東京都職員共済組合青山病院の閉院
東京都職員共済組合青山病院の閉院についてのお知らせ
東京都職員共済組合では、平成20年3月31日をもって青山病院を閉院することを決定いたしました。 |
婦人科の診療につきましては、平成19年2月28日をもって診療を原則終了
神経科診療について、入院診療につきましては、平成19年3月2日で終了させていただきます。通院中及び入院中の患者様につきましては、他の医療機関への紹介等をさせていただきます。
といった告知があります。これが現在の日本です。
アメリカ中心主義vs国連中心主義
国連中心主義で行きますかというのは、
大きな選択だ。
もし、アメリカが景気対策もあって何年かに一回
戦争をしたいのだとしたら、朝鮮半島はかなり危ない。
ブッシュの任期は終わり、民主党大統領になりそうな感じではあるけれど、
まだ任期は残っている。
それに二期目の選挙の時だって再選は危なかったはずなのに、
戦争がキーワードという一面もあった。
品川 菊寿司 ランチ
850円で握りが一杯と、おみそ汁、あと冷や奴。
11時半から12時までで一時満席となりまた空いて、
12時を過ぎてまた客が増えるリズムのようだ。
12時になってようやくパートのお手伝いの人が来たりして、
それまでは忙しそう。
会計は何とレシートが出ません。今時珍しい感じです。
珍しいと言えば、禁煙どころか、分煙もなにもありません。
なにしろ、板さんがたばこを吸ってましたから。
女性客はまあ、いませんので、入りにくかったですね。
こうしてみると、ウィングの地下一階のお寿司屋さんのほうが入りやすいですね。
握りの他に、丼ものを食べている人、生姜焼きを食べている人がいて、
いつも来ている人たちでもっている感じでした。
通のサラリーマンならここでいいはず。
ネタは値段相応。
痩せすぎモデル問題
*****
困った問題だ。
「やせている=美しい」という誤った美の観念と紹介しているのだが、
程度の問題なのだということを忘れてしまうようだ。
これも人間の特徴である。
Y染色体尊重主義
- 一時、男系相続論に伴って、Y染色体のことが問題になった。
ここでは天皇家の話は全く関係がない。
飲み屋でのほら話である。
- 現代で、遺伝子診断をして親子関係を確定するならともかく、昔はそんな方法はない。そこで女性の処女性が問題になったのだと思う。しかしそんなものも信じるには足りない。
- 男性は自分の子供かどうか判定するために、自分と子供の性器を比較検討したと思う。
- 不思議なことに、性器は、男性なら父親に、女性なら母親に似ている(そういう感じがする、ここがほら話)。
- 男性はYXだから、男性であることを決定する因子は父親から伝えられる。Y染色体は男性性器の形状決定に大きく影響するだろう。
- 女性はXXだから、女性であることの形状を母方のXが決めているのか、父方のXが決めているのか、はっきりしない。
- 先日のテレビドラマ「華麗なる一族」でも、父親が、長男について、自分の子供ではないと確信して、次男を相続者として指定した。
- このあたりから、Y染色体が大切なのであろうと考えられる。従って、男系相続が大切なのだと考えられる。
- でも男の子なら誰でもいいというわけでもないはず。女性にもいろいろな自由があるのだから、父親は自分のYかどうか、しっかりと見定める必要がある。
- これもほら話。ある調査で、米国のある階層では、法律上の父親でない子供の割合は、1割と出た。男性は「そんなに多いのか」と驚き、女性は「そんなに少ないのか」と驚いた。
- 考えてみれば、女性は月経期間もあるし、妊娠期間、授乳期間など、妊娠に不向きな期間がかなりある。男性はそれがないので、性的に活発な男性は法律で想定しているより広く子孫を残しているだろうと思われる。
- これもほら話。予言がよく当たる子供がいた。今日おばあちゃんが死ぬと言ったら、その日のうちに死んだ。別の日、今日トム叔父さんが死ぬと言ったら、その日のうちに死んだ。別の日、今日お父さんが死ぬと言ったら、その日のうちに、牛乳配達のおじさんが死んだ。
社会の致命傷
技術革新があり世の中の状況は刻々と変化する。
交通が発達し行動半径は広くなった。
兵器は発達し戦争は大規模な殺戮になった。
栄養は改善され医療技術も進歩し健康寿命は延びた。
人件費の安い地域で大量生産できるようになった。
そうした状況に合わせて、世の中の仕組みや制度も変化させないといけないはず。
しかしそれが難しくてうまく行かない。
これまである役所なり会社なりで働いてきた人たちを、
制度が変わるからといって、いきなりどうするということもできないわけだ。
技術はいきなり進歩するのに、
制度は徐々にしか変えられない。
そこで一方の人たちはイライラする。他方では守り通そうとする。
今までがんばってきた人たちには敬意も表するし処遇も考えるべきだ。
しかしそれが突破できないままで社会が古いままというのは致命傷になる。
日本の金融機関などはそういった感じで遅れてしまった組織なのじゃないかという感じがする。
そうは言うものの、やはり内部の現場の人でないと分からないこともあるのだろう。
例えば、識者という人の意見とか、各種新聞での論調とか、
自分の専門外のことであれば、なるほどそういうものかと納得して、「洗脳」されているのだが、
自分の専門分野のことであれば、識者も新聞も嘘つきだと分かる。
ということは、他の分野でも、識者も新聞も嘘つきなのだろうと感じる。
しかし説明を読んでいる限りでは、あからさまに嘘を見抜くこともできない。
マスコミの構造改革。
これが必要なのじゃないか。
劇的に迅速に。
大御所、小権力者が陣取っている間は変わらないのだろう。
漸進的改革でもないよりはましだけれど、
技術も高速に進歩し、それに伴い人々の意識も高速に進歩しているはずなのだ。
*****
現実と妥協しながら、徐々にしか変えられないという点では、
生物の進化と似ている。
急に鳥類が生まれるわけでもないし、
急に哺乳類が誕生するわけでもない。
しかし一方では明らかに可能な技術があり、
社会制度を変えれば急激に変わると分かり切っていることも沢山あるはずなのだ。
大塚則久『退化の進化学』
- 講談社ブルーバックス、2006年12月。
- 難しいけれど面白いことが一杯書いてあります。
- 肘から先は骨が二本、膝から下は骨が二本あります。一本折れても大丈夫という意味もあるんだって。身体のどこかに骨を移植する必要がある時、ここから削るという。
- 膝から下の二本は普通に平行についていますが、肘から先の二本はねじれてついています。このあたりを進化の歴史に沿って眺めています。
- 虫垂は、取り除いても何ともないといわれて、虫垂炎のオペがたくさん行われたのですが、最近は、免疫機能があるといわれている。
- 人間の身体には退化のあとも進化のあともあり、他の動物と比較してみると大変面白い。
- 人間の耳の中の骨は、サメのアゴの骨にあたる。
- 胎児から成人に成長する過程で、生物進化の様子を再現することがある。個体発生は系統発生を反復する。その具体例が数多く挙げられている。参考文献の多さを見ても、文章の密度を見ても、緻密な論証であることが分かる。
- しっぽがなぜなくなったか、分かっていない。
- ヒトで毛が退化したのはなぜか、分かっていない。男性のほうが毛深く、ヒゲがあることの理由も分かっていない。髪の毛がある理由も分かっていない。仮説はいくつかあるが難問である。
- これは確定した説ではないと思うのだが、紹介されていたので、ここに書いておく。……脳にも性差がある。女性の脳が原型で、誕生前後に大量に男性ホルモンを浴びることで男性脳ができる。女性でも、副腎から男性ホルモンが出過ぎれば男っぽくなるし、男性でもホルモンが足りないか、出たホルモンに脳が反応しなければ、女性脳に近くなる。遺伝的な性と脳の性が一致しないと性同一性障害が起こる。性器は正常なので、自分の心と体の性が逆になる。社会は男か女か二者択一を求めるので、これらの人はつらい立場におかれる。
- 精子が体内で長い旅をする理由は、進化のプロセスから説明できる。
- 農業が始まって以降のヒトは自己家畜化動物といわれ、発情サインが失われている。狩猟採集民族は発情サインがあり、春にしか出産しないらしい。
- このほかにも一杯。よく調べたものです。拍手。
山本周五郎「樅の木は残った」2
「みちのおく」と題された章に次のような話がある。
五十も過ぎたと見える、目の見えない二弦琴の芸人が語る。
私は師について大和絵を学び、三十になるころには、一応の評価を受けていた。しかしあるとき突然絵が分からなくなった。絵とはどういうものかが疑問になり、絵が描けなくなった。
しばらく苦しんだあげくひとつの解決に至ったものの、こんどは世間が絵を認めてくれなくなった。自分としては一段と深く絵の道に入ったつもりであったのに、認められなかった。自分は絶対に正しいとも思われず、改善すべき点は何か、世間の評判にも耳を傾け努力した。しかし努力すればするほど、受け入れられず、生活にも困った。
そんな中、突然目が見えなくなってしまった。絵で生きることはできなくなったので、楽器を持つことになった。いまは諸国を巡り歩いている。
そんな境遇となってからも、絵を忘れることはできず、頭の中で絶えず絵を描いてきた。空想の中で描き始めて、実際に描くのと同じだけの時間をかけて描いた。大小さまざま、十五、六幅の絵が完成した。頭の中にはどの絵もくっきりと保存されており、細部までありありと広げてみることができる。
しかしその絵を他人に見せることはできない。目が見えていた頃に描いた絵も、人に認められなかったのだから、こうして人に見せることができない絵を描いていても、同じようなことだ。現実にも、空想の中でも、人には理解されない絵を描き続けてきたことになる。
業平の歌に
おもうこと いわでぞただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ
という。
自分と同じ人間はいない。頭の中にだけある絵は、人に理解もされないが、悪評されることもない。
それでいいのだ。親子、夫婦、どんな親友であっても、理解されない部分はある。人間は常に独りなのだ。
*****
以上のような具合で、「自分の頭の中にだけある絵」についての話は、
人間の内部にあるイメージ・システムの「流通不可能性」を提示していると思う。
それを孤独と詠嘆することも可能であろうし、人間にとっての原理的な基礎条件とニュートラルに受け取ることもできる。
相互に完全に理解するのは不可能であるが、しかしそれでも、生活に不便のない範囲で分かり合えてはいるのだ。
人間は生活のうちに自ずから、どの範囲で分かり合えるのか、どこから先は理解をねがっても無理であるか、知るようになる。
そしてある日、自分の内心を分かってくれる人にめぐり会う幸福も味わい、またある日にはその同じ人の深い無理解に出会い絶望するのだ。そのうちに短い一生は終わっている。
コラージュ論 総論4
- イメージとイメージの間を統御する文法がない。そこが文章との違いである。
- 例えば、「神」や「平和」など、こうした言葉に対応するイメージは探しにくい。
- 神が人の暮らしの永遠を打ち砕いた、などという文章をイメージで表現することは難しそうである。
- 逆に、コラージュで並べて貼り付けたイメージを、言葉でどう表現したらいいものか、戸惑う。どれが主語で述語なのか、原因なのか結果なのか、明示されていない。語るとすれば、3センチ離れて左右に貼られていると言うだけだ。しかし人間は心の中でそのようにイメージしているわけではない。多分、もっと文章で、物語のように、イメージしているのではないか?
- 言葉とイメージとを相互に置換できないということは、多分、脳の違う部分が働いているということなのだろう。だとすれば、イメージを操作する作業には、言葉の操作とは違う、独自の意味があることになる。
コラージュ論 総論3
1.
「リンゴという言葉」=「Aさんにとってのリンゴのイメージ」+「Bさんにとってのリンゴのイメージ」+…… である。つまり「集合」であり、イデアである。
2.
「リンゴの写真」は具体的なイメージである。
3.
しかしながら、たとえばAさん個人のイメージシステムにとっては、
「リンゴという言葉」=「Aさんにとってのりんご」、これでおしまいである。
概念としては、1.なのであって、それはイデアに近いもので、「集合」なのだと理解できる。しかしイメージの内容としては、「Aさんにとってのリンゴ」である。
4.
従って、「リンゴという言葉」を提示する場合と、「リンゴの写真」を提示する場合とでは、あまり変わりないものになるはずである。
5.
だから、コラージュ技法で具体的な写真を用いることは、イメージの発展を妨げることはない。
6.
くどいことを言ったあげく、これだけかということである。思いつきは確かに思いつきなのだが、単なる理屈で、発展性がないことだった。
7.
言葉が指し示しているものは確かにイデアであり「集合」なのだが、具体的な個人の内部のイメージシステムでは、集合ではなく、要素であるといいたいわけだ。
コラージュ論 総論2
- 短歌の本歌取りはコラージュ技法に近い
- 俳句で単語を並べるとコラージュ技法に近い
- 切り抜いた写真と言葉の比較……例えばリンゴの写真を切り抜いたとする。その場合、具体的な色もあり、背景に何か映っているかもしれない、とにかく具体的なリンゴである。商品ならば、たとえば、カップヌードルという具体的なものである。それに対して言葉は抽象性が高いと一見したところ、思える。しかしそうではないかもしれない。「リンゴ」という単語はもちろん抽象性が高くて、プラトンの言うイデアに相当するものに違いない。しかし個人のイメージシステムの内部で言えば、「リンゴ」と「正三角形」の、たとえていえば「イデア」度はかなり違う。正三角形はやはりイデアにかなり近い。リンゴは各個人によってかなり違うのではないか。たとえばリンゴ農家の子供、フランスの子供、ブラジルの子供、キリスト教徒、それぞれで、リンゴにまつわるイメージの総体はかなり異なる。「リンゴという言葉」→「リンゴの写真」→「実物のリンゴ」と連なって、具体性が増し、個人内部のイメージの投影度が薄くなる。言葉の上で、「砂漠の砂の上にリンゴを一個置く」という場合と、具体的な写真のコラージュによって「リンゴの写真」を「砂漠の砂」の上に貼り付けたものとを比較すると、言葉で表現した方が、「抽象的」とも言えるのであるが、それは「個人の内部ではやはり写真と同じくらい具体的であらざるを得ない」はずである。だから、言葉によって喚起されるイメージと、コラージュによって喚起されるイメージとは、かなり近いものではないかと推定される。
- 分かりにくくなった。「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」を比較する。「リンゴという言葉」を提示した場合、各個人によって、百人いれば百通りのイメージがあるはずだ。それらの総体を「リンゴという言葉」は指し示している。集合論で言う、集合のようなものだ。それに対して、「リンゴの写真」はその写真を指し示す。ところが、個人が受け取る場合には、「リンゴという言葉」は、「リンゴのイメージの集合」をさすのではなく、「個人にとってのリンゴのイメージ」を指し示しているに違いない。そうすれば、「リンゴという言葉」と「リンゴの写真」の示すものの差は、集合論で言う、要素と集合の違いではなく、要素と要素という関係になる。
- なお分かりにくい。
新宿御苑にてとりどりの花
空が青くて、こんなにも青くて。
南国の樹。
車いすの人たちがお散歩に来ていました。記念撮影。
まだよく香っていました。
紫陽花です。
こんな青空でした。
日本画で描くといいかも。
今朝の目覚め
このところ朝起きると情けないくらいの鼻声でまずもって精神的ダメージが大きい夜中になると少しは元気になるし集中力も出るのだが朝のこのけだるさはすべてをぶち壊しにしている今牛乳を飲んでいるが風味のない低脂肪乳であるからなのか或いは感冒またはアレルギー性鼻炎により風味が分からなくなっているからなのか判別しがたいそのことも私を滅入らせるいつまで続くのだそれはそれとして朝の気分が問題である軽い夢を見たのを覚えているその気分を引きずりながら思うのだが何という閉ざされた未来だろうこの年になってまたゼロから出発しないといけないとはそれはあんまりじゃないかゼロから出発するには気力が足りないいや足りないとしてもゼロから出発するより他に方法も何もありはしない生きていきたいならそれしかない別の生きる道も考えるけれど世の中はそんな風にはできていないどの業界でも仕事が欲しい人が地位を欲しい人が社会的評価を欲しい人が順番を待って行列をつくっているのだ今現在職に就いている人も若い時に行列に並んで時間を無駄に過ごしたのだそのご褒美として今現在があるそうだ若い時に無駄な時間を師匠に捧げまたは会社に捧げその結果として現在があるそんなことが多いのだ総てを覆して才能の輝きを示せばそれはそれで解決でさっさとアメリカで仕事をしたっていいのだ無論才能はないだんだん追いつめられて行くじり貧になる尻すぼまり窮する鈍するそういった気分が支配的になって朝目が醒めるのだ陰々滅々ではないか非道いものだ
気がついたが
掛け布団が多すぎるのではないか
だから寝ている間に布団をはいでしまい
結果として冷えているのではないか?
だって真冬と同じに着ているもの
それは理屈に合わない
掛け布団を減らそう
いややはり体が熱いようだ
よく分からないが我慢しよう
短期の目標があればとりあえず生きられる
鼻粘膜が乾いてひりひりしている
熱があって私は消耗しつつある
それだけは確かなことのようだ
そうこの鼻のひりひりはプールに入ったあと塩素で鼻がひりひりしている
そんな感覚だ
またまたいやなことを思い出している
山本周五郎「樅の木は残った」3
そうですねえ、私にとってつまり、この物語は、
辛抱 ということですね。ペイシャンス。ビー・ペイシャント。
心理戦 に勝利するとは、こんなことなんでしょうね。
私にはとてもできない。ネバー・ポシブル。
何があっても顔色ひとつ変えない。ポーカーフェイス。
わめいたりしない。愚痴もこぼさない。カーム アーンド クール。
もちろんブログなんか書かない。
原田甲斐はキレがあってコクがあるんだ。
絶対の孤独の中で、アブソリュート・ソリテュード、
ひたすら耐える。エンデュアー。put up with。
できない。やっぱり理解されたい。
私だったら、さっさと戦いを降ります。ギブ・アップ。
私にとって人生とは、味わうことだもの。アブリーシエイトなんだわ。
戦うことでも、耐えることでも、創造することでも、改革することでもない。
Life is not to fight,endure,create,reform.
But only to appreciate.
世界はいいところだから、味わおうよって、呼びかけたいんだ、あたしとしては。
あれ、なんだか、いつもと違っちゃったな。
毎回のようにランナーを背負う
NHKのニュースで、
「ヤンキースの井川は毎回のようにランナーを背負い、……」
と言ってました。
毎回背負ったのでしょうか。
それとも、毎回に近いくらい、何度も背負ったのでしょうか。
何回のうち何回ランナーを出したのか明示してくれた方が報道としてはいいと思います。
ぼかしたあいまいな表現も、場合によっては悪くないですが、
報道でその必要はないでしょう。
スポーツニュース特有の定型句なのだと思います。
これは頭の悪い言い方で、事実を伝えると言うよりは、定型句でニュースを書いたというだけでしょう。
決まり文句を言っているだけです。
たとえば「ここで突然試合の流れが変わりました」なんて言います。
でも、この「ように」はどんな意味なんでしょうか?
「毎日のように水泳に行く」と言えば、毎日の日課であるかのように、くらいの意味でしょう。
毎日とは言い切れないが、ほぼ毎日と言っていいくらい、の意味もありそうです。
毎回のようにといえば、毎回の決まりであるかのように、くらいの意味でしょうか。
毎回、さんざん、またしても、くらいの意味が込められているのでしょうか?
元来は、高貴な人たちの所業について、はっきりと言い切ることにためらいがあり、
ぼかす必要がある時に、使ったものでしょうか。
現在の若い人の言葉で言えば、
「井川はさあ、毎回みたいにぃ、打たれちゃって、……」くらいなんでしょうか。
「毎回みたく、打たれ」たとか。
「毎回くらい、打たれて」
「毎回とか、うたれてぇ」。
「チョー毎回、打たれて」。
「井川のほう、毎回のように打たれて、よろしかったでしょうか?」
雨
雨
雨の日々が始まる前、あなたから十通ほどの御手紙をいただいた。
細やかなお心遣いの伝わるこころゆかしい御手紙を受けとるたびに、あなたは女性にお優しいかただとは知りつつ、わたしなどお遊びの相手にも不足だろうと思いながら、そのうちにたくさんの歌を作ってしまい、二首を選んで手紙にしたためて返事をした。
あなたからの御手紙は白檀系の香りが微かだった。
お返しのわたしからの手紙にはムラサキツユクサの薄い色を広げた。
わたしは筆は苦手なので女御にお願いした。
それほどに自信のない女だった。
つまらない歌と思われたはず、それきりで忘れられたものと思っていたら、ある夜あなたがお連れの人に歌を託し、わたしは自然にそれを受け、そのあとあなたはわたしを訪れたのだった。
あなたはわたしのような目立たない女と気を遣わない時間を過ごしたいと気まぐれに思ったのだろう。
月も出ていない夜だった。
夜は終わり気がつくと雨だった。
眠るはずなどなく意識がすこし途切れていたらしいのだった。
夜のうちに月もない夜と思ったのは、かなり曇っていたからだろうと思い至った。
あなたは連れの者と語らい、空の様子からすれば、あと小一時間ほどで雨は上がるだろう、それまで出立は延ばそうと決めたようだった。
雨の多い季節にわたしを訪ねてくださったことをこころから感謝した。
小一時間の贈り物だった。
何をしても運のないわたしに、雨は恵みをしてくれた。
あなたは雨を待つとは言わず、この庵を立ち去りがたく思うなどとつぶやいてくれた。
それでいいのだった。
それでうれしかった。
ただ一度の逢瀬としても、そしてそれがわずかにのびたのはただ雨のせいだとしても、それでもわたしはうれしく、あるだけの自分を献げたのだった。
あの人を
ひきとめているのは
雨
わたしではない
そのあとしばらくわたしは長雨とあじさいを親しく思い、後年に至って雨とあじさいをわたしの守り神と思った。
あなたとのことは一度きりゆえに忘れがたい思い出となった。
いまは出家して仏に仕える身となりながら、雨の季節には、まだ娘だった頃の羞じらいまでも思い出せるのだった。
まぶたの裏を走った光のようなものを思い出すこともある。
みな、あなたゆえのことだ。
わたしのことなどお忘れになっているはずのあなたゆえのことなのだった。
過食の理由
その理由に気がついた。
アレルギー性鼻炎とも風邪とも思える症状があり、体がだるい。
私はこんな時に体を守ろうとして食べ過ぎるようだ。
正解は、運動をすることだと思う。
いまの時代では、食べることは防御にならない。
山本周五郎「樅の木は残った」1
藩とかお殿様とか、そんなもの私にとってはどうでもいいことだ、
と断じる場面がある。
それは「形のないもの」であり、信じるに足りないというのである。
なるほど、そうだ。わたしは賛成。
会社なんかに尽くしてもしょうがないね。
恵比寿 筑紫楼 ランチ 1500円
今日は1500円のバラ肉丼と1200円のフカヒレ丼。
まずスープとご飯とザーサイがでた。
スープは塩味が強くて、思わずご飯にかけて食べるという行儀の悪いことをした。ご飯のつぶつぶ感が心地よく、これはナイス!だった。
そのあとでバラ肉丼が来たのだが、あんかけではない。
さっぱり風味であった。そして何と、皮と脂肪の部分を別に入れてある。
少しだけ食べたけれど、このところカロリーオーバーなので残すことに決定。
フカヒレ丼はこれも少し塩味がきつい。
お腹一杯いただきました。いいことじゃないな。腹一杯なんてね。
フカヒレ丼の中には卵豆腐のようなもの。手が込んでいます。
これが皮と脂身のあたり。
孤立する男性介護者 職失い相談相手なく地域で孤立
毎日新聞記事を要約
*****
孤立する男性介護者、精神的ケアを
シンポジウム「男が介護するということ-介護社会のこれから」。4人に1人とされる男性介護者が、夫婦や親子2人だけの「老々介護」という環境の中で、仕事を辞めることを余儀なくされる場合も多く、女性介護者に比べて地域内や親族内での関係を作れずに孤立している。介護をする側の男性に対する支援の必要性が強調された。
平均年齢は69・3歳と圧倒的に「老々介護」で、65%以上が体調不良を訴えている。約6割が夫婦や親子の2人だけで、平均で5年以上の介護生活を送っている。
介護休暇制度を利用したのはわずか0・04%で、約22%が介護を理由に退職しているなど、仕事と介護の両立の難しさも浮き彫りになった。
生活実態では、介護時間が「ほぼ1日中」と「半日」で計約5割。近所付き合いは「ほとんどない」、「あいさつ程度」、「立ち話程度」で6割以上。同居家族がいても、相談や愚痴を聞いてもらうという精神的援助を受けている人は2割に満たなかった。
誰かに辛さを訴えることも不得意で、苦悩は見えにくい。精神的なケアも含め、介護を支える仕組みを社会が用意する必要がある。
テノール エルンスト・ヘフリガー逝去
二つがあるが、1958年版の古い方が有名である。
その中で歌っているのが福音史家、エルンスト・ヘフリガーで、
とても清潔というかまじめな感じ。
この人はシューベルトやシューマンの歌曲や
日本の歌曲まで歌ってサービスしてくれている。
「渓村春雨」玉堂1942年 水野美術館蔵
- 「渓村春雨」は玉堂1942年の作で、水野美術館蔵である。
- 桜は咲いて山は雨に煙っている。山中の川には水が満ちている。
- 画面中央を左から右に流れる樋の中を水が勢いよく流れている。水車は勢いよく回っている。
- 二人の人が大きすぎる傘をさして歩いている。なぜこんなにも傘が大きいのだろう、分からない。
- 家の屋根は茅葺きで、春というので若芽も吹いている。いずれ時期を見て屋根の草刈りもしないといけないだろう。玉堂の別の絵で、茅葺き屋根に生い茂った草を刈り取る図がある。
- 手前の草には若芽が見える。遠くの樹々の葉は雨に煙り色の弁別も出来ない。近景、中景、遠景のつながりは悪い。
- 玉堂ほどの達筆を持ち、しかし、ゴヤのような精神がないとなれば、このような伝統的な絵画におさまるのだろう。目に映るもの、感情を動かすものを、片っ端から描くような人ではなかったようだ。
- それにしても、絵を描くとは、何と無尽蔵な創造行為だろう。無から出発し、途方もない価値を作り出す。
- 建築構造の話。水車の上にある樋の足は、普通に考えると、一本足りないように思える。樋自体を三角形の一辺としなければ、構造が決定しない。なぜこのように不安定な構造かといえば、この部分については、水量に応じて、季節に応じて、水の放出位置を調整する必要があるためではないかと想像する。
- 玉堂の絵の中での水車にも二種類あり、右から水が流れているとすれば、水車の右側に水を落とすものと、左側に水を落とすものとがある。どちらがいいのか、場合によって使い分けるようで、二つともが描かれている。そして水の放出高度に関しても調整が必要なはずで、上ならば勢いはつくが命中精度が下がり、水車に近付ければ勢いは悪くなるが精度は高まる。
- この絵で描かれている水車小屋は非常に危険な場所にある。しかもいま水浸しである。私ならこんな場所は使いたくない。
玉堂鳥の図
画面左から中央にかけて樋が走り、
その上に鳥が足をかけて一羽立っている。
水は左から右に流れ、樋から出て右下に注ぐ。
鳥は垂直に立ち、視線は樋と平行に右に向かっている。
樋、水、鳥の視線が、合計三本の線になって、左から右に、水平に流れている。
鳥の体は垂直に立っている。
画面左下半分には樋を支える足が何本か書き込まれている。
そんな絵が印象に残った。
盛岡納豆
中粒大豆で、よい味わい。
ただ、たれが付いていないので、醤油をかけたが、すこし塩辛い。
最近はたれで慣れているので、やはりたれがよいように思う。
明日はたれで食べるつもり。
100グラム50円で出ていたので、かなり安売りをしていたはずだ。
ネットでは送料別で90円とでていた。
貧しい食卓の中心になってくれればよいと、納豆を頼みにしている。
アルマーニジーンズ 日本橋高島屋
ジーンズを何本持っていますかという質問が
ソネットからの広告に出ていた。
今日は日本橋高島屋にてアルマーニジーンズが出店しているのを見かけた。
恵比寿と六本木は見ていた。ここで三つめを見つけた。
日本橋高島屋 資生堂パーラー 黒いへそ
資生堂パーラーにてランチ
・シーフードカレー 1680円。昔ながらのカレー。おいしい。ご飯のお代わりは自由なんですよ。
・シーフードカレーセット 2100円。こちらはグリーンカレーも選べます。スープと珈琲がセット。ミネストローネなんですけど、クリームが入っていて、変わり種。お願いすれば、ご飯とナンと両方をつけてもらえます。
・イカが入っていましたが、薄くして、しかも包丁で切れ込みを多く入れています。食べた感じは、ナマではなくてしかしとても噛みやすい。最近はイカはどこでもこんな風ですね。
・会計窓口にレトルトカレーを置いていました。次からはこれでいいかも。
・周りを見回していたら、こんな髪の人を発見。
まあ、珍しくもないとのことでしたが。
・さらに周りを見ていたら、子ども。おばあちゃんと一緒で、髪はぼさぼさで、行儀は悪く、ごろごろしておへそが見えている。そしてこのおへそが黒い。何がなんだかわけが分からず、世の中変わったものだと思う。
川井玉堂展5
- 今日は早めに会場に行った。午前中の日本橋高島屋である。高齢層が多い。階段でため息をついている。外国人もいるみたいだ。
- 岩手物産展でカマンベールチーズが欲しかったけれど、置いていなかった。
- 1901年作の湘南海岸のスケッチがあった。海辺で遊んでいる。当たり前だが、とてもうまい。この人が世俗風俗のデッサンをしたら面白かっただろうにと思う。1800年から1810年くらいのゴヤとの大きな違い。玉堂はその後人物を多くは描いていない様子である。 1902年には資生堂パーラーが始まった。
- 画家が人物を描く時、たとえば玉堂が釣りをする人物を描く時、足の置き方といい、釣り竿を支える様子といい、実にぴったりと決まっている。何かコツがあるらしい。
- 人々は絵の前を流れて行く。何を見ているものだろうか。多分、速さから推定すると、「これは山の絵」「これは色がきれい」「鵜飼い」くらいの認知だろう。極端に言えば、絵を頭の中で漢字四文字程度に変換して、するすると歩いていく様子である。
- 簡略な絵を添えて、文字を綴る作品もたくさんあった。こんな風に自在に文字を書けたら素晴らしいですね。八十才になってよかったとか、そんな風なもの。
- 生々しい人間というよりは、期待されている飄々とした人間を演じつつ描いた様子と見える。多分、展示されていないいろいろな面はあったものだろう。