映画「世界最速のインディアン」 アンソニー・ホプキンス
自分を他人と比べても、無駄で辛い思いをするだけ
比べるなと言っても脳の深いところで比べて競争しているのだから
「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴
「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴
主に、上場会社の経営幹部クラス、もしくは重要プロジェクトのキーパーソンクラスのリーダーorディシジョンメーカーに、「この人無能だな」と思われる人の特徴を以下の記事がまとめてくださっていました。
1.外向的
→とにかくたくさん話す。必殺「質より量」である。(略)
2.批判的
→相手を個人的に批判すると角が立つが、相手の会社や事業を批判するのは有効。(略)
3.自分の得意な分野について語る
→これは、まぁ当然といえば当然だが、いかなる話も自分の得意な分野に引き寄せて語る、という話術が必要なのだな。
具体的に言うと、無能な人は、以下の3つの特徴を持っています。
(1)発言の濃度が低い
(2)批判するときの対案がしょぼい
(3)自分の得意分野を外へつなげられない
以下、これら3点について、説明します。
(1)発言の濃度が低い
上位のディシジョンメーカーは、発言の生産性にとても敏感です。単位時間あたりに行わなければならない意志決定の質も量も膨大だからです。しかも、どんなに難しい意志決定であっても、ボスが考え込んでいると、その間、現場は滞ってしまいます。それどころか、現場は深夜まで働いて、明後日の方角に無駄な努力をし続け、無駄な投資をし続けるかもしれません。そうすると、会社全体の生産性が下がり、成績発表の場である株主総会で、株主の皆さんに、言葉によるリンチを受けることになります。つーか、そんな心配以上に、無駄な仕事をさせてしまった部下たちに対して、心から申し訳なく思うわけです。そういう、山と積まれた意志決定に押しつぶされそうなすさまじいプレッシャーと戦い続けるのが、ディシジョンメーカーの日常です。
そして、意志決定の質は、どれだけ具体的で実効性のあるアクションと成果を生み出したかで評価されます。従って、具体的なアクションや成果につながらない発言は、すべて無駄な発言だとみなされます。いや、「無駄」という言い方は正確ではないでしょう。かなりリラックスムードの漂う会話の場ですら、具体的なアクションや成果になんらつながらない発言は、「犯罪的」とすら感じられることが多いようです。その証拠に、たまたま、会議室の端の方に座っているピントずれ君が、意志決定、方針だし、目的・目標設定といったリーダーが行うべき行為に結びつかないような発言をしたときは、一瞬だけ顔をしかめ、怒りのオーラが発せられ、すぐに会議の内容に集中し直し、以降、そのピントずれ君は、その存在自体が意識の外へ追いやられ、透明人間になります。
つまり、以降、そのピントずれ君が、何を発言しようとも、まるでそれがなかったかのように、会話の流れが進んでいくのです。
もちろん、上層部のディシジョンメーカーが出ている会議で、怒濤のようにしゃべりまくったり、話が脱線しまくる人もいます。そして、それによって、ディシジョンメーカーもノリノリになって、すごく会話が盛り上がることも多いです。しかし、その怒濤のような発言は、ディシジョンメーカーが日々抱える問題と、かなり太く、緻密に、ツリー状、あるいは、ネットワーク状につながっています。しゃべりまくりながら、その問題を中心とする緻密な論理構造ネットワークが、グワーっと広がっていくイメージです。それを、会議に出ているキーパーソンたちは、直感的に感じ取り、それを、自分の中の課題ネットワーク構造に編み込みながら、話を聞いているのです。そして、その編み込みがうまくいかないときに、質問したり自分のネットワーク構造が、相手に伝わるように、長い言葉で言語化したりします。
また、なぜ、脱線しまくりなのに、会話が盛り上がるのかというと、それは、そのディシジョンメーカーが抱える別の課題を解決することに貢献する会話だからです。
そして、上位のディシジョンメーカーほど、これらの会話の論理ネットワークは、精密で、的確で、機能美を持っており、無駄がありません。このため、少しでも無駄が入り込むと、とても敏感に検出されてしまうのです。また、そのくらいでないと、とてもじゃないけど、こなしきれないほどの膨大な意志決定量を抱えているのです。
そういう人間に対して、質より量の発言をすることは、単に迷惑と言うより、社会的自殺行為に等しいです。
(2)批判するときの対案がしょぼい
ディシジョンメーカーの興味は、「で、オレの会社/部署/プロジェクトは具体的に何をすればいいの?どういう方針を打ち出せばいいの?どういう価値基準で判断すればいいの?」です。それについて、そのディシジョンメーカーが「まだ知らない」or「思い至ってない」ことを言わなければなりません。
だから、ディシジョンメーカーに対して、批判をするときは、その批判のオチが、具体的で効果的な問題解決方法であることを前提として、ディシジョンメーカーは話を聞きます。にもかかわらず、そのオチが、「そんなん、十年前から考えとったわボケ!」というようなものだったりすると、その発言を聞いた時間は無駄だったことになり、それは、ディシジョンメーカーの貴重な時間を奪い、また一歩彼を株主総会リンチへと追い詰めることになります。当然彼は怒ります。そして、心の中で、その批判とオチを提供した人間に、「無能」というラベルを貼り、以降、その人間とのミーティングは、スケジュールに入らなくなります。
もちろん、オチがなくても、批判自体が、斬新かつ、有意義な切り口での批判の場合、とてもウケがよいこともあります。いままで認識できていなかった問題を、認識できるようになること自体で、会社の生産性をあげたり、あたらしいビジネスの展開をする糸口が見えることがあるからです。
しかし、すでにディシジョンメーカーがその問題点を十分に認識していて、その解決方法を模索中だった場合、オチがしょぼかったり、なかったりすると、ディシジョンメーカーも人間ですから「批判するだけならだれでもできるわい!(怒)こいつと話していても、時間の無駄だわ。」という気分になります。
さらに最悪なのが、そのディシジョンメーカーが、すでにその問題を十分に考え抜いていたり、すでに、かなり対策を打ったあとに、それよりも、ずっと浅いレベルで、その問題点を指摘することです。その場合、その批判を行った相手は、とてつもなくヌルく見えます。ダメ人間に見えます。イギリス語で言うなら、He is a waste of space.だし、アメリカ語で言うなら、He is a loser.です。
(3)自分の得意分野を外へつなげられない
会議や立ち話の間中、そのディシジョンメーカーの興味・関心のある問題を重要なノードとしながらダイナミックに広がっていく会話の意味ネットワークに、どのように、緻密に、美しく自分の持つ意味ネットワークを組み込んだかどうかで、自分の発言の価値が決まってきます。
そして、当然、すでに相手が持っている意味ネットワークやノードをだらだらと言語化したところで、それは無価値どころか害悪です。なので、相手が持っておらず、しかも、相手にとって、価値のある意味ネットワークモジュールを、提供しなければなりません。
だから、当然、自分の得意分野、自分がコアバリューを持っている分野のことを話す訳ですが、その得意分野の話を、その会話がダイナミックに展開する論理ネットワーク構造の、的確な場所を「狙って」発言しなければ、その発言は意味をなしません。単に、自分の得意なことをしゃべればいいと言う物ではないのです。それを、相手の課題を解決するための問題解決構造を形成するための重大なパーツとして働くように、自分のコアバリューをカスタマイズして、組み込まなければ、「つかえねー専門バカ」というラベルを貼られ、以降、ミーティングには呼ばれなくなります。
そういう、「つかえねー専門バカ」は、スキルがI字型なのです。そうならないためには、自分のスキルをT字構造にしておかなければなりません。すなわち、自分の強み、得意技、コアバリューを徹底的に極めると同時に、それを、世の中のありとあらゆる分野に適用し、応用し、具体的な問題を解決し、具体的な成果を生み出すにはどうしたらいいか、常日頃から考え抜いておかなければなりません。T字のように、深さと広さを両方持たないと、それは、無価値どころか、害悪を垂れ流すことになるのです。
そこのところが分かってなくって、会話に参加している人たちが重要と考えるノードとのつながりの薄い部分で、専門分野の話を、得意げにダラダラと続ける無能君がよくいます。本人は、「どうだ、すごいだろう。オレはおまえらの理解できない専門知識を持っているんだぜ。」というつもりかもしれませんが、そういう人の今後の人生は、あまり明るい物にはならないでしょう。
というわけで、さっそく、教えていただいたとおり「2.批判的」をやってみたんですが、どうですかね?
え?オチですか?
オチは、「フリをすると不利になる。」ということで。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
対人関係のレパートリー
「オヤジが切れちゃった」
それを聞く新人が「オヤジが切れちゃった」と受け止めてしまえば、
結局コミュニケーションは成立しない。
教育的に接することは案外難しいもので、
先天的に向き不向きもあると思う。
しかしそれでも上司は務めなければならないわけで、
冷静に、
余計な例え話もせず、
端的にワンフレーズで、
などを心がけたい。
人は一度にたくさんいわれても、分からない。
「しっかりしろ」と怒鳴っているより、
具体的に、先に●●さんに電話しろ、値段は204円とか指示してほしい。
はっきり指示されれば動けるのだ。
新橋空き室情報 12連発
こんなにもあったのです。
ときどき、風俗系の画像が混じるので、それは除外しました。
女性に優しい街ではないですね。
吉野家バイト時給
若い人がうらやましい
歳を取るとバイトもない
うまくやっている人たちは退職金を次々に受け取って
それもまたうらやましい
医療事務の給料
< 正社員の給料 >
全国の医療機関、 病院などで正社員の医療事務員として働いている人たちは 25万人ぐらいと言われています。
医療事務は、基礎的な医学の知識やレセプトの作成など専門的なスキルが必要とされるため、 給料も高いというイメージをもたれている方もいるみたいですが、医療事務の正社員の初任給は、高卒で16万円、 大卒で19万円程度になります。
一般の事務職とそれほど変わらない給与水準ですね。しかし、能力給がプラスされるところもあるそうです。
日本医療労働組合による、「2004年度 賃金・ 労働時間等実態調査報告」よると、医療事務の平均初任給は、高校卒で、157,313円、大卒で、 182,560円となっています。
初任給 | 35歳 | 50歳 | |
---|---|---|---|
高卒事務 | 157,313 | 261,348 | 342,487 |
前年比 | -771 | -2,313 | -2,335 |
大卒事務 | 182,560 | 269,682 | 355,570 |
前年比 | -748 | -1,967 | -2,574 |
「2004年度 賃金・労働時間等実態調査報告」(日本医療労働組合連合会より)
医療事務の給料は、高収入ではないですが安定収入は期待できます。
< 派遣社員の給料 >
派遣社員とは、人材派遣会社に登録し、 派遣会社が紹介した企業内で働く社員のことで、正社員やパートなどの雇用とは全く異なる雇用形態です。
仕事の指示は派遣先企業から、給与は派遣会社から振り込まれるシステムになっています。つまり、 雇用先と給料を支払う会社が違うのが特徴です。条件を満たせば、社会保険や雇用保険にも加入できます。
医療事務でも最近は、派遣の求人が多くなっており、注目の雇用形態です。
派遣は、「育児や家事に追われて中々自由な時間がとれない」「勤務時間に制限がある」「短期間だけ就業したい」といった、 ライフスタイルに合わせながら仕事を選ぶことができるので、主婦の方には強い味方です。
医療事務の給料ですが、パートの時給は働く地域にもよりますが、大体850~1000円
派遣社員は時給1000~1500円が平均
正社員と違って賞与がないということも頭にいれておきましょう。
正社員の医療事務だったら約15~20万といったところが多いようです
独身女性は結婚後も勤務体制を変えて働けるし、主婦の方だったら短時間の勤務で良いといった利点があります。だから少しの求人人数に対して何人も応募するというのが納得できます。また長年勤めると退職してからも忙しいレセプト期間だけ働かせてもらえたり、違う医院のレセプト業務を紹介されたりすることもあるようです。
いくら正確に仕事がこなせても冷たい態度や無愛想な返答をするような受付は患者さんにも病院にとっても迷惑です。誠意のある態度やしぐさは患者さんやその家族に必ず伝わります、病気を治すのは医療事務の仕事ではありませんが診察行為はできなくても、具合が悪そうなら座れるところへ案内する、看護師に伝える、車いすを用意する・・・など、自分にできることは何かが分かる人。
このようなちょっとした心遣いができる人が医療事務には向いているといえるかもしれません。
診察が終わった後に患者さんから「ありがとう」の言葉と笑顔がもらえると、また頑張ろうという気になれますし医療事務という仕事のやりがいを一番感じることのできる瞬間だと思います。
病院の受付の仕事での大事な心がけ
病院に行くと「お大事に」と言ってくれる受付の方の笑顔は病気で辛い時でもなんか元気になるような気がします。医療事務の仕事をする上で大切なのは、いつも患者さんの立場に立って物事を考えなくてはならないということでしょう。なかには緊急な治療をしないといけない人もいるでしょうし時間がなくて困っている人もいます、そんなときに「順番にしかお呼びできません」とか「よその病院に行ってください」では医療事務として失格です。
もし自分でその辺りが判断出来ないときは、看護師に伝えるなどして的確な対応をしなくてはいけません。また患者さんからいろいろな質問をして来られるのも受付です、特に診療所では受付で薬や検査結果を渡すことが多いようです。患者さんも医師にいろいろ聞くのは、ちょっと気が引けるからと受付で医療事務の人にいろいろ質問をされることもあります。しかし注意しないといけないのは「検査結果がこうだからこうしなさい」などといった医療行為はしてはいけません。医療事務は国家資格を持っていませんから、いくら専門知識があっても指導する立場ではないからです。長く勤めれば顔なじみになる患者さんも出てくるでしょう、そうすると患者さんがどうしてほしいタイプの人かが分かってくると思います。
そうなれば、その人にあった対応ができるようになるでしょう。
医療事務は「自分だったらどうしてもらいたいか?」を考えて行動できる気配りの精神を常に忘れてはいけない仕事です。
http://www.hatarako.net/jobSearch.do?k=agshok_el14_bt21110&AGE=&PROFILEFLG=1
ここは派遣のようです
マズロー 欲求五段階説 Maslow's Hierarchy of Needs
鏡と結婚しろ
「ご汁」
いわゆる「ご汁」ですが、主な具財は「ご」のみです。ツルちゃん(祖母)ルールでお送りいたします。彩りと香りに葱をのっけますが、見本写真の葱はあからさまに多すぎです。見栄っぱりであります。
材料 ( 2人分くらい )
大豆 | 乾燥・50グラム |
葱 | 適量 |
味噌 | 汁味付け用・お好み |
にぼし | 出汁用・適量 |
1
「乾燥大豆」をたっぷりの水に浸す。そのまま丸一日くらいかけてふやかす。
たっぷり「呉」が入った呉汁が好きなので分量は多めになっているが、お好みで減らしても良いかと思われる(が、これ以上多いのはキケンかもしれない)。
2
大豆が十分戻ったら、すり鉢で擂(す)る。少しずつすり鉢に入れながら、「ふわふわ」になるまで根気よく擂り潰す。
写真が目安。
これがいわゆる「呉(ご)」。
3
「葱」を刻む。
トッピングなのでちょっとで良い(再度書きますが、完成写真の葱は多すぎ…)。
4
「味噌汁」を作る。
「にぼし」で出汁をとって「味噌」で味をつけた味噌汁を沸騰させる。
5
沸騰した味噌汁に「呉」を投入する。
ふわふわーっと膨らむので、大きさに余裕のある鍋を使用すること。
6
「とうふ」のような香ばしいにおいがしてきたら完成(時間にて1分弱)。
お椀に盛り付けて、葱をちらして食卓へ。
7個人的に
私はねぎは入れません
お味噌汁の具の一つみたいな位置づけです
高菜チャーハン
きょうは高菜チャーハンを作ってみました。
① たまねぎを炒める
② その上で高菜を入れて炒める
③ ご飯を炒める
④ 卵を入れる
⑤ 鶏がらスープの素(粉末)を入れる
⑥ あとは胡椒を少しだけ入れる
ポイントはごま油を使うこと。
風味がでておいしーよ☆
料理
学校における道徳教育は二重構造をなしている
後輩のレポート むむむ なるほど
(1)学校における道徳教育は二重構造をなしている。それは、特設された「道徳の時間」における道徳教育と、学校全体を通じて行う場合の道徳教育の2パターンで行っている。細かく見ていくと、新たに開設された学習指導要領には、道徳に関して言うと、「各教科、特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら、計画的、発展的指導によってこれを補充、進化、統合し、道徳的価値の自覚を深め、道徳的実践力を育成するものとする」と位置づけ、先ほどの二重構造の両者の関係を位置付けているものとして考えることが出来る。それを詳しく見ていくと学校教育そのものが教科指導と教科外指導と分かれている。まず、教科指導から考えてみる。道徳における教科指導の重要性は、人間の財産としての文化的価値を子どもに伝達し、これによって鋭い知性と豊かな情操を育むための基礎をつくることができる。これらの基礎がなければ、学校全体で行う場合の行動としての道徳教育につながることができない。何故ならば、土台がなければ、真に正しい道徳的判断力、道徳的心情、道徳的態度、道徳的行為を望むことができないからだ。理性や知性の裏付けのない道徳至上主義は危険であるのだ。教科活動で教授的方法により知と技を学びこれが人格の形成につながる一つの手段として挙げられているがこれだけでは不十分でもう一つの方法も相互しておこなわなければならない。それが、学校全体で行われる教科外活動である。これは道徳や特別活動にもつながっている。道徳性(情・意)または社会性を身につけさせるために訓育的方法が用いられる。教科指導と教科外指導が相互関係にあり、それによる目的とした知識や道徳性、社会性が人格の形成におおきく作用するというのだ。ただ、教科の指導だけでも、教科外活動をさせるだけでも、人格を形成することはできず、2つのアプローチがあってこその道徳の指導であるというのが二重構造である。「小学校学習指導解説・道徳編」では次のように説明されている。「道徳的実践力とは一人一人の児童が道徳的価値を自分の内面から自覚し、将来出会うであろう様々な場面、状況においても、道徳的価値を表現するための適切な行為を主体的に選択し、実践することが出来るような内面的資質を意味している。」道徳的価値の内面的自覚が普段の生活の中で自覚を持ち、子ども一人一人が自分の心で考えて行動するためには、教授法としての道徳教育と、子ども達が自主的に考え行動するためのチャンスが与えられるような場所を提供し、学校教育活動全体を通して子どもの道徳心の芽を伸ばしていくような教育が道徳教育の二重構造であると私は考える。
(2)私自身、教育実習で道徳の時間を担当した。対象は6年生だった。バスケットコートの取り合いについて、子ども達に討論させた。そしたら、シビアな意見がいくつもでてきた。本当は譲ればいいに決まっているが、でも「早い者勝ちだ」とか、「譲ってばかりしていても人生生きていけるものか」とか、そのような言葉がいくつも出てきた。しかし、クラスの人の一人がこう提案してきた。「半分ずつにすればいいじゃない」という意見が出てきた。そうすると多くの子ども達が、「それがいい、時間を半分ずつにしよう、コートも半分ずつにしよう。」と何かを譲ることがテーマで半分ずつにすることを学んだ。ちょうどいい時期に学活の時間にバスケットボールのクラス対抗試合というものがあって、私は、練習試合の際に、彼らがどのようにして、あの狭いバスケットコートを使うのか見ていると、半分ずつにしたり、業間休みと昼休みで女子と男子が譲り合ってコートを使っている所を拝見して、私は感動した。さっき、道徳の二重構造の勉強をしたが、ただ机上で一方的に教師がモラルを教え込んでも何の人間形成の役に立たない。子ども達はもうすでにどうするのが正しいのかわかっているのだが、でも、その時自分の目の前にその現状が来ると道徳的な対応が取れないから困っているのだ。だから、教壇で教師がただ、「譲り合いましょう、ルールを守りましょう」といったところで、子どもの心には響いていかない。子どもは本当の意味で納得はしていない。だからこそ、授業では子どもが主体となって、本音で話せるような場を教師は作っていかなければならない。皆で道徳の授業で、本音を出し合い、自分たちが納得いく答えを子どもが主体になって出し合うことが大切なのだ。子どもが自分で考えたことであるならば、それが道徳心につなぐよう教師も努力が必要だが、そうすれば集団行動するとき、あるいは学校活動する時、自分で考えて子どもが主体となって道徳のある考えを自分で見つけ出すことができるのではないだろうかと私は考えている。そのためにも道徳の資料の選び方などにもよく考える必要がある。きれいごとに終わらない資料、児童の生活に使える資料、児童の興味、発達に応じた資料、狙いとする道徳的価値があらわに出ていない資料等を用いて子どもの心の本心を探り、リラックスして自分の本当の意見を言える雰囲気を作っていくことが、教科指導で大切な事になるのだと思う。そして、それがいつの日か、道徳の時間に習ったことを子ども達は目の当たりにするときがくるであろう。そういうときに、子どもは迷わず、信念を揺るがすことなく、子どもの道徳的実践を媒介にしながら、道徳的心情を高めることが出来、道徳の意欲と態度を高めることが出来るのだとあたしは考えた。道徳的な実践力というのは子ども達自身の内面から出ていくものであり、当然日常の生活で生きて働くように、道徳の指導も、学校全体を通じて行う道徳指導も相互して行われなくてはならないと思った。
恐怖症に対する脱感作療法/異性脱感作
ーー
統合失調症とうつ-4
統合失調症とうつ-3
統合失調症とうつ-2
統合失調症とうつ
ないはずのものがあるとあるはずのものがない
修身とは
後輩は次の文章を書いて、「自分でもよくわかんないけど、書いてることが・・」と告白している。
先日新聞で大学入試センター試験の国語を見たら経済学のことが出ていて読むつもりもなく流して読んだら結構難しいことを書いているので思わず読み直した。
さすがに問題文に採用されているだけあって、うまくできていて、ひとつの文章では意味がはっきり決まらない場合にも、他の場所を参考にすると、意味が決まってくる部分が多い。結果としては、パズルがぱちっとはまるみたいに理解できるようにできている。内容に賛成するかどうかは別として。
数独などもすぐにはできないけれど分かる部分から決めていけば全体が一通りに決まるような具合である。
(数独は「数字は独身に限る」の略なんだそうです。)
ーーーーー
(1)明治以降の修身教育の変遷について考える。修身科の成立として考えてみる。小学校は下等小学4年、上等小学4年の八年制であった。下等小学校の教科は習字・単語・会話・読本・修身・文法・算数等で、高等小学の教科は、この上に史学単位・博物館単位・科学単位・外国語・天球学がさらに適宜教えられることになってた。
修身とはその文字を示す通り、「悪を定め、善をすすめて、身を修めること」、それが道徳を教えることを意味する。明治に日本に初めて近代的な学校制度を布くための「学制」が各地方に広められたが、その中に修身学という教科が出現された。明治以降の修身的教育は、明治20年代後半から30年代にかけて日本の教育課程も4カ月から6カ月になった。この時期にドイツの教育学者による5段階教授法が日本の教育現場に普及した。この教授法は予備、提示、比較、総括、応用の5段階に区別されるようになった。どの学校や学年や教科でも授業形態の提携を作ろうと日本だけではなく世界にも広がった。この学習スタイルは、現在でも導入、展開、終末というように指導展開が広く行われているのだ。また1900年前後まで義務教育である小学校の就学率が男女平均75パーセント程度で女子の就学率は50パーセントほどであったが、それも改善されるように工夫された。自家や雇われの子守りで充分に学ぶことのできない女学生も多くいた中、子守学級等を設置し、低学年程度の国語・算数を学ばせたり、主に彼女達に必要な、裁縫を必修にしたり、唱歌に子守唄等、出席児童の生活に直結するような学びの場を提供した。修身では「子守りの本分をよく務ること」という題目があり、女子の礼法や立居振舞、菓子・金子の包み方など、そういったことにも多くの時間を割いており、出席児童の生活上の必要性に配慮する等して、子ども達への工夫された教育の普及を行っていった。しかし、この授業方法はいずれも外国の道徳書を翻訳したものを使っていたので、実際道徳教育として成り立っていたかということは定かではないのだ。学制の実施が思わしくなかったため、新たにアメリカの教育制度を範とした「日本教育令」が公布された。これによって、修身は小学校の正式な学科の一つとして設置された。さらに、この翌年に教育令を改正して新しく「改正教育令」を公布したことによって、この中で修身という学問が全ての学科においても首位とおかれるようになり、小学校から高等科までの6年間を通じて課せられるようになり、より一層重視されることになった。
(2)私が思うことは、修身とは参考文献にも記されているように、「悪を改め善をすすめて身を修めること」というようなことを意味するのだが、最初は、日本は、下等小学8級から第5級の間までは、行儀にとらわれた指導をしていた。つまり、ここでいう行儀とは行為そのものであって、外面からみた立ち振る舞いのことに重点をおいた教育を行っていたということがわかった。確かに外面的な立ち振る舞いというのも大切であろう。マナーやルールなど、集団生活を行う、または社会の中で生きていくためには必要不可欠なものであると思うが、ただマナーなどの体裁ばかりを意識することだけが美しい心の人間を育てることになるのかといったらそうではないと私は考える。外面ばかり気にしているだけでは、悪を改め善をすすめることによって身を修めることすらできないからだ。また、言い換えるとするならば、何が悪で何が善かもわからない、自分の柱のない人間に育ってしまうことになりかねないのだ。最初修身教育を取り入れたばかりの時は、外国の教科書をただ翻訳したもので儒教道徳ではなく、日本固有の倫理を表した教科書を用いることもなかったのだ。当時、まだアメリカの文化が徐に普及していないころ、まだアメリカと日本の考え方の差、倫理観の差は存在していただろう。日本人ならではの道徳としてどのように考えていくのが妥当なのかということまで子ども達に理解させるために、日本の修身教育を改正した時点で、よく日本の教育者もきがついたものだなと感心する。よりよい日本国を築いていくためには、現在も過去もよりよい人間を育てるということが最重視される。何がよくて、何がよくないのかということまで分別をつけることのできる人間を育てていくためにも修身教育というものは様々な学問の中でも最重要視されるべきものであり、日本は諸学科中の首位においた。そして、小学校の全学年を通じて修身科は施され、中学校や高等女学校でも教科として課せられた。
また、修身科は、人間としての道徳というよりも、日本国民としての道徳を教えることに重点がおかれ、国家主義色彩を濃くしていった。振る舞いや外面なのではなく、分別がつき、日本を良い方向へ引っ張っていける為の教科が修身なのである。「教育は人にある」という言葉があるが、やはりどの時代でも、教育にかける情熱を怠ってはならないと思う。