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映画「世界最速のインディアン」 アンソニー・ホプキンス

BSで大貫妙子を放送していたので食事をしながら流していた
だらだらしていたら
次の番組になって
映画「世界最速のインディアン」が始まった

ドクター・レクターの
アンソニー・ホプキンスがバイクの改造野郎で
不屈のおじいちゃんを演じている
いいなぁ

バイオレンスもエロティックもない映画なんだけど
最後まで見てしまった

アクセル全開って一度やってみたい


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自分を他人と比べても、無駄で辛い思いをするだけ

自分を他人と比べても、無駄で辛い思いをするだけ。
なぜなら、世の中には常にあなたよりも優れた人もいれば、劣った人もいるのだから。
現在、あなたがすでに獲得したものや未来に向けての計画を楽しみなさい。
あなた自身の人生に興味を持ち続けなさい。でも、謙虚であること。
それが時を幸運に変える本物の財産となるのだから。

If you compare yourself with others, you may become vain or bitter, 
for always there will be greater and lesser persons than yourself. 
Enjoy your achievements as well as your plans. 
Keep interested in your own career, however humble; 
it is a real possession in the changing fortunes of time. 

(from DESIDERATA)
(「望ましいもの」という意味のラテン語。Max Ehrmannのprose poem)

翻訳は見事ですね。
最後の文章は難しそう。
poem のたぐいは特に難しいことがしばしば

*****
それは確かにそうで
比較してもいいことがあるわけではないが
他人と比較することは非常に重要な機能であることも確かである

社会の中での自分の特性を知ること
あるいは最近は間違いだとかいわれるけれど社会のピラミッドの中での
だいたいの位置づけを知ることは
社会の中で生きるに当たって基本的に重要なことだからだ

比較して他人がうらやましかったら
それは大きな力になるのだから
そこからがんばればいいのではないかと思う

比較してつらい思いをせず
比較してがんばればいいのではないかと思う

比較するから嫉妬が起こる
嫉妬はこの社会を駆動する巨大な力である
嫉妬してもいいから、そのあと、いい方のエネルギーに変えたいものだと思う

比較するからライバルが生まれる
そしてライバルは常に人間を磨く第一の原因である
強力な駆動力である

ライバルがいるのと目標があるのとでは
やはり具体的なライバルがいることの方が
強い動機になるような気がする

なぜって人間はそのようにできているから
実際に目にする具体的な人間がいて
その人が自分よりも明らかに優れている場合
新たに努力を開始する大きな原動力になる
あの人にできるのなら自分にもできないはずがあるだろうかと単純に考えて努力しよう

どうして「他人と比べても無駄でつらい思いをするだけ」なのだろう
他人と比べて、やる気が出たら、がんばって勝てばいいのではないか?

猿山の猿のような言い方であるが
人間の脳の大部分は猿と共通のものなのだと思い知った上での意見である

比較して嫉妬したらプラスの努力をする力にしてください
比較してライバルに負けたくなかったらプラスの力に変えてください

比べるなと言っても脳の深いところで比べて競争しているのだから
否定しても仕方がない
明るくプラスに変えていこう

*****
わたしの理屈で言うと
男と女は比較しないことになっているのだけれど
現実には兄と妹で比較し合うなど
困った場合も多い
比較しようがないのに比較すると大変困ることもあるだろう


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「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴

「この人無能だな」と思われる人の3つの特徴 

主に、上場会社の経営幹部クラス、もしくは重要プロジェクトのキーパーソンクラスのリーダーorディシジョンメーカーに、「この人無能だな」と思われる人の特徴を以下の記事がまとめてくださっていました。

頭が良いフリをする方法

1.外向的

→とにかくたくさん話す。必殺「質より量」である。(略)

2.批判的

→相手を個人的に批判すると角が立つが、相手の会社や事業を批判するのは有効。(略)

3.自分の得意な分野について語る

→これは、まぁ当然といえば当然だが、いかなる話も自分の得意な分野に引き寄せて語る、という話術が必要なのだな。

具体的に言うと、無能な人は、以下の3つの特徴を持っています。

(1)発言の濃度が低い

(2)批判するときの対案がしょぼい

(3)自分の得意分野を外へつなげられない

以下、これら3点について、説明します。

(1)発言の濃度が低い

上位のディシジョンメーカーは、発言の生産性にとても敏感です。単位時間あたりに行わなければならない意志決定の質も量も膨大だからです。しかも、どんなに難しい意志決定であっても、ボスが考え込んでいると、その間、現場は滞ってしまいます。それどころか、現場は深夜まで働いて、明後日の方角に無駄な努力をし続け、無駄な投資をし続けるかもしれません。そうすると、会社全体の生産性が下がり、成績発表の場である株主総会で、株主の皆さんに、言葉によるリンチを受けることになります。つーか、そんな心配以上に、無駄な仕事をさせてしまった部下たちに対して、心から申し訳なく思うわけです。そういう、山と積まれた意志決定に押しつぶされそうなすさまじいプレッシャーと戦い続けるのが、ディシジョンメーカーの日常です。

そして、意志決定の質は、どれだけ具体的で実効性のあるアクションと成果を生み出したかで評価されます。従って、具体的なアクションや成果につながらない発言は、すべて無駄な発言だとみなされます。いや、「無駄」という言い方は正確ではないでしょう。かなりリラックスムードの漂う会話の場ですら、具体的なアクションや成果になんらつながらない発言は、「犯罪的」とすら感じられることが多いようです。その証拠に、たまたま、会議室の端の方に座っているピントずれ君が、意志決定、方針だし、目的・目標設定といったリーダーが行うべき行為に結びつかないような発言をしたときは、一瞬だけ顔をしかめ、怒りのオーラが発せられ、すぐに会議の内容に集中し直し、以降、そのピントずれ君は、その存在自体が意識の外へ追いやられ、透明人間になります。

つまり、以降、そのピントずれ君が、何を発言しようとも、まるでそれがなかったかのように、会話の流れが進んでいくのです。

もちろん、上層部のディシジョンメーカーが出ている会議で、怒濤のようにしゃべりまくったり、話が脱線しまくる人もいます。そして、それによって、ディシジョンメーカーもノリノリになって、すごく会話が盛り上がることも多いです。しかし、その怒濤のような発言は、ディシジョンメーカーが日々抱える問題と、かなり太く、緻密に、ツリー状、あるいは、ネットワーク状につながっています。しゃべりまくりながら、その問題を中心とする緻密な論理構造ネットワークが、グワーっと広がっていくイメージです。それを、会議に出ているキーパーソンたちは、直感的に感じ取り、それを、自分の中の課題ネットワーク構造に編み込みながら、話を聞いているのです。そして、その編み込みがうまくいかないときに、質問したり自分のネットワーク構造が、相手に伝わるように、長い言葉で言語化したりします。

また、なぜ、脱線しまくりなのに、会話が盛り上がるのかというと、それは、そのディシジョンメーカーが抱える別の課題を解決することに貢献する会話だからです。

そして、上位のディシジョンメーカーほど、これらの会話の論理ネットワークは、精密で、的確で、機能美を持っており、無駄がありません。このため、少しでも無駄が入り込むと、とても敏感に検出されてしまうのです。また、そのくらいでないと、とてもじゃないけど、こなしきれないほどの膨大な意志決定量を抱えているのです。

そういう人間に対して、質より量の発言をすることは、単に迷惑と言うより、社会的自殺行為に等しいです。

(2)批判するときの対案がしょぼい

ディシジョンメーカーの興味は、「で、オレの会社/部署/プロジェクトは具体的に何をすればいいの?どういう方針を打ち出せばいいの?どういう価値基準で判断すればいいの?」です。それについて、そのディシジョンメーカーが「まだ知らない」or「思い至ってない」ことを言わなければなりません。

だから、ディシジョンメーカーに対して、批判をするときは、その批判のオチが、具体的で効果的な問題解決方法であることを前提として、ディシジョンメーカーは話を聞きます。にもかかわらず、そのオチが、「そんなん、十年前から考えとったわボケ!」というようなものだったりすると、その発言を聞いた時間は無駄だったことになり、それは、ディシジョンメーカーの貴重な時間を奪い、また一歩彼を株主総会リンチへと追い詰めることになります。当然彼は怒ります。そして、心の中で、その批判とオチを提供した人間に、「無能」というラベルを貼り、以降、その人間とのミーティングは、スケジュールに入らなくなります。

もちろん、オチがなくても、批判自体が、斬新かつ、有意義な切り口での批判の場合、とてもウケがよいこともあります。いままで認識できていなかった問題を、認識できるようになること自体で、会社の生産性をあげたり、あたらしいビジネスの展開をする糸口が見えることがあるからです。

しかし、すでにディシジョンメーカーがその問題点を十分に認識していて、その解決方法を模索中だった場合、オチがしょぼかったり、なかったりすると、ディシジョンメーカーも人間ですから「批判するだけならだれでもできるわい!(怒)こいつと話していても、時間の無駄だわ。」という気分になります。

さらに最悪なのが、そのディシジョンメーカーが、すでにその問題を十分に考え抜いていたり、すでに、かなり対策を打ったあとに、それよりも、ずっと浅いレベルで、その問題点を指摘することです。その場合、その批判を行った相手は、とてつもなくヌルく見えます。ダメ人間に見えます。イギリス語で言うなら、He is a waste of space.だし、アメリカ語で言うなら、He is a loser.です。

(3)自分の得意分野を外へつなげられない

会議や立ち話の間中、そのディシジョンメーカーの興味・関心のある問題を重要なノードとしながらダイナミックに広がっていく会話の意味ネットワークに、どのように、緻密に、美しく自分の持つ意味ネットワークを組み込んだかどうかで、自分の発言の価値が決まってきます。

そして、当然、すでに相手が持っている意味ネットワークやノードをだらだらと言語化したところで、それは無価値どころか害悪です。なので、相手が持っておらず、しかも、相手にとって、価値のある意味ネットワークモジュールを、提供しなければなりません。

だから、当然、自分の得意分野、自分がコアバリューを持っている分野のことを話す訳ですが、その得意分野の話を、その会話がダイナミックに展開する論理ネットワーク構造の、的確な場所を「狙って」発言しなければ、その発言は意味をなしません。単に、自分の得意なことをしゃべればいいと言う物ではないのです。それを、相手の課題を解決するための問題解決構造を形成するための重大なパーツとして働くように、自分のコアバリューをカスタマイズして、組み込まなければ、「つかえねー専門バカ」というラベルを貼られ、以降、ミーティングには呼ばれなくなります。

そういう、「つかえねー専門バカ」は、スキルがI字型なのです。そうならないためには、自分のスキルをT字構造にしておかなければなりません。すなわち、自分の強み、得意技、コアバリューを徹底的に極めると同時に、それを、世の中のありとあらゆる分野に適用し、応用し、具体的な問題を解決し、具体的な成果を生み出すにはどうしたらいいか、常日頃から考え抜いておかなければなりません。T字のように、深さと広さを両方持たないと、それは、無価値どころか、害悪を垂れ流すことになるのです。

そこのところが分かってなくって、会話に参加している人たちが重要と考えるノードとのつながりの薄い部分で、専門分野の話を、得意げにダラダラと続ける無能君がよくいます。本人は、「どうだ、すごいだろう。オレはおまえらの理解できない専門知識を持っているんだぜ。」というつもりかもしれませんが、そういう人の今後の人生は、あまり明るい物にはならないでしょう。

というわけで、さっそく、教えていただいたとおり「2.批判的」をやってみたんですが、どうですかね?

え?オチですか?

オチは、「フリをすると不利になる。」ということで。



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あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

(わたしは)まもなく死ぬだろうが、死後のあの世の思い出に、もういちどぜひあなたにお会いしたいものだ。

死ぬというのは比喩的なものだろうけれど
それにしてもいつかはこの世から退場するわけで
そのことを考えると
生きているうちに
今ひとたび逢いたいものだ

というわけで
これはよく分かる

ーー
生きている うちに触れたい ひともあり 今ひとたびの 逢うこともがな


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対人関係のレパートリー

対人関係のレパートリーなんて少ないわけです
特に若い頃はそうです

大人になれば
夫、父親、愛人、上司、お得意さん、親分、子分、兄貴、お隣さん、古い同級生、昔の恋人、
いろいろな役割を演じることができるわけです

そして一つの役割を演じているときに
ふと別の役割の顔をのぞかせてしまったりして
そのことが魅力にもなったりするわけです

若い頃は愚かで未熟だった

やはりそう思います

あなたはあなたであの頃は愚かで未熟だったと言います

わたしはわたしでやはりそう思います

でも、その道しかなかった、そう思います、不器用だし


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「オヤジが切れちゃった」

上司としては、教育的に叱っているつもりでも、
それを聞く新人が「オヤジが切れちゃった」と受け止めてしまえば、
結局コミュニケーションは成立しない。

教育的に接することは案外難しいもので、
先天的に向き不向きもあると思う。

しかしそれでも上司は務めなければならないわけで、
冷静に、
余計な例え話もせず、
端的にワンフレーズで、
などを心がけたい。

人は一度にたくさんいわれても、分からない。
「しっかりしろ」と怒鳴っているより、
具体的に、先に●●さんに電話しろ、値段は204円とか指示してほしい。
はっきり指示されれば動けるのだ。

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新橋空き室情報 12連発

わたしは今日休日出勤をして新橋空き室情報を収集しました。これを会社に提出して、代休を申請します。
























こんなにもあったのです。
ときどき、風俗系の画像が混じるので、それは除外しました。
女性に優しい街ではないですね。

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吉野家バイト時給

結構いいですよね
若い人がうらやましい
歳を取るとバイトもない
うまくやっている人たちは退職金を次々に受け取って
それもまたうらやましい



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医療事務の給料

< 正社員の給料 >
全国の医療機関、 病院などで正社員の医療事務員として働いている人たちは 25万人ぐらいと言われています。


医療事務は、基礎的な医学の知識やレセプトの作成など専門的なスキルが必要とされるため、 給料も高いというイメージをもたれている方もいるみたいですが、医療事務の正社員の初任給は、高卒で16万円、 大卒で19万円程度になります。

一般の事務職とそれほど変わらない給与水準ですね。しかし、能力給がプラスされるところもあるそうです。


日本医療労働組合による、「2004年度 賃金・ 労働時間等実態調査報告」よると、医療事務の平均初任給は、高校卒で、157,313円、大卒で、 182,560円となっています。

 

 初任給35歳50歳
高卒事務157,313261,348342,487
前年比-771-2,313-2,335
大卒事務182,560269,682355,570
前年比-748-1,967-2,574

 

2004年度 賃金・労働時間等実態調査報告」(日本医療労働組合連合会より)


医療事務の給料は、高収入ではないですが安定収入は期待できます。



< 派遣社員の給料 >
派遣社員とは、人材派遣会社に登録し、 派遣会社が紹介した企業内で働く社員のことで、正社員やパートなどの雇用とは全く異なる雇用形態です。


仕事の指示は派遣先企業から、給与は派遣会社から振り込まれるシステムになっています。つまり、 雇用先と給料を支払う会社が違うのが特徴です。条件を満たせば、社会保険や雇用保険にも加入できます。


医療事務でも最近は、派遣の求人が多くなっており、注目の雇用形態です。


派遣は、「育児や家事に追われて中々自由な時間がとれない」「勤務時間に制限がある」「短期間だけ就業したい」といった、 ライフスタイルに合わせながら仕事を選ぶことができるので、主婦の方には強い味方です。

医療事務の給料ですが、パートの時給は働く地域にもよりますが、大体850~1000円

派遣社員は時給1000~1500円が平均

正社員と違って賞与がないということも頭にいれておきましょう。

正社員の医療事務だったら約15~20万といったところが多いようです

 

独身女性は結婚後も勤務体制を変えて働けるし、主婦の方だったら短時間の勤務で良いといった利点があります。だから少しの求人人数に対して何人も応募するというのが納得できます。また長年勤めると退職してからも忙しいレセプト期間だけ働かせてもらえたり、違う医院のレセプト業務を紹介されたりすることもあるようです。 

 

いくら正確に仕事がこなせても冷たい態度や無愛想な返答をするような受付は患者さんにも病院にとっても迷惑です。誠意のある態度やしぐさは患者さんやその家族に必ず伝わります、病気を治すのは医療事務の仕事ではありませんが診察行為はできなくても、具合が悪そうなら座れるところへ案内する、看護師に伝える、車いすを用意する・・・など、自分にできることは何かが分かる人。 

 

このようなちょっとした心遣いができる人が医療事務には向いているといえるかもしれません。 

 

診察が終わった後に患者さんから「ありがとう」の言葉と笑顔がもらえると、また頑張ろうという気になれますし医療事務という仕事のやりがいを一番感じることのできる瞬間だと思います。

 

病院の受付の仕事での大事な心がけ

病院に行くと「お大事に」と言ってくれる受付の方の笑顔は病気で辛い時でもなんか元気になるような気がします。医療事務の仕事をする上で大切なのは、いつも患者さんの立場に立って物事を考えなくてはならないということでしょう。なかには緊急な治療をしないといけない人もいるでしょうし時間がなくて困っている人もいます、そんなときに「順番にしかお呼びできません」とか「よその病院に行ってください」では医療事務として失格です。

もし自分でその辺りが判断出来ないときは、看護師に伝えるなどして的確な対応をしなくてはいけません。また患者さんからいろいろな質問をして来られるのも受付です、特に診療所では受付で薬や検査結果を渡すことが多いようです。患者さんも医師にいろいろ聞くのは、ちょっと気が引けるからと受付で医療事務の人にいろいろ質問をされることもあります。しかし注意しないといけないのは「検査結果がこうだからこうしなさい」などといった医療行為はしてはいけません。医療事務は国家資格を持っていませんから、いくら専門知識があっても指導する立場ではないからです。長く勤めれば顔なじみになる患者さんも出てくるでしょう、そうすると患者さんがどうしてほしいタイプの人かが分かってくると思います。 

そうなれば、その人にあった対応ができるようになるでしょう。

医療事務は「自分だったらどうしてもらいたいか?」を考えて行動できる気配りの精神を常に忘れてはいけない仕事です。

ーー
はたらこねっと だとこんな感じです
http://www.hatarako.net/jobSearch.do?k=agshok_el14_bt21110&AGE=&PROFILEFLG=1
ここは派遣のようです

ーー
ハローワークだとこんな感じ

 



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筋肉を鍛えるとアキレス腱が切れる

筋肉を鍛えるとアキレス腱が切れる

アキレス腱は鍛えようがない

ーー
脳の領域でも同じことが言えるのだと思う


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マズロー 欲求五段階説 Maslow's Hierarchy of Needs

説明の必要があって
「マズロー 欲求五段階説」
Maslow's Hierarchy of Needs
を検索したら
山のように出てきた

ずいぶんと広く承認されている
分かりやすい説である

ーー
これを脳の階層構造で解釈してもいい

お酒を飲めば上位の脳機能が停止するので
多分高次の欲求もなくなり
安心する

ーー

image20091002.jpg

hierarchyofneeds.gif
JUERnlrc.jpeg

このように図も一杯



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鏡と結婚しろ

これは、分相応な人と結婚しなさいという教えなのだそうです

たしかに
鏡を見てからにしなさいとか言われますね

それを極端にして
鏡と結婚しろ
というのもまあもっともです


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「ご汁」

いわゆる「ご汁」ですが、主な具財は「ご」のみです。ツルちゃん(祖母)ルールでお送りいたします。彩りと香りに葱をのっけますが、見本写真の葱はあからさまに多すぎです。見栄っぱりであります。

kumatarukumataru

材料 ( 2人分くらい )

大豆

乾燥・50グラム

適量

味噌

汁味付け用・お好み

にぼし

出汁用・適量

1

「乾燥大豆」をたっぷりの水に浸す。そのまま丸一日くらいかけてふやかす。
たっぷり「呉」が入った呉汁が好きなので分量は多めになっているが、お好みで減らしても良いかと思われる(が、これ以上多いのはキケンかもしれない)。

2

写真

大豆が十分戻ったら、すり鉢で擂(す)る。少しずつすり鉢に入れながら、「ふわふわ」になるまで根気よく擂り潰す。
写真が目安。
これがいわゆる「呉(ご)」。

3

「葱」を刻む。
トッピングなのでちょっとで良い(再度書きますが、完成写真の葱は多すぎ…)。

4

「味噌汁」を作る。
「にぼし」で出汁をとって「味噌」で味をつけた味噌汁を沸騰させる。

5

沸騰した味噌汁に「呉」を投入する。
ふわふわーっと膨らむので、大きさに余裕のある鍋を使用すること。

6

「とうふ」のような香ばしいにおいがしてきたら完成(時間にて1分弱)。
お椀に盛り付けて、葱をちらして食卓へ。

 

7個人的に

私はねぎは入れません
お味噌汁の具の一つみたいな位置づけです



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高菜チャーハン

きょうは高菜チャーハンを作ってみました。

    たまねぎを炒める

    その上で高菜を入れて炒める

    ご飯を炒める

    卵を入れる

    鶏がらスープの素(粉末)を入れる

    あとは胡椒を少しだけ入れる

ポイントはごま油を使うこと。

風味がでておいしーよ☆



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人から愛される徳と、人を怖れさせる欠点とが必要

世の中で成功を収めるには、人から愛される徳と、人を怖れさせる欠点とが必要であろう。
ジューベル


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料理

年とって思うが
料理を人生の早い段階で勉強しておけばよかった

自分の体質や体調に合った食事を食べることがよいので
誰か料理してくれる人がいて
その人が体質や体調を気遣ってくれる人ならいいけれど
人生いろいろなので
いつでもそのような人がいるとは限らない

自分で料理するのは大変だけれど
他人に依存しないという点では
自分で自分にあった料理ができることは大切だと思う

ーー
買い物をすることで社会とつながることができる

ーー
どうせ必要な技術・知識なら
早く身につけた方がよかったと思う


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学校における道徳教育は二重構造をなしている

後輩のレポート むむむ なるほど

(1)学校における道徳教育は二重構造をなしている。それは、特設された「道徳の時間」における道徳教育と、学校全体を通じて行う場合の道徳教育の2パターンで行っている。細かく見ていくと、新たに開設された学習指導要領には、道徳に関して言うと、「各教科、特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら、計画的、発展的指導によってこれを補充、進化、統合し、道徳的価値の自覚を深め、道徳的実践力を育成するものとする」と位置づけ、先ほどの二重構造の両者の関係を位置付けているものとして考えることが出来る。それを詳しく見ていくと学校教育そのものが教科指導と教科外指導と分かれている。まず、教科指導から考えてみる。道徳における教科指導の重要性は、人間の財産としての文化的価値を子どもに伝達し、これによって鋭い知性と豊かな情操を育むための基礎をつくることができる。これらの基礎がなければ、学校全体で行う場合の行動としての道徳教育につながることができない。何故ならば、土台がなければ、真に正しい道徳的判断力、道徳的心情、道徳的態度、道徳的行為を望むことができないからだ。理性や知性の裏付けのない道徳至上主義は危険であるのだ。教科活動で教授的方法により知と技を学びこれが人格の形成につながる一つの手段として挙げられているがこれだけでは不十分でもう一つの方法も相互しておこなわなければならない。それが、学校全体で行われる教科外活動である。これは道徳や特別活動にもつながっている。道徳性(情・意)または社会性を身につけさせるために訓育的方法が用いられる。教科指導と教科外指導が相互関係にあり、それによる目的とした知識や道徳性、社会性が人格の形成におおきく作用するというのだ。ただ、教科の指導だけでも、教科外活動をさせるだけでも、人格を形成することはできず、2つのアプローチがあってこその道徳の指導であるというのが二重構造である。「小学校学習指導解説・道徳編」では次のように説明されている。「道徳的実践力とは一人一人の児童が道徳的価値を自分の内面から自覚し、将来出会うであろう様々な場面、状況においても、道徳的価値を表現するための適切な行為を主体的に選択し、実践することが出来るような内面的資質を意味している。」道徳的価値の内面的自覚が普段の生活の中で自覚を持ち、子ども一人一人が自分の心で考えて行動するためには、教授法としての道徳教育と、子ども達が自主的に考え行動するためのチャンスが与えられるような場所を提供し、学校教育活動全体を通して子どもの道徳心の芽を伸ばしていくような教育が道徳教育の二重構造であると私は考える。

(2)私自身、教育実習で道徳の時間を担当した。対象は6年生だった。バスケットコートの取り合いについて、子ども達に討論させた。そしたら、シビアな意見がいくつもでてきた。本当は譲ればいいに決まっているが、でも「早い者勝ちだ」とか、「譲ってばかりしていても人生生きていけるものか」とか、そのような言葉がいくつも出てきた。しかし、クラスの人の一人がこう提案してきた。「半分ずつにすればいいじゃない」という意見が出てきた。そうすると多くの子ども達が、「それがいい、時間を半分ずつにしよう、コートも半分ずつにしよう。」と何かを譲ることがテーマで半分ずつにすることを学んだ。ちょうどいい時期に学活の時間にバスケットボールのクラス対抗試合というものがあって、私は、練習試合の際に、彼らがどのようにして、あの狭いバスケットコートを使うのか見ていると、半分ずつにしたり、業間休みと昼休みで女子と男子が譲り合ってコートを使っている所を拝見して、私は感動した。さっき、道徳の二重構造の勉強をしたが、ただ机上で一方的に教師がモラルを教え込んでも何の人間形成の役に立たない。子ども達はもうすでにどうするのが正しいのかわかっているのだが、でも、その時自分の目の前にその現状が来ると道徳的な対応が取れないから困っているのだ。だから、教壇で教師がただ、「譲り合いましょう、ルールを守りましょう」といったところで、子どもの心には響いていかない。子どもは本当の意味で納得はしていない。だからこそ、授業では子どもが主体となって、本音で話せるような場を教師は作っていかなければならない。皆で道徳の授業で、本音を出し合い、自分たちが納得いく答えを子どもが主体になって出し合うことが大切なのだ。子どもが自分で考えたことであるならば、それが道徳心につなぐよう教師も努力が必要だが、そうすれば集団行動するとき、あるいは学校活動する時、自分で考えて子どもが主体となって道徳のある考えを自分で見つけ出すことができるのではないだろうかと私は考えている。そのためにも道徳の資料の選び方などにもよく考える必要がある。きれいごとに終わらない資料、児童の生活に使える資料、児童の興味、発達に応じた資料、狙いとする道徳的価値があらわに出ていない資料等を用いて子どもの心の本心を探り、リラックスして自分の本当の意見を言える雰囲気を作っていくことが、教科指導で大切な事になるのだと思う。そして、それがいつの日か、道徳の時間に習ったことを子ども達は目の当たりにするときがくるであろう。そういうときに、子どもは迷わず、信念を揺るがすことなく、子どもの道徳的実践を媒介にしながら、道徳的心情を高めることが出来、道徳の意欲と態度を高めることが出来るのだとあたしは考えた。道徳的な実践力というのは子ども達自身の内面から出ていくものであり、当然日常の生活で生きて働くように、道徳の指導も、学校全体を通じて行う道徳指導も相互して行われなくてはならないと思った。



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恐怖症に対する脱感作療法/異性脱感作

例えば蜘蛛が嫌いだったとして、
それに慣れるために(何のためになれる必要があるのか分からないが)
まずマイルドな感じの絵を見て、次に写真を見て、さらにはどぎついような写真を見て、
さらには透明カプセルに入った蜘蛛の模型を見て、次には透明化カプセルに触り、
次にはカプセルをはずして中の蜘蛛の模型に触り、
まあ本物にはどうするのだろう、
かごの中に入った本物を見るくらいはするのだろうか。

このように
段階を追って、徐々に慣れていくのが恐怖症に対する治療法になる。

ーー
全く逆のことを恋愛時の異性について考えることができる。
最初は遠くから見るだけでドキドキする。
最後は何をしても別段どうということもなくなる。

段階を追って、徐々に、どきどきがなくなっていくプロセスである。

ーー
これって同じメカニズムなのだろうか。


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統合失調症とうつ-4

クローの言う陽性症状と陰性症状の区別は単に言葉の使用習慣による部分もあるのではないかと思うことがある。むしろ、ジャクソニスムの原則に立ち返って、陽性症状と陰性症状を定義すればいいと思う。ジャクソンによれば脳は層構造をなし、上位の脳は下位の脳を抑制的に制御している。脳の上位の機能欠落は、その欠落そのものの症状と、その機能が欠落したことによる下位機能の突出を結果する。これがジャクソンのいう陰性症状と陽性症状である。ジャクソンの意見とクローの意見はどのように関係するのか。
 統合失調症の場合、幼児の頃から用意されたドパミン過敏性がある。具体的にはレセプターの数が多すぎるとイメージしよう。そこに脳に何らかの欠落Xが発生する。その欠落が生じることによって、下位の機能の突出が起こる。それまで抑制されていた「世界モデル」からの出力の遅延が生じる。だから自我障害が生じる。これが陽性症状である。この自我障害を補完しようとして生体は反応し、「世界モデル」からの出力を早く届けようとする。

ーー
この説明と、ドパミン・ドパミンレセプターの話をつなぐこと。



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統合失調症とうつ-3

Ⅰ既知の事項のまとめ

1.統合失調症ではうつ状態が認められる例は多く、古くから指摘されてきた。しかもあらゆる病相で認められる。また統合失調症の場合に約10%は自殺するといわれ、一般人口に比較して9倍である。統合失調症に際しては、うつ状態と自殺が直結するものもあり、統合失調症そのものが自殺と直結するものもあり治療も異なるのであるが、すべての病期を通じて、自殺を防止することが重要である。

2.統合失調症患者がうつ状態を呈するとき、鑑別診断が重要である。

1)統合失調症前駆期のうつ状態。つまり、幻聴、させられ体験、被害妄想などが発現する前に見られるうつ状態である。これを統合失調症を基礎とするものと診断することは容易ではないが、相談時の年齢が30歳以下であること、遺伝歴があること、社会適応が悪いことなどが発見の手がかりとなることもある。うつ状態の形をとることもあり、うつ状態類似の統合失調症性陰性症状の形をとることもある。
 治療としては少量のSulpirideが有効であることが多い。女性の場合には高プロラクチン血症による副作用が出ることが多いので、リーゼなどのベンゾジアゼピンを用いる。遺伝歴など明白な場合にはSDAで開始する。統合失調症前駆期のうつ状態を考えたときにはSSRIなどの抗うつ剤は、自殺の危険を高める可能性を考えて、使用しない場合もあり、むしろバルブロ酸などで経過を見ることもある。精神療法としては、症状と距離をとり対象化することを目標とする認知療法がよい。

2)統合失調症急性期におけるうつ状態。つまり、幻聴、させられ体験、被害妄想とともに見られるうつ状態である。統合失調感情障害の可能性を考える。この場合には充分量のドパミン遮断薬が有効である。病識が残存する場合、二次的に抑うつ状態を呈することもあるが、その場合も、抗精神病薬で対処する。精神療法としては、寄り添うこととなる。

3)統合失調症急性期後のうつ状態。精神病後抑うつ(postpsychotic depression)と呼ばれているものである。これは疲弊性うつ状態と陰性症状、さらには薬物性のうつ状態とに鑑別できるはずのものである。実際には容易ではないが、疲弊性うつ状態の場合には疲弊に加えて病識の部分的回復も見られ、悲観的、憂うつ、自責的であり、陰性症状の場合にはむしろ、意欲減退、興味喪失、無為、自閉などが目立つ。
 疲弊性うつ状態の場合には、SDAと併用する形でSSRIなどを使用してよい。陰性症状の場合には、SDAを調節しながら経過を見る。薬物性うつ状態の場合には高力価のドパミン遮断薬を大量に使っている場合が多く、不快気分と活動性低下が主症状となる。対策としては薬物の減量や変更をする。アキネジア性抑うつと呼ばれるものがあり、活動量減少、無気力、無関心を主徴とする。主剤を変更するか抗パーキンソン薬を加えるかする。焦燥感を主とするアカシジアもうつ状態の焦燥感と似るが、これも同様の対処でよい。また、パーキンソン症状が優位になるとアパシー(無欲動)、アンヘドニア(失快楽)などが見られる。これも同様の対処である。
 精神療法としては、病識再出現にあたっての絶望と不安を受容支持する事である。自殺について積極的に話題にし、些細なきっかけも見逃さない。必要があれば再入院を勧める。デイケア、通所作業所などの精神科リハビリテーションでは、患者の回復に合った課題を提案し、役割と居場所を提供し、自信を回復させることができる。また、家族と一時的に距離をとることができる。認知行動療法としては、医学の発展もあり、社会の進歩もあり、決して悲観する必要のないことを伝える。また、自分が今回急性期に至ったきっかけを分析することで、再発のパターンを知り、次回の増悪に備えることができる。また、統合失調症の長期経過を示すことによって、次の急性増悪の予防が大切であること、そのために継続的服薬が大切であることを理解していただく。
 また、一定のレベルダウンのあった患者さんには、SSTのテクニックを用いて、日常生活に支障のない工夫を施していく。焦らずに着実に治療を進め社会に関わるためには、家族の理解と協力が不可欠である。早い時期に家族を治療協力者として役割を与え、位置づける。各種の社会福祉制度の利用も大切で、年金や施設の利用、また自助グループ(たとえばベテルの会)などで患者同士が啓発し合うことで深刻な抑うつから免れることができた例も多い。薬剤のアドヒランスを高めるためには漢方薬を併用することも方法である。サイコ剤(さいこ・・・)を中心にして、補剤(補。・・・)を用いたり、病期に応じて最適なものを調整する。

4)疲弊期から回復しても統合失調性のレベルダウンが残り、うつ状態に類した病像を呈する場合。残遺期と呼んでいるが、環境刺激に弱いので、疎外体験や孤立体験のあった場合や自殺念慮のある場合は入院治療が勧められる。SDAの調整によって不足のある場合にはSSRIを加えることがある。

5)総じて、統合失調症の再発を防ぐことと自殺を防ぐことが、第一目標となる。


Ⅱ背景となる仮説

1.自意識の発生と自意識の障害 ドパミン遮断薬とセロトニン系薬剤の役割

 1) 動物の神経系は感覚器で刺激受容→脳の処理「自動機械」→筋肉の反応→現実→感覚器で刺激受容というように現実と脳を両側においてループを形成している。これだけならば自意識は発生しない。「自動機械」が行動していると形容してもいいだろう。人間の場合、刺激を受容し、その出力としての筋肉の反応の間に脳内の「世界モデル」を発生させ、結果のシミュレーションをする。そして、脳内の「世界モデル」から出力された信号と、「自動機械」からの信号を、比較検討する。違いがあれば脳内「世界モデル」を訂正することによって、さらに正確な予測ができるようにする。
 たとえばこのくらいの力で地面を蹴ったら体はどのように進むか、そのようなことをシミュレーションしながら、そして結果を修正しながら、生きている。ある程度安定した世界に生きていれば、予測は次第に正確になり、「世界モデル」と「自動機械」は必要な部分でほぼ一致するようになる。「自動機械」は世界の必要部分のよい転写である。それをさらに転写して内部に蓄えるのが「世界モデル」である。

 2) 「世界モデル」からの出力と「自動機械」からの出力は、時間差があり、常に「世界モデル」からの出力が、比較照合部分に一瞬早く届くようにできている。このことから、能動感や行為の自己所属感が生じる。(私の理論である「時間遅延理論」)。つまり、人間は「自動機械」部分だけで生きて行くには充分であり、「世界モデル」部分は自意識を発生させるための装置である。
 この自意識が発生したおかげで未来が発生し、目的が発生した。これは人間を強く特徴づけるものであるが、進化の最後に発生した部分であり、壊れやすい。
 上記とは逆に、「世界モデル」からの出力が「自動機械」からの出力に遅れると、自我障害となり、させられ体験、強迫性体験、幻聴、自生思考などになる。これが統合失調症の急性期の事態である。例えば、幻聴は、自分で話そうと思ったことが「自動機械」側よりも「世界モデル」側からの出力が遅れるので、他人が話している、聞きたくもないことを聞かされているということになる。

 3)ドパミン遮断薬はその特性によって、「世界モデル」からの出力と「自動機械」からの出力のそれぞれを違う程度に遅延させる。もっとも強力なものは、両方とも大きく遅延させる。この場合は、「自動機械」も停止してしまうくらいで、これが薬剤過量による不快気分と活動性低下である。ある程度マイルドな処方にすると、「自動機械」からの出力はやや遅延させ、「世界モデル」からの出力は遅延させない。こうなると、自我障害は改善する。逆に、薬剤の特性によって、「自動機械」からの出力を遅延させず、「世界モデル」からの出力を遅延させるものだと、自我障害は改善しない。

4)この場合に、疲弊性以外にうつ状態の説明があるかといえば、例えば、精神病極期にはドパミンなどのモノアミン系が使い果たされて、モノアミン系枯渇状態にあるのだと説明することはできる。そうであれば、ドパミン遮断剤はマイルドに使い、セロトニン系薬剤を重ねて使用しても意味がある。

 4)統合失調症の陽性症状と陰性症状の区別は言語の使用習慣に依存する分類であってあまり意味がないと考えられる。ジャクソニスムの原則に立ち返って、陽性症状と陰性症状を定義すればいいと思う。ジャクソンによれば脳は層構造をなし、上位の脳は下位の脳を抑制的に制御している。脳の上位の機能欠落は、その欠落そのものの症状と、その機能が欠落したことによる下位機能の突出を結果する。これがジャクソンのいう陰性症状と陽性症状である。
 統合失調症の場合、「世界モデル」からの出力を遅延させる方向での欠落が生じている。だから自我障害が生じる。これが陰性症状である。一方、その欠落は「自動機械」の機能の突出を生むはずで、これが陽性症状ということになる。これは現在の常識的な言語使用には結びつかない、特殊な用法になる。

 5)統合失調症前駆期のうつ状態は「世界モデル」からの出力が

6)自我障害が発生した場合の心理的外傷は大きく、充分に抑うつの原因となりうる。また、自分の現在と未来を考えて、悲観的になることも理解できる。こうした事情を含んで精神病後疲弊性抑うつと呼んでいる。この場合には、心因反応として、悲哀のエピソードのあとの抑うつともメカニズムは似ているし、躁うつ病において、躁状態のあとの疲弊性のうつ状態ともメカニズムは似ている。従って治療としては、セロトニン系の調整を眼目とする薬剤を用いてよい。自殺には充分注意し、面接の感覚を1週間程度に短めに設定する。


Ⅲ統合失調症のリハビリについて
 統合失調症のリハビリにおいては、残遺期のうつ状態に類したレベルダウンした状態に対して行うことが多い。その場合に治療者の恐れることは再発・再燃と自殺である。そこで薬剤はなるべく維持しようとする。ドパミン遮断剤を維持すると、ドパミンレセプターにおけるアップレギュレーションが起こる。つまり、薬剤で蓋をしているけれども、実際のレセプター量は増えてしまい、潜在的な過敏さを作り出す。デイケアなどの場面においては、コントロールしつつといえども、少しずつドパミンを放出する活動をするのであって、そこにアドヒランスの悪さがあったりすると、潜在的な過敏さが形成されているので、再発再燃に至る。治療者はそれが怖いのでやはり薬剤を増量する。するとまた潜在的過敏性が用意されるという矛盾が生じる。
 この矛盾を回避するには、まず薬剤を少し減らして、かつ、デイケアでの活動量を増やして、ドパミンレセプターのダウンレギュレーションを目標にしなければならない。しかしながら、薬剤を減量することも、活動量を増やすことも、再発再燃につながるので、慎重かつ細心のプログラムが必要である。うつ病に類した状態からの脱出はなかなか容易ではない。






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統合失調症とうつ-2

統合失調症の場合にみられるうつまたはうつ類似症状をいくつかに分類すると
A.疲弊性うつ、
B.陰性症状
C.薬剤性(パーキンソニスム、アンヘドニア、アパシー、アカシジア、アキネジア)
があり
病期と関連させてみると
1.前駆期……陰性症状
2.極期……幻聴、被害妄想などの陽性症状が前景に立つのでうつは隠蔽される。急性期極期に明らかなうつ状態がある場合には統合失調感情障害を考える。
3.急性期後……疲弊性うつ、陰性症状

postpsychotic depressionつまりICD-10でいう統合失調症後抑うつはA,B,Cのいずれの可能性もある。

薬剤性の場合にはドパミン遮断薬またはSDAの量を調整しまたは種類を調整し、さらには必要に応じて抗パーキンソン薬を加えることによって対処する。

しかしながらここで疑問なのは、
統合失調症の変調の本体がドパミン系の失調であるならば
ドパミン系だけを治療すればよいはずである

それなのにSDAを用いることは、
治療の際にドパミン遮断薬とセロトニン作動薬を併用することと違いがあるだろうかということになる。

図式的に言うと
統合失調症には陽性症状と陰性症状があって、
陽性症状はドパミン遮断薬で、陰性症状はセロトニン作動薬で対処する、
その両方を兼ね備えた薬がSDAである。
そうならば、両者のバランスを微調整するために
ドパミン遮断薬を加えたり、セロトニン作動薬を加えたりするのは意味がある。

しかし立ち返って考えてみると、
ドパミン系とセロトニン系を独立に個々の場合に応じて調整する方が賢明だと言えないだろうか。




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統合失調症とうつ

目の前に初診の患者さんがいて
うつ状態を呈している場合、単純に
うつ病と診断してはいけない。

ーー
統合失調症の場合、初期の陰性症状としてうつ状態を呈することはよくある。
また統合失調症の陽性症状が終わったあたの疲弊性うつ状態であることがある。自分が統合失調症であると認識すること、また陽性症状の体験のトラウマは、精神を消耗させるに充分である。
また統合失調症の陽性症状が弱くなったあとの陰性症状を見ているのかもしれない。
また統合失調症にさしてドパミン遮断薬を使用して二次性のパーキンソニスムが起こり、その結果として無動・無気力になっているのかもしれない。

この場合、疲弊性うつ状態と陰性症状とパーキンソンニスムによるアパシーやアンヘドニアとを区別する必要がある。

おおむねを言うと、
陰性症状では、興味減退、意欲減退は呈するが、うつ状態に比較して憂うつ、悲哀、自責などは少ない。
アパシーでは意欲と興味の減退が主である。行動・認知・情動の動機付けの低下がアパシーであり、興味低下や喜び低下は起こるが憂うつは起こらないと議論されている。
アンヘドニアは失快楽症と言われていて喜びの低下が主となる。
パーキンソニスムに伴うアパシーとアンヘドニアと陰性症状との鑑別は、薬剤を調整してみることで区別がつく。

統合失調症の場合の自殺については、それに至るいろいろな経路が考えられるのだが、
うかつに賦活性の薬剤を出して自殺実行に至るのは危険なので
まずSDAを調整し、次にパルプロ酸を加えるといった慎重な選択をする治療者も多い。

陰性症状と見た場合にはSDAで対処する。
疲弊性うつ状態と見た場合にはSSRIを加える。
パーキンソニスムが関与していると見た場合には変薬するなどして対処する。

疲弊性部分が大きいと見た場合には
トラウマや疲労が回復可能で対処可能なものであることについて患者教育する必要がある。

ーー
また認知症の始まりの局面でうつ状態を呈することはよくある。

さらに身体症状が先にあり、うつ状態を呈することがあり、パーキンソン病とか甲状腺機能異常症の場合である。生理周期に関係してうつ状態を反復する例は多く、また、クッシング病など副腎皮質ステロイドの異常も精神症状を呈することが知られている。

更年期障害で抑うつを呈することも多い。男性更年期も最近は言われていて、性機能の他に、抑うつをはじめとする精神機能の変調を訴えることもある。

ーー
抑うつを呈している場合に、
経過を見ていけば、それが単極性のうつ病なのか、双極性障害なのか、統合失調症に伴うものなのか、認知症の始まりか、身体病に伴うものか、一時的な反応性のものか、区別することはできる。

しかし初診時にそれらの可能性を含めて、対処しなければならないので、難しい。

最も簡単な鑑別は年齢である。
30以下ならば第一は統合失調症を疑う。
30-50歳はうつ病を疑う。
50を過ぎていたら認知症の始まりも念頭に置く。

また遺伝歴も重要である。
家系内に統合失調症、うつ病、躁うつ病、てんかん、いずれが存在するときにも、これら内因性の精神疾患の存在を疑う理由になる。




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ないはずのものがあるとあるはずのものがない

昔、クラシック音楽は
普通ならないはずのものがある種類のもので
それは大切な時間だった

テープでも聞けたけれど
本物はLPレコードの方が近いんだという気分があった

今、クラシック音楽は
普通ならあるはずのもので、なければ寂しい種類のものだ

ーー
統合失調症の陽性症状と陰性症状がそのような説明になっているのだけれど
音楽もそうだなあと思ったりした

ネット配信の音楽を聴いていると
あまりにも切れ切れで
情緒のまとまりが悪くなってくるような気がする

こんなにもクルクルと気持ちが変わるのもいいものではない

ーー
大事なものがある人生の方がいいなあ

蜜を少しずつなめるような喜び


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修身とは

後輩は次の文章を書いて、「自分でもよくわかんないけど、書いてることが・・」と告白している。

先日新聞で
大学入試センター試験の国語を見たら経済学のことが出ていて読むつもりもなく流して読んだら結構難しいことを書いているので思わず読み直した。

さすがに問題文に採用されているだけあって、うまくできていて、ひとつの文章では意味がはっきり決まらない場合にも、他の場所を参考にすると、意味が決まってくる部分が多い。結果としては、パズルがぱちっとはまるみたいに理解できるようにできている。内容に賛成するかどうかは別として。

数独などもすぐにはできないけれど分かる部分から決めていけば全体が一通りに決まるような具合である。
(数独は「数字は独身に限る」の略なんだそうです。)
ーーーーー
(1)明治以降の修身教育の変遷について考える。修身科の成立として考えてみる。小学校は下等小学4年、上等小学4年の八年制であった。下等小学校の教科は習字・単語・会話・読本・修身・文法・算数等で、高等小学の教科は、この上に史学単位・博物館単位・科学単位・外国語・天球学がさらに適宜教えられることになってた。

修身とはその文字を示す通り、「悪を定め、善をすすめて、身を修めること」、それが道徳を教えることを意味する。明治に日本に初めて近代的な学校制度を布くための「学制」が各地方に広められたが、その中に修身学という教科が出現された。明治以降の修身的教育は、明治20年代後半から30年代にかけて日本の教育課程も4カ月から6カ月になった。この時期にドイツの教育学者による5段階教授法が日本の教育現場に普及した。この教授法は予備、提示、比較、総括、応用の5段階に区別されるようになった。どの学校や学年や教科でも授業形態の提携を作ろうと日本だけではなく世界にも広がった。この学習スタイルは、現在でも導入、展開、終末というように指導展開が広く行われているのだ。また1900年前後まで義務教育である小学校の就学率が男女平均75パーセント程度で女子の就学率は50パーセントほどであったが、それも改善されるように工夫された。自家や雇われの子守りで充分に学ぶことのできない女学生も多くいた中、子守学級等を設置し、低学年程度の国語・算数を学ばせたり、主に彼女達に必要な、裁縫を必修にしたり、唱歌に子守唄等、出席児童の生活に直結するような学びの場を提供した。修身では「子守りの本分をよく務ること」という題目があり、女子の礼法や立居振舞、菓子・金子の包み方など、そういったことにも多くの時間を割いており、出席児童の生活上の必要性に配慮する等して、子ども達への工夫された教育の普及を行っていった。しかし、この授業方法はいずれも外国の道徳書を翻訳したものを使っていたので、実際道徳教育として成り立っていたかということは定かではないのだ。学制の実施が思わしくなかったため、新たにアメリカの教育制度を範とした「日本教育令」が公布された。これによって、修身は小学校の正式な学科の一つとして設置された。さらに、この翌年に教育令を改正して新しく「改正教育令」を公布したことによって、この中で修身という学問が全ての学科においても首位とおかれるようになり、小学校から高等科までの6年間を通じて課せられるようになり、より一層重視されることになった。

(2)私が思うことは、修身とは参考文献にも記されているように、「悪を改め善をすすめて身を修めること」というようなことを意味するのだが、最初は、日本は、下等小学8級から第5級の間までは、行儀にとらわれた指導をしていた。つまり、ここでいう行儀とは行為そのものであって、外面からみた立ち振る舞いのことに重点をおいた教育を行っていたということがわかった。確かに外面的な立ち振る舞いというのも大切であろう。マナーやルールなど、集団生活を行う、または社会の中で生きていくためには必要不可欠なものであると思うが、ただマナーなどの体裁ばかりを意識することだけが美しい心の人間を育てることになるのかといったらそうではないと私は考える。外面ばかり気にしているだけでは、悪を改め善をすすめることによって身を修めることすらできないからだ。また、言い換えるとするならば、何が悪で何が善かもわからない、自分の柱のない人間に育ってしまうことになりかねないのだ。最初修身教育を取り入れたばかりの時は、外国の教科書をただ翻訳したもので儒教道徳ではなく、日本固有の倫理を表した教科書を用いることもなかったのだ。当時、まだアメリカの文化が徐に普及していないころ、まだアメリカと日本の考え方の差、倫理観の差は存在していただろう。日本人ならではの道徳としてどのように考えていくのが妥当なのかということまで子ども達に理解させるために、日本の修身教育を改正した時点で、よく日本の教育者もきがついたものだなと感心する。よりよい日本国を築いていくためには、現在も過去もよりよい人間を育てるということが最重視される。何がよくて、何がよくないのかということまで分別をつけることのできる人間を育てていくためにも修身教育というものは様々な学問の中でも最重要視されるべきものであり、日本は諸学科中の首位においた。そして、小学校の全学年を通じて修身科は施され、中学校や高等女学校でも教科として課せられた。

また、修身科は、人間としての道徳というよりも、日本国民としての道徳を教えることに重点がおかれ、国家主義色彩を濃くしていった。振る舞いや外面なのではなく、分別がつき、日本を良い方向へ引っ張っていける為の教科が修身なのである。「教育は人にある」という言葉があるが、やはりどの時代でも、教育にかける情熱を怠ってはならないと思う。



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温室育ち

温室育ちという言葉をどう感じますか

若い人たちは温室で育ってきたのかな
そんなはずはない
学校は結構きつい場所だ

携帯とかパソコンでの世界も安楽でばかりもない

温室育ちは
傷つきやすさを
連想していっているのだと思うが
傷ついた経験がないから
傷つきやすいのではなくて

もう何度も傷ついているから
傷つきやすいのだと思う

その傷は小さいよと言われても
痛いものは痛いのだし

たくましさがないという意味なのだろうが
温室外・風雪育ちとでも言えばいいのだろうか

ーー
スポーツ選手とか頭のいい人とかは
温室育ちと感じられることもあるが
それはまた別の意味での
特殊な環境である


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新型うつ病

1.新型うつ病の特徴

いやなことがあると症状が出る
いやなことが終わると症状も終わる
楽しいことは楽しめる

一方、昔のうつ病は
いやなことがあっても楽しいことがあっても
同じうつ状態を呈している

2.新型うつ病の治療

やはり第一はSSRIであるが
SNRIやスルピリド、三環系抗うつ剤、中でもアモキサンやアナフラニールが効くことがある。
SDAを使ってみるのも、セロトニン系に加えて、ドパミン系を調整する点で意味がある。
治療が長期になっても効果が出ない場合には
薬を変えるか組み合わせるか、工夫が必要である。




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教育活動 あたしは考える

 教育活動のモデルには五段階あって、教師が授業を行うにあたった上の目的から、ある科目の授業を終えて子ども達を評価するまでの手順が教授活動のモデルとして挙げられている。

教師の教授活動における第一段階は授業目標を設定することである。授業等、教授が活動する際、常に目的を持った活動となる。テキストによると、「目標は検証可能な明確な形で、しかも妥当性のある目標を設定することが重要だと記されている。何のための学習なのかという具体的な目的を教師が定めて明確にしておくことは、子どもも授業で何を得るべきなのかはっきりする。従って、教師が具体的で明確な目的をさだめるということは大切な作業である。

第二段階は、授業を受ける前の段階に子ども達の状態について知るということである。学習を行う前に生徒の大半が充分に発達している場合とそうでない場合がある。教師は学習者の学習到達度によって、授業目標を変更したりする。学習者のレベルや学習進行等を教師がしることは、効果的な授業を行うのに必要であるのだ。

そして第三段階は、授業計画を決定することである。どの教材を用いてどのような配列や順序の指導形態で行うかを、生徒の能力に応じて考える。授業の目的を達成するために授業を行う際の方法や技術を決定することが求められるのだ。

第四段階では、実際に授業を行う中での教授活動である。教師は生徒に説明をしたり、発問をしたり、疑問を投げかけたりすることで授業を展開する。その中で子ども達を称揚したり、叱ったり、助言を与える等、子ども達のモチベーションを保ち、上手く子ども達を学習しやすいように導く事が求められる。

第五段階は評価である。評価とは、子ども達を評価することと、教授活動を評価することとの2つに分かれる。子ども達を評価することにおいては何らかの基準を定めて、その基準によって評価や分類をすることができる。教授活動においての評価は、子ども達に学習が成立したかどうかを基準にして、その総合的な評価に対して改善すべきものは改善していくことが求められるのだ。第二段階では、診断的評価を用いることが出来る。これは学力診断テストのようなペーパーテストやアンケートも用いて学習者が前もってどのくらい理解しているのかという実態を調べ、学習への適応度を調査することができる。そして第四段階の授業中に行うことのできる評価は、形成的評価を用いることが出来る。学習活動を通して、その学習者の日頃の発表や期間指導の中でどれだけ子どもが理解しているのかを知ることもできれば、ノートや様々な活動の中で子ども達の定着度を確認することは可能である。次に第五段階の評価は総括的評価をすることができる。目標への到達度をとらえてこれまでの学習を反省する方法であり、学習結果をみるため到達度テスト等や学習記録等で総合的に子どもの定着度をはかり、評価する方法である。

 例えば「泣いた赤おに」(浜田広介 著)という物語がある。これを教材として国語の授業を行うという想定とする。対象は小学2年生である。一時間の内容は赤おにと青おにのきもちを考えて、人の気持ちを考えてみようというものである。まず、家では分からない漢字、分からない意味を調べてきてもらう。それをノートに記してもらうことで子ども達の語彙の理解度の差をみることができる。これが診断的評価にあたる。また、その漢字や言葉の意味も家で調べてきてもらう。そして授業の始めにテストを行うことで語彙の意味や漢字練習を意欲的に取り組めることが出来ているか、十分に自分なりに予習が出来ているかということ、これも診断的評価につながるものだと考える。そして、授業中は青おに気持ちと赤おにの気持ちがどういうものであるか、どこの箇所からそう思えたのかという理由を授業中に発表してもらう。授業中は授業の取り組む姿勢や、自分の考えを発言に活かすことが出来るかということや、発言の頻度や内容等の授業態度や、みんなで音読するときに話の筋を理解できているかどうか、そういったことも形成的評価を用いることができる。また、この話は、赤おにと青おにの行動の理由が表現されていないので、物語に描かれていないこの話しを子ども達はどう捉えたのかということをノートの提出などで、彼らの想像力をはかることができる。これも形成的評価に繋がってくると思う。単元の終わりに総括的評価をする。物語の筋が本当の意味で理解できているのかどうか、漢字や言葉の意味がしっかりと把握できているのかどうか、学習の成果をみるためにペーパーテストを行い、子ども達がどのくらい学習の定着が出来ているのかというところまでみることができる。また、ノートを提出してもらうことで、ノートには正しい語彙や文で書けているかどうか、発表では自分の気持ちを論理的に説明できていたかどうか、自分の気持ちを皆に分かるように伝えられることができていたかということ等のコミュニケーション能力まで評価するための記録となるのでノート提出は総括的評価につながる大切なものとなる。感想文や、単元と自分を照らし合わせて考えさせるような作文を書いてもらうことで、ペーパーテストだけではなく、こういったことも総括的評価の対象となるということをあたしは考える。


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プライベートクラウド活用法

プライベートクラウド活用法と言われると
最近は目が行ってしまう

何となく未来がある


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プロ

源氏物語をろくに読みもしないで
褒めちぎる

嫌いな映画でも
褒めちぎる

それがプロである


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認知療法

現場にいる感覚では
やはり認知療法は大切である

ーー
昔、先輩に、自由意志はないとの話をしたら、
怪訝な顔をされた
そしてだっていま自分が自由意志で動いていることは否定できないでしょう
と語る

そうじゃないんだ

諸条件が決定されて、そこに脳の内容が決定されれば、あとは多少の偶然があるだけで
(たとえばそのとき血圧が低かったとか、血糖が高かったとか)
自由意志はないじゃないですか

と当たり前のことを言うが理解してもらえない

では自由意志とは何かを説明すると言うことになると
また途方に話が長くなる

しかし科学が進歩して
長い時間のうちには自由意志という言葉の内容も変化していくのだろうと思う

ーー
それはそうとして、自由意志はないのだから
諸条件と脳の状態が問題である

脳の状態を測るのは結構大変なのだが
われわれはいろいろな患者さんに対してだいたい似たような設定で似たような話をする
そのときに患者さんの理解や反応がずいぶん違う
それはその人の人生を映したもので自然とも言えるけれど
好き嫌いではなくて
正しく理解して欲しいこともあるので
人それぞれで片付けるわけにも行かない

ーー
よく例に出されるのは
コップに水が半分入っているとして
まだ半分あると余裕で構えるか
あと半分しか入っていないと焦るか
外部の条件は同じなのに
脳の内容が違うので
このような違いが出る

だから
脳の内容について
すこしだけ
調整しようと考え始める

数学の問題で正解が出せるようにするのに似ている

ーー
自分の夫が女性にもてるという場合
嫉妬して機嫌を悪くする妻もいるし
こんないい人を夫にして得をしたと思う妻もいるだろう

受け取り方次第である

ーー
物事の「認知」と言うわけであるが
分かったような分からないような言葉だ
cognitionであるが
要するにものの受け取り方、理解の仕方、感じ方と言ったようなものをいう
脳の働きの一部なのだが
例えば作曲をするとかそんな積極的な能力ではなくて
どちらかと言えば受け身に物事を受けとめる場合の受け止め方である

諸条件に接して、脳がどう反応するか、ということ

その脳の反応には様々な深さがある

100回繰り返しても同じ反応をすると言うくらい根深いものもあるし
出現確率1/2程度のものもある

ーー
とりあえず私は人間の脳の中に
「自動反応機械」部分と
「自由意志発生・世界モデル」部分とを考えているので
認知療法がどちらの部分に作用させる意図のものなのか
注意している

ーー
葛藤というものは
自動反応機械の内部でも
世界モデル内部でも生じるが
世界モデルと自動反応機械の間でも生じるわけで
そのばあいはなかなか難しい

ーー
世界モデルはいま現在の世界の転写ではなくて
その人がいままで生きてきた世界の総和の転写である

世界モデルがずれていても
それには理由があるのだ







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