入国である。
 これを受けて、自民党の政策においては、これまで一貫して長期的な食料自給率を高める旨が記されている。また野党民主党の代表である小沢一郎も、同じように自給率の向上を政策として掲げている。この点では共産党も同じであり、おそらく大きな政党で国内の食糧自給率の向上を政治目的としない党は存在しない。
 しかし、私は食料自給率の向上などを国が目指すべきではないと考えている。端的にいって、国際分業がこれだけ進展した世界で、食料についてだけは自給するべきだというのは不可能であり、かつ有害だからである。
 まず、食糧自給が不可能であるということについて考えてみよう。
 日本のような平均所得の高い国民の必要とする食料の大部分を、無理にでも国内で作ることを考えてみよう。日本人の賃金が国際的にひじょうに高価であることからは、現在でも進んでいる以上に、農業はますます機械化されてより工業に近い状態になることが予想されるだろう。
 つまるところ、農業をビニールハウスで使っておこなうためにはビニールという石油工業製品が必要であり、現在の収量を維持するための大量の化学肥料を散布するためには、結局は石油が必要である。あるいはコメを田植え機で植えて、コンバインで刈るというのであれば、それらの農業機械が必要となり、それは農産物を工業製品の助けを借りて作り出すことを意味する。さらに機械を動かすためには、結局のところ動力源としての石油が不可欠である。
 確かに名目的には食料自給率は、どこまでも上昇させることができるかもしれない。しかし、それらの農産物を作るために石油や鉄鉱石を輸入しなければならないのであれば、「食料」自給率は高まっても、本質的にほとんど意味がないだろう。日本のエネルギー自給率はわずか6%程度であり、そのほとんどは水力発電なのである。
 この議論で明らかになるのは、農産物の代わりに石油などが輸入されるようになるだけなのであれば、それは真の意味での自給率を高めていないということである。実際にこのような政策をとれば、広い耕作面積を使うことが効率性を高めるような農作物、例えば、コメや麦などはひじょうに非効率的に国内で生産されることになる。そのために、日本人の実質的な所得は、その分だけ下がってしまうのである。
 真の意味での自給率を高めるのは、日本のような天然資源のない国にとってはそもそも不可能なのだ。またこれだけ複雑な国際分業が成り立っている現代の経済では、ある種の天然資源があったとしても、それだけでは自給自足経済を作ることはできない。
 例えば資源大国でもあるアメリカでさえも、大量の工業製品を中国や日本、あるいはEUから輸入している。なぜならアメリカ人は日本製やドイツ製の自動車を高く評価しているからであり、それを貿易によって得られるのは自国民の福利厚生を向上させると考えるからである。日本人も素直にそう考えればいい。
 これに関連して、次のテーマである「食料自給率を向上させるという政策は有害である」という考えに移りたい。これは人びとがときおり口にする、食糧安全保障という考え方と直接に関係しているものである。
 食糧安全保障論を簡単にいうなら、「日本人の安全を保障するためには、他国からの輸入が存在しなくなっても問題がない状態にしておく必要がある」。あるいはもっと直接的に「他国からの食糧禁輸措置がとられたとしても、日本人の日常に支障がないようにする必要がある」というものだろう。
 ハト派の人びとに対して、私は次のような論点を指摘したいと思う。
 それはつまるところ、食糧安保論は国際協調主義に反しているという点である。この議論はそもそも仮想敵国が国際貿易に大きな影響力を持つということを前提にしている。ちょうど、戦前の日本が連合国によるABCD包囲網によって国家の存立を脅かされたように、その政治力によって禁輸措置が取られる可能性を論じているわけだ。
 しかし、自国が禁輸措置に際してさえも強い立場に出ることができるようにするべきだという考えは、その発想自体が国際協調に反している。国際的な世論には基本的に従うべきだという日本国憲法の説くような国際協調の理念からいえば、食糧の自給率を高める必要などは最初からないだろう。
 とはいえ、それは単なる理想論であって、現実の国際政治においては自国の国益を守るためには、国際協調に反する場合もあるという主張もありえるかもしれない。しかし、さしたる緊急性も見当たらない現代社会で、そういう危険を強調すること自体が単にナショナリズムをあおっているだけなのだ。
 予見しえる将来において中国やロシア、あるいはアメリカでさえも、日本人が輸入する農産物を禁輸する可能性もなければ、脅すような話も聞いたことがない。前述したように資源のない日本では食料自給率を大きく高めることはもともと不可能なのだ。にもかかわらず、食糧自給率を高めるべきだという主張とは、不可能なだけでなく、つまるところ日本の経済を他の仮想敵国の経済から分離することを目指す好戦的で有害な思想なのである。
 ひとつ付言するなら、共産党や社民党の政策はこの意味で完全に矛盾している。一方で国際協調と自衛隊の廃止を主張し、その反面、有事に備えての食料自給率という考えを持ち出すのは、完全に論理として破綻している。
 実際には、多くの人びとは多かれ少なかれ国家主義的、あるいは愛国的だろう。農業を保護するというのは、地球環境保護やエコロジーと同じく、圧倒的多数が支持する価値判断である。よって、左派の政党でさえも、けっして他国との友好関係を重視して、農業保護をやめようとは主張しないのだ。
 次にタカ派の人びとには、以下のような指摘をさせてもらおう。
 前述したように、輸入食料のみが確保されるという考えは、食料を作るための石油その他の天然資源の輸入が確保されなければ、まったく意味を持たない。日本のエネルギーの94%が輸入されているのだ。
現実に安全保障を考えるのなら、原油の確保のために中東から日本まで、あるいは最低でもインドネシアなどの東南アジア太平洋地域からのシーレーンの制海権、制空権を確保する必要があるだろう。
 とすれば、それは現在の脅威である中国の軍事力をはるかに上回る大きな軍隊を持つことを意味せざるをえない。農産物生産などにGDPの1,3%をつぎ込み、関税による消費者の被害をあわせればおそらく2%以上の生産力をつぎ込む反面、軍事費用にそれよりはるかに少ない程度の資源しかつぎ込まないというのは、全くただのナンセンスだ。
 タカ派の人びとは食糧安保などという寝言を真剣に考えるのではなく、軍備の増強こそをいっそう主張するべきだろう。エネルギーを差し置いての、食糧自給による安全保障などという概念は、レトリックでしかなく、そもそも無意味だからである。
 たとえば、食料自給率がほとんどゼロである現代の都市国家として、シンガポールがある。彼らは食糧安全保障を目指していないが、国民皆兵制をとり、比較的大きな軍隊を持っている。そのシンガポール人が、将来の食料の心配をしているという話は聞いたことがない。
 そもそも現在の世界経済には、食料を供給できる国などほとんど無限にあるのである。小麦であれ、トウモロコシであれ、牛肉であれ、どこかの国からのある農産物が来なくなったとしても、国民がカロリーベースで飢えることなど考えられない。すべての国からの禁輸を受けるような異常な事態を除いて、ただ別のものを食べればよいだけなのだ。
 実際、食料自給率は単なる杞憂である。たとえば、東京都や大阪府の食料自給率は10%をきっているが、このことを誰も問題にしない。なぜなら、少なくとも日本国内にある食料が東京や大阪に送られてこないことなどはありえないと思っているからである。
 国が違っただけで、すべての外国人が日本人に食料を売ってくれなくなるというのは、どう考えてもありそうもない、サピオの読み過ぎから来るバカげた妄想である。かつて、第二次世界大戦前に、日本はABCD包囲網によって、連合国かの物資の禁輸を脅迫された。しかし、当時と違って、現在の世界情勢はまったくの一枚岩ではないのである。
 あるいは、実質的に日本にそういう脅しをかけることができるのは、現代の世界ではアメリカだけだろう。他国から禁輸されるという事態を考えるよりも、他国民との誤解や意見の相違を乗り越えるべきかを考えるか、あるいは自前の強力な軍備を持つほうがはるかに重要であり、実際の安全保障に役立つはずである。

農業を保護するのか、あるいは個別の農家を保護するのか 
 おそらく日本の農業で将来性が高いのは、トマトやレタス、きのこ類などの土壌を使わない工場栽培だけだろう。これはすでに実用化されているが、そこでは工場の生産規模と設備投資額の大きさからして、株式会社が主役とならざるを得ない。
 全面的に株式会社による農産物生産を認めれば、今後は株式会社によって大規模経営が進み、農業の経済効率も上昇するだろう。農水省はこれまで、農地の賃借利用は、経営陣の過半数が農業関係者で構成される農業生産法人か農家にしか認めてこなかった。また、株式会社などの農業生産法人に対する出資比率も25%までしか認めていなかったのである。
 戦前は、大地主や大手資本が農業を支配していた。この反省から、1952年に施行された現行の農地法では、「農地は耕作者のもの」とする耕作者優先主義を採っているためである。
 しかし、農家を保護するのではなく、農業を保護するというのであれば、だれであれ農産物を生産することを奨励すべきである。株式会社の農産物生産を認めることによって「農家」は困るかもしれませんが、間違いなく「農業」は進展するからである。
 現在の制度では、自治体が株式会社に農地を貸すことが認められているだけで、所有はできないことになっており、また返す場合の現状復帰義務等も課されており、あまり使い勝手が良い制度にはなっていない。本当に農業を振興したいのであれば、株式会社であれ、誰であれ、生産意欲のある人びとを全面的に応援するべきなのは明らかだろう。
 こういった意見の高まりを受けて、政府の経済財政諮問委員会は、農業の競争力回復を目指して、2007年5月7日付で改革案を提示している。すでに埼玉県と同じ面積にまで広がっている耕作放棄地を減らして、農業の大規模化を図るのが狙いだという。
 その内容としては、農家が企業に農地を譲る変わりに株式を受け取るという現物出資の制度や、農地にも20年超の定期借地権制度を新設するである。また、直接的に遊休農地を減らすために、遊休農地への課税を強化する案も検討されている。
 しかし、よくこの内容を見ていただきたい。結局は、農地自体の取引は制限されたままである。一番やる気のある農産物生産者が自由に土地を買えるようにするという、もっとも単純で効果的な方法は相変わらず禁止されているのだ。これでは、今後も日本農業の凋落は必至だろう。

農業保護を全廃して
 日本の主業農業従事者(所得の半分以上が農業所得である農家)の人口は、220万人でしかない。これは、日本人のわずか2%である。2%の保護のために、日本人全員のコメの価格が7倍になり、パンやパスタは3,5倍になっているのである。
 こんなバカなことを続けるよりも、農家に直接補助を与えて廃業してもらったほうがはるかにマシである。生活扶助家庭はすでに100万世帯を超えており、年金生活者を合わせれば、年金生活をしているはずの70歳以上の人口も1800万人を超えている。これらの人びとは人口の20%をゆうに超えているのである。
 農業従事者のことよりも、こういった貧しい人びとの生活を優先して、関税を即刻全廃するべきだ。どうしても、農業従事者を保護したのであれば、アメリカやEUのように農業従事者に対して税金から直接に補償金を支払えばいいだろう。
 私個人の考えをいうなら、農業保護は完全に廃止されるべきである。
 WTOの報告書でも、日本の農業生産はGDPの1,3%に過ぎないのに、そこには1,6%の補助がなされていると批判されている。実際、2007年度予算では米作には5兆円、麦作には1兆円の経営安定化予算が組まれている。
 つまり、正味の生産よりも補助金のほうが大きいのである。おそらく日本では純粋に補助金なしでやっていけるような近郊農業以外、あるいはエコロジストに直売できるような減農薬の商品を除いて、ほとんどの農産物の生産をやめるべきなのだ。その代わりに工業・サービスセクターに移ったほうが、はるかに国民全体の平均福祉は向上することになるからである。
 現在の農産物補助金の6兆円と、コメや麦、牛肉や豚肉その他の農産物関税が4兆円であるとして10兆円にもなる。主業農家の220万人に、この金をバラ撒けば、一人当たりおよそ500万円にもなるのだ。
 一人当たり200万円を終身年金として一律に与えて、農業保護を全廃するほうがはるかに安上がりである。よって、私の提言は、まさに直接的に農家に一律、終身的に所得補助をして、それでも農業が好きな人だけに農業を続けてもらうというものとなる。

農業がもつ自然との調和という神話
 最後に、農業は自然と向かい合う営みであり、その意味でもっとも自然なものであるから保護に値するという宗教的ともいうべき考えがある。これはこれで、一つの確立した価値観として認められるべきものだろう。
 私はこれに反対をする気はないが、だからといって、すべての人がこの考え方の賛同者ではないということは強調したい。農業による国土の保全という表現と同じほどに、農業による環境破壊は深刻なのである。
 OECDのレポートでも、「農業には肯定的な側面も多いが、地元の環境をむしろ破壊することも多いこと」が報告されている。レポートでは農業という産業を、客観的に検討することを求めてもいる。
 農業は土から農産物を作り出すという点で、もっとも「自然」な産業であり、特別な保護に値するという意見を聞くことが普通である。しかし、私には食べるものが他の工業生産物よりも特段に重要だというようには思われない。
 中国産の野菜の残留農薬がそれほど多くて心配なのなら、多少高くても国産品を買うのもいいだろう。実際に多くの、主に高所得の日本人が、国産品を安全であると認識して、プレミアムを支払っているのが現実である。
 私はそういった考えは持っていない。農業生産物は他の工業製品と同じだと考えている。悪い薬を飲めばより大きな副作用があるし、悪い自動車に乗れば事故死の確率が上がるだろう。農産物以外にも日本人の人生に重大な影響を与えるものは数多くあることは自明なのだ。
 農産物だけが特別な何かをもっているというのは、それ自体が宗教とでも呼ぶべき価値観である。外国からの低価格の野菜を低所得者が消費するのは、低所得者が安全面で高級車ほどではない軽自動車に乗るのと同じだろう。
 人は高所得になるほど、危険を回避する価値が上がり、安全な農産物、安全な工業製品を消費しようとする。しかし、それらが何か特別な価値を持っているからだと考えるのは単なる誤解である。低所得の、あるいは他の用途にもっと資金を使いたい人びとが安価な輸入農産物を食べれば、農産物とは関係のない個人的な目標に対して、よりいっそう多くの資源を投入できるだけである。
 安価な農産物によって、それぞれの人びとにとっての予算的な制約が減少することは、明らかに望ましい。日本では、こういう文脈での経済的な自由権は、これまでほとんど無視されてきた。しかし、政治活動による経済的自由の抑圧は、いかなるものであれ、個人の私的な目標の実現のためには望ましくないのである。このことは、ここで強調しておきたい。



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電波の競売

採録

7、電波の競売
 電波帯域を競売するべきだという考えは、世界中でますます広まりつつある。日本を含めてすべての国では、テレビ放送を送信するための電波帯域の利用権は、一握りのメディア企業にほとんど無償で与えられている。これを競売にかけることで大きな税収が得られるからである。
 現代社会では、電波の利用権が莫大な価値を持っていることは、誰の目にも明らかである。日本の放送業界の規模は年間4兆円程度だが、私が以下に簡単に推測するところでは、最低でもその半分の2兆円程度は、純粋に電波を利用できる権利がもつ価値なのである。
 テレビ番組の製作会社では、長時間労働、低賃金が蔓延している反面、テレビ会社の社員は必ず高給与が保障されているという現実がある。2007年5月14日付の経済誌『プレジデント』では、フジテレビの社員の生涯年収が6億円を超えて、産業界でも突出して高いことが報告されている。興味がある人は、ヤフーファイナンスにアクセスすれば、フジテレビの平均給与が1570万円であることが自分で確認できるだろう。
 通常の製造業では、社員の生涯収入は、自動車のトヨタから家電の松下まですべて2億円台である。つまりテレビ局の社員が二倍程度の収入を得るというのは、いかに突出したものなのである。同じように、広告会社の電通でも6億に近いということからも、電波利権が非常に巨大であることが理解できるだろう。
 これに対して、番組制作の現場に働く下請け会社の社員の給料は、テレビ会社の社員の3分の1以下だといわれている。これは、前述したプレジデントの記事にも、またNHK出身で放送業界に詳しい上武大学の池田信夫のブログにも記述がある。
 コンテンツを作る人びとは低賃金で、放送枠を切り売りしている人間が高賃金だというのは、コンテンツ産業振興などという建前からしても、いかにも本末が転倒している。おそらくは、製作現場では華やかな雰囲気などが低賃金を正当化しているのだろうが、テレビ局社員もまた華やかな雰囲気の頂点にあるはずである。とするなら、その高給にはどこにも正当化の理由が見当たらないのだ。
 なお、いうまでもないことかもしれないが、私は日本テレビなりフジテレビなりの報道などが、そもそも信用に値するものだとは思っていない。「あるある大事典」での事実の捏造問題などは氷山の一角に過ぎないことはいうまでもない。例えば、NHKの「ためしてガッテン」でさえも、科学的なレベルでは統計処理が全くなされておらず、内容を真剣に受け取るには、つくりが雑すぎるといわざるを得ない。
 また、民放のバラエティ番組は芸能人に興味がなければ面白くないだろうし、深夜番組にいたっては下劣だとしかいいようのない品性で作られているものも数多くある。私が自分自身の高校時代の世界観のままの共産主義的独裁者であったなら、即座に放送免許は取り上げるだろう。
 しかし、おそらく多くの人びとがそういった番組を望んでいるからこそ、そういった番組が存在するのだ。つまるところ、民放に品位を求めたりするよりも、むしろ電波を競売し、できるだけ有効に利用することのみを望むべきなのである。
 その結果が、下劣な番組ばかりであれば、それらを見なければすむことであり、それでもその番組は誰かから見たいと思っているからこそ存在するのだろう。過剰な道徳的パターナリズムはやめて、むしろ電波競売から税金を得て、他の税を安くすることを考えるべきだ。
 テレビにまつわる問題は、それ以外にも山積している。テレビ番組は著作権処理が複雑で、映画のような2次利用もほとんど進んでいない。もともとテレビ局のみが放送するという前提でも、排他的な電波の使用権に守られて、十分に経営が成り立ってきたからである。
 日本ではインターネット上のテレビである、GYAOがすでに1千万人を超える登録視聴者を獲得しているが、いまだに地上波ほどの人気のある番組はない。とはいえ、今後通信速度が上がるにつれて、テレビのような完全に相手の情報が得られない広告媒体は、長期的にはほとんどなくなっていくだろう。相手を限定しない広告はそもそも広告効果が弱く、経済的には価値が高くないからである。
 またアメリカではJOOST(ジュースト)という無料配信テレビが、スポーツから芸能まで既存の多くのチャンネルを抱えて、急速に人気を得ている。同じように、電子文書のデ・ファクト規格であるPDFをつくったアドベもまた、メディア・プレーヤーを開発して、配信者に自由なCMの入れ方を許すようなソフトを開発している。日本でもテレビというのは、インターネット上のコンテンツのことをさすようになる日は、案外に近いのかもしれない。
 こういった状態を受けてか、最近のNHKはしきりに震災の恐怖と防災活動の重要性を訴えかけている。公共放送の意義は視聴率競争のための娯楽番組よりも、そういった緊急放送にあるというほうが、人びとを説得しやすいからだろう。
 しかし、もし仮に緊急時の災害についての情報を公共放送が流すというのであれば、そのために必要なのは最低限のニュースチャンネルの枠のみである。当然にそれは、CNNなどのようなニュースのみの放送であり、大衆にとってはあまり面白いものとはならないだろう。
 残りはすべて競売を通じて、IP方式の通信に電波を割り当てるべきである。すでにクァルコムやインテルなどの大手の情報通信企業は、インターネットテレビを効率的に携帯電話に流す技術を開発しているのである。
 メディアフローとよばれるクァルコムの方式では、個別の番組を携帯電話に流すこともできるし、同時にスポーツ中継のようなリアルタイム性の強く要求される場合にも対応している。ただ既存のテレビ放送を流すだけの日本のワン・セグよりもはるかに多機能で、サービスの多様化を可能にする技術なのである。
 メディアフローは各国で独立した会社を作って、規格の普及に努めているが、本家のアメリカでは2007年から開始されている。すでにベライゾン・ワイヤレスやシンギュラー・ワイヤレスなどの会社を通じて、ペイ・テレビの形で1億2千万の顧客にリーチしているのだ。
 これに対して、日本のワン・セグは単なる質の悪い縮小版のテレビ放送にすぎない。確かにブラジルでも日本方式が採用され、またヨーロッパや韓国でも独自方式のテレビ送信を携帯電話向けに始めていて、将来性があるという人もいる。
 しかし私はこれに非常に懐疑的だ。これはつまり、放送免許がただで手に入ること前提にしたビジネスモデルだからである。これまでのテレビと同じような単なる流しっぱなしの放送は、時間的な制約も受けるし、そもそも視聴者を完全には特定できないため、広告効率が悪いものだからである。
 アメリカのテレビ視聴のビジネスモデルでは、Tivoなどのようにハードディスクに番組をダウンロードしておいて、CMは視聴者にあわせてテーラーメード的に挿入している。そのほうがはるかに適切な広告が送れるからである。
 またヤフーでは、ホームページの閲覧履歴と年齢・性別、居住地、現在位置を考えて広告をしている。化粧品などの分野では、通常の広告の4倍以上の人びとがこうした相手を特定した広告をクリックして、さらに情報を得ようとするのである。現在のテレビ放送のような純然たる一方向の情報転送では、そういった情報を生かすことはできない。そのため、必然的に電波の利用価値が下がり、電波のオークションには勝てなくなり、既存のテレビは長期的には消滅するだろう。

デジタル・テレビをだれが見たいのか?
 私の感じるところで、テレビ放送業界が常軌を逸していると感じるのは、精細化したデジタル・ハイビジョン、あるいはもっと世界共通の言葉を使うなら、ハイ・デフィニション・テレビ(HDTV)についてである。日本では、2011年には、現在のアナログ放送が停波されて、全面的にデジタル放送に移行することになっている。
 私は、これに対してひじょうに懐疑的だ。NHKを筆頭にHDTVを宣伝するのは、映像に対して強い思い入れのある、企業や人びとである。HDTVの受信機材は全体として、より高額であり、芸術作品の放送にはたしかに向いているかもしれない。
 南極やヒマラヤなど、雄大な大自然の風景の移り変わりを克明に伝えるには、HDTVはすばらしいものである。またユネスコの世界遺産に代表されるような、人類の共通遺産とも言うべき建築物や自然もまた詳細で克明な描写が大きな価値を持つだろう。連綿と続けられてきた、王宮の建築や彫刻、絵画や音楽などの演奏についても同様である。
 しかし、これらはむしろマイナーなコンテンツだ。芸能人を集めて騒ぐだけのバラエティがゴールデンタイムを占める民放各局では、HDTVから得られるものなどほとんどない。総務省の役人が放送免許を人質にしているため、すべての民放局は従わざるを得ないのである。
 たしかにHDTV化の流れは世界的となってはいるようだが、むしろ考えてみると、小さくて荒い画像でもいいから、違ったものをたくさん放送したほうが、むしろ視聴者全体の満足は高いのではないだろうか。通産省、総務省の産業政策がなければ、むしろ現在のワン・セグのような、小さくて荒い画像が、多チャンネル化されて視聴者の携帯デバイス、あるいは小さなテレビに送られるということも十分にありえるだろう。
 この問題は、次の携帯と通信の融合の問題、そして、両方につかえる電波枠の競売以外には最適な解決の方法がない。一体だれが、どの程度1920x1080という高精細の画像が見たいのか。あるいは、320x240の画像サイズでの30チャンネルの放送のほうが、より強く望まれているのか。
 実際、多くの人は高精細画像など求めていない。高精細画像などよりも多くの人が望むのは、番組をいつでも見られるようにすることや、数多くのチャンネルがアクセスできることである。動画の場合は、静止画と違い、小さな解像度でも、視覚が画像の荒さを補って認知するために、それほど解像度は大きな訴求力を持たないことも多いのだ。
 どの程度の割合の放送コンテンツがHDで、反対にワン・セグで満足する人びとがどれだけいるのかを判断するのは、それをみる視聴者の支払い意欲と、見せる番組を作るコンテンツメーカーの製作コストからなる市場である。これまでのやり方のような、総務省の官僚や、NHKの放送技術研究所の技術者などが勝手に決めるべき問題ではない。

EUの電波競売
 イギリスでは2000年に、その他のヨーロッパ諸国でも2001年には、第三世代携帯電話の電波使用権が競売にかけられている。例えば、イギリスでは22億ポンド、約4兆円が対価として国庫に支払われているのである。
 人口や経済規模からすれば、日本の場合は10兆円にはなるだろう。これはしかし、第三世代という利用法に限ったものであり、年限もはっきりしないため、年間あたりにすれば、おそらく1兆円程度なのではないだろうか。とはいえ、日本の携帯電話事業の規模は全体で10兆円程度ある。その3割としても3兆円は電波の使用権の価値だろう。
 前述したテレビの電波利権が2兆円、携帯電波の利権が3兆円であれば、それらを競売すれば、少なくとも年間5兆円にはなる。
 かつて、2,5ギガヘルツ帯の電波を分配する際には、ソフトバンク、イーアクセスと並んで、IPモバイルが電波使用を許可された。ソフトバンクはその後、ボーダフォンを買収し、イーアクセスはサービスを開始している。それに比べて、IPモバイルのサービスは宙に浮いたままになっている。
 もともと、イーアクセスが投資総額として3600億円を捻出したのに対し、IPモバイルは53億円で事業を始めようとしたのだ。これにはやはり無理があったのではないだろうか。無理であったのか、それとも可能であったのかは、専門家でもなく、企業家でもない私には断言できないのは事実である。
 しかし、いったん事業をあきらめようとしたIPモバイルが、現在は森トラストからの金融支援を受けているということは、もともとの計画が難しいものであったことをうかがわせるに十分である。この場合、電波枠が競売にかけられていれば、IPモバイルのような口先だけの事情計画しかもたないような会社は入札しないはずなのだ。
 また、現在の日本ではテレビのUHFの放送帯域はガラガラであり、ほとんどまったく利用されていない。しかし、この帯域はそのまま携帯電話にも転用できるのである。総務省はテレビをデジタル化して、空いた地上波帯域の3分の1にもあたる、130メガヘルツ分を携帯電話にまわそうとしている。
 現在、新世代の高速通信であるWiMAXや次世代PHSなど多くの企画が存在している。どれがどういった場面で有効な技術なのかは、だれにもはっきりしない。こういった場合には、どの技術を持つ会社にどれだけの成功が見込まれるのか、電波をどれだけ有効に使うことができるのかは、競売によって企業に対してはっきりと自己申告的に公表させるほかはないのである。
 しかし、当然にここでも、自己利益を図る官僚集団である総務省が、電波権益を手放すはずがない。新たな帯域の分配はまったく恣意的に、いくつかの携帯電話会社に無料でバラ撒かれることになるだろう。
 明らかにバカげているのは、総務省は電波の割り当てに際して、念仏のように「競争的な環境を整えるために」というお題目を唱え続けていることである。真の競争は、新興企業の自由な参入でしか起こりえません。つまり、役人が競争的な市場を作るために参入業者を恣意的に決めても、役人へのアピールとコネ作りのインセンティブを持つ企業が市場に残るだけで、いったん許可されてしまえば、競争などするインセンティブは制度の中には全くないのである。
 おそらく、現在のテレビ放送に比べて、より効率的な広告なり、通信料金なりの設定ができれば、日本の電波帯域の全価値が年間10兆円ほどにまで高まるのは間違いないことを考えると、これは大変に残念なことだ。
 これだけの財源があれば、現在おこなっている最低限度の生活扶助などは、他の税源なしでも十分に可能になる。電波が公共的なものなのは事実としてほとんど自明なことだ。その使用については、国家が私人にたいして特許として与える必要などまったくない。
 我われはこのあたりで「公共性」という概念について考え直して、テレビ局員やドコモの社員への優遇制度を改めるべきだろう。すでに1960年にロナルド・コースが発案しているように、社会的共有物である電波帯域を競売にかけるべきである。その資金は固定資産税そのものであり、弱者保護なりなんなりの目的に利用できるのだ。



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社会契約説を再考する

採録

6、社会契約説を再考する

 

植物のような人類

 現在の日本では、遺伝子操作は農作物のレベルでも薄気味悪いものとされているようです。あらゆる食物に「遺伝子組み換え」かどうかが表示されているのです。しかし、私には、このような状態が長く続くとは思えません。

 遺伝子の組み換えによって新たな種がつくりだされるというのは、今ではひじょうにありふれた技術です。技術は存在するが、なにか薄気味悪く感じる。このような状態への危機感から、日本にはカルタヘナ法という遺伝子組み換え生物に関する法律があります。

 2004年2月から施行されたこの法律は、そもそもは多国間条約に基づくもので、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」というのが正式名称です。この条約がカルタヘナ議定書と呼ばれ、それに基づいた条約であるため、カルタヘナ法と呼ばれているのです。

 カルタヘナ法によれば、遺伝子組み換え生物を輸出入したり、栽培・飼育、そして販売する場合には、その開発者や輸入者は管轄する主務大臣の承認を受ける義務があります。しかし実際には遺伝子組み換え技術は諸外国でも広く普及している上、核技術とは違ってひじょうに小さな施設でも可能です。また、そもそも遺伝子を組み換えたという自己申告をするなどという、利益はないのに不利益のみを一方的に課すような法律は、とても実効的であるとは思われません。

 実際、2006年1月には、台湾から光るメダカが日本に輸入販売されていることが判明して、回収命令が出されるといった社会問題が起こっています。これは自発光、あるいは紫外線を受けて光るタンパク質を、遺伝子の組み換えによって多様な生物に組み込む技術です。

 発光するメダカに入れたものは、もともと深海性のクラゲや夜光虫の遺伝子で、こういった光るタンパク質をつくる遺伝子は自然界にはありふれたものです。ホタルが光るのも、同様に特殊な発光タンパク質を持っているからです。いまでは組み換え技術によって、あらゆる昆虫は当然のこととして、マウスやブタなどの哺乳類でも実用化され、通常はもっと重要な遺伝子組み換えの簡単なマーカーとして機能しているのが現状です。

 ところで前述したように、私はベジタリアニズムに対して大きな共感を持っています。哲学者ピーター・シンガーは、すでに1975年に名著『動物の解放』を著しました。そこで彼は、「確かに動物には人権に比肩されるべき多様な権利は認める必要こそないが、しかし道徳的存在としての人間には、苦痛を感じるような生命に対して苦痛を与えてはならない」という倫理的義務が課されるべきだと主張したのです。

 私の感覚にひきなおしていわせてもらうなら、実際のところ、多くの人たちが愛玩しているイヌ以上に知性的でひとなつこい動物であるブタが、毎日大量に屠殺されて食べられているのが不思議なのです。犬を食べれば常識を逸脱しているのに、ブタは我々の日常的食材となっているのです。本当に残念なことだと思います。

 また私は以前から、葉緑素を自分の皮膚にもつような人類がいれば、より人道的なのではないかと思っていました。ベジタリアンはその価値観にしたがって、その子孫に対して、植物と同じように太陽光と水を光合成して糖やタンパクをつくるための葉緑素を細胞質に埋め込むのです。成長した子孫たちは、緑色の皮膚を持ち、晴れた日には基本的には水を飲んで日光を浴びれば、ある程度は空腹が癒されるはずです。つまり植物を食べるよりも、さらに直接的に他の生物を食べなくてもよいという、まさにベジタリアンな哲学の実践者となることが可能なのです。

 グロテスクに聞こえたでしょうか?それとも究極的ロハス、あるいはスローライフを感じたでしょうか。しかし、そもそも多様な価値観の共存するのが、現代社会の実態なのです。

 われわれの祖先は10億年以上ものはるか昔に、自ら太陽光を利用してエネルギーを作り出す植物と、それを動き回りながら捕食することによってエネルギーを得る動物とに分化しました。自分が思うような価値観を実現できるのであれば、私は自分で光合成をして必要なタンパクや糖をつくれるような体がほしいと思います。それは確かに、多くの人びとにとっては「不自然」なことに違いないでしょうが。

 

人工授精と遺伝子操作

  かつて1970年代に、不妊治療の切り札として「試験管ベビー」と呼ばれてセンセーションを巻き起こした不妊治療法がうまれました。これは、精子の活性が低い男性などの遺伝物質である精子の核を、女性の体外で、女性から取り出した卵子に注入することによって受精卵をつくる技術です。それを女性の子宮に着床させて生まれるために、試験管ベビーと呼ばれたのです。

 当初、驚嘆をもって迎えられたこの技術は、2000年までには世界中でごくありふれた不妊治療になり、現在までに世界で10万人以上の試験管ベビーが生まれています。いうまでもなく、彼らがとくにそのほかの子どもとは異なっているという話はまったく報告されていません。

 遺伝子操作は今後急速にすすみ、近いうちに相互に生殖不可能な、複数の人類が生まれるでしょう。プリンストン大学のリー・M.シルヴァーもベストセラー『複製される人』のなかで、近いうちに遺伝子操作の技術がすすみ、それぞれに交配不可能な多様な人類が生まれるだろうことを予言しています。

 生殖技術は巨大な施設を必要とする核技術などとは異なり、はるかに小規模な研究施設と小さな機器によって可能です。主要な国家のリーダーが、遺伝子操作を禁じたり、反倫理的だと非難したとしても、それはタックス・ヘイブンとなっているような小さな諸国にとっては、新たな直接投資を受け取る機会をえるという僥倖以外の何ものにもならないでしょう。

 そもそも不妊治療などの生殖技術は、人間一人一人が自らの幸せを願う心によって支えられているのです。私たちの誰しもが、健康であり、自分の価値観を実現してくれる子どもを望んでいます。それがスポーツの能力を高める遺伝子であれ、知能を高める遺伝子であれ、人びとはそれらを受け入れていくはずです。

 ハーヴァード大学の学費である1000万円を出せる世界中の弁護士や医師たちが、現に存在するのです。なぜ、彼らが、自らの子どもの将来の社会的成功の可能性をわずかでも高める遺伝子操作に、それ以上のお金をださないと考えるのでしょうか。実際に幼稚園児の親である私がみるところでは、お受験に狂奔する親たちが、そのような技術を拒否するとはとても思えないのです。

 事実を見てみましょう。人工授精の時には大騒ぎした人びとですが、今となっては、人工授精は何の倫理的な問題だとも考えられていません。同じように、人類最初の遺伝子操作は驚愕をもって迎えられるでしょうが、結局、私たちはそのような技術になれてしまうでしょう。

 そのような時にこそ、国家は社会契約説を再考しなければならないのです。それぞれの親の価値観である性質を遺伝子レベルでもった人びととは、現在のイヌ以上に多様にことなった人類であるはずです。そのような個体によって構成される社会では、おそらく民族主義的な色彩はひじょうに弱まっているのではないでしょうか。

 社会と呼ばれるものは、つまるところ人間個人とそのつながりでしかありません。外形や心性において大きく異なった人類が共存するには、ホッブズやロックのいう社会契約に立ち戻る必要があります。多様な人類が平和のうちに共存するためには、納税の対価として警備保障などの公共サービスをおこなうという、一種の社会契約こそが社会秩序を維持するシステムになっているはずです。

 あるいは私の考える無政府社会が実現すれば、もっと純然たる法人組織と個人との契約がなされているかもしれません。そこでは、個人は警備保障会社に対価を支払って、犯罪行為からの身体や財産の安全と、それらへの侵害に対しての事後的な物理的・法的対抗措置を委任することになるでしょう。

 ここ23年の間に、ついに宇宙旅行が商品として売られる時代が来ました。私たちは宇宙クルーズ中に起こりえる多国籍の個人間の錯綜した法律関係について、とくに心配することなどはありません。ことなった国籍の人たちは、現存の国際協定や国際的に確立した習慣によって、事前的・事後的な問題を処理することを疑っていないからです。だとしたら、異なった警備保障会社の契約下にある個人が同居するような、未来の宇宙ステーションを想像することは難しいことではないはずです。

 

ここからそこへ行く道はあるのか?

 リバタリアンな政府とは、広義にいうならば、福祉政策を含まない夜警国家を指すといえます。そこに至る道は、年金や医療などの社会保障制度の一元化から始まり、ついで徐々にそれらを民営の組織にゆだねることになるでしょう。ここで、国家は警察と、国防・外交を担う存在に立ち返るのです。これは確かに実現可能だと思います。

 しかし、夜警国家から無政府に至る道は、断崖絶壁のように閉ざされています。なぜなら、最小限度のものであれ、そもそも権力を手放す政治家も官僚もいないだろうからです。

 しかし、私には楽観的な未来予想があります。

 それはまず、現在の国家主権を維持したままで、自由貿易協定に移住の自由を加えた、ちょうど現在のEUのような協定が、世界的にひろまってゆくことによって先鞭がつけられます。これはNAFTAやASEANでも、同じような枠組みに発展する可能性が高いものでしょう。

 個人は領域内にある各都市で共存しながらも、異なった国家に所属し続けます。あるいは、自国の国民保護や社会保障制度に不満があるのであれば、国籍を変えることもできるでしょう。これを現実的に考察するなら、国籍という社会契約を、ちょうど自動車保険を選ぶように個人が主体的に選んでいるといえるのではないでしょうか。このような状態が十分に長く続けば、人びとは実質的に社会契約を主体的におこなっているといえるようになると思うのです。

 このような多国籍の人間が集まる企業や都市、あるいは社会全体は、そうでない均質な企業や社会よりも快適で豊かなものである必要があります。そうでなくては、そのような社会に魅力を感じる人は減っていき、人口は減ってゆくことになるからです。とすれば、均質な人間による主権国家が地表を分割的に支配する、現在の状態が永遠に続くことになるだろうからです。

 この状態では、いまだに領域国家が社会契約、あるいは「国籍」の付与主体であることに変わりはありません。しかし、さらに時代がすすみ、人びとが十分に混ざり合って活動するような時代になったとしましょう。共同領域同盟の各国は、領域の国境を加盟国で共有し、その領域内の人びとは自由に「各国」と保護契約を結ぶことができるようになることは、十分に考えられるように思います。

 これこそが、私の考える、国家の発展・解消した先にある無政府社会です。その移行期間のいつ何時においても、社会秩序は維持され続けます。人びとは社会との安定した関係を持ちながらも、次第に絶対的・強制的な権力を排除してゆくことができるのです。

 もちろん、これは私なりの夢想です。しかし、民主主義や人権思想、その他の私たちが誇るべき社会の進歩は、すべて初期の夢想が多くの人びとに共有され、そういった夢を信じた人たちの力によって実現されてきたのです。私は、絶対的・腐敗的な権力の存在しない、そんな無政府社会は決して夢想では終わらないと信じていますし、皆さんにも信じてほしいと願うのです。

 

 

 

参考文献

 

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アイン・ランド 『肩をすくめるアトラス』 脇坂あゆみ 訳 ビジネス社 2004

 

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佐藤 優 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 新潮社 1995年 

 

ジェフリー・ミラー 『恋人選びの心』上・下 長谷川真理子訳 岩波書店 2002年

 

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橘 玲 『お金持ちになるための黄金の羽根の拾い方 知的人生設計入門』 幻冬社 2002

 

デイヴィッド・フリードマン 『自由のためのメカニズム アナルコ・キャピタリズムへの道案内』 森村進 関良徳 高津融男 高橋祐子 訳 勁草書房 2004

 

ピーター・シンガー 『動物の解放』 戸田清 訳 技術と人間 2002

 

フランス・ド・ヴァール 『政治をするサル - チンパンジーの権力と性』 西田利貞 訳 どうぶつ社 1984

 

マット・リドレー 『徳の起源』 古川奈々子 訳 翔泳社 2000

 

マーティン・デイリー マーゴ・ウィルソン 『人が人を殺すとき―進化でその謎をとく』 長谷川真理子 長谷川寿一 訳 新思索社 1999

 

マリー・ロスバード 『自由の倫理学 リバタリアニズムの理論体系』 森村進 森村たまき 鳥澤円 訳 勁草書房 2004

 

三浦展 『下流社会』 光文社 2005

 

ミルトン・フリードマン 『資本主義と自由』 木鐸社 1975年

 

ミルトン・フリードマン ローズ・フリードマン 『選択の自由』 西山千明 訳 日本経済新聞社 2002

 

野口悠紀夫 『超納税法』 新潮社 2004

 

ライオネル・タイガー ロビン・フォックス 『帝王的動物』 河野徹 訳 思索社 1989

 

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ロバート・ノージック 『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』 島津格 訳 木鐸社 1996年 

 

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Coase, Ronald, “The problem of Social Cost”, Journal of Law and Economics, 3 pp.1-44, 1960

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出現する脱国家主義

採録

6、出現する脱国家主義

 

国際社会という言葉と主権国家

 日ごろ、ニュースなどで、「国際社会」 という言葉をよく聞きますが、この言葉からは、どんなイメージが想像されるでしょうか。いわく「日本は国際社会の中でもっと重要な立場を占めるべきだ」とか、あるいは「イランの核開発は、国際社会の反発を招いている」とか、そういった表現が思い浮かびます。

 つまり、この国際社会という言葉は、そもそも国際的という表現自体が国、あるいは主権国家を前提とした言葉なのです。だから国際社会の構成員は、当然に現在世界に100以上存在する主権国家だということになります。

 地球上にはすでに67億人もの人びとが日々の生活を営んでいます。そして、確かにわれわれ一人一人にとって、地球に生きる市民としてのもっとも重要なの接点の一つは、国家を通じたものであるのは間違いありません。

 たとえば、BSE問題によってアメリカ産の牛肉は、ほとんど全面的に日本に輸入できなくなりましたが、これは日本とアメリカという国家間での取り決めによるものです。個人や法人としての輸入業者や輸出業者は、それぞれの所属する主権国家によって違法とされることはできないのです。

 中国では、アメリカの企業であるグーグルやヤフーでさえも、当局からの検閲を受けています。また日本人である私がアメリカやドイツを旅行しようとするとき、日本国民としての証明であるパスポートがなくては入国すら許されません。

 この意味で、主権国家によって南極を除くほぼすべての地球地表の分割がおこなわれており、それに伴って、主にその地に居住する個人は、基本的にある主権国家の一員となります。これは20世紀に完成した枠組みである、主権国家によって構成される国際社会という考え方です。

 20世紀には、主権国家がもっとも重要であり、主権国家間の話し合いで世界のものごとが決められていったのです。二度の世界大戦を契機に発足した、国際連盟や国際連合、また地域協定としてのEUやASEANNAFTAなどは国家をその構成員としたものです。また二国間の自由貿易協定なども、当然に国家がその取り決めの主体であることもいうまでもありません。

 しかし、このような20世紀的な国家を中心とする枠組みは、国家を超えた力を持ちつつある国際的な企業や、非営利組織、さらに個人にいたるまで、多くの活動主体、あらゆる段階からの挑戦を受けています。

 いうならば、主権国家による人類の分断と、主権国家を通じての人びとの交渉という枠組みは、インターネットのブロードバンド化や、移動時間や費用を劇的に低下させたジャンボジェット機の出現によって崩壊しつつあるといってもいいでしょう。

 

個人の力の増大が生んだヘッジ・ファンド

 1997年、タイの通貨バーツの暴落に始まったアジアの金融危機は、たちまちマレーシア、韓国などに飛び火し、最後にはアルゼンチンからロシアにいたるまでの世界的な規模での経済危機へと発展しました。

 このために各国の経済は大混乱し、たとえばタイ・バーツやマレーシア・リンギットなどの通貨価値は半減しました。各国の証券市場も暴落し、タイでは証券市場の総額が10分の一程度にまで下落したのです。当然ながら、このような大混乱は実体経済にもおよび、マレーシアの経済は翌年7パーセント近いマイナス成長となったほどです。

 この金融危機を仕掛けたとされるのが、著名な投資家であるジョージ・ソロスの率いるクァンタムファンドをはじめとする、英米系のヘッジファンドです。実際にはもちろんソロス一人が始めたわけではないのでしょうが、何兆円という資産を運用するファンドマネージャーたちの判断がアジアの経済危機の引き金となったらしいことには十分な証拠があります。

 とはいえ、いったい、この経済危機の背景にはどのような事態があったのでしょうか。

 そもそも1990年代の前半、ASEAN地域をはじめとするアジア地域は、全般的な高度経済成長の段階にありました。当時、バブルの処理にてこずっていた日本がカヤの外にあったのはやむをえないとして、タイやマレーシア、インドネシア、韓国などは10パーセント近い好景気に沸いていたのです。

 このような経済成長を支えていたのは、主に輸出産業でした。1987年のプラザ合意以来、円高、や台湾ドル高が進み、その結果多くの日本企業、台湾企業が東南アジア諸国を生産基地として活用するために直接投資をおこなったのです。その結果、東南アジア諸国での軽工業輸出品はひじょうに国際競争力を高め、大量生産されて世界に輸出されるようになったのです。

 しかし、こういった直接投資が安価な労働力を利用するためには、国内賃金が低いことだけではなく、その国の通貨が安定している必要があります。そのために各国はアメリカドルと自国の通貨をリンクさせたのです。

 しかしこのような制度ではアメリカが強いドル政策をとると、自国の通貨まで自動的に交換レートが上がってしまいます。90年代の後半はドルの価値が上がったために、タイやインドネシアの通貨は過大に評価されることになってしまったのです。

 このような行き過ぎた通貨の高値は国の経済力に見合ったものでない以上、長続きすることはできません。早晩なんらかの調整局面が訪れることは、多くの外国為替市場のプレイヤーには明らかでした。そのきっかけをつくったのが、ジョージ・ソロスという投機家だったといえるでしょう。

 実際、ソロスはタイやマレーシアという国家に挑戦した個人だといってもいいでしょう。結果として東南アジアの経済は大混乱に陥ったという意味で、彼に対する倫理的な非難は後を絶ちません。しかし、私が考えるところでは、いうならば国家主義こそが問題を引き起こした本質だったのだと思います。つまり、ある特定の国家が自国の為替レートを思うがままに決めるという、他国民や自国民の利益について真剣に考えようとしない独断的な姿勢が、国際市場で否定されたと考えるべきなのです。

 ともあれ、国家が決めたことを個人が覆すことができないということはなくなりました。英米を中心とする金融自由主義を背景にしているとはいえ、国家と対等にわたりあう個人の出現は新しいものです。それは、ヨーロッパ中世のメディチ家やフッガー家、アジアの植民地経営にあたった東インド会社以来、近代の国家絶対主義時代にはなかった現代的な現象だといえるのです。

 

為替レートの固定の何が問題なのか?

 ところで、為替レートを国家が決めるのはあたり前のことだ、何が悪いのだ、とおっしゃる方もいるでしょう。そこで、ここで為替レートの固定がもつ意味について、もう少し詳しく検討してみましょう。

 1971年のニクソン・ショックから世界的に固定相場制度が崩れ始め、73年に変動相場制が主要先進国間で採用される以前は、日本では日銀が1ドル360円の公定価格で外貨交換をおこなっていました。実際の円の実力が高いにもかかわらず、輸出産業の競争力を高めたい場合、日本政府は円の価格、つまり対ドルレートを低く維持することになります。

 このような場合には、日本の輸出産業は低価格で製品を作ることができるのですから、円を買ってドルを売りたい人は増えるでしょう。ドルを売る人のほうが多いのですから、ドルは日銀で円と交換され、日銀にはドルが外貨準備高として大量に保有されることになります。

 この外貨準備高の増加というのは、その後日本円が弱くなるようなことでもあれば、再び減少することになるため、何の問題もありません。しかし、実際には、多くの通貨の価値は、趨勢的に大きく変化していきます。ドルの外貨準備高が増加するのなら、それは実は円が過小に評価されていることを意味します。

 このような状態では、円はいつか切り上げる必要が生じるはずです。永遠に円を過小評価し続けけることはできないからです。どこかの時点で、大きな投機的な円買いがおこり、円は安値を維持できなくなってしまうのです。

 とまあ、外国為替の固定相場制度が問題であることは、ざっとお分かりになると思います。

 ではいったい、固定相場制度をとると、誰が損得をするのでしょうか。

 ずばり端的にいって、損をするのは国の中央銀行であり、結局それは当該国家の国民負担になります。その反対に、得をするのはヘッジファンドなどの投機に成功した人びとであるということになります。

 これを2000年以降、大きな話題になっている中国元について考えてみましょう。中国元は長い間、輸出産業を育成するために為替レートが過小に設定されてきました。おかげで中国は輸出産業を中心に高度成長を続けているわけです。しかし、誰も損をしていないわけではありません。

 中国にも富裕な所得者層は存在しており、彼らの多くは日本や韓国、欧米の自動車やテレビなどを購入したいと思っているはずです。為替レートの人為的な過小評価は、中国で輸入製品を買う人びとの実質的な所得を減少させ、輸出産業で働く人や企業の株主に利益を移転しているのです。

 このような国家による作為が永続するとはかぎりません。中国は経済大国になりましたが、つねに投機家からの、中国元の切り上げ予想という圧力を受け続けているのです。そして、投機家はかならずしも個人にとって悪いことをしているわけではないのです。それは国家によってゆがめられた所得配分を、本来あるべき姿にすることから利益を引き出しているのです。

 最後に、日本のような変動相場制をとっている国でも、政治家や日銀総裁が、やれ「1ドル120円が望ましい」だの、いや「1ドル100円程度」だのという発言をすることがしばしばです。つまり変動相場制の中でも、ターゲット目標を定めるような、日銀をはじめとする世界の中央銀行団による管理主義的な為替操作がおこなわれているのが実態なのです。

 これもまた有害無益なので、即刻やめるべきです。

 円が上がりすぎて、日銀総裁が「1ドル120円が望ましい」といって円売り介入をするような状態であるなら、多くの投機家は円の価値がそれよりも大きいはずだと考えて円買いを続けるでしょう。損をするのは日銀で、得をするのは投機家です。いうまでもなく、反対の場合でも、日銀は損をして投機家が得をするのは同じです。

 日銀は日銀券、つまりお札を印刷することによって利益を得ることが合法化されている、いわば国家の出先機関です。日銀の損失はつまり、国民一人一人の損失なのです。日銀が損をすることがわかっているような無意味な為替介入をすれば、より多くの投機家が儲けることになり、投機家の数は増え、市場はますます乱高下をして、日銀に入るはずだった金を潜在的に負担することになる国民は損をするのです。

 まったく、完全にバカげています。

 経済学者でさえも、為替相場への介入が中央銀行を通じて当該国民の不利益となっていることについては、ほとんど等閑視しているのです。ソロスも指摘するように、世界の為替市場ではかならず負けてくれるバカなプレイヤーが大量に存在します。バカは各国の中央銀行であり、各国民の潜在利益を投機家にばら撒くという愚劣極まりない行為を続けているのです。

 

世界的な投資家や企業家というスターたち

 著名な投資家たちは、いまや世界の大衆のスターダムにのし上がったということができます。ジョージ・ソロスは若い時代にロンドン大学で学び、科学の「反証主義理論」で知られる著名な科学哲学者カール・ポパーから大きな影響を受けたといいます。

ポパーはすでに1945年にその著『開かれた社会とその敵』において、国家主導の社会主義は「閉じた社会」であることを喝破しました。社会主義にような中央集権的な閉じた社会における科学は、国家が何が正しいと考えるべきなのかまでも国民に押し付けます。その結果、正統とされた学説は、新しいアイデアからの挑戦をうけつけないという意味での閉鎖的・教条主義に陥って、必然的に進歩が停滞してしまうと主張したのです。

 たとえば、ソヴィエトで主流派であったルイセンコの進化論があります。ルイセンコは、小麦を冷凍保存することによって、寒冷地適応させることができるという、独自の奇妙な進化論を提唱しました。その後、政敵をつぎつぎと追い払い、ソヴィエトにおける生物学の主流となったのです。

 しかし、その学説は科学というよりも政治思想そのものであり、政治的な希望から生まれた異形の生物学だったのです。

 この点に関して、ポパーが、同じウィーン出身のハイエクの『隷従への道』と同じ戦争の時期に、同じような反社会主義的な主張をしているというのは驚くべき知的相似だと思います。彼らの思想は、その後30年以上も間、社会主義思想の蔓延と共に忘れ去られていたにもかかわらず、現代の古典として力強く復活しているのです。

 さて、ソロスはその著書『グローバル資本主義の危機』の中で、国家が主導する経済制度には必ず矛盾が生じ、そしてそこから利益を生み出すことができると気づいたのだと書いています。社会哲学のような形而上学から、錬金術のような投資活動の指針を得るというのは、私には大きな驚きです。もちろん、単に私の思考がそこまで及ばなかっただけなのでしょう。

 投資の世界のスターはソロスだけではありません。過去30年間にわたって年間14パーセント以上の利回りを実現してきたといわれるウォーレン・バフェットもまた、ヘッジファンドを運用する大スターだといえるでしょう。

 バフェットは投資理論の先駆者であるベンジャミン・グレアムに学び、コカ・コーラやディズニーなどの株式で成功した著名投資家で、フォーブズ誌による2003年の長者番付ではビル・ゲイツについで第2位でした。ちなみに30年間、年率14パーセントの運用が可能なら、その資産は100万倍にもなります。なるほど、バフェットを目指す投資本は、アメリカでも日本でもそれこそ山のようにあるわけです。

 変わったところでは、世界中を冒険旅行をしながら政治経済情勢を読み解き、それによって投資判断をして成功をしているジム・ロジャースがいます。彼は当初、ソロスとともにクァンタム・ファンドを起こして軌道に乗せた人物ですが、それに飽き足らず、冒険家もかねた商品投資活動に切りかえての人生を送っているというわけです。

 もちろん資本主義の社会では、企業家こそが大スターです。マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブスには、世界中に多くの信者がいるといっても過言ではないでしょう。

 しかし、これらの企業活動には、素人には容易に理解できないレベルの技術的・実態的な経済活動が伴っており、誰にでもできるというようなこととは思われません。

 それに比べると、これらの成長企業への投資活動は少ない資本でも可能ですし、そのリターンも企業家と同じように莫大なものです。こういう理由から、投資活動家もまた、大衆にとっては企業家と同じほどに受けているのではないかと思われるのです。つまり投資活動は伸びる企業を「つくる」必要はなく、どの企業が伸びるのかを「見抜く」だけでいいのです。取り立てて特技のない庶民にとっては、よりお手軽だと感じられるのではないでしょうか。

 ゲイツやバフェットのような世界的な資産家はフォーブスをはじめとする経済誌、経済界では大スターですが、国家によるパターナリズムを好むような知識人には受けが悪いように思われます。それは経済活動が本質的に利己主義的で、金儲けの拝金主義的であるのに対して、理想的な政治活動は社会的・利他主義的であるという考えによるものだと思います。それに加えて、資本家をスター扱いすることは、それ自体が拝金主義、投機主義を蔓延させるのではないかという危惧があるからでしょう。

 私はこういった考えはまったく間違っていると思います。

 実際、ソロスやバフェットは世界的な規模で、独自の信念に基づく数多くの慈善事業をおこなっています。世界中の政治家は、他人のポケットからお金を取って、その金を外交ルートを通して他国にばら撒くことには熱心ですが、自分の個人資産を他国の慈善事業に寄付したなどという話はトンと聞きません。これはいったい私の寡聞によるものなのでしょうか。

 かつて、経済に対する政治的な介入主義を正当化したケインズ経済学が全盛だったときにおいてさえも、経済学者ミルトン・フリードマンは声高に反対を唱えていました。すでに彼は、1962年の『資本主義と自由』において、政治的な権力と経済的な権力は多焦点的に並存するのが望ましいと主張していたのです。

 政治的な権力のみが存在する社会では、単純に考えても、それに反対する勢力が存在し得ない以上、個人の経済的・精神的な自由はより圧殺されやすくなります。かつてソヴィエトの書記長だったフルシチョフは1962年の有名な「ロバの尻尾」事件で、シュール・レアリズムやポップ・アートなどを描く前衛芸術家の絵画を見て、まるでロバの尻尾で描いた絵だ」と酷評しました。

 事実上の独裁者に否定されて以降、前衛絵画は公式的には認められなくなり、前衛芸術を探求する画家たちは、他の音楽などの活動に向かわざるをえなかったのです。

 現在の中国でも、インターネット上のサイトでさえも、かつての天安門事件を知ることも論じることも、その惨劇を閲覧することもできません。北朝鮮にいたっては、そもそも物質的なレベルでインターネットに一般市民がアクセスする基盤がありません。

 現在、インターネットの世界的な普及によって世界はより一体化しているにもかかわらず、世界中で民族主義はますます排外的になり、感情的に高まっているのが現実です。日本でも反中国、反韓国の掲示板が目に付きます。

 このような時代にこそ、日本のような成熟した社会では、孫正義のように韓国人から帰化した成功者や、中国人とのハーフの王貞治、中華の鉄人陳健一のような尊敬される中国系日本人がいるほうが自然で望ましいように思います。そのほうが仮に政治的に排外運動が起こったとしても、少しでも穏やかなものとなるのではないでしょうか。

 とはいえ、現実に起こっている日本人の「国家離れ」は、このような自由を求めた高尚な理念に基づくものではないようです。それはむしろ、以下に述べるように、過去の赤字財政のつけが回ってきて、社会保障制度が維持できなくなったということにあるのです。

 

年金制度の崩壊と金持ち本

 日本の出生率は2004年に1.29でしたが、この数字に代表されるような急速な少子高齢化をうけて、年金制度が崩壊することを恐れる人たちが急増しています。それも合理的に考えてみれば、なんら無理はありません。

 そもそも、世界各国でおこなわれている年金制度は、自分が払い込んだ保険料を何らかの形で運用して引退後に受け取るという、いわゆる貯蓄型ではありません。そうではなくて、現在の勤労世代から徴収された保険料は、その時点での高齢者世代に年金として再配分されるという、いわゆる賦課方式なのです。

 賦課方式といえばやや聞こえはいいかもしれませんが、つまりこの制度では年金制度を維持するためには、つねに次世代の勤労所得を当てにする必要があります。この意味では、本質的には、ネズミ講そのものなのです。

 次の世代が増えれば年金額を増やすことが可能ですが、少子化が急速にすすみ、次の世代が先細ってゆくような社会では、約束した給付額を維持することはできないのです。

 90年代からの指摘されていた懸念が一気に現実味を帯びてくると、この現実を直視した人たちは安穏とはしていられません。「自分年金」などと称して、国の年金制度に頼らなくても生きてゆけるように、老後に備えての貯蓄を考えるようになったのです。

 まず始まったのが、『金持ち父さん貧乏父さん』などに代表される、いわゆる金持ち本のベストセラー化です。『金持ち父さん』の主張はきわめて単純で、つまり所得から税金を持っていかれ、その残りから貯蓄をするようなサラリーマンはやめて、企業を起こして節税しろというものです。

 サラリーマンは所得税を源泉徴収されているので税務当局から逃げようがありませんが、個人企業は経費として多くの生活費を税引き前に使うことができるのです。同じことは野口悠紀夫の『超納税法』にも指南されており、よく知られた指摘だといえるでしょう。みずぼらしい個人商店の前に、多くの無意味に高額な外車、多くはメルセデス・ベンツやBMWが駐車されているのは、彼らがクルマの代金を税引き前の所得から支払えるからなのです。つまり、そういった高級外車の購入代金の半額は、国家が負担してくれているといえるでしょう。

 とはいえ、現実に個人が企業を起こすには大きなリスクがあります。安定志向の一般サラリーマンではとてもできないでしょう。超納税法で勧められている、サラリーマンのフリーエージェント化もまた現実的ではありません。とくにこれといった価値もない大方のサラリーマンにとっては、とてもじゃないが雇用形態について会社と交渉できるような立場にはないからです。

 ちょうど、こういった閉塞的な状況において、株式の手数料が自由化され、時間的にも場所的にも敷居の低いインターネット取引が可能になりました。こうなれば、こうした金持ち本を読んでいた人びとが、個人投資家となっていったのはごく自然な流れです。バブルの後遺症からの日本経済の回復ともあいまって、2002年以降、長らく続く株価の上昇が起こっているというわけです。

 なにしろ書店に行けば、「ネットトレードでラクラク一億円」「ネットで目指せ3億円」「主婦の小遣い月額10万円」と題されたような、お手軽な株取引のムックが大量に平積みされているのですから。

 つまり、個人投資ブームはインターネットの普及によるものでもあります。しかし同時に、日本の年金制度の破綻がなければ、これほど急速な社会現象とまではならなかったこともまた間違いないのです。日本人が国家というものに距離を感じ始めたとするなら、それは福祉制度の崩壊に起因しているといえるのではないでしょうか。

 

タックス・ヘイヴンの繁栄

 ところで、前述したような国家に挑戦できるほどのヘッジファンドは、その多くがケイマン諸島やヴァージンアイランドなどのカリブ海沿岸に本拠を構えています。これはこれらの島々では資産運用の結果として得られるキャピタル・ゲインに対して税金がかからないか、あるいはその税率がきわめて低いためです。

 一般に、こういった地域をタックス・ヘイブン(租税回避地)と呼びます。

 タックス・ヘイブンはヨーロッパでは、ルクセンブルクやモナコが有名ですが、税率が低いという意味ではスイスもある程度あてはまるといえます。だから資産からの利子所得だけで生きていけるような富裕なヨーロッパ人の多くは、これらの国々に住むことになります。

 アメリカ人にとってのタックス・ヘイブンとしては、カリブ海のケイマン諸島が有名です。カリブ海沿岸の島嶼地域では、とくにこれといった産業もありません。アメリカの金融機関が低い税率にひかれて本拠を置いてくれれば、自国民にもある程度、建築業や多様なサービス産業の発展による恩恵を受けることができるというわけです。

 アジアのタックス・ヘイブンといえば、ながらくイギリスによって統治されていた香港です。香港ではキャピタル・ゲインに対する課税がありません。そのため多くのアジア人富裕層が、資産の運用先として香港の香港・上海銀行やシティバンクなどに口座を持っています。おそらく、これから日本の財政危機が現実味を帯びるにしたがって、日本人の富裕層にもインフレ課税の回避、さらには老後の海外移住のために香港に資産を移す人が急増するのではないでしょうか。

 とはいえ、香港は1997年に、イギリスから中国に返還されました。中国とイギリスの間では、返還に際して、2047年までの50年間は資本主義体制が維持されるという取り決めがなされました。とはいえ、その後のことはわかりません。

 多くの人びとは、現在のままの自由な経済体制が維持される可能性は薄いと考えています。おそらくは共産主義独裁の中国政府は、中国国内と同じ制度を香港に適用するのではないでしょうか。その時、資産家にとって香港は安全でも自由でもなくなってしまいます。

 私が思うところでは、近いうちにアジアの島嶼地域のどこかの国が、香港の中国化以降を見越して、新たなタックス・ヘイブンとなるのではないでしょうか。それはミクロネシアやポリネシアに無数に存在する島嶼国家の一つだと思います。どのみち、大きな観光資源もない島嶼国家では、大きな産業的発展は望めないからです。

 今後、東アジア地域では急速に資本主義が発達するでしょう。当然、資産を国家の直接の監督下にはおきたくないという資産家も激増するはずです。とくに中国人や東南アジアの華僑はもともと国家というものをあまり信用していません。いつでも持ち逃げができるように金を買っておくのが普通であることはよく知られています。

 太平洋の島国が、アジアの金持ちのためにタックス・ヘイブンとなることを選べば、香港が中国政府の完全な支配下に入るまでには、それなりの金融産業が発展するのではないでしょうか。ちょうど欧米人にとってのカリブ海の諸国やモナコ公国と同じように、主権国家が乱立する現在の国際社会の枠組みでは、そのような国の存在は不可避なように思われます。

 

税を払わない永遠の旅行者

 問題は資産が国家を越えて、より安全な場所に流れていくだけではありません。

 今後、国際的な業務が増えるにしたがって、より多くの知的労働者が国をまたいで経済活動をおこなうことになります。日本の税法では居住者に対してのみ所得税がかかります。そして、少なくとも一年以上日本を離れて、日本に居所を持たなくなれば、国税上の非居住者とみなされることになります。その後は半年まで日本に滞在しても、非居住者の地位を維持することが認められています。

 このような制度では、ある程度名声を確立したプライベート・バンカーや小説家、ミュージシャンなどは、主たる住所を香港などの国に移し、シンガポールや日本の間を行き来していれば、どの国に対しても所得税を払わないということが可能になります。

 どの国でも年収が高いほど、所得税には高い税率を課す傾向があります。ファンドの運用によって何億も稼ぐような有能な個人にとっては、このような高額の所得税を払わないための移動に、異なった3カ国に居所を持つというのは何の負担でもないでしょう。

 このような、所得税を払わずに各国を行き来して生活をしている人たちは、PT(Perpetual Travelers)と呼ばれます。

 PTの概念を打ち出したのは、W.G.ヒル博士です。彼は1989 年の著書『P.T.』において自由なライフスタイルを実現するためには、居住、労働、余暇、投資などに5つの国家を利用することを提唱しました。この考え方は富裕層を中心に世界に広がり、いまでは日本でも『PT』という漫画まで出ているほどです。

 また、日本でも始まった海外投資ブームを受けて、『ゴミ投資家のための海外投資』シリーズにも根強い支持があります。これは、海外の投資事情に詳しい作家である橘玲などによって編集されているものです。

 橘はベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』の著者です。彼は、雇用保険制度に基づく失業手当を機会主義的に利用する、定年退職者やコトブキ退社の専業主婦、フリーターなどの現状を説明した後に、問いかけるのです。

 「雇用保険に象徴されているように、崩壊へと向かう日本的システムは、黄金の羽根を撒き散らしながら堕ちていく天使に似ています。「弱者保護」を名目にして日本国がばら撒く黄金の羽根に、多くの人が群がっています。しかしその一方には、必死になって羽根を紡いでいる人もいるのです。

 ことの善悪を問うているのではありません。それは評論家の仕事であり、個人の人生には何の関係もないことです。

 日本国の制度は大きく歪み、傾いています。その歪みから恩恵を受ける人が生まれ、他方では収奪される人がいます。今後この格差はますます広がっていき、やがては修復不可能なものになるでしょう。

 その時、あなたはどちら側に立っているのでしょうか?」

 

 ここには国家という存在に対する徹底的に冷笑的な見方があります。それはつまり、ゆがみのない完全な制度など存在しないのであるから、その歪みを個人として利用しない手はないとでも要約されえる態度でしょうか。

 さて、国家を第一の主体と考えるような常識的な方の多くは、ここで紹介したPTなどは単なる脱税者にすぎないのではないかといぶかしむことだと思います。しかし、彼らには彼らなりの世界観、あるいは哲学があり、実際、それはリバタリアニズムと近接したものです。

 そもそも彼らは、主権は国家にあるのではなく、一人一人の個人にあると考えます。とすれば、国家が個人の財産を税金として奪う正当な権利など、もともと存在しないということになります。

 考えてみてください。たとえば、北朝鮮という主権国家が日本という主権国家に対して、日本はGDPが大きいからといって税金をかけることが実際にできるでしょうか。あるいは、そのようなことが暴力的・軍事的に可能であったとしても、帝国主義の時代ならいざ知らず、現代の国際社会において道徳的に是認できるものでしょうか。

 主権が国家ではなくて個人にあるとするなら、個人がその収入や資産から税金を徴収されるのはまったくおかしな話だということになります。だから主権が個人にあるというのは、昔からあるコスモポリタニズムを、究極的なまでに個人主義的、超国家的にした社会哲学だといえるのです。

 とはいえ、私自身はこのような考え方に対しては、ある程度の留保が必要なのではないかと考えています。

 なぜなら、PTは各国で生活をして経済活動をおこなっているのが普通ですが、そのような生活や経済活動の安全性、実効性を担保するような警察制度や法制度、裁判制度を利用はするものの、その維持費用としての税金は支払っていないからです。

 もちろん、先進諸国ではかなり高率の付加価値税(日本でいう消費税)を課していますから、ある程度は税金を治安維持費用として支払っているとはいえるでしょう。しかし、ほとんどの先進国でも所得税が主な税金であるという現実に照らせば、消費税などの付加価値税だけでは、PTの生活を快適なものにしている社会基盤の整備のための費用としては、十分ではないことに疑いはありません。

 しかし、この点を差し引いても、主権は国家という集団にあるのではなく、個人が絶対的な権利として主権をもっているのだという考えには、大きな説得力があると思います。自由を倫理的な至上の価値だとした代表的なリバタリアンに、マレー・ロスバードがいます。彼は純粋に道徳的な見地から、国家とは個人の財産を暴力的に強奪する強盗団でしかないと評価しています。そして『自由の倫理学』では、これを突き詰めて、国家を即時消滅させるために、すべての税は即座に支払いを停止することこそが、倫理的に正しい生き方なのだと主張しているのです。

 

財政破綻で日本脱出

 とはいえ、日本ではPTは、いまだにほとんど知られていない考えだと思います。

 一つの理由は、ほとんどの日本人が外国語を話せないという単純な事実にあります。日本人として生まれて普通教育を受けた人のほとんどは、実用的レベルの英語を使いこなすことができません。もちろん日常の会話もそうですし、さらには銀行その他の政府関係の手続きの公式書類に使われる用語などは、文学重視の大学受験の内容に入っていないからです。

 これに対して、英米系の人びとには、生まれたときから、他国に移住するというオプションがつねに意識の中にあります。アメリカに生まれたとしても、英語が公用語である国には隣国カナダやオーストラリア、イギリス、ニュージーランドからフィジー、インドからシンガポールまで全地球上に数多く存在します。これらの国への移住はきわめて容易です。また英語が通じるという程度であれば、ほとんど全世界の国に住むことができるでしょう。つい最近も、ブッシュ大統領のイラク侵攻を批判して、アメリカ人の反戦運動家たちのカナダへの移住運動が起こったほどです。

 二つ目の理由もほとんど同じようなことですが、日本人の多くは友人も親戚もすべて日本に住んでいるという事実にあります。たしかに抽象的にはオーストラリアなどに移民するというのは不可能ではないかもしれません。とはいえ、友人もいない国に一人で、あるいは家族を連れて移住するというのは、やはり魅力的な人生の選択肢ではないでしょう。

 しかし、このような障碍があるにもかかわらず、早期退職をして、あるいは定年退職金をもって、定年後は外国に暮らそうという人々が増えているの事実です。

 それもこれも、日本の財政が破綻寸前であることが、誰の目にも明らかになってきたためです。つまり資産家や、そこまでいかなくとも多くの小金持ちは、予想される過酷な資産課税を避けるために、自らの金融資産の逃避(キャピタル・フライト)先を確保する必要を感じているのです。

 書店にいってみてください。今後予想される財政破綻や資産の凍結について書かれた本は、それこそ数えきらないほど平積みされています。2006年1月に私がアマゾンで調べてみたところでも、国家破綻、財政破綻、年金破綻などの書籍は合計40冊を越えていました。これはとりもなおさず、それほど多くの日本人が、国家財政の破綻が近づいていると恐れている証拠だといえるでしょう。

 多くの破綻本のなかで、もっとも影響力があったものの一つに、元日銀マンの木村剛が2001年に書いた『キャピタル・フライト 円が日本を見棄てる』があると思います。いうまでもなく、木村剛という人物は、小泉内閣の行政改革路線を推し進めた竹中平蔵大臣と懇意だと伝えられており、その経済関与のうわさが株価の下落につながったほど影響力のあるエコノミストです。

 彼は「キャピタル・フライトの危機はすでに目の前に鎮座している。いつ何時、円の大脱走―エクソダス―が始まるかもしれないのだ」という緊張感ある表現で、国家の財政危機が生み出すであろう資産の国外流出を予測しています。

 もちろん、それから5年以上がたちましたが、彼の予想ははずれています。私は日本人の国家主義的なメンタリティや外国語能力の低さからして、キャピタル・フライトは日本経済を揺るがすような規模ではおきないと思っています。

 しかし、それでも日本を脱出する人びとは確実に増えています。年金生活者のどれだけかは生活費の安い、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどに移住してゆくことでしょう。

 もっと長期的には英語教育がいまよりもはるかに普及して、日本の上層階級、あるいは高学歴の人々が英語を自由に操るときが来れば、PTというライフスタイルを実現する日本人は次第に増えてゆくはずです。

 現在の国家はたしかに、国民生活の全般に関して到底払拭できないほどの影響力をもっています。しかし、それは21世紀にも同じであるという保証はないように思われます。はっきりいうなら、能力の高い人、資産の多い人ほど居住する、あるいは帰属する国家を選ぶようになるでしょう。

 世界の共通言語がますます英語に統一されてゆくにつれて、そして飛行機の速度が上がり、より多くの空港に頻繁に国際便が就航するにつれて、国家は個人に対して絶対的な支配力を持つ存在から、むしろ公共サービスの提供者として、保険会社、警備会社のように個人から選ばれる存在へと変貌せざるをえないのではないでしょうか。

 実際、スイスの多くの地域では、金持ちほど税率が安いシステムをとっています。そうすることによって、ヨーロッパ中から金持ちの移住を促進し、結果として税収をあげることができるのです。近い将来には、アジア全体での移住を見越して、日本でも金持ちを優遇して、社会の活性化を図ろうとする地域が出てくるのではないでしょうか。

 

各種の格付け機関と国家

 個人の力が科学技術の進歩によって増大するにしたがって、国家の力は相対的なものにならざるをえません。つまり、個々の国家もまた、地球上に存在する数多くの団体のなかの一つに過ぎないのです。このことを雄弁に語っているのが、各国が発行する国債も、各種の格付け機関によってその信用性が評価されているという事実です。

 たとえば、日本政府の発行する国債について考えて見ましょう。国債というのは国家が発行する債務証券であり、3年なり、10年なりの期日がくれば償還されることになっています。国家政府が金銭の支払い約束をしているのです。

 しかし、歴史的に見ると、多くの国家が債務不履行に陥っています。遠くは日本軍が発行した軍票から、近くはメキシコや2002年のアルゼンチンの国債の支払い停止に至るまで、多くの国家がその債務の履行を放棄しているのが現実です。

 ひるがえって、現在の日本はどうでしょうか。政府の累積債務は1000兆円に迫っていますが、これは日本のGDPが500兆円であることを考えると、たいへんなものです。国民一人一人が二年間もただ働きをして返済する必要があるほどの量なのです。常識的に考えれば、将来的にその全額が徴税されて返済されるということは不可能でしょう。

 このような見解は、当然ながらスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)やムーディーズなどのアメリカ系の主要な格付け機関の認識とも一致します。実際2002年にはS&Pが日本国債をAA-に、ムーディーズはA2に引き下げています。これは先進国中最低であり、アフリカのボツワナなどの途上国と同じなのです。もっと端的にいえば、全額返済の見込みがほとんどないということを意味しているといえるでしょう。

 日本人が閉じた世界にいるのは、ここでも同じです。このような日本国債の格付けに対して、自民党の政治家や財務省は繰り返し、その不合理性を訴えています。これに呼応して、日本国内にある格付投資情報センターや日本格付研究所などは、日本の国債をAAAという最高位にランクし続けています。

 日本という国家を離れた目から見ると、外国の評価に対しての日本国内からの反発自体に日本人の能天気さがあらわれています。もっとも重要なことは、日本人が日本という国家の絶対性という枠組みから、視点を離すことができないということなのです。

 国家は確かに徴税権を有しており、日本のように豊かな国の国民は資産を持っています。しかし民主主義の政治では国税の苛斂誅求はほとんど不可能なので、インフレによって国債の価値を棒引きにしてゆくしかありません。国家は国際経済の中では、あくまでも一つのプレイヤーでしかないのです。

 かりに、私のもっている株式や会社債権が「投機的」の格付けをもらったら、どうすればいいのでしょうか。おそらく、さらにひどい状態になる前にそれらの証券を売ることによって、さらなる被害の拡大を防ごうとすると思います。

 国家の格付けでも同じことだと思います。格付けの低い国家では、将来的にはインフレによる事実上の大増税が予想されます。その時、金持ちが自分の財産に受ける被害の拡大を恐れて、日本から逃げ出すような国家運営はさけるべきです。それでは、長期的に日本社会を発展させる原動力となる、もっとも優秀な人びとから真っ先に日本を脱出してしまうことになってしまうからです。

 

主権国家の並存の意味

 これまで私は、国家は地球上に存在する多様な団体の一つでしかない、ということを述べてきました。そして、実際に個別の国家は、地球上において絶対的な権力ではないのです。それは、私たち日本人には馴染み深い、北朝鮮による拉致事件について考えれば明らかです。

 たしかに北朝鮮という国家は、組織的に多くの日本人を誘拐し、朝鮮半島につれていったのです。2002年、拉致された蓮池薫さん夫妻や地村保さん夫妻、曽我ひとみさんが小泉首相とともに帰国した時の情景は、私だけでなく多くの日本人にとって今も脳裏に焼きついているものです。

 しかし、この事件全体の究明をすることは日本国政府にはできないでしょう。その単純な理由は、それはいまも捕らえられていると考えられる横田めぐみさんたち被害者、さらに犯罪の主要な人物たちが日本国内にはいないからです。この事件の真相の解明には、明らかに北朝鮮政府の協力が必要ですが、それは北朝鮮を支配する現存の独裁国家においては、現実的には不可能です。

 世界には主権国家が160以上存在しており、その一つ一つが他国の意思に従う義務がないという意味で独立しています。このような主権国家によって構成される国際社会はすなわち、それらを統括、支配する絶対者がいないという意味において、無政府状態にあるといえるのです。

 それではいったい、このような意味で無政府状態にある国際社会には、秩序は存在していないのでしょうか。

 いうまでもなく、秩序はたしかに存在しています。世界には、アメリカのアフガニスタン攻略やイラク占領、パレスチナ紛争やイスラム原理主義によるテロリズムなど多くの局地的、単発的な実力行使があります。しかし、ほとんどの期間、ほとんどの地域において、平和にうちに交易が行われ、人々は共存しているのです。

 これらの主権国家間の紛争を仲裁するのは、独立の組織を持つ国際連合である場合もありますし、朝鮮半島の非核化を目指す6カ国協議のような国家間のテーブルトークもあります。あるいは近い将来には、世界的な広がりを持つ反戦運動のNPOが、国家間の交渉をとりもつことも十分にありえるでしょう。

 私のように私有財産制を基礎とするリバタリアンは、人間の自由が重要な価値であると考えるだけではありません。無政府なまでに自由な社会でさえも、実際には十分に秩序だっており、絶対的な政治権力と共存するよりも、はるかに豊かにかつ平和のうちに暮らすことができると信じているのです。

 そのようなことはあり得ないと頭から否定するに、考えてみてください。国際社会の現状は擬似的な無政府状態であるにもかかわらず、ほとんどの場合、国際紛争は平和のうちに解決されているのです。適切な警察機構のかわりとなる民間警備会社が多数存在するのであれば、個人が無政府状態のうちに生活するからといって、今よりも頻発する犯罪を恐れるようなことはないはずです。無秩序が支配すると考えるのは、あまりに短絡的にすぎるのです。



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所得の再分配

採録 

所得の再分配は道徳的に許されるのか?

 リバタリアンからの平等主義への第二の反論は、「結果の平等」それ自体を目標として所得の再配分をすることは、そもそも倫理的に間違っているというものです。これはカントの提唱した道徳律である、「他人を自らの目的の道具にしてはならない」という規範に始まる倫理観だともいえるでしょう。

 結果の平等の実現のためには、実際にその生まれ持った才能や成し遂げた努力、あるい幸運の結果としてえられた私有財産を、持てるものから強制的に奪い、持たないものへと再配分する必要があります。

 日本では、所得税に関してはながらく高度の累進課税が課せられていました。今は最高税率が50%に制限されていますが、戦後の長い間、国と地方を合わせて最高90%に及ぶ税率を課していたのですから驚きです。これでは、十分に所得の高い人の場合、さらに余分に働くことから得られる追加的な収入は、本来の金額の10%にすぎないということになってしまいます。

 私自身も高校生のときまでは、高年収の人たちが高い税率に課せられるは当然だと考えていました。租税法などで使われる、「担税力」という考え方に依拠しての考えです。担税力とはつまり、「人間はしょせんは同じ程度の所得があれば十分であり、それ以上のものは必要不可欠とまではいえない、だから、十分以上の収入の人間からは、より高率で税を担うべきなのだ」という考えです。

 なるほど、これは一見もっともらしく聞こえます。各人の収入が、旧約聖書のマナのように天から降ってくるものだという前提に立ったとします。そのうえで、人間がそれなりに文化的な生活をするのに必要な金額というものを常識的に考えて税金を取るのだとしましょう。それなら、たしかに持てるものから奪って、持たざるものに再分配することも許されるように思われます。

 しかし、そもそも人の持ち物を奪うことを道徳的に肯定することなどできるのでしょうか。

 リバタリアニズムの啓蒙書を何冊も書いている、アメリカの経済学者スティーブン・ランズバーグは、その著書『フェアプレイの経済学』のなかで、所得の再分配の道徳性について次のように書いています。

 

 「本気で信じるには、所得の再分配はあまりにもおかしな話なのだ。

 なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私はなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいといっているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。

 もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動派恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。まして、あなたの盗みの肩を持つような道徳的権威をそなえた合法政府といったものは存在しない。いかなる憲法、いかなる議会、いかなる民主的な手段も、またことほかのいかなる制度といえども、そのような道徳的権威をそなえた政府をつくることはできない。なぜなら、そのようなものはこの世に存在しないからである。」

 

 なるほど、たしかにその通りです。

 公園で自分の子どもが持っていない遊び道具を他人の子どもがもっていて、それを欲しがった時、人は「あれは他人のものなのだから我慢しなさい」、あるいは「いつか買ってあげるから我慢しなさい」とはいっても、「あの子だけがもっているのは不公平だから、とりあげて遊びなさい」とはいわないでしょう。しかし、政府による所得の再配分とは、大人がみんなで寄り集まって「議会」をつくり、多数決をとり、強制的に誰かが持っているものを暴力を使ってとりあげるということなのです。これは道徳的に考えてみれば、到底フェアな行為とはいえないと思います。

 人がものを所有している場合、そこには本人の才能や努力などの理由があります。もって生まれた美貌や天才的な技芸の能力によるかもしれません。あるいは純粋に努力や根性としか呼びようがないような克己精神による修練、訓練のおかげかもしれません。あるいは彼らの親がその身を削って獲得したものを与えてくれたかもしれません。安易に人の持ち物を取り上げる前に、そもそもそのような行為が正当化されるべきであるのかを疑うことが必要です。

 実際、内閣府がおこなった「国民生活選好度調査」によれば、日本でも約7割の人たちが、「個人の選択や努力の違いによる所得の格差などは当然である」と答えています。また朝日新聞社が2005年から2006年にかけておこなった世論調査でも、「競争は活力を高める」、「挽回できない社会ではない」と考える人は6割にものぼっています。

 私の考えでは、すでに今の日本では、ビジネスエリートやアカデミシャンの多くは自覚していると否とにかかわらず、リバタリアンな考えをある程度取り入れていると思います。それは所得の格差の存在を前提として、むしろ敗者の再チャレンジを促すべきであり、いたずらに政府の所得再分配を肯定しないという態度です。これはもちろん、成功したアスリートや勝ち組のビジネスマン、あるいは効率を重視するエコノミストに、より強い考えでしょう。

 イチローや松井秀喜の年収は、たしかに私の生涯収入を10倍規模で上回っています。けれども、だからといって彼らからその努力、あるいは才能の対価としての収入を強制的に奪って、私に分配しろというのは、あらゆる意味で倫理的ではないと思うのです。

 野茂英雄が、個人的な野球のクラブチームを大阪に持っていることを知っている人は多いでしょう。いうまでもなく、彼は野球が健全で重要な社会的、個人的な意義を持っていると考えているのだと思います。だからこそ野球をやりたい人のために、その個人的な資産の一部を使ってまでチームを運営しているに違いありません。

 人がすばらしい価値だと思うものがあるのなら、それがなんであれ、自分のもっている私有財産を投じてそれを支援するべきです。「自分の価値を社会に押し付けるために、誰か他人のポケットからお金を取り出そうなどとゆめゆめ思うことなかれ」というのが健全な道徳というものではないでしょうか。

 

国家という権力システムの寄生者たち

  リバタリアンな社会が所得格差を拡大するのかという問いに対する第三の反論は、完全にリバタリアンな社会では、常識とは異なり、かえって所得の平等が促進されるのだというものです。私自身は完全にリバタリアンな社会では、今よりも結果的な所得格差が開くのではないかと思っています。

 とはいえ、かえって平等になるという主張もある程度は真理であるため、平等主義者が声高に主張するほどの格差は生まれないだろうと考えています。この「自由は平等を促進する」という指摘が正しいというのは、所得格差の大きな部分は、実は国家権力によるレバレッジ(てこ)の原理によるものだからです。

 たとえば、ジャーナリストである池田信夫はその著書『電波利権』において、最も端的な問題提起をしています。そもそも電波帯域の利用は国家が独占的に許認可をするものであり、まさに本来は国民の共有財産であるにもかかわらず、現実には電波利権となって既存のテレビ・ラジオ局に割り当てられる、つまり特定人に無償で与えられているのです。このことを丹念に調査し、鋭く批判しているのです。

 放送局が参入規制を受けた、典型的な保護産業であることはいまさらいうまでもありません。さらに、明らかに茶番なのは、デジタル放送などという放送規格を、国民レベルでみた経済合理性を完全に度外視してまで推し進めていることです。これは費用がかさむばかりで、インターネットに比べればまったく無意味な程度の双方向通信性しかもたないのです。電波の有効な利用を考えれば、長期的に放棄されるべき規格であることはあまりにも明らかです。

 これは郵政省・総務省の命令なので、既得権益としての電波利権を失いたくない放送局は、これに従わざるをえません。やむをえずデジタル放送の設備を導入したのです。投資を回収するためには、同時にテレビ放送局の新規参入を妨害し、ネット上でのテレビ番組の配信には、著作権保護などを錦の御旗に難色を示すことにならざるを得ないということになります。

 2004年以降、ライブドア対フジテレビ、楽天対TBSなどのM&Aが活発化し、マスコミも連日これをマネーゲームだとして大きく取り上げました。これらの事件では、敵対的な買収を仕掛けたのはIT企業側で、守りに入ったのは放送局でした。

 放送局の現有資産が重要なのでしょうか。もちろん、そうではありません。各放送局に免許として割り当てられた電波帯域を使う権利が、巨大な価値を持っているのです。まともな経済感覚があればほとんど自明なことでしょう。

 先進諸国の実例を挙げてみましょう。EUでは2000年に電波枠の競売が行われ、約14兆円が国家歳入となりましたし、イギリスの通信電波枠もまたおよそ4兆円で落札されています。日本の経済規模を考えれば落札額は10兆円はくだらないでしょう。その金額が現在の時点では、テレビ局やラジオ局、NTTドコモやKDDI、ボーダフォンといった既得権益を持つ会社に勤めている従業員、あるいはそれらの会社の株主の利益になっているのです。

 実例として、テレビ局の職員の給与について考えてみましょう。ライブドアとの確執で話題をまいたフジテレビにしても、楽天との統合問題にゆれたTBSにしても、たいへんな高給です。2004年の時点でフジテレビ職員は平均年齢39.8歳で平均年収は1529万円、TBSではこれが42.3歳で1429万円なのです。諸手当や年齢などを考慮すれば、その実態では年収2千万におよぶはことはごく普通のことだといわれています。

 しかし、番組制作の多くが下請けのプロダクションに任されているというのが現実です。これを考えれば、テレビ局という組織は、つまり国家によって許可された電波の枠を切り売りしているだけなのです。それによって、庶民には信じられないほどの給料が既得権益として支払われていることを理解してください。

 いうまでもなく、リバタリアンな政策とは、電波帯域をすべて競売にかけて、だれであれより有効に利用できると考えるものがそれを落札して利用するというものです。既存方式の音声通信でもIP電話でも、あるいはデータ通信なり、放送なり、または放送用の番組の有料・無料の配信など、用途は限定されません。だれであれ、電波帯域を一番効率的使える人間が、それに対してもっとも大きな金額を払えるはずです。

 視聴者がリアルタイムでいっせいに視聴できる放送というシステムがいいのか、あるいはそこで放送された番組を視聴者個人個人の要望に応じて配信するビデオ・オン・デマンドがいいのか、それともすべての番組が通信として切り売りされるような状態が、コンテンツ視聴者がもっとも望んでいるのか、これらの通信のベストミックスはいったいどのようなものなのでしょうか。それは実際に企業が経営の中で、試行錯誤をしてしか知りえないことです。

 そもそも電波行政などと称して、技術センスも経済感覚もない中央官僚が電波帯域を割り当てるという仕組み自体が、現代のITの急速な進歩とそれに伴う企業化精神を圧殺しているのです。自由闊達にIT企業同士が競い合い、あらたなビジネスモデルを模索しつつ試行錯誤を経る。それにコンテンツ作成能力をもつ既存のテレビやラジオ放送局がコラボレートする形で、視聴者が望む最適な時間配分に近づけていくのが正しいはずです。

 日本では、総務省による電波利権の配分が既存業者に偏りすぎているため、新規参入がほとんどみとめられていません。新規参入をより自由にすれば、香港のように11円、あるいはインドのように12円程度までは通信料金は低下するはずです。

 現在の日本の通話料金の高止まりは、世界的にみれば例外的に保護されている業界の体質の現れであり、まったく異常なものなのです。テレビなどの「放送」はすべからくネットに移して、空いた電波帯域を使って、携帯電話業者を自由に参入させるべきです。

 実際、現在も私はテレビをほとんど見ませんし、家に帰ったときの第一次的な娯楽、情報ソースはインターネットのポータルサイトです。最近の多くの調査をみると、20代、30代のサラリーマンの多くが、インターネットが第一の情報源で、テレビはつけっぱなし第二次的な情報源にしているという状態のようです。放送の自由化の最終段階では、現在のような同時受信的な放送、あるいは不特定多数へのプッシュ型の通信などは、ほとんど完全になくなってしまうのではないでしょうか。

 これはちょうど、映画は映画館で見るよりも、好きなときにリビングのテレビで見ることのほうが圧倒的に多いということに似ています。電波の利用価値はおそらく、あまねく届くという場所的な制約を受けないことにあるのだと思います。

 とするなら、テレビ放送のような高精細で情報量の大きな画一的なコンテンツは、むしろ完全にネット上で「放送」されるべきでしょう。通信量と速度に不可避的に制約の存在する電波は、すべからくコンテンツの個別配信を含む個人的な「通信」、あるいは携帯デバイスに特化したワンセグのような放送形態のみの利用が自然なことになるのではないでしょうか。



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公的年金制度の解体

採録

公的年金制度の解体

 公的年金もまたリバタリアンにとっては、クニガキチントの誤謬の典型としてとりあげられるものです。いうまでもなく、人生においてどのような消費パターンを選ぶのかは、一人一人の自由な判断にゆだねられるべきだからです。

 私は保育園の卒園時に、イソップのアリとキリギリスの寓話の劇を演じました。その劇では、アリは夏に一生懸命に働き、冬に備えて多くの貯蓄をしました。これに対して、キリギリスは夏を遊んですごし、冬には困窮し果てましたが、最後にはアリの憐憫の情によって助けてもらいました。これはお話だから助かったのでしょうが、現実には、キリギリスは困窮して死んでしまうのかもしれません。

 寓話の意味は明らかですが、今になって考えみると、どちらの人生がいいということなどできません。それはすぐれて個人的な価値判断に依存する事柄だからです。人生の意味は個人の心の中にあるのです。私たちに許されるのは、せいぜいが貯蓄をして豊かな老後を送ることのほうが懸命だろうとか、よりよい人生なのだと「説得」をしようとするところまでであって、「強制」してはならないのです。

 ここで便宜的に、先ほどの医療制度にならって、まず現行の制度により近い、レベル1の自由度をもつリバタリアンな年金制度について考えて見ましょう。

 民主党も提案していることなのですが、この段階では、公的年金制度は各人の生涯所得に応じて一元化するべきです。捕捉するのが難しい、あるいは年金の掛け金を徴収するのが難しいなどというような道徳的に理解しがたい、まったくバカげた理由からサラリーマンや公務員と自営業者をわけて取り扱うべきではありません。

 たしかに、サラリーマンや公務員などの給与所得者は、いうまでもなくその所得がガラス張りになっており、年金の掛け金も雇用者側が支払うために逃れることはできません。これに対して、自営業者がサラリーマンと同じ年金をえるためには、徴収されるべき掛け金の額が大きく、支払えないケースが続出するというのは事実でしょう。

 ですが、それが理由で年金制度が維持できないというのであれば、税金と同じように強制力を使った徴収を今よりも徹底しておこなうべきです。あるいはサラリーマンの年金保障と掛け金を、自営業者の加入している国民年金と同じ程度に下げなければ、明らかに不公平です。

 国家は、強制力をもって年金制度を維持しているのです。最低限度の倫理性・公平性を維持できないのであれば、そのような制度はそもそも最初から維持しようとするべきではありません。

 ここまでくれば、レベル2の年金制度が、完全な民営企業による個人年金制度しかないことはおわかりでしょう。現代の先進国家のように金融制度が発達した社会では、自分の老後は自分の責任で世話をするのは、人間として当然のことだと思います。

 年金制度についても、重要な事実を指摘して締めくくりたいと思います。これはデイヴィッド・フリードマンも指摘していることなのですが、私も昔から考えていたものでず。

 一般に、年金制度の趣旨はパターナリズムであると考えられています。教育程度も低く、所得も低い人びとは将来のことをあまり考えずに、今を楽しく生きてしまうため、老後にそなえた貯蓄はあまりありません。彼らの老後を健康で文化的なもの(日本国憲法第25条)にするためには、国家による年金制度が不可欠だというのです。

 しかし、ここには大きな罠があります。

 一般に、低所得者層の多くは、高校卒業という人生の早くから収入を得始めます。大学を卒業して働く人よりも4年は早く、大学院を出た人に比べれば10年以上も早い場合もあるでしょう。この場合、その間の利子率を世界的な資本主義の常識である年率7-8%とすれば、掛け金は2倍にはなるはずです。

 さらに現行の年金制度では、「最終」的な賃金に応じて年金額が決定されることが普通であり、「生涯収入」に比例しているわけでもないのです。明らかに、こういった制度設計は、収入が安定している高学歴の人間にとってのほうが、はるかに有利なものなのです。

 もっと決定的な事実は、低所得者層は高所得者層よりも平均して早く死亡しているということです。この事実をもって、左翼的に「低所得者層は十分な医療を受けることができないから早死にするのだ」と考えることもできるかもしれません。

 しかし、みなさんはそういうふうに思いますか。私は思いません。おそらくは低所得者層は、教育程度が低いがゆえに、その生涯を通じて生活習慣病のリスクが高まるような生活をしてしまっているのではないでしょうか。

 ともあれ、ここでの理由はどうでもいいのです。単純な算数の問題として、長生きするのが高所得者層であれば、それだけ高所得者層が年金制度から大きな恩恵を受けるのですから。残念なことに、こういった事実は指摘するのもはばかられるために、表立ってはこないのです

 年金制度は、現実には低所得者層の福祉のためになってなどいないのです。そこでは制度を設計した公務員の人生がモデルとして扱われています。つまり、会社が倒産して、転職を余儀なくされながら、新しい会社での給与も下がっていくという民間人の人生など、はなから考えられていないのです。なぜ、私たちのすべてが、公務員のような生き方をすることを考えた「モデル賃金」などに準拠した制度を維持していく必要があるのでしょうか。

 もともと非自発的な強制権力の発動である公的年金制度の運営には、徴税と同じように膨大なコストがかかります。社会保険庁などという本質的にムダな機関は国税庁と統合するべきであり、別に存在する必要など一切ありません。

 クニガキチントの公的年金制度は、徐々に縮小してゆき、最終的には全廃すべきです。そして、どうしてもセーフティネットを守りたいのであれば、個人の年齢にかかわらない生活保護制度に一元化するべきなのです。そのほうが国民のすべてにとって、はるかに実りの多い人生をおくれると思うのは私ひとりではないはずです。

 

義務教育制度のもつ特殊性

 最初にズバリいうならば、教育制度はリバタリアンにとって鬼門です。なぜなら初等義務教育の受益者は子どもであり、ほとんど定義によって彼らには十分な判断能力がないからです。そして、判断力がない人間が市場のプレイヤーなのであれば、健全な市場のもつ競争と改善の機能は期待できません。そこにクニガキチントの考えが忍び込みがちなのです。

 そこで、レベル1の自由度の教育制度を考えて見ましょう。リバタリアンは子どもに代わって、その親によって学校同士を競合させることが良いと考えます。まず第一に、現在の一人当たりの義務教育費用と同じ金額分のバウチャー(特定目的にのみ使われる金銭証票)を、一人一人の子どもをもつ親に与えます。親は自分が望む学校に子どもを通わせ、学校への支払いはバウチャーによっておこなわれます。学校はバウチャーを政府にもってゆき、換金してもらうことによって、人件費や施設費などを捻出するというわけです。

 この制度では、学校はより多くの学生を集めれば、それだけ多くのバウチャーが手に入る、つまり多くの資金を手にすることができます。学校の運営費となるこの資金を、人件費に割り当てるべきか、それともその他の施設費などに割り当てるのかは、個別の学校を運営する校長が決めることになります。

 このバウチャー制度の狙いは、教育というあまりにも重要な案件に関しての、効率的な資源の使用を促進するということにあります。有限な資源の利用法について、現場から遠く離れた文部科学省や教育委員会などという中央集権的な組織によって一律に決められるのは、効率的なはずがありません。むしろ、各学校がその個別的な状況に応じて、決めなければならないのです。

 もちろん、運営があまりにも拙劣な学校には学生がいかなくなりますから、そんな学校はなくなり、より効率的に学生を教育できる学校が、より高い給与で教員を迎え、より多くの学生を要することになるのです。

 こういう提案をすると、かならず「では悪い学校にはいってしまった子どもはどうなるのか」という疑問をあげる人がいます。これはこれでもっともな疑義だとは思います。しかし、それはあまりにも親となっている人びとを愚弄した考えだと思います。

 現実には、なにも驚くほどの変化はないでしょう。なぜなら、今でも進学塾のシステムは完全に自由に決められているにもかかわらず、多くの塾の様子はほとんど同じなのです。あえて公立学校と塾とのおおきな違いを述べるなら、児童買春をした教師がいても公立高校では「遺憾なことだ、今後は綱紀をさらに粛正する」などとうそぶいているだけですみますが、塾であれば、ダイレクトに学生離れが起こり、存続の危機にさらされるということぐらいでしょうか。

 レベル2の自由度の社会では、学校がどのような内容のことを教えるべきかは各学校、あるいは現実には系列化された学校群が独自に決めるということになるでしょう。また教育費用は親が出すか、あるいは教育に特化した日本育英会のようなNPOや銀行が、才能はあるが、親が子どもを学校にやることができないような子どもを探し出して、融資をして、回収することになるはずです。

 まずはじめに、教育内容の自由についてもっと深く考えてみましょう。

 最近は日本でも、新自由主義という名の、実は愛国主義的なナショナリズム運動が盛んになっています。彼らは、日本の歴史教科書を、もっと愛国主義的記述に書き換えるべきだというのです。それに対して、国際協調、反戦平和路線をとる人びとは、反戦の誓いを新たにするべく、日本人が大戦中におこなったアジア人への残虐行為を、現行の教科書以上に記述するべきだ主張しています。

 この二つは完全に対立しています。いったい、どうするべきなのでしょうか。

 リバタリアンは教育内容は各学校が独自に決めればいいのだと主張します。この反対に、教育内容の公定制度については、教科書検定制度などがあったほうが望ましいと思う人は多いでしょう。なんといっても、どんな内容の教科書でもいいというのであれば、教育内容の平等性が担保されない恐れがあるからです。

 しかし、私はこれは杞憂だと思います。世界的に標準化された数学、言語、それと論理についての教育はすでに存在しています。アメリカでおこなわれているSATなどがその典型だといえるでしょう。いうまでもなく、学力の世界的な比較は常におこなわれています。そこでは、ある国に特有の歴史教育などはありませんが、それがないからといって世界に通用しない人材になるということは、まったくないのです。

 自由な社会では、大学も自由に入学試験の内容を決めることになります。国際的に評価される大学になるために必要な基礎学力は国際バカロレア資格として定められ、内容的には数学と語彙、抽象的論理関係などがすでに確立しているのです。

 一般に、知能心理学者の間では、語彙と論理によって構成される語学と、数的センスを扱う数学のみが検定されます。それらの能力のみが人間の知性の発露として扱われるのは、それらが人間に普遍的な能力をあらわしていると考えられているからです。

 はっきり言って、私はそもそも歴史など教育する必要はないと思います。それでなくても、日本ではNHKが歴史上の有名人物のドラマを、私たちのポケットから無理やり集めた視聴料でつくっているのです。小学校で習う程度の歴史よりも詳細に日本の歴史を知っても、なにも得るところなどないように思うからです。

 おそらく、歴史教育とはつまり民族教育であり、民族の一員としての愛国主義を植えつけるためのシステムなのだと思います。リバタリアンの多くは地球上の誰もが等しく人権を持ち、同じような自己実現の願望を持って生きていると考えるという意味で、人類は完全に同質だと考えます。なぜ、たまたま日本という島に生まれたからといって、その島の歴史をこまごまと覚える必要があるのでしょうか。

 人間の学習時間や能力には、限界もあれば、その他のことをするための時間や労力とのトレードオフもあります。アサガオやヒマワリの生長の観察は、島民の共通の話題としてはたしかに重要かもしれませんが、それよりも重要なことははるかにたくさん世界中にあるように思います。

 私個人としては、子どもには英語と日本語、そして数学のみを教える必要があると考えています。そのほかのことはすべて、子ども自身が成長して自らやりたいと思ったときにやればいいのです。歴史の詳細な事実を知ることや、科学的なものの見方をすることに遅すぎるということはありません。

 つまり、来るべきグローバルな経済社会で創造的で生産的な人間になるためには、おそらくは英語と数学、論理能力だけが基礎になるということなのです。日産を再生させたルノーのCEOであるカルロス・ゴーンはフランスで教育を受けました。レバノン系フランス人である彼の経営能力が世界に通用することを疑う人は、世界に誰もいないでしょう。

 現在、日本国内だけでもすでに120校以上の外国人学校があります。インターナショナルスクールもあれば、朝鮮人学校もあります。そして、それらの学校に通う子どもたちは日本人とはだいぶ異なった内容の教育を受けていますが、彼らが将来的に日本人と同じように社会で活躍することに疑う余地はありません。なんといっても100億人が暮らす次の世代の世界の中で、日本人は100人に1人もいないが現実なのです。

 それでなくても人間は年をとると、自分の来し方行く末を思い、過去の歴史に興味がわくものです。微に入り細に入った日本列島の歴史などは、郷土の歴史研究として、老後の楽しみにでもとっておけばいいのではないでしょうか。

 では最後に、教育費用も完全に親が負担することについてはどうでしょうか。

 直ちに懸念されるのは、才能はあるが、親が理解がない、あるいは金銭的に教育費を負担できない、などの理由で進学をあきらめる子どもが出てきてしまうことです。私もこれはもっともな懸念だと思います。

 しかし、NPO活動がこれだけ盛んになってきた今、才能ややる気のある子どもを無料で教える、あるいは子ども本人の将来収入から返済してもらう約束で、親に対して長期的な融資をする人たちもでてくるはずです。もっぱら安定志向を追求するような教師たちに占領されるクニガキチントの学校制度がなくなれば、自らの人格的な使命として教育を考える人たちこそ、新たなる自由な社会で主体的に教育にたずさわることでしょう。

 あまりにも夢想主義だと思いますか。しかし考えてほしいのです。今野球をやっている多くの少年を指導しているのは、無償でありながら自分の時間を削ってまで、野球が好きな子どもの相手をする野球好きのおじさんたちなのです。彼らがいてこそ、野球の世界大会である2006年のWBCでは、日本チームが世界一の栄冠に輝いたのです。

 サッカーにしても、状況は同じです。サッカー少年を指導している人の多くは完全に無給であるにもかかわらず、サッカーというスポーツをより広め、楽しみ、後進を指導するために日夜粉骨砕身しているのです。

 多くの人が、社会的には野球よりも勉強のほうが重要だと思っていると思います。であるにもかかわらず、なぜ教育を自発的な使命と考える人たちに任せようとは考えないのでしょうか。どこか遠くに住んでいる官僚の支配のほうが優れていると考える必要などないはずです。

 

耐震偽装問題をどう考えるか

 最後に、わりあいに最近の話題を取り上げてみたいと思います。ここで、2005年におこったマンションやビジネスホテルの耐震偽装事件を試金石にして、リバタリアンな政策を考えてみましょう。

 日本では建築基準法が施行されています。大きな建築物に関しては国が定めた最低限度の耐震強度を一級建築士が計算して、保障することになっていたわけです。ところが、姉歯秀次という一級建築士は、木村建設という建築会社やヒューザーというマンション販売会社などと共謀して、耐震基準に満たないビルを大量に建てたのです。

 彼らは、単純に耐震構造材を大幅に減らして建築費用を下げ、官庁には、偽りの構造計算書を提出していました。そういった手口で、ビルやマンションを、東京、千葉、神奈川、愛知、三重などに100棟近くも建てていたのです。

 このような耐震強度の偽装事件が発覚した後、福岡や札幌でも同じような耐震偽装事件が発覚し、さまざまな論議がなされました。おおむねそこでの制度改革の方向は、今後いかにして国家の建築基準を守ることを確保するのかについて、各種の業法をより厳格化し、専門家を行政に今以上に関与させるべきだというようなものでした。

 これはいうまでもなく、福祉国家のますますの肥大化を意味しています。

 ここでも新たな社会事件が起こったことをきっかけに、いつものクニガキチントの発想がカマクビをもたげたわけです。ここで、自分の意思を最重要視する多様な個人が存在するという、リバタリアンな社会のあり方について考えてみましょう。

 そもそも、国が決めた耐震基準などというのは絶対的なものなのでしょうか。可能性としては、国の想定を越えた大地震というものが起こるかもしれません。また、その逆に、建物の耐用期間にわたって地震などは発生しないかもしれません。ここでは地震が実際に起きた際の損害賠償の責任を厳格に適用することを前提とはなりますが、建物の建築主に対して、自らの責任において自由に耐震強度を選ばせればよいのではないでしょうか。

 同じようにマンションの住人もまた、自らの意思で耐震強度の異なったマンションに住めばいいのです。震度7の地震でも倒壊しないような一億を越える高価なマンションに住みたい人もいれば、震度6弱で倒壊すると評価されてもかまわないから、5千万で100平方メートル超の都内のマンションに住みたい人もいるでしょう。

 このような考えは、なにか人間の安全を軽視しているようで、気にいらないという人も多いかもしれません。しかし、20年以上前に立てられたビルは、どのみち現在の耐震基準を満たしていませんし、さらに昔のビルはさらに低い基準しか満たしていないのが現実なのです。そのような老朽化したビルは、たしかに危険でしょうが、私たちの日常はそれらの危険と長い間にわたって完全に同居してきているのです。

 現在は、国家が耐震基準を一律に定めており、さらにそれに基づいて、それ以上の耐震性能を評価するための、住宅性能表示制度があります。こういった国家による画一的な耐震性の押し付けよりも、各種の審査機関が公表する耐震強度に応じて、より多様なビルの価値を市場原理に任せたほうが、ビルの価格や賃貸料は適切に変化して、人びとの暮らし方の選択は広がるはずです。

 現在、地震のリスクもグーグルマップなどに載せて、詳細なハザードマップとして利用することが可能です。自らの判断で震災のリスクを評価して、どの程度のコストでどの程度の強度が自分にとって最適なのかを考えれば、おのずと多様な選択肢が市場によって供給され、それぞれに異なった価値観の人たちが社会に共存できるはずなのです。

 このような意見は、なにか突拍子もないように感じるかもしれません。それは実際、私たちが人間の自由という概念を真剣に考えてきたことがないからです。自由には愚行権が含まれます。大地震が起きた際には危険となる構造物にすむこともまた、人間の多様な価値や世界観、世界の認識の自由に属する行為であると考えるべきなのではないでしょうか。

 また別の例を挙げるなら、移動様式としてクルマや公共交通機関がある現在、バイクに乗ることは明らかにひじょうに危険な行為です。しかしわれわれはバイクによる移動様式をその趣味性や実用性を勘案して社会的に許しているのです。同じことが、なぜ住宅の耐震性については認められないのでしょうか。

 似たような事例として、私自身も毎日利用しているクルマの衝突安全性について考えてみましょう。私はトヨタのクルマに乗っていますが、あるいはニッサンのほうがある種の衝突安全性にすぐれているかもしれません。ある種の技術が衝突安全性を突き詰めるのであれば、人命はたしかに尊重しているようにも思えますが、そもそも値段が高すぎると判断すれば、私はそういう安全性をそなえたクルマをあきらめざるをえないでしょう。

 また、安全性の基準もユーロNCAPのようなヨーロッパの基準もあれば、アメリカのNPOのものもあります。日本の国土交通省の公表している基準が絶対なわけではないことなど、いまさらいうまでもありません。もちろん、各自動車会社もそれぞれ社内独自の安全基準をもっているでしょう。

 しかし現実に、私はトヨタのクルマに命を預けて毎日高速道路を通勤しているのです。ひとりマンションの耐震性基準だけが、私たちの日常生活の安全性を保障しているわけではありません。冷静に考えて、多様な耐震基準や、それぞれの耐震・免震技術を経済的に評価するべきです。

 私が理解しているところでは、趣味としてのハンググライダーやパラグライダーなどは、明らかにかなり高い死亡リスク、あるいは障害のリスクをもっています。また、冬山登山が危険であり、遭難した場合には、救助隊の出動をはじめとして大きな社会的な損失となることは今さらいうまでもないでしょう。とはいえ、だからといってこれらのリスクスポーツを全面的に禁止するべきだという人はいないと思います。こうした危険な趣味を生きがいとしている多くの人たちの存在が現実にあり、それは私たちの多様で豊かな生活の一部となっているのです。

 なぜ、マンションやビジネスホテルの耐震性だけが、それほど重要なのでしょうか。部屋の広さや室内の快適さと同じように、複数の客観的な格付け機関に情報の提供をさせて、消費者に選ばせればいいと思います。そうすれば、今よりもはるかに価値観の多様性を認めながら、同時に金銭的に余裕のない人々にとっても暮らしやすい社会になるのです。



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リバタリアンな社会とは

参考に採録

2、リバタリアンな社会とは

現代国家の役割

 まずここで、私が日本の知識人の間の常識だと考える、日本という国家と私という個人の関係について、あるいは私の国家への義務について考えてみましょう。

 国家は私から税金をとります。これには直接的な所得税もありますし、日々の消費によって支払う消費税もあります。また、固定資産税などや住民税も忘れることはできません。それから国家ではありませんが、私は国家の定めるところによって共済保険や共済年金制度に強制的に加入させられています。

 これらの明らかな金銭的な負担に対して、私の権利はどのようなものでしょうか。

 私が犯罪の被害にあった場合には、警察が犯人を捕まえて、罰してくれます。またケガや病気の際には医療費の自己負担を3割にしてくれていますし、老後にはある程度の共済年金ももらえるということになっています。また医師法や弁護司法などの各種の法律によって、私が詐欺的な診療行為や取引話に引っかかったりしないように、後見的な保護もしてくれています。

 また、忘れてはいけないのは、外国に旅行したときなどに、災害やテロなどの緊急事態などでは日本国民としての現地国の政府から相応の待遇を受けるということです。そして、これらの関係は、私がごく普通の日本人として生きてゆく際にはほとんど自明なことだと思います。

 これらが、ちょっと考えてみて思いつく、私の国家への第一義的な義務と権利です。

 ここで注意してもらいたいのは、国家はひじょうに多くの権利や義務を、私をはじめとする国民の「明示的な同意」を得ないままに一方的に与えたり、課していたりするという点です。

 もちろん日本は民主主義にのっとった現代国家ですから、私は有権者として国会議員に投票し、その結果として成立してきたこれらの国民の権利義務に黙示的に同意を与えているいうように考えることもできるかもしれません。

 しかし現実的に考えれば、やはり私は共済制度が任意加入であれば加入しないでしょうし、その他の税金についても納得して支払っているとは到底いえません。また消費者保護のためという名目でおこなわれ、その実、各種の業界保護のためにしかなっていない規制などにもうんざりです。これらの意味において、国家は私に直接的・間接的な多くの「強制」をおこなっているといえるでしょう。

 リバタリアニズムはこのような肥大化した、後見主義的な国家の役割を否定します。人びとは自らの意思によって行動する自由と権利があり、それに伴う結果についても責任を負います。それが大多数の人間から見て愚かしい行為であったとしても、それを他人から強制されない自由な意思によって行うのであるかぎり、それを愚行権として認め、他人が物理的な強制力をもってやめさせるべきではないと考えるのです。

 

古典的リベラリズムの変質

 さてリバタリアニズムという言葉は比較的新しい政治用語だといえるでしょう。

 これに対してリベラリズムという言葉は皆さんもご存知だと思います。リベラリズムはいうまでもなく、人間の自由というものを重視した思想で、近代市民社会を形作ってきた自由主義思想だといえるでしょう。

 19世紀までのリベラリズムを古典的リベラリズムと呼ぶなら、古典的リベラリズムは政府からの自由を標榜していました。あるいは政府という強制権力になるべく拘束されないという意味での、純粋な消極的自由主義であったといえるでしょう。

 しかし20世紀にはいると第一次世界大戦が勃発し、ホーエンツォレルン家によるドイツ帝国は革命によって崩壊し、ヴァイマル共和国が成立します。この頃から、個人に対して国家が最低限の生活を保障するという社会権もまた、基本的人権のひとつとして加えられるようになってゆくのです。

 同じ頃、ロシアでも社会主義革命が勃発し、人間の個人的な自由よりも、むしろ社会的な平等を第一義的な政治目標とする政治体制が成立しました。レーニンによって指導されたロシアの社会主義制度はソヴィエト社会主義共和国と呼ばれ、第二次世界大戦後、その政治的な支配権を東欧におよぼしました。また、中国やヴェトナム、北朝鮮もまたそれぞれが独自の社会主義政治を追求していったのです。

 

レーニン

 

 

 この間、20世紀を通じて資本主義諸国においても急速な勢いで、社会権もまた基本的人権として保障されるべきことが認められてゆきます。フランス第4共和国憲法や日本国憲法、世界人権宣言にも当然のように社会権の保障が入り込んでいることは周知の事実でしょう。

 さて、基本的人権としての社会権はよく、国家による物質的な欠乏からの自由の保障、あるいは積極的自由の保障であるといわれます。実際、私が大学受験で学んだ教科書にはそのように書いてありましたし、今もほとんどの教養ある知識人はそのように理解していると思います。

 しかし、国家による「貧困からの自由」という概念は、そもそも本当に「自由」権なのでしょうか。もともと社会的に「自由」であるということは、他人の意思やこれまでの制度の拘束を受けないという意味を持っていたはずです。これに対して欠乏・貧困からの自由とは、国家権力からの自由どころか、積極的に国家の個人生活への介在を必要とします。

 そもそも個人に対して貧困からの自由を実現するためには、実際には国家が他の誰かからその物的な資源をとりあげて、貧困に苦しむ人に対して配分する必要があります。もっと現実的にいうならば、通常より年間収入の高い、あるいはより多くの物的資産をもつ個人に対して課税を行い、その財産を強制的に徴収して貧者に対する再配分をおこなうことが当然視されているのです。

 これは明らかに、自らの収入や資産を自由に処分するというフランス革命以来の古典的な財産権的自由権と対立します。ある個人の社会権を保障するためには、別の個人の財産権、あるいは私的所有権を制限する必要性が生じるからです。

 また同時期に、アメリカでの黒人公民権運動や同性愛擁護運動など、それまでの因習では社会的に否定され、差別されてきた人たちへの救済措置も国家がおこなうべきだとするような政治的主張がなされるようになりました。これが平等権という社会権として認められた結果、国家的が積極的に多様な行為を市民生活においても果たすべきだという現代的な風潮ができあがったのです。

 英語圏でいうリベラリズムには、こういった国家による多様な積極的な自由を現状以上に肯定するという響きがあります。リベラルという言葉には、すでに個人の内面的な精神活動を、他の人間へのさまざまな偏見なども含めて擁護するという自由主義的な色彩は薄れてしまいました。むしろそういった偏見、あるいは個人的な嗜好の選択を、国家が画一的に否定するようなものになってしまっているのです。

 

リバタリアニズムとは

 20世紀を通じてリベラリズムが古典的な自由の肯定的思想から、むしろ否定的な思想となってゆく間に、古典的な自由を復興しようとする考えが起こりました。それが社会権を否定し、自由権のみを肯定するリバタリアニズムなのです。

 リバタリアニズムという言葉は、19世紀までは「自由意志論」とでもいうべきもので、つまり自然哲学的な決定論に対するものとして存在していたものです。これは現在も哲学用語として使われることがありますが、めっきり少なくなり、政治的な色彩を帯びた言葉になったのです。

 多くのリバタリアンは警察・軍事・外交などの最低不可欠の機能のみを持つ国家を目指しています。そして、一部のより過激なリバタリアンは個人の権利を越えた権限を持つ国家を一切否定する無政府資本主義を信奉しています。

 このようなリバタリアニズムは、政治思想としてはハーヴァード大学の哲学教授であるロバート・ノージックが1974年に著した『アナーキー・国家・ユートピア』によって確立したといえると思います。この著作でノージックは、われわれは国家という強制権力装置によって、富者の財産権を侵害しながら貧困者を救済することは道徳的に許されないとしました。そして唯一肯定できるのは治安を維持するという最低限度の機能を持った、彼のいう「最小国家」であると結論付けたのです。

 この著作は大きな影響を今も持っていますが、実はこれに先んじて1971年には、哲学者ジョン・ロールズによる平等主義を唱道した名著『正義の理論』が出版されています。ロールズはそこで、配分的な正義の実現、すなわち平等主義原則の私的所有に対する規範的優越を掲げました。ノージックの著作は、ロールズの理論に対する、思想史的なアンチテーゼだったといえるでしょう。

 経済学者は政治哲学者より早くから、社会主義に対するより強い警戒心がもっていました。経済学者は自発的な交換、すなわち商取引を重視するため、強制権力を使って平等を実現しようとする社会主義には、必ずしも肯定的ではなかったからです。社会主義は高らかに社会権の保障をしますが、それはすなわち経済的な自由権の侵害を意味するのです。

 前述したように、第二次世界大戦中の1943年には、すでにフリードリヒ・フォン・ハイエクが『隷従への道』を著し、社会主義への警鐘を打ち鳴らしています。社会主義体制においては、個人よりも社会の利益を優先するために全体主義に陥り、そこでは支配者による思想や価値の押し付けが横行することになります。被支配者である市民は、権力者への隷属的な地位におとしめられてしまうと主張したのです。

 その後、70年代までは社会主義的な思想風潮、あるいは市場の万能性を否定して政府による経済介入の必要性を説くケインズ主義が、支配的な風潮として資本主義社会においても蔓延しました。このような状態にもかかわらず、アメリカでは自由な市場への政府の介入を否定するミルトン・フリードマンが、自由の価値と、自由市場が社会主義体制よりも人びとをより幸せにすることを『資本主義と自由』や『選択の自由』において訴え続けていたのです。

 

選択の自由

 

 個人の幸福度を基準として社会の優劣を比較する考えは、功利主義と呼ばれます。ミルトン・フリードマンの息子であるデイヴィッド・フリードマンは1973年に『自由のためのメカニズム』を著し、その後も一貫して、功利主義的な基準において、無政府資本主義のほうが政府の存在する社会よりも優れていることを訴えています。

 また経済学のオーストリア学派の流れをくむマレー・ロスバードは、権利論に基づく無政府主義の金字塔を打ち立てています。彼は1981年の『自由の倫理学』において、政府は物理的な強制を伴う存在である以上、倫理的な基準においても存在することは許されないという過激な主張を完成しました。

 彼によれば、人間の自由な活動によって獲得された私有財産は倫理的に絶対的に擁護されるべきものです。その権利を税金などの形であれ、わずかでも取り上げるような国家とはすなわち、倫理的にみて強盗団にほかならないと喝破したのです。

 以上、リバタリアニズムはさまざまな思想的淵源を持っており、論者によってその主張はそれぞれ異なります。おそらく共通しているのは、自由な社会は平等主義的な社会に比べて、より個人の物質的な生活が豊かであるという意味で望ましく、また人びとはより自分の個人的目的を達成することができるという意味で倫理的にも望ましい、という二つの信条だといえるでしょう。

 

ノラン・チャート

 アメリカではこのような考え方を実践するために、1971年からリバタリアン・パーティという政党が存在します。しかし、残念なことに、その政治力は微々たるものでしかありません。そもそも政府を縮小するために政府の政権をとるというのは、ちょっと考えても大きな概念矛盾があるからでしょう。

 自由を極大化するために現状よりも小さな政府を目指す政治家は、民主党よりも共和党に所属することが多いようです。たとえば1978年から8年間政権を担ったレーガン大統領なども共和党から立候補して、経済的には小さな政府を標榜して規制緩和を推し進めました。

 リバタリアン・パーティはたしかに政治的な影響力はほとんどありませんが、その創始者であるディヴィッド・ノランは、リバタリアニズムを理解する際にひじょうにわかりやすい図を考えました。広く知られている、この政治勢力の分類図はノラン・チャートと呼ばれています。

 

 

                      精神的自由 

 

 

         リベラリズム                  リバタリアニズム

 

 

                                         経済的自由

 

         全体主義                   愛国的保守主義

 

 

 チャートを見てください。縦軸には精神的自由度の高さが、横軸には経済的な活動の自由が表現されています。

 左上のクオドラントは、リベラリズムをあらわしています。リベラリズムは因習的思考に反対し、精神の自由を高く評価するという点で、いわゆる進歩的知識人の政治嗜好をあらわしています。岩波書店・朝日新聞に代表される言論界、あるいは主に大学人たちのような知識階層がここに当てはまることが多いでしょう。裁判所などを闊歩する裁判官や弁護士にも、こういう考えが支配的です。

 政党としては、旧社会党や現在の社会民主党、極端ではありますが、共産党などがここに位置します。現在の民主党では、菅直人や鳩山由紀夫などが、弱くはありますが、このクオドラントにはいるといえるのではないでしょうか。

 チャートの右下のクオドラントにあらわされているのは、経済的には自由主義を標榜しながら、同時に愛国精神による思想的な統制を望む人たちです。現代日本の政治状況においては、新自由主義と呼ばれるナショナリズムがこれにあたります。

 これに関連して興味深い事実は、ほとんどの国でのネット愛好者たちのサークルでは、愛国主義的で外国人に対する排外的な発言が目立つことです。日本でも、国際派である新聞社などの大手マスコミは中国や韓国の日本批判に対して融和的な態度をとっています。これに対して、一般庶民の発言が書き込まれている2ちゃんねるなどでは、「ネットうよ」、つまりネット上の右翼が主流となっているのです。そこでは対日批判を続ける中韓に対しても、侮蔑的・軽蔑的な発言が圧倒的多数です。

 おそらくこれは、外国の言語や文化にもよく通じており、世界的な視野をもつことが多い知識人に対して、一般庶民が日本という言語的にも空間的にも閉ざされた国にのみ生きているからでしょう。生活空間が狭い下流社会に住んでいる人ほど外国人などの他者への偏見や排外意識が強いことは、ドイツのドイツ民族主義集団ネオナチやアメリカの白人優越主義集団KKKなどでも同様であり、歴史的にも社会学的にも事実でしょう。

 さて左下のクオドラントは全体主義です。その極限は、北朝鮮のような国家です。それは思想的にも民族主義的社会主義を強制し、経済的にも計画経済と集産化を推し進めた社会であり、そこには物質的な豊かさも、精神の躍動的な自由もまったくありません。この点、中国やヴェトナムでは思想言論統制を続けながらも、経済活動については徐々に自由化しています。図でいうなら、左下から右下へと次第に移動しつつある社会だといえるでしょう。

 さて本題のリバタリアニズムは、右上に位置します。リバタリアニズムは精神的活動においても経済的な活動においても、最大限の自由を保障しようとします。左上のリベラリストからみると、「経済行為とは私利私欲に目がくらんだ金儲け」にすぎないため、あるいは物質的な不平等を拡大する社会的必要悪であるため、大幅に規制するべきだということになります。よって、リバタリアンは過度の私有財産制度の擁護を試みていると攻撃されることになります。また右下のナショナリストからも、親英米的な自由主義にかぶれた売国奴であるとして非難されることが普通です。

 つまりリバタリアニズムが一般的に不人気なのは、そのよって立つ基盤が伝統的に二分化されてきた政治陣営のどちらからみても、容易に譲歩しがたい相違点を持っているからなのです。

 実際、私を含めてリバタリアンの多くは国家というものはなるべく小さいのが望ましいと思っていますが、これはどちらかといえば資本主義体制や私有財産制度を肯定します。とすれば、この点からすれば、右翼的、あるいは保守的だとみなされることが普通です。これは、知識人階級のもつ平等主義に基づく経済的活動の抑圧は、職業生活こそが自己実現である多くの一般庶民の活動を無意味なまでに矮小化するものとして批判することでもあります。

 ところが同時に、リバタリアンはほとんどの場合、ナショナリズムもまた危険であるとみなします。ナショナリズムとは、まず民族ありきであり、どの民族に属するかが相手に対する行動の重要な基準になります。これに対して、リバタリアンは民族的な差別・区別は個人的な行動としては許されるが、国家のような強制権力内にはこれに反対する人が含まれる以上、国が伝統的民族主義などを教育することは少数者の自由の侵害であるとして、徹底的に糾弾します。しかし、このような考えはほとんどの保守的な民族主義者にとっては、ほとんど理解不可能でしょう。

 こういった理由から、リバタリアニズムは日本ではいうまでもなく、多くの国ぐにで大きな社会的な勢力となりえていないのです。

 

福祉国家から夜警国家・最小国家へ逆戻り?

 ノラン・チャートにあらわれているように、リバタリアニズムは思想・良心の自由は当然に重視しますが、それだけでなく、経済活動もまた可能な限り自由におこなわれるべきだと考えます。これはつまり、19世紀に思想的に全盛期であったと考えられる、自由放任主義、あるいはレッセ・フェールへの全面的な逆行であるとも考えられます。

 自由放任主義とはすなわち、人間の自由な経済活動は干渉されるべきではなく、個人の自由な活動の任せておけばおくほど社会全体はより豊かになり、望ましい社会になるのだという思想だといえます。

 このような思想をはじめて世に問うたのは、18世紀の思想家マンデヴィルでした。彼は1714年の主著『蜂の寓話』の副題を、「私的な悪は公的な益」と銘打っています。彼がそこに暗喩したのは、個々の蜂が一見して無秩序に自分の利己的な利益を求めてブンブンと動き回っているのに、その結果としては、全体としての蜂の巣、つまり社会全体はより望ましいものになるという逆説だったのです。

 明らかにマンデヴィルの考えに触発されて、1776年アダム・スミスは『諸国民の富』を著しました。そこでスミスは、われわれが肉屋にいって肉を買えると期待できるのは、肉屋の慈善的な心性によるのではなく、肉屋の金儲けの利己心によってなのだと指摘します。明らかに、私たちの現代資本主義社会とは、このような無数の利己的な心性によって維持・発展しているものだといえるでしょう。

 

アダム・スミス

 

 

 その後、19世紀の初頭に、デイヴィッド・リカードは『経済学原理』を著し、貿易をおこなう2国間の比較生産費のモデルを発表します。そこで彼は、政府に干渉されない自由貿易は、必ず貿易両国にとって物質的により豊かな状況をつくりだすことを証明しました。ここに経済学の古典派が完成し、経済はレッセ・フェールにあればあるほど豊かになるという考えが、19世紀の支配的な学問的認識となるのです。

 そしてリバタリアニズムは、このようなレッセ・フェール、あるいは夜警国家への回帰を訴えているのです。

 現在、ほぼ全世界の国家は社会国家、福祉国家としての役割を自認し、国家的に運営される救貧・防貧政策から、年金・医療保険などの社会保障制度にいたるまで、ひじょうに多岐にわたる任務を果たしています。

 しかし、その結果はどうでしょうか。生活保護を受ける家庭は急増しています。彼らの多くは低賃金で働くよりも、むしろ保護を受けて生きたほうが割がよいことを知って、働くことを放棄しているといっていいでしょう。国民年金制度にしても、度重なる年金保障額の引き下げで信頼を失い、すでに未払いが4割近くにもなっています。

 このような状況に対して、クニガキチントを信じる人たちは、さらなる強大な国家制度の枠組みを構築して、状況を打開するべきだと主張しています。けれども、私にはそのような政策が望ましいとも思われないし、うまく機能するとも思われないのです。

 警察は国家がおこなうべき最小限度の権力的、あるいは暴力的行為ですが、その警察が青少年の保護などの社会福祉係になるというのは、そもそも能率がよいはずがありません。警察機構の本来的な任務である、犯罪行為の防止という治安維持の観点から見てみましょう。

 防犯業務ではない業務の遂行にも、時間的・人的資源はかならず必要とされます。そうなれば、未解決の事件が残ったり、あるいは夜間パトロールの時間は減ってしまうでしょう。このようなトレード・オフが存在する以上、強制権力を持ち、税金で維持される警察には、犯罪行為に限っての抑止行動に注力するべきです。

 また国防や外交も重要です。一例として、ここで北朝鮮による横田めぐみさん拉致事件について考えてみましょう。誘拐という犯罪行為をおこなったのは北朝鮮という国家組織です。そして、そのような組織的な犯罪行為を実行した人物たちは全員が北朝鮮にいるのです。このような状況において、横田めぐみさんの両親のような個人にとって、何かできることがあるでしょうか。

 主権国家が並存している国際社会の現状では、自国民の保護とは、いうならば自分やその家族を強盗団から守るというような第一義的な要請だと思います。国内の景気浮揚というような、そもそも国家によってできるものなのかどうかもわからず、かつ人の生命に差し迫った緊急性もないことよりも、はるかに重要なことです。

 にもかかわらず、誘拐された自国民保護をおざなりにしたままに20年以上が過ぎ、小泉首相が日朝会談を最初におこなった2002年以降、現在に至るまで事態の全容も解明されないままです。福祉国家を掲げる日本の政治家は、この間、明らかに重要度の低い国内の社会問題などを論じ続けているのです。いかにも本末が転倒しているのではないでしょうか。あまりにも多くの目標を掲げる社会国家の持つ矛盾をさらけだしているといえるでしょう。

 クニガキチントの誤りに基づいてあらゆることを国家に要求するのはやめて、それらは後述するように、NPOその他の強制権力を伴わない自主・自発的な組織にゆだねるべきです。そして国家は警察、国防・外交に専念するべきなのです。それは時代に逆効するというものなどではなく、むしろ20世紀の社会主義的な試行錯誤を経て、人類が達した教訓だと考えられるでしょう。

 

ではなぜ夜警国家がなぜ必要なのか?

 ではさらにすすんで、夜警国家さえも必要はないと考えることはできないのでしょうか?

 アナーキストはほんのわずかです。無政府を信じる私のようなアナーキストを除いて、通常の経済学者であれば、最低限度、国家として警察、国防、外交の三つの任務に当たる「国家」あるいは「政府」が必要だと考えます。

 それはこれらの三つの任務には、純粋な意味での「公共性」があるからです。一般的な言葉としての「公共性」という概念はひどく濫用されており、およそ多数の利益にかかわることはすべて公共的であると考えるのが通常だと思います。

 しかし、経済学でいう「公共性」はこれとは異なります。それはもっと厳密なもので、公共財とは「その利益や損失の享受が非排他的なこと、つまり、一人が受ける利益が不可分に他人にも利益になるような財やサービス」のみに対して使われます。たとえば、警察活動の中でもパトロールなどの犯罪の一般予防に関する活動は、夜に街を出歩く私の受けるサービスと、同じように出歩いている他人とに対して、同じように利益をもたらすと考えられるのです。

 国防にいたっては、北朝鮮からのミサイルから私を守ってくれる迎撃体制が、私の近くに住むすべての人の利益になることは疑いないでしょう。同じように、外交活動によって横田めぐみさんを取り戻すのも、自国民保護という目的において、誰彼の区別なくそのサービスを潜在的に受けるものだと考えられます。

 以上が、厳密な経済学でいう「公共性」という概念の意味するものです。これら警察、国防、外交のサービスは私の受ける利益と他人の受ける利益とがあまりにも密接不可分であるため、それらをおこなうための政府を必要とするのです。

 とはいえ、もっとゆるやかな意味での公共性は、公害対策などの環境規制や河川の溢水を防ぐ防災活動などにも使われます。こういった活動は、利益を受ける人々や損害を被る人々があまりにも多く存在します。そういった活動について、その経済的な対価の一人一人の支払いを通常の交渉にゆだねるのでは、あまりにも合意に達するための費用(これを取引費用といいます)がかかりすぎてしまいます。結果として、公害紛争などの当事者間ではなんらの合意も得られないことになってしまうかもしれず、これでは経済全体としては大きな損失を被ることが考えられます。

 すでに1960年、シカゴ大学のロナルド・コースは「社会的費用の問題」という論文を書いて、このような公共性の問題はつまり、取引費用の問題に帰着させることができることを指摘しています。

公害などのように、あまりにも数多くの人たちが利益主体となるような法律関係は、公害を起こす企業や個人と、その公害の被害を受ける多数の個人との間で、容易に交渉がまとまるはずがありません。

 その結果、公害物質の排出は過剰になるかもしれません。あるいはその被害を全面的になくするために、有用な物質が作られないことになってしまうかもしれません。どちらにしても、経済全体としては大きな機会的な損失をこうむることになってしまいます。

 そこで、全知全能で慈悲深い「政府」があれば、二酸化炭素やさまざまな窒素化合物などの有用な経済活動の伴って生じる公害物質の最適な排出量を決め、誰がどの程度、被害の補償をおこなうかというような問題もすっきり解決するというわけです。

 しかし、現実の政府は、それ自体が自己肥大化という目的をもつ怪物です。さらに、私には現存する政府に勤める官僚に、民間人の遠く及ばないようなすばらしい判断ができるとは思えないし、そもそも正しい判断をするためのインセンティブにも欠けていると思います。結局、政治的な単なる妥協の産物が私たちに押し付けられることになるのです。

 政府がどの程度の役割を果たすべきかに関しての議論は、これだけに尽きるほど単純ではないでしょう。しかし、一つだけいえるのは、経済学者が考えるような、取引費用の大きさから必然的に生じる政府活動の必要性はごくごく小さいということです。そして、それに比べると、現代国家では、あまりにも有害で多様な活動を政府がおこなっているということなのです。

 私は最少数派のアナーキストですから、ゴルフにたとえるなら、ほとんどボールの大きさと同じほどに小さなホールを狙っているのだといえるでしょう。リバタリアンの大多数を占める最小国家を目指す人たちであれば、先に述べたような夜警国家を考えます。これはゴルフでいうなら、グリーンという比較的ひろい目標をねらっていることにたとえられるでしょう。

 どちらにしても、現状の福祉国家というティーショットから打つ方向は、まったく同じだといえると思います。政府は無意味に肥大化するべきではなく、強制権力を持っている以上、謙抑的な夜警国家にとどまるべきなのです。

 

世界的に再評価されつつあるリバタリアンな政策

 福祉国家の概念は第二次世界大戦後、広く先進国に普及しました。そこでは国家が国民に対して「ゆりかごから墓場まで」の世話をすることが理想とされたのです。このような理想を実現するために、たとえばイギリスでは、大きな主要産業の国有化や社会保障制度の拡充を図りました。

 その結果、国営企業の労働組合は市場競争がないなかで、賃金上昇や労働条件の改善を求めてストライキを繰り返しました。同時に、福祉政策によりかかった多くの人びとが働かないことを選ぶようになり、生産効率は停滞し、経済成長は著しく鈍化しました。

 このような状態を憂い、市場主義の導入による経済の再生を目指したのが、1979年からの保守党のサッチャー政権でした。サッチャーは電話、ガス、航空会社などを民営化して、労働組合の政治力を弱体化させました。また金融でもビッグバンとよばれるほどの大幅な規制緩和を断行し、ロンドンにあった金融街シティを再生させ、大英帝国時代の世界の金融センターとしての地位をふたたび確固なものとしたのです。

 

ロナルド・レーガンと中曽根康弘

 

 

 時を同じくして、アメリカでも共和党のロナルド・レーガンが大統領になり、国家による通信業界、航空業界の過剰な規制などを緩和して経済を活性化させようとしました。また、日本の中曽根康弘首相は国鉄や電電公社(現NTT)の民営化によって、硬直化しつつあった日本経済にカンフル剤をうったのです。

 ニュージーランドでは1984年、それまでの社会国家に比べてはるかにリバタリアンな政策が採用されました。これは時に、「経済原理主義」とまで呼ばれたほどでした。まず、国営企業は電話から金融、航空、鉄道の運輸にいたるまで民営化されて売却されました。そして、産業保護や規制はその多くが撤廃され、大学は独立法人化され、中央官庁の官僚も半減させたのです。

 この時代から、市場を重視する勢力は、国民の平等を国家によって実現しようとする福祉国家政策の増大に対して、大きな疑問を投げかけるようになったといえるでしょう。これはソヴィエトの崩壊と社会主義陣営の市場経済化によって、急速に拍車がかかったことはいうまでもありません。

 その後、日本ではバブル崩壊を経て、90年代は「失われた10年」と呼ばれた経済停滞の時期を迎えました。ついに2001年に小泉純一郎が首相になると、彼は「改革なければ成長なし」を掲げて、道路公団や郵便局の民営化に踏み切るのです。

 2006年現在の日本経済は回復基調にあります。とはいえ、私の意見では、小泉政権の後半2003年ごろから日本の経済が再び成長し始めたのは、経済改革が実行されたためではないと考えています。理由は単純です。経済が回復し始めた2003年の時点では、目に見えるような経済改革は未だに実施されていなかったからです。

 しかし、経済を活性化するために多様な国営組織を可能なかぎり民営化する、つまり「民間でできることは民間で」というスローガンは、リバタリアニズムの目指す小さな国家と軌を一にしているといえるでしょう。

 実際には、アメリカへの一極集中が叫ばれる中でも、必ずしもリバタリアンな政治が世界の圧倒的な潮流となっているとまではいえないと思います。

 この理由は後述するように、自由な経済活動が必然的に人びとの間の貧富の格差を広げてしまうという点にあると思います。これは、おそらくリバタリアンな政策のもっとも大きな弱点であるでしょう。たとえば、南アメリカではこれまで比較的親アメリカ的な自由主義を標榜する政府が多かったのですが、90年代以降の経済成長によって社会の貧富の格差が広がるにつれて、反米的な政府が次つぎと誕生しているのもまた事実だからです。

 

最小国家での医療制度

 それではここで、もっと具体的にリバタリアンな政治について考えてみましょう。まず最初に、もっとも端的でわかりやすく自由という概念が理解できることから、医療制度について考察をくわえることにします。

 現在の複雑にいりくんだ医療制度についての話をわかりやすくするために、まず第一の仮定として、現在の国家によって認定された大学による医師養成、ならびに独占的な医師の認定制度を前提にして、まずは医療保険制度についてのみ論じてみましょう。

 これを、医療制度に関する自由度レベル1の社会とでも名づけることにしましょう。

 自由度レベル1の社会では、国家が国民に加入を強制する医療保険などはありません。その結果はどうなるのでしょうか。国民はすべからく医療費の全額を支払うことを要求され、金持ちは命が助かるが、財産が少なくて治療費を支払えない人は、そのまま見捨てられて、のたれ死ぬしかないのでしょうか。

 常識で考えても、保険制度が発達した豊かな先進国が、こんな状態になるはずはありません。ほとんどの人は、病気などのリスクに対しては、危険回避的です。いいかえるなら、万が一にそなえて疾病・障害保険に入るためには、リスクを考えて、保険数理的にフェアな金額よりもすすんで多くを支払う用意があるということです。

 ここに保険会社の存在意義があります。レベル1の社会ではほとんどの人びとは保険会社と契約をすることによって疾病による財産的な危機を回避しようとするでしょう。そこでは、タバコを吸う人と吸わない人の保険料はリスクに応じて異なるでしょうし、そのほかにも多くの疾病リスクの細分化によって、異なった保険料が、異なった会社で設定され、それらから一般の契約者は自分が納得できるものを選ぶのです。

 なかには金銭的に余裕がない、あるいは危険回避的ではない、という理由から保険に加入しない人も出てくるでしょう。しかし、そういった人たちの存在が問題だと思う人は、彼らに補助金を与えて保険に入らせればいいでしょう。もちろん、自らの財産を使ってです。

 正直にいって、私には、本当にすべての人があまねく保険に加入する必要があるとは思えません。タバコをすって自分の寿命を縮めるのも、バイクに乗って身体障害者になるリスクを高めるのも、保険に入らずに人生をギャンブル的に生きるのも程度の差こそあれ、基本的には人間の生き方の自由に含まれると思うからです。

 人はそれぞれ自分が価値だと思うものに対して、自分の人生を使えばいいのです。単に長く生きることは、必ずしも幸せを意味するわけではありません。人はみな、単に生きるために生きるのではなく、それぞれが自分なりに掲げた目的の達成のために生きているのですから。

 長く生きるために自分の物的な資源を使うか、あるいはそれ以上に重要な個人的な価値のために散財するのかは、本人の財産権の処分であり、本人だけが決めることができる性質の事柄です。保険に入らずにのたれ死ぬのも、また人生の自由で多様な選択肢として認められるべきです。命より大事なものはないなどという、余計なお世話の心から、他人の感じる価値を無碍に否定するべきではないと思います。

 さて次に自由度レベル2の社会について考えてみましょう。

 

民間で認定される医師資格

 レベル2の社会では、医者とはすなわち、現在のパソコン管理者としてのオラクルマスターやマイクロソフト認定資格者などと同じように、いくつかの民間認定機関が認定した医療技能を持つ個人をさすことになります。

 もちろん、医療行為は高度に専門化されており、専門家ではない素人にはある医者の医療技術の信頼度ははっきりしないでしょう。

 だからこそ、認定機関が重要なのです。民間の認定機関は、その認定医師が医療過誤を起こせば評価が下がります。複数の認定機関と格付け機関が、現在の都市銀行と企業格付け機関のように相互に競い合えば、最先端医療の現場の医師への再教育にも熱心になります。また、若いときには医師としての診療技術のレベルを保っていたが、高齢化して技術を維持できなくなった医師には、市場から退出してもらうこともできるのです。

 もちろん、医師の資格も多様に存在してかまわないはずです。現在の医師資格は、いったん取得してしまえば死ぬまで有効であり、内科、外科、皮膚科、眼科、など分野の大きく異なる医療行為もすべてできるという、たいへんにいい加減な資格、いうなれば医師の既得権益的資格になってしまっているのです。

 民間認定機関では、真に能力がない場合には医療の特定専門分野のエキスパートとはみなされません。また、認定をおこなう機関どうしが競争することによって、現在の国家資格よりもはるかに安全で信頼できる医師が大量に誕生するでしょう。

 S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)とムーディーズは、企業や公共団体の債務の格付けについて、お互いが競い合っているからこそ信頼できるのです。かりにトリプルAをつけて絶対に安全だとした企業がつぶれれば、格付け機関は信用を失ってしまい、その後の存続自体が危ぶまれます。従業員のモラルにしても、自らの給料そのものが業務の公平性、信頼性にかかっていることが認識されているからこそ、万一の際の自浄作用も期待できるというものです。

 それに対して、クニガキチント医師を認定する現行制度には、基本的に競合関係に立つような組織がないため、そもそも緊張感がまったくありません。どのような医療技術が安全生が高いのか、あるいはどのような可能性を秘めた治療法があるのか、そしてどのような治療法を学ぶのが望ましい医師としての知識なのかを、真剣に吟味するための経済的なインセンティブが誰にも存在しないのです。

 また現行の医師制度では、一度医師になってしまえば資格は永続しますから、一人一人の医師が新しい医療技術について正しい知識を習得する必要はまったくありません。医師のモラルだけに期待するのは合理的ではないように思います。

 ここで、複数の医師資格が存在するなど考えられないと叫ぶ前に、ぜひとも思い起こしていただきたいことがあります。それは現在でも、世界の各国において認められている医師というのは、そもそも異なった国家によって異なった選抜をへて存在しているという事実なのです。

 みなさんは、海外旅行先で病気にかかったとして、現地の医者がそれほど信用できないでしょうか。私はアメリカに8年近くいましたが、その間、何度もアメリカの医者に通いました。そこではおおよそ日本と同じような医療設備があり、治療も同じようなものだったにちがいありません。それは医療的な知識や技術、あるいは設備には差こそあれ、途上国でも同じだと思います。

 しかし、日本の医者が要求されている知識とアメリカの医者のそれとは、たしかに違いがあるのです。同じように、フランスの医者とドイツの医者、中国の医者の知識や教育は異なっています。しかし、それなりのコンセンサスはあり、違いは少ないでしょう。私が主張する多様な医師制度も、結局は、その程度の違いしかないことになるだろうと思われるのです。

 また、現行の国家的な医師認定制度から、民間の認定制度に移行する際にはどうしても過渡的に複数の資格が並存することになるはずです。どうしても新しい民間の医師資格の認定制度が不安だという人は、過去に日本国の公的制度によって認められた医師、あるいはそれらの医師が主に勤務するような病院にいけばいいのではないでしょうか。

 最後に、医師の国家的に認定制度のダークサイドについてひとこといわせていただきたいことがあります。

 公共性を自認してやまない大新聞の第一面、そこに大見出しで書かれている記事の下に広がる広告欄をじっくりとご覧ください。「アガリクスでガンが治った!」「痛みをとる!リンパ反射療法」「メシマコブで無敵の免疫!」といった、明らかに薬事法違反、あるいはスレスレの限界表現を使った書籍の宣伝が目立ちます。こういった状況は民間療法、あるいはヒーリングビジネスでも同じです。カルト的新興宗教の多くが、信仰による病気の快癒をうたっていることもよく知られていることでしょう。

 私は、まったくこういった民間療法を信じていません。健康法はといえば、せいぜいマルチビタミンやミネラルコンプレックスなどの代表的なサプリメントを服用するぐらいです。しかし、私にしても思うのです。あるいは、これらの一見してバカげた民間療法の一つぐらいは本当に効果がある可能性も、まったく否定することはできないのではないかと。

 どのような医療を受けるのかを決めるのは、本来個人の自由なはずです。その際に参考にする意見には多種多様なものがあってもいいでしょう。丸山ワクチンが効くのか効かないのかについての議論は国際的な医学会で論議されて、それを参考に個人が決めればよいのです。

 あらゆる学問的知識には、論争があります。自分がガンなどの致命的な病気になってしまったときには、かかりつけの医師の判断に任せるのもいいし、それがいやならNPOに聞くもよし、自分でネットで調べるのもいいでしょう。しかし、なにも国家がわざわざガンと関係のない人から集めた税金を使ってまで認定する必要はないのではないでしょうか。

 



共通テーマ:日記・雑感

日本の政治とリバタリアニズム

日本の政治とリバタリアニズムについて採録

1、公共選択理論は何を教えるか
 現在の自民党の改革路線というのは、2001年に首相となった小泉純一郎元首相が旗印にしたものだが、彼の政策はその後の安倍政権を経て、現在の福田康夫首相に続いてきた。彼の主張した「聖域なき構造改革」は「小さな政府」を目指し、具体的には郵政民営化、道路公団民営化、中央から地方への税源移譲など、「官から民へ」の改革がなされたという建前であった。
 郵政の民営化に関しては、2005年の総選挙では自民党の中でも反対勢力を「抵抗勢力」と呼び、自民党から追い出すパフォーマンスで国民の支持を得た結果、圧勝を収めたのである。
 さて、小泉内閣をさかのぼること約20年、中曽根康弘首相は1982年から87年までに大規模な民営化政策を行った。日本電信電話公社(現NTT)の民営化、日本国有鉄道(現JR各社)の分割民営化、日本たばこ専売公社(現JT)の民営化など、多くの官業を民営化したのである。
 日本のように官業が数多くの分野で残っている国では、それらの赤字構造が定期的に問題化し、それを処理するために民営化が取り沙汰されるということなのだ。それが地殻のねじれのようなエネルギーとして溜め込まれ、定期的な地震活動よろしく噴出さざるをえないというわけである。
 しかし、小泉改革の対象となったのは、彼自身の長年の公約であった郵便局の民営化と、道路公団の民営化だけであった。政府による直接業務の非効率には、それ以外にも、まず本丸である、国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫などといった公庫や国際協力銀行、日本中央競馬会などの特殊組織に代表される70以上もの特殊法人がある。
 さらに、その外側には武家屋敷として、自動車運転安全センターなどのどうでもいいような無意味有害な認可法人が86もある。その他、国からの補助金を受けている城下町には公益法人は1000以上もあるのである。まさに霞ヶ関官僚の天下りのために、虎ノ門には今なお広大なお化け屋敷が広がっているのだ。

官僚の天下り
 さて、官僚の天下りは、一体どの程度広がっているのだろうか。
 公益法人や特殊会社、独立行政法人などに役職員として天下りした国家公務員は、2006年4月現在で、2万7882人いる。このうち役員クラスは1万1888人であり、天下り先の団体は全部で4576である。2006年度上半期で省庁からこれらの天下り先への補助金や事業の発注などによる交付額は約5兆9200億円であった。これは民主党が要請し、衆院調査局が実施した結果、報告されているのである。
 この調査は毎年実施されている。前回調査では05年4月時点で天下りは2万2093人、交付金額は約5兆5395億円であった。この間も、小泉総理大臣の任期中である。つまり、小泉改革の真最中にも、天下り官僚も天下り先法人も増えているのである。
 これは驚くべきことだ。「改革」を謳った小泉首相の在任時に、官僚の利権は年間4000億円も肥大化していたのである。これだけをみても、改革というものがいかに不徹底であったこと、また改革の流れなど政府関連機関の肥大化には、なんの歯止めにもなっていなかったことがわかるのだろう。
 こういった実態を受けて、2008年には「官民人材交流センター」という、天下りを一元的に取り扱う組織が誕生するということになった。これによって、各官庁による直接的な後者などへの天下りを抑止し、後者や民間企業とその監督官庁との権益の結びつきを弱めようというのである。
 実際、このような政治家主導の天下り禁止には、既得権益をもつ官僚組織は大反対している。例えば、この官邸主導による国家公務員法改正案に対しても、財務省が反論書を提出している
 各省庁による天下りあっせんの禁止について、「一律に規制の対象とするのは適切でない」、さらに独立行政法人や公益法人などを除外するよう求めている。もちろん、他の省庁も同調するとみられている。
 また、その冒頭では「再就職に関する規制を先行して強化すると、官民交流を阻害するのではないか」と、ある種の正論をはいているほどである。改正案では、天下りあっせんをした職員に対しての懲戒処分が提案されているが、これに対しても刑法的に見て「十分な理論的根拠が明らかでない」と反発している。
 というわけで、天下りの規制はうまくいかないに決まっている。過去にも官僚の天下りは問題となり、官庁を退職してから2年間は再就職が禁止されたはずである。しかし、現実には、2年間が過ぎればやりたい放題になってしまっているのだ。「官民人材交流センター」でも、各省庁からの横槍が入って、実質的には「再就職には問題がない」というお墨付きを与えるだけになるに違いないのである。
 このような懸念は、多くの民間企業の側にも存在する。日本経済新聞の2007年5月9日の記事では、54%の民間企業では、しょせんは各省庁からの横槍が入って、天下りの禁止は機能しないだろうと予測している。
 またどのみち、抜け道も数多くあるだろう。たとえば、地方にも半官半民の第三セクターの企業は大量にある。まず、地方の出納局や副知事、助役として天下った後に、地方の三セクの役員に天下るのは、特に難しいことではない。
 おそらく、これ以外にもたくさんの抜け道があるだろう。補助金づけの地方自治体は中央とのパイプ役を必要としている。またゼネコンなどが国土交通省幹部との、また製薬会社や日本医師会が厚生労働省幹部とのパイプが必要であると考えるのなら、必ずや脱法的にルートができ上がるだろう。
 こういったすべては、許認可権限がうみだす悪しき政治的特殊利益である。これをなくすためには、我われの行政システムが徹頭徹尾、構成・透明で利益誘導のできないものである必要がある。しかし、そんな官僚組織はプラトンのイデアの世界にしか存在しない。だからこそ、例えば、ドイツなどでも42歳以降の中央官僚は他の企業に就職できないという法律があるのである。
 残念なことに、歴史法則として「権力は必ず腐敗する」。年金不安の問題でも、社会保険庁の年金データベースはまったく統合されないままに多くの人たちが年金額を減らされていた。しかし、だからといって職務が保障されている役人である職員の誰かがその責任を取るわけでもなく、給与が下がったわけでもない。
社会保険庁の役人にも、地方公務員にも社会保険料を着服した輩が少なくとも、100人以上もいて、約4億円が詐取されているのである。政府が民間企業よりも信頼できるとは到底いえないことは、この件からも自明だろう。
 民間企業には解雇という制度があるが、公務員でも分限免職という制度があり、その身分を奪うことができないわけではない。公務員への異常な優遇は止めて、民間と同じように中途採用も解雇も適宜おこなえばいいだろう。待遇の保証や天下り先が確保されていなくても、公務自体に意義を見出す人もいるはずである。そういう公共精神にあふれた人たちに公務をやってもらうべきなのである。
 戦後の安定した経済体制も、すでに70年にも届こうとしている。70年といえば、江戸時代において、大阪夏の陣によって戦国の世が終わり、江戸を中心とする幕藩体制が完成してから、やがて元禄文化が爛熟し始めるまでの時間である。当時、幕府は急速に財政難に陥ってゆき、やがて徳川吉宗による享保の改革が必要とされていったのである。現代社会のように変化の速い時代に、この長期間に制度疲労が起こっていないとするなら、それのほうがよほど奇妙なことだろう。
 実際のところ、官僚組織による自己利益の追求は、誰の目にも明らかだ。2007年3月発表の内閣府の発表した、公務員制度についての特別世論調査の結果をみてみよう。
 国家公務員が国民のニーズに応える働き働きぶりをしているかどうかについて、56%の人が「国民のニーズに応える働きをしていない」と回答している。うちわけは、「あまりしていない」が45・8%、「全くしていない」が10・2%である。これに対し「十分している」は3・1%、「ある程度はしている」も32・1%にとどまっている。
 さらに、働きぶりを評価しない人に、制度の問題点を複数回答で尋ねたところ、「『天下り』が多い」が75・5%で最も多く、「働きが悪くても身分が保障されている」(65・1%)、「給料が民間に比べ高い」(56・7%)と不満が続いている。
 また調査結果によると、天下り問題の解決策については、全体の44・1%が「企業などに再就職することは認めるが、出身の役所とは接触できないよう規制する」と回答している。また「定年まで勤め上げるようにする」が26・8%、「再就職が可能な企業などの選択を制限する」が19・6%であった。
 しかし、これらの対策は実質的に、官僚個人の経済活動や政治活動の自由を奪ってしまう。その実現は人権上も、あるいは社会公正の点からも望ましいことかどうか自明ではない。また現実的にも、官僚たちの強力な反対にあって実現することは不可能だろう。
 ここで重要なのは、こういった「官僚の天下り」といった現象に対しての、単なる対症療法を考えることではない。そうではなくて、そもそも高級官僚の天下りがなぜ多いのかを考えてみるべきなのだ。つまり、官僚の権力の源泉は、官僚組織が民間活動に対して、権限によって恣意的に経済活動の自由を規制していることにある、という事実に着目するべきなのである。
 我われのリベラルな願望は、自分のためには決して利益を優先せず、純粋に公益のために活動するような組織、あるいは人物たちを求めている。まさに、これはかつての共産主義者たちが抱いていた願望そのものである。
 我われの政治制度の設計にあたっては、現実の人間に不可能を要求したり、存在するはずのない人間を選抜しようとするべきではない。私たちの誰もと同じように、ごく普通の人が官僚になるのだという前提から出発するべきなのである。

公共選択理論
 1962年に経済学者であるジェームズ・ブキャナンと政治学者であったゴードン・タロックは、『合意の計算』という一冊の書籍を出版した。広く知られるようになったこの本は、「政治的な合意」が形成される際には、有権者による投票活動だけではなく、政治家にロビー活動をおこなう利益団体が大きな役割を果たしていることを指摘したのである。
 以降、このような学術研究は次第に発展し、公共選択理論と呼ばれるようになった。この研究はまた、ブキャナンとタロックを中心にヴァージニアにあるジョージ・メイソン大学やヴァージニア工科大学などの大学で進められたため、ヴァージニア学派と呼ばれることもある。
 今となっては、こういったものの見方に対しては、別段の驚きも感じないかもしれない。しかし当時としては、政治活動とは何か特別に理想主義的なものであり、利益団体が自分達に都合がいいように政治家や官僚を誘導していると認識するのは、大きな視点の転換だったのである。
 それまでの政治学では、「政治はいかにあるべきか」を問うことはあっても、現実の政治がいかなる過程でおこなわれているか、については多くの関心が割かれていなかった。これは、今でも多くの政治学者の陥っている現状でもある。
 ブキャナンとタロックは、有権者、政治家、官僚、利益集団のそれぞれが自分たちの利益を最大化しているという、経済学的な視点から現実のアメリカ政治を分析した。これをゲーム理論的に表現するなら、政治活動のプレイヤーのすべてが基本的には利己的であると仮定し、彼らが非協力ゲームの状況で行動戦略を選んでいると考えるのである。
 有権者は利益集団を形成し、政治家に投票することで何らかの特殊な政策を支持します。農家は農業保護を約束する政治家に一票を投じるだろう。政治家は、当選を確実にするために特殊利益集団から集票し、あるいは同時に特殊利益団体からロビーイストを通じて金銭的にも援助を受けるのだ。
 官僚はどうだろうか。中央政府、地方政府の役人は、それぞれ自分達の業務が増えると同時に、より大きな予算がついて、より大きな部署になり、分業で仕事が楽になるように法律を誘導する。権限が大きくなることもまた、後の再就職、天下りには有利になる。
 実際、こういった多様な思惑が、政治的な意思決定をめぐりって交錯し、全体の妥協としての法律と運用が定着することになる。このような視点は政治経済学の一部として目覚しい進展を遂げ、ブキャナンは1986年にノーベル記念経済学賞を受賞した。
 それから20年がたった現在では、民主主義的な政治にはひじょうに大きな非効率があることは常識となっている。例えば、アメリカでも砂糖やピーナツ、綿花などの価格には、政府の公定価格があって、農家は外国からの競争から保護されている。しかし、これらの農産物のどれひとつとして、アメリカのような先進国家で作られる必要性などはないのである。
 しかし、だからといって、民主主義に代わる制度があるわけでもない。明らかに独裁制、その他の政治体制が望ましいはずがないからだ。そこで、ブキャナンは後述するように、「立憲民主主義」を掲げ、憲法改正をおこなうべきだと主張しているのである。
 もちろん、このように政治家や官僚の行動が「すべて」自分中心であると考えるのは生きすぎだろう。実際、タロックは『行きづまる民主主義』において、「人間は95%利己的で、5%は利他的である」という程度の前提が現実的ではないかといっている。
 その意味するところは、我われの誰もが自分や家族の生活を一番に考え、ついでさらに親戚や友人にも関心を寄せるということである。そして、もっと一般的な人びとの生活を改善するような慈善活動には、収入のせいぜい5%程度も寄付をすればいいところだというのだ。
 この利他性についての議論はまた、本書の最後に議論することにしたい。それにしても、官僚が利己的というよりは、我われ庶民のことを第一に考えているなどというのは、それこそトンデモさんでも主張しない事実になってきたご時世である。反対に、トンデモさんたちには、官僚の陰謀論のほうが人気があるだろう。
 現在、政府はいくつかの公共サービスの担い手を、民間業者と官庁を競わせて決めるという「市場化テスト」をおこなっている。当然ながら、これは権限を縮小されかねない官僚の反対でまったく導入が進んでいない。
 日本経済新聞2007年5月8日付けの記事では、市場化テストは、国民健康保険の窓口業務などを始め25事業あるが、民間事業者と契約しているのは6事業だけで、残りは進んでいないという。
 これを受けて、より多くの民間業者が市場化テストに参入しやすいように、委託を複数年度化することにした。厚生労働省が反対しているハローワークの無料職業紹介にも来年度から市場化テストを導入すると同時に、テストに非協力的な場合には役所に対して一定のノルマを課すというのである。
 ハローワークにいってみてください。パソコンの求職欄を見るために多くの人びとが詰め掛けているが、その対応は完全に普通のデスクワークそのものである。この業務をおこなうのが2万2千人もの公務員である必要などは到底存在しないことは明らかだ。

ブキャナンとフリードマンの立憲主義
 ブキャナンはもともと財政学者であり、アメリカ財政の健全化のために、憲法の改正が必要であると主張してきた。それは、アメリカ政府の赤字を禁止するということ、さらにある法律が支出を伴う場合、その支出に見合った収入を確定することを義務付ければならないというものである。
 これは、19世紀の経済学者である、ベーム・バヴェルクの影響を受けたものである。たしかに、政府支出に見合う税源を同時に確保しなければならないのであれば、財政赤字はなくなるだろう。これは、それ自体が望ましいことだ。
 日本のように財政赤字が1000兆円を越えているような超赤字国家では、その重要性はますます高まるというものだ。だから、このような形で、民主主義政治の身勝手さに、一定の憲法的な歯止めをかけるというのは、たしかに必要なことだろう。
 しかし、それだけでは、人びとの自由を守ることはできない。いや、その逆に、税金を払えばすむような政治問題を、職業選択の自由を束縛するという、より悪い形態の政治活動を生み出してしまう可能性が高いのである。
 例えば、農業保護のために税金が支出されていたとしよう。税金をバラ撒くことができなくなった場合には、農家を保護したい政治家はどうするだろうか。おそらく、農業への参入規制や、農産物の生産の割り当て制度を創設するような法律によって、実質的な農家保護をおこなおうとするだろう。
 政治家にとっては、補助金をつけて農家を保護しても、あるいは消費者に生産物を高く売り付けるような法律をつくって農家を保護しても、農家の所得が上がる限りにおいては同じだからである。
 しかし、このような制度は、補助金制度よりも、はるかにたちの悪いものである。補助金制度であれば、有権者は予算をみることによって、そのような政治活動の規模を知ることができる。それに基づいて判断することで、ある政策が方向性として支持されるとしても、その規模が妥当なのか、あるいは過剰なのか、過小なのかを考えることができるのだ。
 これに対して、法律による参入制限や、生産量の調整の場合には、消費者は割高な商品を買わされることによってコストを支払っているが、そのコストはまったくはっきりしない。そういった場合には、コストを推定するために経済学者の活動が必要になるが、その方法は複雑であることが多く、結果も曖昧にしか示せない。
 結果として、有権者はある政策が国民に課するコストを明確に知ることがないままに、政治家や官僚の善意におまかせするというしかないことになる。なるほど、この結果は、財政赤字にはならない。しかし、小麦の輸入に250%の関税がかかっている日本では、私の食べているパンもパスタも国際価格の3,5倍になっているのである。
 つまり、私にとって関税は税金と同じなのだ。しかし、関税は私が直接に払っているわけではないために意識されないが、税金は集めるというのはあまりに直接に意識されるために、政治家はむしろ関税による農産物保護を好むのである。
 自由を重要な価値だと考える私にとっては、このような職業選択、それに含まれる職業活動の自由の制限は、税金よりもはるかに危険な制度である。なぜなら、個人の活動を制約するというのは、本質的に税金を徴収するよりも、いっそう抑圧的・権力的で許されないことだからだ。
 このことを私に教えてくれたのは、20世紀後半を通じて大きな影響を与えた自由主義経済学者である、ミルトン・フリードマンであった。フリードマンは、1979年にそのベストセラー『選択の自由』において、アメリカ憲法の修正案を提示している。そこでは、職業活動の絶対的な自由を保障するために、職業選択の規制の禁止、外国貿易の制限の禁止、特定の生産活動への補助金の禁止、などの広範な禁止条項を議論しているのである。こういった禁止条項がなければ、政治は無限に肥大化して、市民の生活を貧しく不自由にしてしまうのである。
 フリードマンの主張は、イギリスのサッチャーやアメリカのレーガンに採用され、1980年代の、「小さな政府」に向けた経済改革を方向付けたものである。当時、イギリス人であるサッチャーは、もっとも尊敬する経済学者としてフリードマンの名前を挙げていたほどである。
 我われ日本人についても、良くも悪くもアメリカ人ダグラス・マッカーサーのおきみやげというべき日本国憲法のおかげで、職業選択に自由が保障されている。日本国憲法の22条1項には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」という規定があるのだ。
 しかし残念なことに、この「公共の福祉に反しない限り」という限定がついていることで、ひじょうに多くの職業規制が許されてしまっている。もちろん、多くの人びとは、職業活動の制限などは、政府のなしうる当然の裁量の範囲内のことだと考えている。しかし、そのような思考は、我われの社会全体を貧しく不自由なものにしてしまっているのだ。
 ブキャナンやフリードマンの提案する、民主的な政治から自由を守る立憲政治というのは、実質的な職業選択と、職業活動の自由を、憲法レベルで保障しようとしたものである。法律学者のように、使う言葉は美しいが、実質的な判断になるとほとんど何の意味も果たさないような、無意味な言葉遊びではない。

自由の経済的、倫理的価値
 19世紀には職業選択の自由は、自由権のなかでも中心的な位置を占めていた。19世紀に完成した近代社会とは、それ以前の封建主義的な土着社会、あるいは慣習的な社会秩序の否定の上に形作られていったのだ。
 近代以前の封建社会、あるいは階級社会においては、自分の出自によって、職業が決まっていた。しかし、こういった出自には関係なく、個人レベルでの職業選択の自由を保障することは、適性のある個人が希望する職業につけることにつながり、経済活動が活性化する。また、転職も自由なので、斜陽産業から新興産業への労働力の移動も円滑になる。
 その結果が、近代的、効率的な経済生産をもたらした。自由な職業選択とそれに伴う生産活動の自由は、機械産業から石油化学工業、さらには自動車産業にいたるまで、資本主義の高度化に不可欠だったからである。
 例えば、自動車の製造は政府によって始められたのではなく、ゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツなどの、発明家によって始められたのである。当時の各国政府は、軍馬の改良にはいそしんでいたが、自動車などが交通の中心になるとは予想もできなかったのだ。
 同じことは、飛行機にも当てはまる。1903年に飛行に成功したアメリカのライト兄弟は単なる趣味人であった。フランスでもサントス・デュモンが1906年に、ライト兄弟とは独立に飛行に成功した。彼らは純然たる民間人であり、政府部内には、その頃、飛行が可能であり、飛行機が重要な役割を果たすことになると考えた人などいなかったのである。
 この例に明らかなように、自由は、我われの世界の外延を広げてくれる。これに対して、政府の計画が我われの生活を豊かにするというのは、全体主義の好きな社会工学者の陥りがちな幻想でしかない。
 しかし、20世紀に入ると、この考え方には変化が生じた。世界恐慌の結果、そういった経済状態を立て直すために、政府が直接に多様な規制や財政支出をするようになったのである。これはアメリカでは1930年代にフランクリン・ローズヴェルト大統領がニュー・ディールとして始めたものである。
 同じ頃、ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』をあらわし、政府が経済に介入するのは当然だという考えは、経済学会でも一般的になっていった。このような政府の役割の増大は、同時に、政府は国民の福祉の向上のために多様な政策を積極的におこなうべきだという考えとも親和的であった。その結果、戦後の思想潮流は平等を目指し、大きな政府を容認する民主社会主義勢力が支配的となったのだ。
 その後、1980年代に入ると、大きな政府のもつ自由の抑圧性、そして職業的な自由の規制から生じる経済の沈滞が問題になってきた。イギリスでは保守党のサッチャー首相が、またアメリカでは共和党のレーガン大統領が、そして日本でも中曽根首相が、「小さな政府」による効率的な経済を目指したのである。
 彼ら自由主義的、あるいは保守的な政治たちは、多くの国営企業の民営化、あるいは多様な規制の緩和をおこなった。このような経済の自由化は、ソヴィエトを中心とする社会主義国家の崩壊によって、インドやアフリカなどにも広がり、世界的にもっとも盛んになったのである。
 それ以降、21世紀の現代世界は、スウェーデンをモデルとするような民主社会主義勢力と、アメリカをモデルとするような自由主義的勢力が均衡しているといえるだろう。これを反映しているのが、例えば、1997年から2007年までの間、政権を担当していたイギリス労働党の首相であったトニー・ブレアの政治運営である。彼の政策は、労働者階級の保護というよりは、企業の競争力にも配慮した、いわゆる「第三の道」路線であり、中道的なものであった。
 2007年のフランス大統領選挙もまた、世界の縮図をあらわしていた。アメリカ型の自由主義を標榜したサルコジは、北欧型の平等主義を標榜したロワイヤルに53%対47%という僅差で勝利したのである。フランスの労働規制は週35時間労働と労働者の解雇不能に代表されるように、ひじょうに厳しいものである。それは現在の労働者を保護しているかもしれないが、同時に若者の失業率を上げて、フランス企業の競争力を低下させているという点が論争となったのである。
 日本でも、江戸時代に存在した士農工商という身分制度を廃止し、「四民平等」を強権的に実現した明治時代の政策は、基本的に近代社会を構築しようしたものである。西南戦争をはじめとして、これは既得権益層である武士の大反対を押し切っておこなった、社会の大改革だったのである。
 それ以後、明治時代の職業活動は基本的に個人の自由に任されていた。職業規制はあまり存在せず、政府の殖産興業政策ともあいまって、紡績、鉄道、電力、製鉄、造船など多くの活動が民間起業家によって隆盛した。
 しかし、明治時代の到来から70年が過ぎると、状況は急速に変化していった。日中戦争が深刻化する中で「進歩官僚」たちによる社会主義的な1940年体制が確立した。国家総動員法などの立法を通じて、新聞や電力、鉄道などの大幅な合併が強制されていき、次第に職業活動の自由は大幅に制限されることになり、それは当然視されるようになっていったのである。
 しかし、今でも自由のもたらす、経済成長に対する意義はまったく失われていない。現代世界の超大国はアメリカだけになったが、アメリカ社会の自由の精神はグーグルやセカンド・ライフなどのあらたなビジネスを次つぎと生み出し続けている。これとは対照的に、精神的な自由が抑圧されている中国では、現在のようなキャッチ・アップの段階ではうまくいっても、先進的なサービスや商品を生み出すことはできないだろう。
 また倫理的な基準からしても、むしろ十分に経済的に発展した豊かな社会においてこそ、職業活動の自由は重視されるべきなのである。なぜなら、職業生活はほとんどすべての人にとって、もっとも長い時間を割いておこなう活動であり、自己認識や人間の尊厳、主体的な自己実現など多様な価値を体現しているものだからである。
 漫画家になりたいという人がいたとしよう。彼が自分を実現するためには職業の自由が必要である。その結果、日本のコンテンツ産業は隆盛するかもしれないし、あるいはしないかもしれないが、どちらであれ、そもそもそういった考慮自体が社会主義的なのである。豊かなで自由な社会では、だれであれ自分の好きなことをする権利があるのであり、それは経済とは関係のない次元で、人間の精神にとって比肩することのできない価値なのである。
 このことは、最低限度の生活を超えれば、人間の精神的な満足感は、食料よりも、思考や芸術などの精神活動、あるいは自己認識などに、はるかに多くを依存することからも明らかだろう。

弱者保護の理念を認めてみても
 さて、ブキャナンとタロックによる名著『合意の計算』は、政府という意思決定主体の内部力学を、利己的な個人の行動から説明しようとした。
 政府は国民に法律を強制できるため、各種の利益団体が政治家に働きかけて、自分達を利するが、一般国民の利益には反する法律を通そうとする。これによって、一般国民の経済活動の自由が奪われ、利益団体には税金が投入されることになる。その結果、社会全体は技術に可能なはずの生活に比べて、はるかに職業活動の自由が規制され、税金が増えて貧困になるというわけなのである。
 しかし、これは政府だけの問題ではない。政府からの特許を得て、活動をする団体はすべて基本的には国民の利益を害して、団体の構成員の利益を図る。どのような団体であれ、政府の特別な許可や保護があるのであれば、消費者を搾取することは、いわば公認されているからである。
 日本の場合、これには運転免許センターや水資源開発機構、社会保険庁のような公営の法人もある。しかし、それだけではなく、地域独占を政府から公認されている電気やガスなどの株式会社も含まれるだろう。とりあえず、以下に日本にはどのような制度的な歪みがあって、それが日本人の生活をどのように貧困化しているかを、トピックをあげながら見てみよう。
 なお、私は無政府資本主義者だが、この本では弱者保護を目的とする福祉国家を肯定するという前提に立って議論をする。そのような前提を取ったとしても、現状の日本の政策はあまりにもチグハグで、不必要かつ有害なのだ。
 これには、環境問題のような善意の勘違いもあるし、農産物保護のような利益団体の活動や愛国主義などが入り混じったものもある。ともかく、日本の諸問題をいくつか挙げてみたい。それらの制度から大きな利益を受ける人びとがいて、彼らはある意味で弱者であると考えられていたり、過剰な保護に値すると考えられていることがわかるだろう。
 最終章では、これらの諸悪を肯定するような心理について考えよう。我われの品性が低いから、そういった利益団体を利するような政治制度を作り上げてきたのだろうか。私の考えでは、もちろんそうではない。
 社会には多様な事実や状況があり、その曖昧さの中で、誰もが自分の取り分を正当化する。そういった人間の一人一人が有権者として政治制度をつくるのである。そこでは、強者がより大きな金額を政治に使うことができれば、彼らに有利な制度が出来上がるのは必然的だろう。
 また同時に、我われの心の中にあるリベラルな幻想が、一つ一つの制度がある特定の弱者に見える人びとを保護していると認識し、正当化している。しかし、その結果が全員の首を絞めることになっていることには、ほとんど注意が払われることはない。
 終章では、我われが肥大化した福祉国家を目指すべきではないこと、せいぜい所得の再分配のみをおこなう「小さな国家」を目指すべきだという考えについて、もう一度検討してみたい。



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金融商品

参考に採録

6、金融商品を見てみても
 これまでの章では、多くの政府の失敗をあげつらってきた。平等を目指す、あるいは弱者保護の政策が、結果的にはみなを貧しくしている事例を取り上げてきた。私のような市場原理主義者は、これらのすべてを市場に委ねるのがもっとも効率的で望ましいのだと結論する。
 しかし、多くの人びとは、すべてを弱肉強食の市場に任せてしまえば、そこでは弱者が搾取されてしまうというだろう。経済学の言葉でいいかえるなら、情報量が非対称であるために、より多くの情報を持つ人たちが情報を持たない弱者の弱みにつけこんで、不公正な取引が横行するというわけである。
 この章では、弱者が不利益をこうむるという主張を支えている、情報の非対称性についてもう少し考えてみよう。

多くのサギ話があるが
 私はスカイプを頻繁に使う。ほとんどの通話はスカイプでおこなっているといっていいほどである。スカイプはルクセンブルグに本社を置く通信会社だが、音声を完全にIPパケット化して転送しているために、無料で全世界のスカイプユーザーと話すことができるのである。
 私も、たまには固定電話も使うが、それは重要な仕事の場合などだけである。また携帯電話にいたっては、私には急ぎの用事などない職業であり、通話料金が高すぎるので、ほとんどまったく使わない。
 さて、私のような人間の立場からすると、2007年2月に起こった近未来通信社のサギ投資事件は、およそ最初からはっきりとサギ以外の何者でもないトンデモ投資だということになる。
 当時の近未来通信社の宣伝によると、全世界に通信サーバーを設置して、IP電話を世界に広めるというビジネスモデルだと喧伝していたのである。しかし、スカイプに触発されてヤフー・メッセンジャーやマイクロソフト・メッセンジャーなど、無料のIP電話がワンサカと開発されていたのである。近未来通信のようなバカバカしいビジネスが成立するはずがない。
 近未来通信社の宣伝には、宝塚出身の大地真央などが起用され、日本経済新聞の一面を借り切ってデカデカとおこなわれていた。でかい話ほど、ホラ話であるということを見抜けないものだといわれている。
 これが明らかなサギ話だというのは、自分がインターネット業界に詳しくなければ、あるいは判断が難しいのかもしれない。とはいえ、2ちゃんねるなどでは、早くから近未来通信社が単なるサギであることを指摘するスレッドが立っていたのである。
 だから、東京都が租税徴収のために会社を捜索したあとに、検察が重い腰を上げて、サギ話として捜索を始めたというのは、いかにもあきれた話なのである。おかげで、サギの張本人であった社長は現在もアジアのどこかに高飛びして潜伏しており、国際手配されている有様である。
 これと同じようでも、実質はだいぶ違う話に平成電電の社債発行がある。平成電電は、もともと固定電話から携帯電話への通話料金の低さを武器にして、固定回線をNTTから奪おうというビジネスモデルであった。
 これはそれなりに納得できる構想であったが、そもそも固定電話から携帯電話への通話料金だけでは、消費者にとって、それほど大きなインパクトはないだろう。携帯電話には携帯電話からかけるのが普通になってきている上に、そもそも固定電話からの発信自体が減ってきていたからである。
 結果的に、平成電電は加入者を十分に獲得できないことになってしまった。設備投資のためとして公募した社債を、実際には運転資金にしてしまい、この時点でサギ話となってしまったのである。現在、元社長は詐欺罪で起訴されており、間違いなく有罪になるだろう。
 しかし私は、ごく最初の起債の時点での社長は犯意はなかったのではないかと思う。むろん、設備投資費を運転資金に流用したのは明らかな犯罪だが、最初の起業の時点では成功するかもしれない事業だった点では、近未来通信社とはまったく質が違っていると私は評価している。
 さて、このようなサギ話は世間には、掃いて捨てるほど転がっている。これらから得られる教訓はなんなのだろうか。それは情報を処理するのには手間や時間などのコストが必要だということなのである。

情報の取得にはコストが必要である
 こういえば、当たり前じゃないか、という人もいるだろう。しかし、ほとんどの人はこのことについて真剣に考えてはいないと思われる。たしかに、ほとんどの消費製品に関しては、人びとは自分の趣味によってそういった商品を買うのだから、商品についての情報は自然と頭に入っており、問題を感じることもないだろう。
 しかし、これが銀行預金や投資信託、さらに各種の保険などの金融商品のように、特にそれ自体の具体的な特徴もないような、抽象的なものについてはどうだろうか。ほとんどの人が、特に面白くもないそういった金融商品の情報を得るために、お金を支払おうとはしていないのではないだろうか。
 一例をあげてみよう。
 アメリカをはじめとする金融の先進国では、投資信託の購入に際しては、ノーロードと呼ばれる仲介手数料が無料のファンドが普通である。さらに年間の運用料金としては、およそ1%程度が普通だ。
 これに対して、日本の銀行や証券会社で取り扱われている投資信託のほとんどは、手数料が3%で、年間運用費も1%から3%程度となっている。これは、日本人がよくよくお人よしである証拠なのか、あるいは金融商品についてよく比較して考えたことがないからだろう。
 この点について、12回にも及ぶ華麗な転職歴で有名な金融評論家の山崎元は、ベストセラー『山崎元のオトナのマネー運用塾』で、納得のいく話をしている。いわく、手数料が無料で、運用費が0.2%程度の「投信のユニクロ」が日本にも出現して、投資信託の主役になるべきだというのだ。
 これは、たしかにあまり見られない商品だが、本質的には無理でも何でもない。すでにいくつか実現しているものもある。例えば、楽天証券に口座を持って、170万円ほどでTOPIXに連動した上場投資信託を買うことができる。具体的にもっとも割がいいのは、日興アセットマネジメントの「上場インデックスファンドTOPIX」だろう。このとき、株式の売買手数料として1000円ほど取られるかもしれないが、運用費用は年間わずか0.1%程度である。
 日本にはこれほどの商品はたしかに少ないのだが、世界を見渡せば、むしろ主流化しているのが現実である。株式投資信託が日本の10倍規模であるアメリカで最も人気があるのは、スパイダーズという運用会社の設定しているS&P500という商品である。
 これはスタンダード・アンド・プアーズの選んだ代表的な銘柄である、アメリカの500種の株式を組み込んだものである。その組み込み銘柄の多さによるリスクの低さに加え、運用手数料が約0.1%と最低レベルであるために、資産総額は7兆円にもなっている。同じように、そのライバル商品にはiシェアズの運用費0.09%や、ダイアモンド・トラストは運用費の年0.18%などがある。
 近い将来には日本でも、このような効率的で簡素な上場投資信託が主役となるだろう。しかし現在のところ、多くの日本人は郵便局で、手数料3%を支払いながら、運用手数料が年間2%をこえるような投資信託商品を買っているのが現状だ。
 2007年5月9日の日本経済新聞の記事を見てみよう。そこには、モーニング・スターの調べによると、日本の発行済み投資信託の運用費の平均が1,3%であること、さらにこれがアメリカの約二倍であることが報告されている。そして、そのような信託管理費の上昇傾向は、2000年以降の中国やインドの躍進を受けたもので、こういった躍進の著しい国ぐにでは、アメリカやEUなどの先進国よりも運用費が高いためであると指摘しているのである。
 さて私が子どもの20年後を見越した教育資金として、インドや中国の株式を中心とする投資信託をするとしよう。こういった国ぐにの株式投資信託の運用費用はおよそ年間2%だから、20年のうちには、手数料だけでも40%近くになる。
 40%にも及ぶ違いというのは、投資のうまい下手を超えた大きさである。それほどの違いが生じるにもかかわらず、日本人のマジョリティは大手銀行や大手証券から金融商品を買い続けているのである。あるいは、真のマジョリティは1%未満で銀行預金をもち続けるもっとも保守的な人びとであり、それは日本の金融資産の過半数が預貯金であることに現れているだろう。
 この辺のコストを理解しないままに、投資信託を買うべきではない。このことは団塊世代の退職金を狙った投信ブームに警鐘を鳴らすベストセラー『投資信託にだまされるな!本当に正しい投信の使い方』にもはっきりと書かれている。
 さて、このような事態をどのように解釈するべきなのだろうか。
 あるいは、これは単なる無知であるというよりも、郵便局なり、三井住友銀行なりといった、信用度の高い金融機関のもつ情報の信用プレミアであるというべきなのかもしれない。もしそうだとするなら、独自の言葉や文化の厚い壁に守られた日本の金融機関に対して、日本人はひじょうに大きなプレミアムを支払っているといえるだろう。
 単なる無知なのか、あるいは信用プレミアムなのかは、ここでは読者の判断に任せたい。しかし当然ながら、私は国内銀行が取り扱う商品だからといって、特別なプレミアムを支払う価値などはまったくないと思う。日本人でも多くの人びとが、ヴァンガードやフィデリティなどの大きな外資が、日本で直接に商品を販売してくれればいいと考えているのは事実なのである。
 おそらく、言語や文化の壁というものは大きいので、金融商品の選択方法を変革するというのはかなり難しいのかもしれない。それはちょうど、BMWやメルセデス・ベンツが日本では高級品として売られるために、アメリカでの価格よりも2割程度も高く売られているという状況と、比肩しうるのかもしれない。それはつまり、高額のものは信用ができるというような、日本人のもつ国民感覚の問題かもしれないからである。
 とにかく、関連する情報を自分で探して、それを理解して、リスク計算までするというのは大変な労力が必要である。それなら、自分でやるよりも、手数料は高くても野村證券にまかせてゆっくりとすごすというのもいいというのもありとなる。これは、どちらがいい、ということではない。それは単なる選択の問題で、自分の好きなほうを選べばいいのである。
 しかし、サギ話とまともな投資信託であれば、はっきりと判断できまるが、市場の用意しているあまりにも多くの金融商品を比較するのは容易ではない。特に商品のリスクとリターン、さらに自分の置かれた所得の状況などを考えれば、適切な商品選択は至難の業である。
 大手の証券会社にいけば、彼らの都合のいいような商品を売りつけられるのが関の山である。しかしだからといって、独立したファイナンシャル・プランナーに相談にいって、有料でサービスをうけている人がどれだけいるだろうか。
 しかし、情報それ自体には大きな価値があるのである。
 これに対しては3つの対応が考えられるだろう。第一は、自分で基礎から勉強して、意思決定をするだけの知識とノウハウを得るというものである。これは経済や金融商品に興味がなければ、比較的ハードルが高いものだろう。
 第二のものは、中立的だと考えられる第三者機関や、雑誌、あるいは人気の経済評論家やブロガーなどの書くことを信じて、彼らが薦めるものを買うことである。これは誰が信用できるのかということを判断する必要があるため、中程度の情報処理コストと出費を要するといえるだろう。
 私自身がこの方法が嫌いな理由は、さまざまな商品を薦めている人がいるとしても、理由が理解できないことがほとんどだからである。これは競馬評論家などでも同じだが、本当のところ、彼らがそういった商品を個人的に買っているのかどうか怪しいものである。いい加減に記事の締め切りにあわせているかもしれないし、あるいはどこかから金をもらって書いているのかもしれない。自分で調べるほうが、よっぽど納得できるのだ。
 最後のものは、野村證券なり三菱UFJ銀行なりに直接にいって、そこで商品を薦められるままに買うというものである。これは、もっとも安易でお気楽なやり方だが、もちろん相談料金は商品の手数料なり、運用費用なりに上乗せされている。
 どのやり方にもメリットとデメリットがある。自分に合ったものを選べばいいのだろう。しかし、情報が無料だというのは古きよき時代の幻想である。同じように、国家が「正しい情報」を無料で与えてくれるということも、そもそも原理的に不可能である。誰もがすべての情報を持っているわけではなく、それは国家でも同じだからである。
 私の受けた社会科の教育といえば、源義経がどうしたこうしたというのが日本史であり、あるいは唐の政治制度の詳細を知ったりするのが世界史であった。しかし、現代を生きるには過去の武将たちや専制王朝の政治制度のことなどはどうでもいいのである。少なくとも、小学校程度の知識で十分だろう。中学以降は、金融商品のしくみや世界経済の一体化と人生設計を教えるほうが、よほど意味のある教育なのではないだろうか。

お気楽投資を目指すなら
 ここで、私自身の投資経験をお話しよう。今書いたように、おそらくもっとも安全な株式投資とは、世界の国々の株式市場の上場投資信託を、各国の経済規模に合わせて購入することである。例えば、中国が世界の7%の経済規模で、日本が8%、アメリカが20%なら、その割合で、世界の株式市場全体を指数化した上場投資信託(ETF)を買うというものである。
 もちろん、投資信託は購入手数料で3%、運用費用で年間2%程度がとられるバカバカしい商品なので買わない。これに比べて、ETFは年間の運用費用がひじょうに安いため、長期投資に向いた商品である。
前述したように、この長期投資手数料の違いから、アメリカでは近年ETFの大ブームが巻き起こっており、不動産から金にいたるまでさまざまな種類の証券が上場されている。規制ばかりの日本では運用資産の3%程度がETFで運用されているが、アメリカでは30%を超えているのだ。
 さて、すべての国の株式市場の商品を買うのは、おそらく最低でも1千万円以上は必要となり、一般人には現実的ではないだろう。そこで、実際には、アメリカのETFと、アメリカ以外の世界経済をインデックス化したMSCI EAFEと呼ばれるETFを買うことになる。これはアメリカの金融指標会社であるモルガン・スタンレーが1970年に考案した世界経済インデックスMSCIにしたがって、アメリカ以外の先進国の代表的な銘柄を選択したものである。
 これによって、個別のカントリーリスクは回避されるわけである。私は、かつて起こった世界恐慌とそれに続く世界大戦のように、世界経済の全体が暴落するようなことはないと考えているが、そういった可能性がないのなら、これだけでお気楽に投資は完了である。過去100年以上にわたるアメリカでの資本市場の平均的なパフォーマンスが世界規模で続くとすれば、10年で二倍、20年で4倍にはなるはずだ。
 私はチャートを使っても、財務分析をしても、投資家が株価インデックスを上回ることはできないと考えている。基本的には、株式市場は効率的であるため、継続的にインデックスに勝つことは確率的にできないと思うからである。あるいは可能な人もいるかもしれないが、そのためにはたいへんな情報処理が必要だろう。お気楽なインデックス投資のほうが、はるかに何も考える必要もなく、かつ間違いのない投資方法なのだ。
 私のような考えは、効率市場仮説と呼ばれる。これに対する反論ももちろん存在しており、行動ファイナンスなどでも盛んに議論されていることである。私のような典型的な新古典派の経済学者とは異なった考えを持つのも個人の自由だが、学問的な事実を知っておくことは重要だと思う。
事実、ほとんどのプロのファンド・マネージャーはインデックスに勝ってはいない。これはアメリカの金融工学を使った人々の話であって、素人のデイ・トレーダーにいたっては、99%以上がインデックスに負けている。
 金融関係の情報を処理するのは面倒な上に、時間もかかってしまう。私の個人的な意見では、人生の時間は有限なのだから、もっと生産的なことに時間やエネルギーは割くべきである。また取引をすれば、確実に証券会社に手数料が取られることを考えると、アクティブな証券トレードは無益を超えて有害なのだ。
 この点についてもっと興味のある方は、例えば、世界的なベストセラーである『ウォール街のランダム・ウォーカー』などをお読みになることを勧めたい。この本はアメリカの学術的な金融経済学の常識を書いたもので、500ページ近い厚さではあるが、間違いなくそれに値するものだ。
 さて、もっと具体的に金融商品について述べるなら、アメリカのETFはスパイダーズかiシェアズのS&P500を買うべきだろう。なぜなら、運用手数料が年間、0.1%程度でほぼ最低だからである。また、MSCI EAFEについては、ヴァンガードの商品が0,15%の運用費で抜きん出て割安となっている。原理的には、この二つの商品を買うだけで、世界の先進国経済の躍進の成果をのんびりと満喫できるだろう。
 さらに新興国の主要な株式を全般的にETF化したものに、エマージング・マーケットと呼ばれるものが、iシェアズやニューヨーク銀行の発行するBLDRSなどの運用会社から発売されている。これは信託手数料が年間0.7%程度と高い。新興国経済は成長も速いが、後進的な証券市場には独特の非効率もあるので、やむを得ないのだろう。これを、上述の先進国のETFに加えれば、基本的には世界の資本市場を大まかに網羅したことになる。
 私は10年ほど前に、このような商品構成を目指して、アメリカの証券会社に口座を開こうとした。しかし、複数の証券会社から、「日本人については口座開設できないことにしている」という理由で断られた。これはあるいは、日本の国税局から、日本人の口座についての書類提出の要請があったために、日本人を顧客とすることはわりに会わないと考えたからではないだろうか。
 2007年現在では、楽天証券や野村証券などが比較的に多くの外国籍のETFを取り扱うようになったが、これまでなぜ日本の証券会社で世界のETFを購入することができなかったのか。金融業界にいない私には本当の理由は定かではないが、おそらくは、手数料収入が少ないために、証券会社が基本的に取り扱わないことにしているのだろう。手数料が低い商品を宣伝するような会社もなければ、そういう商品の存在は知られないため、需要も喚起されないというわけである。
 どうであるにせよ、一般の日本人として生きるというのは、いろいろと不便である。結局、世界のさまざまな証券を割安に購入するには、アメリカ、香港やシンガポールの会社を利用するしかない。なぜ、日本のような進んだ金融システムを持つ国で、世界のすべての証券が購入できないのか。つまりは「投資家保護」が行き過ぎているからであり、保護は許可された銀行による一般投資家の搾取を公認する結果になっている。おりしも日本の銀行が空前の利益を謳歌しているのは、団塊世代の投信購入の手数料と無関係ではないだろう。
 アメリカやオーストラリア、香港、ヨーロッパ、韓国などの国ぐにのETFについては、楽天証券や、野村証券や日興コーディアル証券が取り扱っている。しかし、世界には商品から個別セクターまで驚くほどたくさんのETFや金融商品が存在している。この意味で、金融商品の消費者としての日本庶民は、まさに踏みつけにされている。これは先進国として、あまりにもお粗末だ。
 なお、外国為替の取り引きをFX「投資」として好む人もいるが、私はこれは勧めない。資本主義における株式投資とは、社会的に有益な活動に資金を供給することであるから、全体としてウィン・ウィンの関係にある望ましいものだといえる。あるいは、期待利得が年間7%程度の賭けごとだといえる。
しかし、外国為替の変動を使って勝つ人間の裏には、基本的に負ける人が必ず存在しており、この意味で為替投資と株式投資は異なる。FX投資とはバクチと同じく、期待利得がゼロの純粋な投機なのである。相互扶助の精神からしても、世界の株式、あるいは債権に投資すべきだろう。

生命保険という商品
 私にとって、日本人が高い手数料と運用費を支払って、投資信託を買っているということなどよりも、もっと気になることがある。それは、生命保険という独自に発達した奇妙な金融商品が、日本ではあまりにも一般化していることである。
 日本の生命保険の残高はGDPの4倍にもなっている。これは人口規模ではるかに大きなアメリカよりも大きい。その理由は一体何なのだろうか。
 ある人は、日本人がリスク回避的であるからだと主張する。たしかに、私が突然ガンで死亡してしまえば、残された子どもの生活はたいへんな苦労の多いものになるだろう。そういう最悪の事態をカバーするのが、生命保険という商品なのだ。とすれば、家族のためを思うリスク回避的なサラリーマンが、高額の生命保険に入るというのもわからないではない。
 しかし私には、これが異常な生保残高の決定的な原因だとは思われないのである。私の見るところでは、生命保険は生保レディという兵隊をやとって、その親族や友人などのネットワークを利用して、商品を売り込んでいる。つまりこれは、人間関係そのものから金を引き出すタチの悪いネットワーク・ビジネスだということである。
 実際、いまどきのマネー雑誌の家計診断をみると、かならず「生命保険をシンプルにして、保険費用の節約を考えましょう」と書いてある。多くの人は、親戚や知人、友人が生保レディであるため、それほど深く生命保険の必要性を考えないままに、いわば「万が一の場合について脅されて」生命保険に加入しているということなのだろう。
 その証拠に、自分が入っている生命保険の内容をよく知らないため、疾病時においても支払請求をしていない。これが大きな話題を呼んだ、生保の未払い事件である。例えば、2007年の9月27日の日本経済新聞の報道によれば、

「日本生命保険、第一生命保険など生命保険大手4社が近く金融庁に報告する保険金などの不払いや支払い漏れが、合わせて100万件・400億円規模に達する見通しであることが26日分かった。今年4月の中間報告時点に比べ、件数で5倍、金額は2倍以上に膨らむ。死亡保険などに上乗せする三大疾病や通院保障などの特約や、失効した保険を解約すると戻ってくる失効返戻金の支払い漏れなどが大幅な増加要因となるもようだ。」

ということである。特約次項の不払いが多かったのは、加入者が保険の内容をよく知らなかったためである。それもこれも、生命保険自体が自分の自主的な意思というよりも、あまりよく理解もしないままにセールスされたものであることは明らかだ。
 ここで、生命保険業界が特殊であるからと言って、それが日本国政府と関係ないではないか、といぶかる方もいるだろう。しかし、かつての大蔵省は銀行、証券、損保、生保に局レベルで別れて、護送船団でそれぞれの業界の発展を図ってきた。
本来的な機能では、規模が見劣りする生保業界にも、貯蓄保険という曖昧な金融制度を認めて、消費者サイドから見て無意味に肥大化させてきたのである。やはり過大な生保会社の存在にも、過剰で有害な国家的な監督行政が一役買ってきたのである。
 さてこれまでは、セールス・パワーを十分に活用してきた生保業界だが、アメリカン・ファミリーやアクサ、アリコなど多くの外国資本の上陸によって、徐々に契約形態が変化しているのも事実である。
 現在、多くのショッピング・モールには小さなブースの保険代理店が急増してきている。そこには保険商品を説明するパソコン画面が見えるカウンターがならび、多くの保険会社の多様な商品のなかから、その人のライフ・サイクルに見合ったものを薦めてくれる。
 私の死亡時に家族が必要とする金額は、息子がまだ幼稚園に通っている場合と、すでに大学に入学している場合ではまったく違うはずである。適切な保険金額は、一年一年変化しているのだから、それにあわせて、保険も一年ずつ掛け捨てで見直すのが正しいだろう。
 少なくとも、日本の生命保険のような貯蓄性も兼ね備えた商品というのは、その区分が曖昧であり、運用方法を考えても、到底魅力があるようとは思われない。実際、前出の山崎元は、『お金をふやす本当の常識』において、30のルールを提唱している。その19番目には、「できるだけ保険には加入しないこと。本当に必要な保健にだけ泣く泣く入る。」というルールをおいているのである。
 山崎によれば、「生命保険のように損得判断が難しい複雑な商品が、売り手の粗利を開示せずに売られていること自体が、消費者保護の観点から不適切ではないでしょうか」という。さらに彼は、週刊東洋経済の記事をもとに、運用費である付加保険量を算定している。

 「一般的な保険に関する限り保険料の「三割、四割はあたりまえ」といった比率が、保証にも貯蓄にも使われていないのです。これは「暴利」ではないでしょうか。」

これが、山崎の結論である。いうまでもなく、どんな金融商品を取ってみても、運用費用が30%を占めるようなものは見当たらない。これこそが「生命保険とは生保レディのネットワーク・ビジネスだ」とまで私が断言する理由である。
 なお、山崎は外資系生保についても、「高齢になった時の死亡保証を削減するなどの形で、不要な保証を省いて魅力を作っているものが多いようですが、付加保険料は手厚く取っているようですし、必ずしも割安なわけではありません」と手厳しい判断を下している。
 確かに実際のところ、金融資産がそれなりにある人間の場合、リスクはできるだけ自分で取るようにした方が、書類を書く手続きも要らないし、自分の健康ももっと気にかけるようになるだろう。少なくても、保険会社の職員が相当に高い給料をもらっているということは、保険数理的に十分な払い戻しがなされていないことを意味している。
 さて、生命保険について、私がまた別の大きな問題だと思うのは、高額の保険金契約によって毎年のように誘発される保険金殺人である。
 これは、保険金の額が、本人の将来的にもたらすだろう金銭を超えているような場合に起こりがちとなる。このような場合には、遺族の立場からすると、本人が死んでくれたほうが金銭的に裕福になってしまうからだ。
 中学生の息子を殺して保険金を詐取しようとした例や、夫を殺して、高額の保険金を受け取ろうとした例には、新聞紙上本当に事欠かないほどである。最近では1999年に看護婦4人が夫を殺して、3000万円を騙し取ろうとしており、また2000年には埼玉県本庄市で、風邪薬を大量に服用させた3億円の保険金殺人事件がおきているのである。
 また1992年には長崎市で、夫と実子を、愛人と共謀して殺した女が逮捕されており、それ以前にも7件もの保険金目当ての親による実子の殺人が発覚している。おそらく、暗数はさらに多いはずである。
 よく考えていただきたい。自分が死んだ場合に、残された家族がより金銭的に豊かになるような保険金額を望む人がどれほどいるのだろうか。いわんや子どもを生命保険に加入させるというのは、保険という制度趣旨からして異常なことである。これは、知人のセールスがなくては、絶対に加入しないような保険だ。
 日本の生命保険業界は、いまのところ、それほど大きく変化していないようである。しかし、今後ますます進む世界資本の上陸に従って、次第に世界の常識と同じように、一年ずつの掛け捨て商品が主流になるのではないだろうか。
 ここでも、金融商品の情報には価値がある。国家がその情報を弱者にも与えることなどできない。保険商品の種類はあまりにも多く、かつ消費者の境遇はあまりにも異なっているからである。
 このような場合に、必要な情報が消費者には十分に理解できないということはあるかもしれない。しかし、だからといって、多様な保険商品を禁止することは、結局は消費者のためにならないのだ。情報は長い時間をかけて、消費者自身がゆっくりと消化するしかない。
 国家が、情報の格差を解消しようとすれば、認可される商品の種類は限定されてしまうだろう。結局は、これまでのように画一的で、投資価値のない保険商品を、ネズミ講のようなセールス・パワーで売りまくるという矛盾が横行することになってしまうのである。
 現実にアメリカではファイナンシャル・プランナー(FP)が金融機関から独立しているのが普通である。消費者から相談料をもらって、格付け機関などの情報を元に、相談者にあった金融商品を薦めるのだ。
 私の友人は、日本のFPの資格を持っているが、「FPだけでは食っていくことはできないよ。やっぱり、証券会社か銀行に勤めて、商品を売らなきゃ、手数料は入らないからな」という。
 金融機関の護送船団方式によって、消費者にとっては、金融商品の選択の機会はきわめて少なかったというのが、戦後日本の現実である。消費者には、だまされない代わりに、自分で考える必要のない程度の商品バリエーションしか提供されなかった。長い年月の間に、金融商品の相談料は無料のものだという常識ができあがったのである。
 しかし、REITから私募ファンドや匿名投資組合にいたるまで、金融商品は多様に分化・複雑化している時代である。長期的には、日本でも独立したFPが活躍するようになるだろうし、それ以外の方法では、一般の人は有用な金融情報は得られないはずである。
 原宿の占いの館では当然として支払われる相談料が、金融商品の場合には高いと感じられるのは、私には理解できない奇妙極まりない現象だ。市場でそれなりの取引きをするには、情報コストが必要なのである。このことが次第に常識となれば、むしろ明らかなサギ話は常識人の間ではむしろ減ってゆくはずである。

市場しか新たなサービスは作り出せない
 さきほどは、サギ話が無限にわいてくるということに注意を促したが、サギ話を有意味な起業活動から画然と分けることなど、そもそも誰にもできない。それは技術情報というものは、市場において試されてみなければ、サギか大儲けなのかが、政府を含めて誰にもわからないのだ。
 グーグルが創業したのは1998年だが、わずか8年でマイクロソフトにも迫る時価総額20兆円の巨大企業に成長した。おそらく、資本主義の歴史において、これだけ急速に成長した企業ははじめてではないだろうか。
 周知のように、グーグルのコアな強みは検索エンジンにある。ネットに接続する際に、ヤフーのように企業の側で用意したポータル・サイトからスタートするというのは、グーグルが出現するまでは自明なことだと思われていたのである。人は、何かの情報を得ようとしてネットにつながるのだが、情報をもっとも見やすい形で整理をしていたのはヤフーのようなサイトだったからである。
 検索エンジンがより洗練されるにつれて、お仕着せのポータル・サイトからではなく、むしろ自分の調べたいことから始めるユーザーが増えてきたのである。しかし、グーグルの出現以前には、検索という活動自体のもつポテンシャルを完全に理解していた人はそれほどいなかったのである。
 よく知られているように、グーグルはスタンフォード大学の二人の大学院生、ラリー・ページとセルゲイ・ブリンによって創業された。彼らは大学院生であり、自分の資産で会社を作ることができなかったが、シリコン・ヴァレーには、そういった新しい技術的なアイデアとヴィジョンに投資をする人たちがいたのである。初期のグーグルはサーバーの運用費用がかさむわりには、広告などが入らないために、長い間赤字だったといわれている。
 2006年に、愚かにも経済産業省はまたしても、グーグルに対抗する新たなる検索エンジンを日本で作ろうというプロジェクトを立ち上げている。300億円を投じて国産検索エンジンを開発することによって、グーグルなど外国企業による圧倒的な影響力の一部でも奪おうというのである。
 少数のブロガーを除いて、ほとんどの人びとはこれに対して、冷ややかである。実際、成功すると考えている人間などいないといっていいだろう。経済産業省はまたしても、かつてのシグマプロジェクトや第5世代コンピュータ開発の二の舞をしているのだ。
 経済産業省の役人が、村上ファンドのようなファンドを個人的に立ち上げて、こういった企画を試みるというのであれば、それはそれで大変に結構なことである。しかし、私から集めた税金は使わないでいただきたい。
 300億円は、私一人の税金にすれば、たかが300円程度だ。なにも目くじらを立てることもないだろう。しかし、このような300円が積もり積もった予算が、私たちの税金のほとんどすべてなのだ。バカげた企画は、彼ら官僚にとってのアブク銭である国民から搾取した税金ではなく、自分の金でやってもらいたい。
 ここでの教訓は明らかである。国家官僚などがすばらしい企画を立ち上げるというのは、この複雑で予測の難しい現代社会にはありえないのだ。日本経済は当の昔にキャッチ・アップの段階を終えて、まったく創造的な産業と企業を必要としている。
 ハイエクが指摘したように、広く社会一般に存在する情報をあまねく集めて、それらを効率的に処理することなど、組織レベルでできるはずがない。情報はそもそも社会のどこかに偏在している。それを広めることができるのは、市場を通じての成功によってのみなのである。
 グーグルをはじめようとした二人の創業者は、彼らの検索エンジンのもつ技術的な可能性についての情報を持っていただろう。しかし、誰にもグーグルが成功することは確実に予見できなかった。実際に、彼らの検索エンジンがすばらしいものだということに全員が納得したのは、市場を通じて彼らの技術が圧倒的に支持されてからだったである。
 情報の非対称性は、たしかに存在している。それは社会的な弱者と強者の間にあるいうこともできるだろう。しかし、この点については、国家が何かできることなどない。そもそも現代社会では、国家それ自体も情報弱者だからである。
 むしろ、弱者である人びとに対しては、「自分自身が弱者であることを認識して、リスクの高い新しいものには飛びつかないようにしましょう」というような教育をするのが、精一杯だろう。おそらく、情報処理能力の格差とは、そもそも人びとの稼得能力そのものを意味しているのであって、国家の介入などによって矯正することはできないのである。



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異常な地価

参考に採録

3、異常な地価
 前章では、日本の基礎的な生活費の高さについて考えてみた。日本の政策は、庶民の生活を豊かするというよりは、電力会社、ガス会社、あるいはダム建設を営んでいる人びとを保護しようとするものであった。
 そしてそれは、残念なことに、政治活動が理想的ではありえず、現実の交渉プロセスに依存して場当たり的に決められてしまうことの、いわば必然的な帰結なのである。この章では、日本の物価を押しなべて高いものとしているなかでも、よく知られている宅地の価格について考えてみよう。

そもそも日本の土地はなぜ高いのか
 2007年現在、景気の上昇基調を受けて、大都市圏では地価の上昇が起こっている。財務省の発表では、東京都区部の住宅地の1平方メートルあたりの平均価格は51万7500円、多摩全域平均では20万6200円である。もはや23区に新築住宅を構えることは、セレブでなくてはできないことは明らかだ。まず、多摩地区などに代表される東京近郊で住宅を購入する一般人について考えてみよう。
 建物として、4人の家族が暮らすための小さな100平方メートルの3LDKを考える。100平方メートルの家のために、建築規制を考えると、100平方メートルの土地が必要だとして、すでに2000万円を超えることになる。
 一人のサラリーマンの生涯所得は2億から3億といわれるため、この土地を買うだけで10%、建物が2000万だとすれば、20%の生涯所得が持ち家のために使われることになる。30年を超えるようなローンを支払うことを考えれば、この住居費の購入負担はおそらく30%から最大では40%になるかもしれない。
 実際、これが東京のような大都市に住む多くのサラリーマンの現状である。大阪はややましで、名古屋はさらにましだろうが、平均賃金も低いので、負担感としては同じようなものだろう。読者の周りにも、このようにして組んだローンの返済にあえいでいる方がいないだろうか。
 さて、国際的に比較してみよう。日本不動産鑑定士協会による世界地価等調査の結果を見ると、ニューヨーク郊外の住宅地と比較すると、東京の住宅地は、バブル期には100倍、現在でも50倍近くである。地価が高い都市だといわれるロンドンに比べても10倍になっている。
 実際、アメリカ人の常識感覚からすると、土地自体には価値などなくて、不動産というのは建物の価値を意味する。これに対して、日本の常識では、土地そのものが価値であり、住宅などの建物には価値がまったくないというものである。実際に、日本では建物のついていない更地のほうが、高い値段で取引されてきたのだ。
 このような状況に対して、日本はそもそも人口密度が高い国だから仕方がない、あるいは、日本は狭い国だから土地が高いのは当然だ、という意見がある。私も子どものころは、この手の説明を信じていたが、これはしかし、たちの悪い都市伝説である。
 なぜなら、商業地の価格やオフィスの賃貸料金を見ると、ニューヨークやロンドンと東京でも2倍というほどの違いはなく、上海や香港、シンガポールなどのアジアの都市では東京よりも高いほどだからである。
 明らかに住宅地に限っての、異常なまでに高い土地価格には日本独自の制度的な理由があるのだ。このことについて、特に以下に述べる借地借家法の問題などについては、学習院大学の岩田規久男をはじめとして、多くの経済学者が研究を続けてきた。
 経済学会内では、以下の指摘のほとんどが同意されているが、法学者その他の多くの人たちは無視し続けてきた。その当否について、ここで読者に判断していただきたい。

借地・借家法
 日本の地価の研究では、今では経済学者というよりも、『超整理法』をはじめとする『超○○法』の著者として有名となっている野口悠紀雄がいる。彼は1995年の『土地問題の強者と弱者』において、日本の住宅地価格が高止まりしているのは、借地・借家法の硬直的な運用と、相続税が土地に関してひじょうに低いためだと指摘する。
 ここでまず、借地・借家法の運用の問題について、簡単に説明しよう。
 日本が戦争に負けて東京が焼け野原になった後、地主から土地を借りてすんでいた借地者は社会的な弱者といえる存在であった。そのため、土地所有権者からの立ち退き要求がなされれば、路頭に迷ってしまうということで裁判所が極端に保護したのである。
 この点は民法の教科書では定番の話なので、法律に詳しい人はよく知っていることだろう。すでに日本民法の一部となっている借地・借家法では、所有者は「正当の事由」があれば、借地人に対して立ち退きを要求できることになっている。
 しかし、戦後の借地権者の保護政策から、この「正当事由」はきわめて限定的に解釈されるようになっていった。結局は、所有者が自ら住むという場合でさえも、正当事由には含まれないと判示するに至るのである。
 さらに戦後のインフレが進む中では、借地料に関しての訴訟事件も頻発することになった。ここでも、借地料についての判決はインフレが進む以前の賃貸料を基本的に維持する方向であったため、賃貸料金は、新規契約相場に比べてひじょうに低い水準にとどまってしまった。
 このような裁判は、確かに訴訟当事者に対する判決としては妥当だったのかもしれない。しかし、その経済的な代償は大きなものとなった。
 いかなる理由があっても借地契約を解除できず、その賃料がインフレによって相場の10分の1だとしよう。所有者の立場からすれば、これでは所有権はほとんど意味のないものになる。
 結果として、借地契約は新規には結ばれなくなった。借地契約は解除できず、しかも賃料も固定されてしまうのだ。そんな不利益な契約にサインするような土地所有者は、どこにもいないからである。
 反面、過去に借地契約を結んで借地人となった人たちは、その土地の実質的な支配権を手に入れるということになる。現在の土地取引の実務では、この借地権の価値は、地価の7割から8割を占めるということになっているのである。

固定資産税も相続税も
 地価が高いということは、それにかかってくる固定資産税が高いことを意味しているとしよう。これがもし仮に本当であれば、おそらく今ほどには宅地の価格は上がらなかっただろう。
 このことは逆説的なのだが、間違いないのである。固定資産税がひじょうに高ければ、昔から一等地に住んでいるが、所得に低い人たちにとっては、都心の宅地つき一戸建て住宅に住むことは、固定資産税負担から難しくなるからである。
 この場合、資産税を払いきれない低所得の居住者は、土地を処分して郊外に引っ越していくか、マンションに移住せざるを得ないだろう。結果として、都心の宅地は常に大量に供給され、需給バランスの関係から価格は低下するはずである。
 もちろん、こういった制度を採れば、地価は下がるだろうが、低所得の人びとは、都心の住宅を手放さざるをえないわけである。一見しては弱者イジメになるため、どの政党も固定資産税を上げようなどとはいわないのである。
 都心の宅地は、渋谷区などでは、すでに1平方メートルあたり200万近い価格になっている。例えば、これが1平方メートル150万円であるとしても、200平方メートルの土地の一戸建て住宅に住んでいる場合、すでに3億円の土地の上に住んでいることになる。
 これは大変な額である。大学卒のサラリーマンの平均的な生涯賃金が3億円に届かないわけだから、この土地に住むというのはとんでもない贅沢といえるのである。しかし、その固定資産税額はいくらなのだろうか。
 固定資産税は地方税である。固定資産税の評価額は実勢価格の8割になるため、三億円の土地では2億4千万円が課税額となる。税法上の本則では、その1.4%が固定資産税であるため、本来の固定資産税は336万円にもなる。建物にも一応固定資産税がかかるため、おそらくは約350万円の税負担になるわけである。
 これは、通常のサラリーマンには到底支払えない額だろう。したがって、この原則を貫けば、都心の宅地からは急速に通常のサラリーマンがいなくなり、当然に低所得者の高齢者もいなくなってゆくはずである。
 それに代わって、金持ちが引っ越してくることになるのだろうが、年間350万円の税金を払える人はそんなにはいないだろう。ということは、固定資産税が本則どおりに適応されれば、都心の宅地地価は、現在の価格よりも低い価格で取引されざるを得ないことになる。
 しかし、現実には、都心の宅地は200平方メートル3億円以上で取引されている。その理由は、固定資産税額が低すぎるために、土地を売ろうとする人が少なく、結果的に供給量が少ないからだ。供給量が少ないのに、東京には1億以上の年収を上げる人びとはゴロゴロといる。
 彼らは、土地の値段が3億円でも別にかまわないだろう。年に1億円以上を稼げるのであれば、3億円の土地を買うことに別に問題はない。これが、都心の宅地の新しい住人達は、すべて会社の社長であるか、あるいは芸能人などのセレブである理由なのである。
 では実際には、都心に住んでいる高齢者はいくらの固定資産税を支払っているのだろうか。本来の固定資産税は336万円だが、200平方メートル以下の小規模宅地については、その6分の1に課税額が減免されている。とすれば、56万円の固定資産税を支払っているということになるのである。
 もちろん、これはこれで少なくはない金額かもしれない。しかし3億円の土地に住むことに対しての税金だと考えるなら、いかにも小額だといわざるを得ない。56万円を年金から支出することは、多くの年金生活者にとってもそれほど難しいことではないだろう。
 こうして、都心の宅地には3億、4億の土地に住みながら、年収が年金の3百万円程度だけであるという「社会的弱者」が大量に暮らしているわけである。もちろん、彼らはその固定資産税が高すぎることに不満を感じており、政治家に「安心して暮らすこともできない」と発言することになるというわけなのである。
 次に、土地に対する相続税の実質税率もまた、同じようにひじょうに低いことを見てみよう。
 前述の野口悠紀雄の論文では、重要な指摘がなされている。首都圏で相続によって取得された土地つき一戸建ての場合、その住宅面積に関しては全住宅平均とはそれほどの差はないが、敷地面積は平均して280平方メートルであり、これは平均値の150平方メートルに比べておよそ2倍にもなっているのである。
 これは都心部でも同じで、23区内においても187平方メートルと平均値よりも50-60平方メートル大きくなっている。これは都心部にある住宅を相続した場合に、それなりの庭が付いているのだろう。
 では、例えば平方メートルあたり150万円の地価の土地を200平方メートル、つまり3億円相当を相続したとしよう。山手線の内側に200平方メートルの一戸建ては、すでに十分に立派な住まいである。ここで「富者には厳しい」はずの福祉国家で、相続税による是正は行われないのだろうか。
 土地に対する相続税は最高税率が70%ということになっているため、元首相であった田中角栄の邸宅の目白御殿などのように、都心部にある広大な敷地を相続する場合には、たしかにこれに近い税率がかかることもあるだろう。
 しかし、まずは評価額の制度によって、公示額の8割が課税額(路線価格)とされる。そして重要なのは、相続税法では、200平方メートルまでは「小規模宅地」であると認定されことだ。これよりも小さな宅地については、その課税額が20%になるのである。つまりは、3億円の公示額の16%である4800万円が課税額となってしまうのだ。
 ここから子ども1人が相続人であれば、5000万円の基礎控除プラス1000万円の6000万円が控除額となり、めでたく相続税はゼロになる。かくして東京に生まれた人は相続によってそれなりの生活、あるいは不労所得が約束されることになっているのである。
 なお前述したように、借地法の問題点が経済学者によって、長年の間あまりにもはっきりと指摘され続けたために、1992年には定期借地権が新設されることになった。これは、新たな借地契約には、50年を期限として、それ以降は所有者が契約を更新しないという契約を結ぶことを認めたという法律である。
 これを受けて、現在では定期借地権つき一戸建て住宅もまた、郊外の戸建希望のサラリーマンにとっては、住宅取得の新たなオプションとなってきたようである。しかし、そもそも50年は解除できないような契約を望む土地所有者は多くはない。土地の供給はかなりの郊外に、それも限られた量しかないのが現状である。
 しかし、この法律の一番の問題点は、過去に始まった借地契約に対しては有効ではないことである。よって、かつて締結された借地契約には効力が及ばず、新法以前の借地契約者は、土地の所有権価格の7割を持ち続けているのだ。
 東京都心部の住宅地の低度利用は、山手線を一周する間にも一目瞭然だ。本当に多くの低層住宅が存在することに、あまりにも明らかに現れているからである。これに対して、例えば、パリでは街区のすべてが高層のアパートであり、一戸建ては存在しない。これは150年前にナポレオン三世が多くの住人を無理やりに移住させて大改革を行ったからである。しかし、よく考えると、都心部に庭付きの2階建てなどという贅沢は、そもそも弱者保護という名に値しないことに異論をさしはさむ人がいるのだろうか。
 東京の都心部には相変わらずに保護され続ける一戸建てが存在し、過去からの住居権を優遇税制で保護されている。その一方で、ここ30年間の間に新たに都心部に移り住んだサラリーマンは、片道1時間半もの通勤時間を満員電車に揺られて会社に通い、その所得の3割もが住宅ローンの支払いに振り向けられているのである。

誰が被害者なのか
 さて、日本の住宅地の価格が高いことから被害を受けているのは誰だろうか。それは、東京などの都市に地方から移り住んだ人たちであり、典型的には、地方に生まれて東京の大学に進学して、そのまま東京で働き続けるサラリーマンだといえるだろう。
 もともと東京に生まれた人は、その親の世代以前から住居を持っているため、平均的にいえば、大きく得をしていることになるのである。東京に生まれ、年老いた両親が自宅を持っている場合を考えよう。生前からでも死後にでも、その住宅地にすむこともできるだろうし、あるいは土地を相続してから売れば、別の土地を買うことができるだろう。
 人口の減少が進む日本にあっても、首都圏の人口は微増し続けている。地方に生まれ、東京で働き始めた人は、東京で土地という相続財産をもっている人々に比べてひじょうに不利な立場に立たされているのである。まれには同じことが、東京に生まれ育ったが、親の世代からまったく財産を相続しない個人にも当てはまるだろう。
 これが借地・借家法の硬直的な解釈によって、司法が守ろうとした戦後まもなくの社会的弱者の保護の結果なのである。あるいは都心に200平方メートルの住宅を持つ「社会的弱者」を、高い相続税から守ろうとした立法の結果なのだ。
 あるいは、ここでは詳述しなかったが、都市部の農業保護の目的で、農地の税金を下げ、相続税を引き下げたことによって守ろうとした農家という社会的弱者保護の結果でもある。
 誰であれ、大きな経済価値をもつ財産上に住んでいる人間が弱者扱いされるというのは、とんでもなくおかしな発想である。しかし、このおかしな発想は税制度のなかに深く根付いてしまい、もはや既得権益となってしまった。どのような異常なことであっても、それが常識化するにつれて、政治的な話題にもならなくなり、もはやこの制度に異議を唱える人も少ないのはなぜなのだろうか。
 政府の強制する法制度が、地方からの移住者にとって住みにくい社会をつくりだしている。それは経済的に非効率なだけでなく、明らかに正義にも反しているのである。



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環境が性格を作るとも言えないはず

黒澤映画「どん底」の話で
香川京子さんが
いろんなつらいことがあって性格が曲がってしまった女性の役というような意味のことを言っていたように思う

隠し砦の三悪人かもしれない

香川さんの表情の美しいこと
お年をとるのもいいことなのだ
何かうれしそうである

*****
それはそうとして
つらいことがあって性格が曲がっていいはずはないのだ
つらいことがあったにもかかわらず
ますますいい性格になるのが人間の真価である
是非そのように助け合いたいものだ

逆につらいことが一つもなくて
性格がまっすぐで明るいかといえばそんなものでもないだろう

環境のせいにはしたくないと思う

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不屈の人・You can fight.

不屈の人はすばらしい
その人は運命と闘っている

いつでも
You can fight.
と励ましたい。

有名な人も無名な人もある。
病気と闘う人はみんな不屈の人だ。

長い目で見て、克服しようではないか。



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ブブカ方式

本当かどうかは知らないが
棒高跳びのブブカは
世界新記録報奨金がめあてだった
生活のためにスポーツをしていた

スポーツマンは体調のいい時に
記録の限界に挑戦したくなる
しかしブブカはそんな素人くさいことはしないのだ

たとえ今日の体調なら8センチくらい高くしても飛べるかもしれないと感じたとしても、
1センチずつしか高くしない
チャレンジは1センチだけ
8回に分けて、8倍の世界新記録報奨金をもらった方がいいからだ。

ブブカが偉大なのは、1センチずつ記録を伸ばす苦しみに耐え続け耐え切ったところだ。
今日は体調がいい。8センチ上を飛べるかもしれない。
こんな日はあとないかもしれない。
そう思うと、8センチに挑みたくなるのが人情というものだ。
スポーツマンシップとはそんなものだ。

しかしブブカはビジネスマンだから、
そんなことはしない。
今日は一センチだけ上を飛べば、それで、世界新記録なのだ。
それで充分だ。
そして大会があるごとに、世界新記録を更新していく。
そしてインタビューに答え、報奨金をもらう。

このあと、8センチ上を飛べる日は二度とないかもしれないと弱気になる。
しかしその弱気を引っ込めるために練習を続ける。

そして予定通りに、また1センチだけ、記録を更新する。
これは実にすばらしいビジネスマンなのだ。

営業ノルマの達成はそんな要素がある。
調子がいいからと、数字を伸ばしてしまえば、
次のシーズンが苦しいことになる。
今期の実績を元にして、来期のノルマが決定されるとすれば、今期の数字を挙げすぎるのは、自殺行為である。ボーナスが下がる。
一度に数字をあげて、あとはノルマ達成不可能となってしまうよりは、
少しずつ、ブブカ方式で、コンスタントに、数字を達成していくほうが賢いのだ。

似たような話に、
論文の書き方がある。
実験成果が出たら、一回だけですべてを書いてはいけない。
途中報告も書く。
結果がでても、小刻みに分けて、部分部分で発表する。
いつもまだ公開し切っていない新しいデータを用意しておいて、
小出しにする。
最新部分が確かにあるが、凡庸である。しかし最新部分のおかげで、
論文として認められる。
最終的には、「何本」で数えられるから、内容分割発表方式は、論文におけるブブカ式である。

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日本こそが、先進国で一番冷たい格差社会

町ではクリスマス後の売れ残りセットを半額で売っている
多少買う

年をとると今日の分の薬を飲んだのかどうかも忘れてしまう

最近の下着は色つきのものが多いから
洗濯の時漂白剤を使う必要はないだろうと思った

今日は一段と寒いですね
そうですね、一番ですねなどと言葉を交わし
お隣の玄関前を行きすぎる

*****
ハーバード大学のマルガリータ・エステベス・アベ教授は、福祉機能で米国に劣り、雇用環境で欧州以下の日本こそが、先進国で一番冷たい格差社会であると警鐘を鳴らす。

日本の格差問題も英米に比べればまだまし――。そう考える人は多いことだろう。しかし、ハーバード大学のマルガリータ・エステベス・アベ教授は、福祉機能で米国に劣り、雇用環境で欧州以下の日本こそが、先進国で一番冷たい格差社会であると警鐘を鳴らす。(聞き手/ジャーナリスト 矢部武)


マルガリータ・エステベス・アベ博士(ハーバード大学政治学部教授)
 日本で格差問題が悪化したのはアメリカ型の市場原理を導入したからではないか、との批判が高まっているが、これにはいくつかの誤解がある。

 アメリカは確かに国家の福祉機能が小さく、利潤追求と競争の市場原理を重視しているが、それがすべてというわけではない。市場原理にまったく従わない民間非営利セクターが大きな力をもち、福祉機能、すなわち社会を維持する役割を担っている。

 貧困者や市場で失敗した人たちの救済活動はその分かりやすい例だろう。

 非営利団体はホームレスのシェルター(無料宿泊所)を運営したり、食事や古着を提供したりしている。ハーバード大学の学生も忙しい勉強の合間にボランティアで恵まれない子供に勉強を教えたり、あるいはシリコンバレーで成功した人が社会貢献活動をするのがブームになったりしている。このようにアメリカには、政治に対する意識とは別に自分が社会に何を還元できるのかを考える人が多いのである。

 日本はアメリカと似て国家の福祉機能が小さく、また、「自助努力が大切だ」と考える人が多い。しかし、企業や社会にはじき出された人を守るシステムが弱く、家族に頼らなければならない。経済的に余裕のある家庭ならばよいが、問題は家庭内で解決できない時にどうするかである。

 意外に聞えるだろうが、生活保護の受給条件はじつは日本のほうが厳しい。アメリカでは個人に受給資格があればよいが、日本では家族の所得も事実上調査される。大学教授だった私の知人は裕福だが、息子は生活保護を受けている。日本だったら、まずあり得ない話だろう。日本の役所は生活保護の申請書をくれなかったりするが、他に助けてくれる所がないから行政に行っているのになかなか助けてくれない。

 ちなみに、アメリカ型の市場原理に対する批判はヨーロッパでもある。ただ、欧州先進国の多くは国家の福祉機能が大きく、「市場で失敗するのは個人だけの責任ではないので、国家が助けるのは当然だ」と考える人が多い。こうしてアメリカとヨーロッパ、日本を比べてみると、日本が一番冷たい社会のように思える。

 正規・非正規社員の賃金格差の問題にしても、同じ仕事をしながら賃金に大きな差がでるということはアメリカではあり得ない。もしあれば明らかに組織的な差別であり、企業は訴訟を起こされて何十億円もの莫大な賠償金を強いられるだろう。

 日本企業ではインサイダー(内輪の人間、つまり正規社員)の雇用保護が強いので、アウトサイダーの非正規社員が不利益を被ることになる。皮肉なことだが、日本が本当に市場原理を導入していればこのようなことは起こらないはずだ。

 本来は労働組合が何とかすべき問題だが、企業内組合なのでアウトサイダーのために本気で闘おうとはしない。

正社員の雇用保護が強い欧州ですら
非正規社員への賃金差別は許されない
 インサイダーの雇用保護はヨーロッパでも起こっており、日本特有の問題ではない。ドイツやフランスなどで若者の失業率が高くなっているのはそのためだ。しかし、ヨーロッパでは労働組合(産業組合)が強いので、非正規社員に同じ仕事をさせて賃金を低くするという雇用形態は許さないだろう。

 日本は非正規社員を守るシステムが事実上ほとんどないが、これは政治的に解決できる問題だ。政府がそれをしないのは、企業の反対が強いからだろう。

 しかし、日本企業もいつまでインサイダー保護を続けられるかというと、限界がある。製造業にしても正規社員が増えるわけではないし、これまでのやり方では社会保障などのコストが高くなりすぎる。正規社員が減れば厚生年金加入者も減り、受給者とのつじつまが合わなくなる。高度成長の時代ではないので、何が持続可能なのかをよく考える必要がある。最終的には日本人がどういう社会で生きたいのかということだ。(談)

Margarita Estevez-Abe(マルガリータ・エステベス・アベ)
ハーバード大学で博士号を取得し、ミネソタ大学助教授を経て、2001年よりハーバード大学政治学部准教授。専門は日本の政治経済、比較政治経済、比較社会政策。主な著書に『Negotiating Welfare Reforms: Actors and Institutions in Japan』 『Institutionalism and Welfare Reforms』『Welfare and Capitalism in Postwar Japan』。2007年11月には連合総研のシンポジウムで「市場社会と福祉行政」について講演し、日本の雇用形態にも疑問を呈した。



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