SSブログ

海は違った

採録。

*****
「誰が太平洋戦争をはじめたか」 別宮暖朗著


この本は、太平洋戦争がなぜ起こったかの原因を、日本官僚制に求めている。
この問題については、様々なことが言われてきたが、別宮氏の論説は私が今まで読んだり聞いたりしたものの中では説得力がある。この議論をもっと深めればミーゼスの官僚制論の方向に合流するかもしれない。外人が日本について書くとどうしても、日本の帝国主義(=imperialism=天皇主義)、植民地主義を戦争原因として見ようとする安直な議論になるが、これは正確ではない。

また真珠湾攻撃のルーズベルト陰謀説や、開戦通知が遅れたことが問題だとするデマは全くのでたらめであることを証明している。特に開戦通知の遅れについては、”パリ不戦条約で「戦争禁止=先制攻撃禁止」が定められてるため、最後通牒・最後通告・戦争宣言(宣戦布告)などいかなる宣言をしても、先制攻撃による戦争開始はできないこととなっていた。”そうだ。この点は法的にエクスキューズは一切できないのである。
ネタバレだが、誰が戦争をはじめたかは、海軍条約派の三羽烏と呼ばれる米内光政、山本五十六、井上成美ということになるらしい。特に真珠湾攻撃=ハワイ作戦は、山本五十六の罪が重大だ。山本はハワイ作戦が成功すれば米国民は士気阻喪し、ただちに手を挙げ休戦を申し込んでくると見ていた。驚くべきことにハワイ作戦は、海軍条約派によって日米戦争回避の手段として立案されたという。

「ヘーゲル、マルクス、ヒトラーと続く官僚寡頭政治=国家社会主義体制の主張にはドイツ国民の広汎な支持が集まり、最高度に発達した役人国家=ドイツが出現した。ところが日本には、常に有力な自由主義者が存在した。ハワイ作戦とは自由主義者=海軍条約派による国家社会主義者=陸軍統制派への最終的な問題提起=妥協案であり、重大な失敗であった。自由より統制が優れていると信じる官僚が優勢になり、ドイツ国家社会主義の影響が最大限に強まったときに太平洋戦争が発生したのである。」と結論している。
しかし、ここで自由主義者という言葉を用いるのが適切とは思えない。陸軍の国家社会主義に対立していたから海軍は自由主義だとはいえないと思うが、イメージは分かる。

昭和天皇の言葉のとおり、「海は違った」のである。

*****
山本五十六はその後も人気が高い人のようだ。ここでは主犯の一人とされている。



共通テーマ:日記・雑感

債権本位 債務本位

”第2章の契約に定められている13個の契約は、すべて債務本位になっている。
さらに民法自身も、金銭債権といったり金銭債務といったりして債権を債務を混同している。
しかも、第1章総則は債権本位であるにもかかわらず、第2章契約は債務本位であるから、総則の理論を契約に応用することができない。

多くの法律家は債権と債務は同じという考えになってしまった。
ドイツ語のSchuldの本来の意味は債務でるが、これが日本語に翻訳されると債権になった。

100万円のローンについえ考えて見よう。
貸主は借主に100万円の支払いを請求できる債権をもち、借主は100万円を支払わなければならない債務を負担している。

しかし、債権は価値があるが、債務は価値がない
債権は財産であるが、債務は負債である。
債権は権利を行使することも、しないことも、放棄することもできる。
また財産であるから他人に譲渡することもできる。
これに対し、債務は法律により履行を強制され必ず履行しなければならない。債務の放棄も認められないし他人に譲渡もできない。
債権が多くなっても破産しないが、債務がおおくなると破産する。
債権は債権者に喜びを与えるが、債務は債務者に苦痛を与える。

契約が成立すると、代金を払うという債務と、車を渡すという債務が発生する。
債権本位に考えるとそもそも契約は成立しないが、債務本位に考えると契約が成立し、買主には代金支払い債務が、売主には車の引き渡し債務が、それぞれ発生する。

売買では、債務が重要で、債権は、債務から流出するということになる。
ドイツ民法241条1項は、「債務関係の結果、債権者は債務者に給付を請求できる正当な権利を有する。」 と、明記し、債権は債務から流出することを示している。
日本では債権民法で、欧米では債務民法で、ここに法律の摩擦が生じているのである。
地上げのために土地ころがしが行われ、売買が続けて5回されたとき、登記名義の変更は、第1の売買の売主から直接に第5の売買の買主にしてよろしいというのである。

中間者の登記が省略されるためこの名称がある。
どうしてこのようなことが可能なのか?債務本位の民法ではこれは許されない。なぜならば登記名義の変更は法律上の義務で、義務を放棄することはできないからである。

しかし、債権本位の民法ではこれができる。第1から5までの買主はそれぞれ自分に登記名義を移して欲しいという登記請求権を持っているため、権利であるため、これを放棄できる。

第1から4の買主が、それぞれ登記請求権を放棄すると、第1の売主から第5の買主に直接、登記名義を移すことができる。
これこそ、まさに債権民法による中間省略の登記の承認である。

このように日本民法が口約束だけで土地の売買ができ、中間省略の登記を認め、登記申請に際し契約書の提出を必要としないため、土地をころがして地上げすることを容易にし、バブルの形成に奉仕したのである。(※)


債権本位の立場にたつと、債権のみが問題となり、債務と債務の履行は無視される。売買契約によって、売主は代金債権を、買主はダイヤの引渡しを求める債権を取得する。

欧米の民法は、すべて債務本位で、債務者が債務を履行すると債務が消滅し、その結果債権も消滅する。ここには債務者の履行行為という弁済がある。
代物弁済は、本来、債務者の弁済することであるが、民法のこの原則を曲げて、債権者が代物弁済をできるという解釈をするよになった。”


※平成17年3月7日より施行された改正不動産登記法により事実上、中間省略登記ができなくなった。しかし不動産業界をはじめ産業界の強い要望もあってか内閣府規制改革・民間開放推進会議は法務省との折衝を重ね06年12月25日の最終答申で「第三者のためにする契約」というスキームを導入することで中間省略登記と同様の結果を適法に実現することを可能とし、翌26日の閣議で、最終答申の内容を全省庁が最大限尊重することを決定。http://www.nsk-network.co.jp/070102.htm

===

つまるところ、お互いにobligationを負う約束をすることで契約が発生し、その後に請求権として債権が発生する。最初に約束がないと相手にobligate=強制できない。あくまで契約が先で、債権と債務が同時発生するわけでもない。
ここはなかなか深いポイントだ。
さらにいえば欧米の民法に、債権という権利概念があるかどうか疑わしい。

債務(=obligation)を、債権という権利概念として間違い翻訳をしてしまったために、日本人は契約という概念を理解しそこねたのかもしれない。契約には義務しかなく権利はないという考えもできる。契約=contractとは、お互い=conがtract=引っ張るという意味だが、引っ張りあう行為がお互いの義務に相当し、押す行為はない。
債務の不履行は、契約違反として犯罪に等しい(債務者監獄行き)と考えれば、やはり権利概念はでてこない。

日本語では債権と債務はきれいな対言葉のようになっているが、英語ではそもそも債権という言葉にぴたりと対応する単語がない。あるのは債務(debt,obligation)という言葉だけだ。
もし、債務と債権なるものが同時発生するのであれば、債権という権利の放棄はやはりできると考えられる。しかし、それは契約の解消であるから一方の意志だけでの契約解消行為はできないと考えるのが筋だ。だから権利は契約によって発生しないと考えた方がいいのではないか。契約によって発生するのは義務だけだと。

このように、どうも債権という言葉は単なる誤訳にとどまらない根本的な間違いがあるような気がする。
日本の民法は、もともと存在しない債権という名前の権利を契約概念に埋め込んでしまったのではないだろうか。

 



共通テーマ:日記・雑感

銀行は特別


「スーパーもレストランもどんな店でも経営に失敗してお金を失えば倒産するが、銀行はそれらといったいどこが特別なのだろうか?
読んだ記事の限りでは、銀行がなくなると誰もお金を借りられなくなり、経済が停滞するから。ということらしい。
しかし、銀行は自分のお金を貸しているわけではない。銀行は人のお金を貸している。
銀行が消えても、借手がいなくなるわけではない。さらに貸し手がいなくなるわけでもない。
唯一の問題は、借手と貸し手がお互いに出会えるかということだ。
銀行が破綻すればお金を借りるのが困難になるというが、銀行が潰れてもお金を貸すのが困難になるわけではない。お金の貸し借りは対称的なものであるから、それを政府の公式見解のように非対称に語るのはおかしい。

1930年代は、銀行の連鎖倒産によって、お金の貸し手と借手が出会うことが困難になった。
その結末はドラスティックであった。しかし当時と今では状況が大きく異なる。
第一に1930年の大恐慌は、銀行倒産が原因ではなく、30%ものマネーサプライの縮小が原因であった。
これは現代ではFedが容易に防ぐことができる。

第2にインターネットのようなテクノロジーによって、お金を借りたい人と貸したい人が出会うのは極めて容易なことになっている。
アメリカ以外の国々も危機になっているというのは分かっている。しかし他の国でもお金の借手と貸し手が出会うことが難しいことではない。
言い換えれば、私はこういった巨大銀行が本当に必要なのか疑問なのだ。それらが消えてなくなっても、別に寂しいとは思わないだろう。

以上で私が見落としているポイントがきっとあるだろう。
しかしもしそうなら、バーナンキ、ポールソン、とりわけブッシュ大統領にはそれが何であるのかを早急にそれを説明する義務がある。」

ランズバーグはアンドレ ヴェイユ(という天才数学者)から影響を受けたと自分で言っている。実に誰でも分かるクリアかつ厳密な説明だ。
銀行という企業形態は、普通の株式会社とは結構異なる政府規制の大きい業界だ。適用される法律も結構異なる。だが、その点を除けば銀行はその他の株式会社を変わらない。
だから銀行が倒産すれば、他の株式会社 と同様に有限責任で、株主と債権者が損をするだけだ。
そこに国家とか社会とか一般国民というのはでてこないはずなのである。

共通テーマ:日記・雑感

「借りた金は返すな!」加治将一、八木宏之著債権者本位主義連帯保証制度

今回の経済危機はまだ終わっていないが、今後も、ほとんど全ての人間に大きな悪影響を及ぼすことになる。これは誰にとっても切実な問題だ。
株に一喜一憂するななどと、ふざけたことをのたまわっている麻生は総理として完全に失格だ。
また経済の歯車が狂うと、その影響で自殺者も激増するのが世の常だ。
借金を抱えて返せなくなる人も増える。
まずは、へこたれない気概が大事だが、運悪く、そうなってしまった場合、まず次の本を読むことをお勧めする。

ベストセラーになった本だが、「借りた金は返すな!」加治将一、八木宏之著 という本


ここに債権回収会社制度(サービサー法)の解説がある。
この法律は不良債権処理のために作られた法律だが、借金を時価で清算することを可能にするもので、
実は一般の人も利用できる。
この法律を活用することで、自己破産しなくても済むケースが多いという。


苦しい時にしてはいけないのは次の順番だろう。(この本にも書いてある)

1.自殺 
2.闇金からの借り換え 
3.親族を連帯保証人にする 
4.自己破産 ⇒最後の手段。その前にできることはいろいろある

日本の民法は、以前に書いたように債権者本位主義で、連帯保証制度などの恐るべき欠陥をもつ残酷なシステムだ。本来は弱者の味方であるべき民法が狂ったことになっていて、民事的な処理だけでは、どうにもならないが、捨てる法律があれば救う法律もあるということか。
やはり困ったときは一人で解決しようとせず、また弁護士よりも専門のコンサルタントに頼んだ方がよい。



共通テーマ:日記・雑感

あのいかれたP.Klugman

今の状況は日本のバブル崩壊の時の状況と近い。
政府に対して市場をなんとかしてくれという依存心(困ったときの政府頼み)が高まり、それに乗じて政府が介入権力を大幅強化し、統制経済に大きく振れていく。
自由主義はだめだとがなり立てるバカの声が強くなり、ケインズ主義の復活が叫ばれる。
もとより日本の場合は、自由主義など全くなかったから、従来の統制経済路線の強化に走っただけであるが、アメリカの場合はもっと極端なChangeに走る危険性がある。つまりChange to Socialismだ。

アメリカの1930年代の金融危機の時は、共和党のHoover政権での失政によりクラシカルリベラリズムそのものが劣勢となり、続くFDR政権による極端な社会主義、ケインズ主義にばく進していった。

Hoover自身はどちらかというと共和党的なクラシカルリベラルだったようだが、フーバーがやってしまった大失策は、極端な保護貿易主義であるSmoot-Hawley Tariff Actの導入や、所得税の大増税など最悪の反クラシカルリベラル的政策であった。これをアメリカは今回も繰り返す危険性が高い。
もしオバマが大統領になれば、NAFTAの見直しを初めとする保護貿易主義の復活と大増税の両方を行い、あのいかれたP.Klugmanもブレーンに入れてNew NewDeal政策にばく進する危険性が高い。
このby productは、さらなる国際紛争の危険性の増大だ。

近視眼的な政策によりどの国も保護主義を連鎖的に強化する可能性が高いためだ。
これがまさに1930年代に起こったことだ。
保護主義の台頭によって、より困窮するのは後進国だから、大国に対する敵愾心が衰えることもないだろう。

フーバーの失策は自由放任政策ではなく、まちがった法律を作ったことである。
ミルトンフリードマンが言うように、1930年代当時に適切な政府介入(recapitalizationなど)を行うべきだったというのには前提があり、当時も金融市場が決して自由市場ではなかったという点だ。
今はJ.Cohraneなどがいうように金融市場は前よりは自由度が高まっているため、以前よりはrobustになっている。しかし、依然として大きな規制がある不自由な不完全市場だ。
大小、様々な規制が存在し、それが金融市場を統制市場にしている。しかし市場が市場であるためには、それはLaissez faireな完全自由市場であることが前提になる。

今回の危機も本質は、市場に対する規制が原因であることは間違いない。例えば住宅金融公庫などのGSEも政府規制の産物だ。またS&Pなどの格付け機関も、政府による参入規制が強い寡占業界だ(実質3-4社しかない)。リスク、リスクというが、政府規制の強い部分で社会的に大きなリスクを生み出している。
政府規制が、市場のリスクヘッジ機能を生む自生的な構造を破壊するのだ。
だがフーバーの時と同じく、それは市場の失敗とみなされ、さらなる規制強化へと政府は逆噴射していくことになる。



共通テーマ:日記・雑感

政府には解決できない

政府には解決できない
 最大の問題は、多くのアメリカ人が、今年の大統領選の候補であるバラク・オバマやジョン・マケインが金融システムを建て直してくれると期待していることだと、私は考えている。私たちはいつから、自分の経済的な自立を政治家に託すほど、お金に関して弱くなったのだろうか。合衆国憲法のどこかに、政府は私たちのお金に関する問題を解決しなければならないとでも書いてあるのだろうか。 経済的に生き延びるのに政治的指導者をあてにしている人が、世界中にこれほど多いのが不思議でならない。ほとんどの人は、富やお金、住宅ローンの返済保証を約束する候補者なら、誰にでも投票するようにさえ見える。

一言で言えば、ファニーメイやフレディーマック、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズ、AIGのタワーが崩壊したとき、地に落ちたのはお金だけではなかった。この国が礎(いしずえ)としている「自由」、世界中が欲してやまない「自由」がいま、失われつつある。



共通テーマ:日記・雑感

グラバーやサトウ

アーネストサトウや、メチニコフの本なども読んでみた。
中でもおもしろかったのが、加治将一氏の書いた「幕末維新の暗号」という本である。同じ著者の「あやつられた竜馬」もおもしろい。

当然、私にはこの本の内容がどこまで事実かどうかわからないが、非常におもしろく、なかなかに説得力がある。あの訳の分からない明治維新のスキームがすっきりと見えてくるような気がした。
もちろん、この本も陰謀論の一つと呼ばれるのだろうが、司馬遼太郎の幼稚なお伽話とはレベルが違う。
足軽~農民からなる若い日本人達が、自力で革命=維新を成し遂げたなどというお伽話を信じるのはもうやめた方がいい。
これは、黒幕のグラバーやサトウといった革命家によってなされた革命であり、維新の英雄達(足軽~農民)は、彼らに操られた情報部員だったというのは、事実なのだろうと私は思う。

「日本において、体制の変化がおきているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
(ハモンド外務次官からパークスへの手紙)

「自分は終始思っていた。徳川政府の反逆児の中で、自分がもっとも大きな反逆児であった。「自分に歴史はない」「自分の名は出さないように」(グラバー史談)

共通テーマ:日記・雑感

報われる保証のない努力をしつづけた人間

基本的に、投資信託も含めて株式投資に、素人は手を出さないのが一番合理的なのだろうと思う。
基本的に人任せにして金儲けができるほど、甘いものではないのは自明なことだ。

いつの世でも、最終的に勝者となるのは、報われる保証のない努力をしつづけた人間の中のさらにごく一部の人間だけだ。

共通テーマ:日記・雑感

利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0

日本の金融機関というのは、全くどうにもこうにもしょうがない存在だ。
利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0、いなマイナスの社会的害毒でしかない。所詮は日本の旧大蔵帝国の出先機関に過ぎず、未だにその本質は変らない。
しかし、ランズバーグが言うように、もともと大銀行など不要な存在なのだ。

グレーゾーン金利の金利規制で、多くのサラ金業者が消えて、闇金が増えているようだが、この問題の本質は、金利そのものにあるのではなく、民法の債権本位主義にあるのは前に書いたとおりだ。

つまり、あるべき姿は単純であり、債務本位主義に民法を抜本改正して、貸し手側にリスクを負わせることにつきる。
ようするに、債権者本位主義の民法に守られている以上、貸し手側は一切のリスクを負っていないのが現状なのである。
銀行もサラ金もリスクを負わないことが法律で保証されている状態で、金利が高いのどうのといってもナンセンスだ。なぜなら金利と貸し出しリスクが全く対応していないからだ。
サラ金の金利が高いのはリスクに応じたものではなく、単に銀行が金を貸さないことに対するプレミアム分にすぎないだろう。

アメリカでは、お金を借りるときも家を借りるときも保証人など要求されない。そのような要求は違法行為なのだ。ローンも原則、ノンリコースローンだ。
まして連帯保証人制度などという野蛮な4世紀前の制度を未だにもっているのは日本だけだ。

貸し手がリスクを負って初めて、リスク計算の必要性が生じる。リスクが最初から無ければ、日本の金融機関のようにリスク計算など一切しない。

日本は、このような劣悪な環境にありながらも、多くの偉大なアントレプレナーを戦後輩出してきているが、もはやそのようなハングリー精神を若者に求めるのはナンセンスである。
それは、経済的に無謀な冒険を相手に期待するに等しい。

日本の金融社会主義は、バブルの崩壊過程を経てさらに強化されたかのようにみえる。
まずは、連帯保証人制度の廃止をはじめとする、民法の抜本改正から始めなければ日本経済の将来はない。
そしてこうした一見関係なさそうな民法の正常化が日本の金融システムをも根本から変えることになるのである。



共通テーマ:日記・雑感

Change to Socialism

オバマは早速社会主義政策を打ち出している。
Change to Socialismの第1弾といえよう。

Obama will call on citizens of all ages to serve America, by developing a plan to require 50 hours of community service in middle school and high school and 100 hours of community service in college every year.

共通テーマ:日記・雑感

フリードマンバッシング

今はミルトン フリードマンに対するバッシングも相当なものである。
経済の調子が良かったときは、さんざん持ち上げておいて、悪くなると責任をおっかぶせるというのは、大衆の卑しさである。
とはいえ、実は、フリードマンに最も批判的だったのは、何もわかってない左派ではなく、むしろMises-Rothbardを戴くオーストリアンだったのも事実だ。

ミーゼスは、「定期的に経済危機が起こることは、銀行政策により繰り返されるマーケットの自然利子率を下げようという試みの必然的な結果である。
経済危機はこのような呼び水政策をやめることをしない限り無くなることはない。なぜなら、人工的に刺激されたブームは不可避的に危機と恐慌へと行き着くからである。
危機に対応して現れる介入主義者の政策の試みの全ては完全に見当違いのものである。」
と、レッセーフェールを唱えているように、フリードマンのマネーサプライ論もオーストリアンは否定する。そういった企ては全て政府の計画主義的市場介入だとする。
そして、現在の金融危機も、グリーンスパンの今までの自然利子率をコントロールしようとした金融政策の誤りの結果だったと主張しているわけだ。

政治的自由や市民的自由といった概念は何を意味しているのか定かでないが、リバタリアン的には政府から与えられる自由など自由とは考えない。「政治的自由は、状況によってが経済や市民の自由を促すが、状況によっては拒むこともある。」とあるように、フリードマンも政治的自由なるものを否定的に考えている。実際、アメリカのconstitutionalismとは(連邦)政府が自由に何でも立法できないようにしている制限憲法だという点が本質的なのだ。

また国有化と社会主義化とは、曖昧だが、前に書いたように、国有化も方法を間違えれば社会主義と変わらないだろうが、資本を注入する行為だけを見ればそれは市場ルールを大きく否定するものでもないので、あまりこの言葉にとらわれない方がいいと思う。

ところで、ジムロジャースは今の大暴落は、オバマ民主党が保護主義を主張していることを織り込んだ動きだと指摘している。だから、オバマが今すぐにでもなすべきことは、この保護主義的主張を明確に撤回すると公言することだ。
Smooth-Hawley Tariff Actは、その案が議会に提出された時点で、大暴落を引き起こした。
当時も経済学者はこの案に大反対の声明をだしたのだが、市場はこのように政治を取り込むものと考えられているのである。
逆にオバマが保護主義を撤回すれば、市場はそれを折り込んで大反発するだろう。これは今考えられるいかなる政策よりもインパクトがあるはずだ。

決して間違ってはならないのは、市場が愚かな大衆心理で動いていると思い上がった勘違いをすることだ。
これは自称経済学者なる連中に多く見られる、Fatal Conceipt(致命的なうぬぼれ)である。
私の知る限り、偉大な投資家は決してそういう考えはしないし、その正反対の考え、つまり市場に対する畏怖を持っているように思われる。



共通テーマ:日記・雑感

市場がどちらの方向にも極端に振れやすいポジティブフィードバック

景気浮揚策としていろいろ言われているが、どれも全くナンセンスだ。
景気と心理が不可分なのは当然だが、株式市場の上昇が購買心理を上昇させ景気がよくなり、反対に株式市場が下がって、資産が目減りすれば購買意欲は減退し景気は後退する。
これは、どちらもポジティブフィードバック関係にあり、株上昇→景気上昇→株上昇となり、株下落→景気下落→株下落となる。これは当たり前の話だが、市場がどちらの方向にも極端に振れやすいことを意味する。

今、景気なるものを良くしようとすれば、株の上昇トレンドによる資産回復しかない。
数万円の税金の還付など巨大な負の資産効果に対しては全く効果がない。
つまり、景気=boomとは、常に資産効果に連動したものであり、どのような製品がイノベーションによって市場に出てくるかとは関係がない。画期的な製品が生まれようとも、資産が半分以下になったら、普通購買意欲が無くなるのが人間心理というものだ。そして、全員の資産が平均的に半分になれば、お金の価値=購買力は上昇し、物価は下落する。そしてさらに給与収入は減る。
#プラスにもマイナスにもどちらの方向にも加速する市場の性格というのは、ソロスの観察とも合っているのではないか?

特にアメリカのように401kで、個人資産の半分以上が株式で運用されている場合、株式市場が与える資産効果は絶大だ。日本の場合は、土地バブルによる資産効果により景気が上がったのが80年代末のバブルだった。
その後マイナスの資産効果と0金利によるキャッシュフロー減少によって、長期不況が実現した。
もし景気なるものをよくしたいのであれば名目的なものでも個人のキャッシュフローが増える必要がある。資産が回復するのはこの後だ。そして、これを実現するベストの方法が所得税の超大型減税だ。(例えば、一律所得税を半分にするといった減税をするのである)

減税によるキャッシュフローの向上が最も効率的な景気浮揚策となるのは間違いない。
個人のキャッシュフローの向上が、消費とチャンスを増大させるからだ。
あまりにも多くの金を政府は個人から略奪し蕩尽している。
政府が増税によって個人所得を減らしながら公共投資による景気浮揚を考えているのがとんでもない大間違いであり、そこには消費者がいなくて生産者しかいない。チャンスがなく可能性もない。
愚かで高慢な政府がない知恵を絞るのではなく、役人が見下している個人や民間企業が様々な金の有効な使い方を考えることで、イノベーションが生まれる。
政府自身が、不況の受け皿とならなければならない。つまり、不景気になれば大型減税をして公務員の首を大量にきるという”ノーブレス オブリージュ”を公務員の法的義務とするべきである。
収入が減れば従業員の首を減らすというのは民間企業であれば当然のことだ。つまり社会の固定費を減らすのは政府が不況対策として当然にすべきことだ。
そもそも今の公務員にはリスクがないが、リスクのない職業などあってはならない。
またリスクのない職業の給与はボランティアと同じ、すなわち0であるのがふさわしい。



共通テーマ:日記・雑感

Afraid to be free: Dependency as desideratum

Afraid to be free: Dependency as desideratum
JAMES M. BUCHANAN
March 2005

Abstract. Although collectivist ideas have everywhere fallen into disrepute, this essay arguesthat socialism nevertheless will survive and be extended in the new century.
That gloomy prospect looms, not because socialism is more efficient or more just, but because ceding control over their actions to others allows individuals to escape, evade and even deny personalresponsibilities.
http://www.springerlink.com/content/g6n46t030668m05m/fulltext.pdf
このブキャナンの比較的新しいarticleは、ざっと目を通した限りでは、E.フロムの「自由からの逃走」を連想させる。フロムもナチズムの原因心理として”自由からの逃走”を喝破した。

振り子は急激に反対方向へとふれてしまった。
悪い予感が当たって欲しいとは思わないが、社会の振り子も行き着くところまで行き着かないとゆり戻しがこないのは、歴史の示すところかもしれない。



共通テーマ:日記・雑感

Soros on Recursiveness

Soros on Recursiveness

ソロスは昔から哲学者のように哲学を語る人間として知られ、カール ポパーの「開かれた社会」の実践者であるというのも面白いが、日本ではソロスはヘッジファンドの象徴として嫌われ、成金のイカサマ哲学者と扱われてきたように思う。だが、私の印象ではソロスは、真剣に検討されるべきマーケット思想家の一人と思われる。

ソロスは、この本でも「再帰性」の概念を分かりやすく語ろうとしている。「再帰性」とは、主観と客観といった二元論を超える哲学であることは知っていたが、何を意味しているのか不明であった。ソロスのような大規模な投資をすれば相場に影響を与えるのは当然だろうくらいに思っていたが、そういう意味ではないらしい。

本書より引用
「現行の均衡理論パラダイムに慣れきった人に最もわかりにくいのは、ここの部分だ。例えば再帰性の理論に対する批判の多くは、「市場参加者のバイアスのかかった認識が市場価格に影響をおよぼす」という自明の理を私が一生懸命説いているだけというものだった。だが再帰性の理論の核心はそれほど単純なものではないのだ。」


これは、ファンダメンタルズ=客観、市場のバイアス=主観とした場合、市場はファンダメンタルズを反映するというのは幻想だということだ。

実際、再帰性概念は、このファンダメンタルズ=客観という概念を否定している。
つまり、ファンダメンタルズと市場バイアスは、双方向的に操作可能であり、どちらも一方を変更しうるため、主観ー客観というパラダイムでは収まらない。市場バイアスは、ファンダメンタルズを実際に変更するし、逆も真なり。

均衡という概念自体が否定されなければならない。さらに均衡概念を前提とする合理的期待形成をはじめとする経済学理論は全て間違っているという結論になる。投資とは動く標的を追う行為となる。

市場のブームーバストという加速的なポジティブフィードバック過程に対する観察でソロスは自分の理論を証明しようとしているわけだが、それよりも実際にそれで儲けているというのがすごいことである。

 



共通テーマ:日記・雑感

グリーンスパンの「波乱の時代」

グリーンスパンの「波乱の時代」の特別版2008年の8-9月。

*****
サブプライムモーゲージが原因になっていなければ、他の金融商品か市場で問題が発生し、原因になったのは間違いない。世界的にリスクが割安に振れ過ぎていたのが基本的な問題である。

ある金融機関は「大きすぎてつぶせない」という見方が一般的になれば、その機関は経営困難に陥っても政府の支援が得られると予想されるようになって、本来の信用力だけで判断された場合よりも低い金利で資金を調達できるようになる。

銀行はリスク管理制度を確立していて、一般に、あらゆる事態に耐えられるだけの資本を保有するようにしているが、100年に一回か2回しか起こらないような事態は例外としいる。そうした事態が起こった場合、その影響を封じ込める役割は中央銀行が担うことになる。
それに変わる方法は、商業銀行がはるかに大きな資本をいつも用意しておくことしかない。銀行はこの方法をとることに強く抵抗する。100年に一度の事態が起これば、破綻するリスクをとることを好んでいるようだ。

また、規制を強化することで金融市場が改善しうるとする見方にも、私は懐疑的である。とくに、FRBの役割を拡大し、市場の安定をはかる規制を行うようにし、そのために不均衡やバブルの芽を摘む幅広い権限を与えるという考え方には賛成できない。そのような任務は達成不可能だ。
政策担当者が金融ショックや経済ショック、あるいは経済的不均衡の結果を予想するよう、どれほど期待しても、実際には信頼性のある予想は不可能なのだ。

世界市場の自立的な調整に任される傾向が強まってきたからだ。この変化はおそらく、避けがたいものである。世界経済はとてつもなく複雑になり、ひとりの個人やひとつの集団では、どのように機能しているかを完全に理解することができなくなっているからだ。世界経済が機能していることは、事実をみれば明らかである。

例外は危機の時期であり、これは人間の弱点によって発生する。私の知る限り、どのような規制制度も、保護主義も、根拠なき熱狂や、市場と経済に打撃を与える恐怖心を安定した経済成長に変えることはできない。
経済を中央計画当局のもとで組織化し、高度な知識をもつエリートが運営することで、競争市場よりもすぐれた解決が図れると考えた人たちは、過去1世紀のに繰り返し失敗していきている。
*****

グリーンスパンをスケープゴートにしたメディア攻撃が盛んだ。しかし、政府(FRB、財務省)にできること、政府の法的役割、ミッションというのをほとんどの人は全く知らないはずだ。
政府は何でもやれるし、またやる権限があるとでも思っているのだろう。
しかし、「合衆国憲法のどこかに、政府は私たちのお金に関する問題を解決しなければならないとでも書いてあるのだろうか。」そんな役割も権限も能力も政府にはないし、またあってはならないのである。


 



共通テーマ:日記・雑感

constitutional federal republic,not a parliamentary democracy

Bailout is unconstitutional
Which section of the U.S. Constitution gives the federal government the power to bail out banks? If you don't know, it could be because no constitutional authority exists for such an action. It is all too common for both Congress and the executive branch to ignore that the Constitution limits what they can and cannot do.


The United States is not a parliamentary democracy; it is a constitutional federal republic, giving basic rights to the people and limiting the powers of government. America's Founding Fathers understood that simple majoritarian democracy could trample the rights of minorities and could lead to tyranny. One of the major reasons for the relative success of the American republic is the difficulty of making significant changes in the government structure and policies. Many find this frustrating, but it allows momentary passions to cool and a more deliberative process to take place. As a result, fewer mistakes are made, in contrast to many parliamentary democracies. Because it was more difficult to put socialist schemes in place in the U.S., such as the nationalization of major industries, the people observed the failure of such programs in parliamentary countries, which diminished the enthusiasm for doing it in America.

bailoutは合衆国憲法に違反しているという指摘。
アメリカは議会制民主主義(parliamental democracy)ではなく、立憲制連邦共和国(constitutional federal republic)であると書いてあるように、この違いは実はものすごく大きい。

ハイエクが、constitution of libertyで書いたのは、アメリカの立憲制連邦共和国の意味だが、日本人でこの違いを認識している人間はまずいないだろう。

FDR Franklin Deleno Roosevelt 政権によって、このconstitutional libertyは消滅の危機に遭遇したわけだが、なんとか持ちこたえた。
しかし、今度のオバマ政権でも持ちこたえる保証はない。
アメリカのconstitution of libertyは今深刻な危機に直面している。



共通テーマ:日記・雑感

Frequently Asked Questions about Libertarianism

Frequently Asked Questions about Libertarianism
Version: 1.3HTML1.0
--------------------------------------------------------------------------------
Contents:
1.リバタリアニズムとは何ですか?
2. リバタリアンはリベラルですか?コンサバですか?
3. リバタリアンはどのようにこの問題にアプローチしますか?
4.軍の徴兵制に対する リバタリアンのスタンスはどのようなものですか?
5.政府はラジオやTVや新聞を規制するべきでしょうか? 
6. リバタリアンはなぜ成人の合意あるセックスに関する規制を撤廃しようとするのですか?
6a. これは、売春もどうようですか?
7. リバタリアンは個人の自由を麻薬使用まで支持するのですか?
7a. しかし、麻薬が合法化されたら、中毒患者が何百万とうまれるのではないでしょうか?
8. リバタリアンは銃の所有を個人的な自由として支持するのですか?
9. リバタリアンは移民をどのように扱うのでしょうか?
10. リバタリアンは農場や産業への補助金をどう考えますか?
11.自由貿易になれば、関税を設けるよりも生活が向上しますか?
12.最低賃金法をどう捉えますか?
13.貧困者の問題をどう考えますか?
14.人種偏見や男女差別をする雇用者に雇用差別をさせないためにアファーマティブアクションは必要ではないでしょうか?
15. リバタリアンは、税金をどう捉えますか?
16.私は税金カットを支持しますが、実際問題、どうすればいいでしょうか?
17. リバタリアンは進みすぎてはいませんか?
18. リバタリアンの考えは性善説に基づいてはいませんか?
--------------------------------------------------------------------------------
1.リバタリアニズムとは何ですか?

リバタリアンは平和と物質的豊かさを備えた世界を欲している。また、それを勝ち取るための唯一の方法は、自己統治によるものであり、他者による統治ではないと考える。

自己統治とは個人責任と忍耐とを合わせたものである。責任とは自分で自分を統治するということである。忍耐とは自分の価値観を他の平和的で誠実な人たちに対して強制しないということを意味する。

「今日では、他者による統治が我々に危険と、摩擦、貧困をもたらしている。自己統治という遺産、伝統を再び蘇らせよう。敗者のいない世界を 作るために。我々は皆そのような世界からやってきたのである。」―アイン ランド

--------------------------------------------------------------------------------

2. リバタリアンはリベラルですか?コンサバですか?

単なる右翼か左翼かというより、ずっとましな選択肢があります。 リバタリアンは政治やビジネス、個人生活の全ての面で、それら以外の他の選択肢を提供します。 リバタリアンは個人的な自由と経済面での自由において、より程度の高い自由を主張しています。昨今のリベラルズは個人的な自由は好みますが、同時にあなたの経済的な問題にも首を突っ込みたがります。コンサバ系の人たちはその裏返しです。つまりより経済的な自由を主張しますが、あなたの個人生活に関しては締め付けようとします。

リバタリアンの立場というのは、いわゆる右翼でも左翼でもなく、またそれらが一緒になったものでもありません。 リバタリアンは個々人が自分がベストと思えるものを自分で決定する権利があると考える。またその確信にもとづいて行動する権利があると考える。もちろん、同じように自分の判断で行動している、平和的で誠実な人達の権利を尊重するという制限がつくが。

昨今では、リベラルもコンサバの人たちも、アメリカの遺産とも言える自由と自己責任を重んじる伝統を拒否している。彼らは国民に彼らにとって都合のいい拘束服を着せようとする。アメリカ人は足かせのない偉大な国を建国した。今こそ拘束服を脱ぎ捨てるときである。右翼だ左翼だという無意味なスペクトルをうちやぶらねばならない。全ての問題における自由というものを考えよう。

--------------------------------------------------------------------------------

3. リバタリアンはどのようにこの問題にアプローチしますか?

リバタリアンは政治へのアプローチに、愛情や面倒見のよさによって対処しようとする。

政治家は、法律や規制が生きた生身の人間に影響をおよぼすという事実をいつも忘れている。

リバタリアンは法律の持つこういった側面を重視する。我々は一人一人の個人がかけがえのない存在であり、大きな可能性をひめた存在だと考える。我々は自身のなかにある最高のものを見出すことを奨励するようなシステム、またそれを利用できるシステムを欲している。人々の調和のある関係性を発展させうるシステムである。

政治的な問題を扱う場合、 リバタリアンは人間に注目する。だれが問題を抱えているのか?と。
問題はなにか?なにを政府はすでにしているのか?もしかしたら、それこそが問題の原因なのではないか?と。
最も重要なこととして、 リバタリアンはこう尋ねる。誰かが他人の権利を侵していないかと?
だれかが、殺人、レイプ、強盗、盗み、横領、放火、不法侵入、etcをしていはしないか?
もし、そうであるならば、犠牲者を犯罪者から守るために政府を呼ぶのが適当であろう。しかし、そうでないのであれば政府を巻き込むべきではない。

多くの場合、人々は自発的な意思で自分の問題を解決しようとしたほうが、政府の強制力を使って問題を解決しようとする場合よりもいい結果が得られるものである。

--------------------------------------------------------------------------------

4.軍の徴兵制に対する リバタリアンのスタンスはどのようなものですか?
自由な人々は、我が家や自国を守るために頼りになる存在であるということは歴史が証明している。しかし徴兵制というのは奴隷制である。軍隊に居たいと思ってそこにいる人たちに守られているのはいいが、意思に反してそこにいる人たちにまもられているとは思わない。

アメリカを守ることに専念した軍隊であれば、世界の警察官としての軍隊に比べマンパワーが少なく出来るし、さらには徴兵制をなくすことにも、徴兵をとる理由もなくしてしまうだろう。

--------------------------------------------------------------------------------

5.政府はラジオやTVや新聞を規制するべきでしょうか?
アメリカの自由なマスコミというのは、世界中の自由を渇望する人たちからうらやましがられている。独裁者は管理したマスコミを用いて、反対意見を黙らせようとするし、うその情報を国民に与えようとする。アメリカ人は政府のつくった新聞や情報コントロールされた新聞など欲しないだろう。同様に情報コントロールされたTVやラジオがどうしていいのだろうか?印刷された言葉と同様に、放送による言葉は自由市場によって制限されるし、それによって制限すべきものである。アメリカ人は自分の見たり聞いたりするものを自由に選択できるべきである。政府によって、その選択を規制されるべきではない。

--------------------------------------------------------------------------------

6. リバタリアンはなぜ成人の合意あるセックスに関する規制を撤廃しようとするのですか?
性的な関係を形作る選択方法より以上に個人的なものというのはこの世にない。政府は人々のベッドルームに侵入するというのは政府の役目ではないのである。

このことは、他人の性的な行動を認めなければならないということではない。ただ単にその当事者が合意のとれた大人である限り、だれも彼らをやめさせたり罰したりするために政府の法権力を用いる権利はないということである。

性的な嗜好を理由に、無害(もしくは善良)なアメリカ人を刑務所においやる正当性などどこにも存在しない。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

これは、売春もどうようですか?

毎日、何百万ものアメリカ人がセックスをするということに同意をしている。かれらを刑務所に押し込める理由の正当づけなどできない。
これらは同意しあった大人同士の自発的で平和的な了解である。これらのほんの一部にお金がからんでいる。
犯罪としてのペナルティーを科したところで、売春はなくならない。それは本当の問題を生み出すだけである。
ある研究によれば、売春を検挙するたびに一回あたり2000ドルの税金が掛かっている計算になるという。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

セックスを犯罪視するのはやめよう。それらは個人的なこととして放っておこう。

--------------------------------------------------------------------------------

7. リバタリアンは個人の自由を麻薬使用まで支持するのですか?

禁酒法はかつてアメリカを引き裂いた。今はドラッグに関する戦争が起こっている。厳しい法律も、監獄行きという脅しも、罰金もドラッグの使用を止めさせることはできない。これらは全て人を助けるということを困難にしている。売春禁止が組織犯罪を生んだように、今では麻薬禁止法は、組織犯罪を生き長らえさせている。そして暴力と堕落がそれらとともに存続するという結果になっている。ドラッグが違法とされる以前は、アメリカ人はそれをたいした問題としてはとらえていなかった。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

麻薬を犯罪視することをやめよう。それを必要とするひとたちを助けよう。そして警察には本当の犯罪から我々を守ってもらおう。

しかし、麻薬が合法化されたら、中毒患者が何百万とうまれるのではないでしょうか?

私ももちろん人々が健康的で生産的である社会に暮らしたいと思う。中毒性のあるドラッグで人生を破壊しているような人たちの社会はいやである。
1914年以前は、全てのハードなドラッグは合法的なものであった。そして中毒患者はあまりいなかった。多くの研究結果では麻薬でさえ生産的でありうるし、また麻薬が安価で買えたとしてもそれが犯罪には結びつかないとしている。

今日では、麻薬を犯罪視しているにもかかわらず、中毒患者が沢山いる。麻薬が違法であることによってひきおこされた暴力もある。
麻薬を犯罪視することは止めよう。そうすれば暴力を止められるし、助けを必要な人たちを助けることも出来る。

--------------------------------------------------------------------------------

8. リバタリアンは銃の所有を個人的な自由として支持するのですか?

リバタリアンは、他のアメリカ人と同様に、通りを安全に歩けることを望んでいるし、家の中で安全で居たいと思っている。市民の自由が犯されることを防ぐためにも、我々の憲法上の権利も守られることも当然望んでいる。特に、 リバタリアンは法の下で人々がどうように扱われるのを望んでいる。我々の憲法が要求しているように、アメリカの数百万人の銃を所有している人たちの権利が同様に守られることも望んでいる。

責任ある市民が平和的な活動をするのに許可や承認は必要ないというのは普遍の理である。銃の所有者たちは、それ自体では他人を傷つけることはないし、モラルの理由で犯罪刑罰を科すことを正当化することはできない。

責任のある、武器を持った訓練された市民というのは、国内の犯罪や外国の侵入からの脅威に対する最高の防御である。アメリカの建国者たちはそれを知っていたし、そのことは今日でもいまだに真実といえる。

--------------------------------------------------------------------------------

9. リバタリアンは移民をどのように扱うのでしょうか?

誰でも、どこへでも旅行をする権利がある。また提供される仕事を引き受ける権利も持っている。ただし、それが自分のお金を使って旅行するものであるかぎり。また他人の権利を侵害するものでない限り。

貧乏な人を助ける一つの方法は、仕事がある所へ国境の制限なく彼らを行かせてやることである。いろんな研究によれば、移民の受け入れは他人の仕事を奪うものではなく、経済に付加されるもので、それはより多くの仕事を生むことを助長する。

アメリカは移民によって建国された国である。彼らはここにまさに機会と自由を求めてやってきたのである。そして歴史上最も偉大でもっとも生産的な社会を築いたのであった。

人間の権利を尊重しよう。そして移民制限を緩和するという要求をしている世界中の貧困者にたいし同情しよう。

--------------------------------------------------------------------------------

10. リバタリアンは農場や産業への補助金をどう考えますか?

全てのビジネスに携わる人たちー農場経営者も含めてーは、自分の生産物を他者によって補助金が与えられていないフリーマーケットに提供することができるべきである。生産者、そして消費者を助ける方法は、アメリカの自由な事業システムをだめにしている政府計画や政府の規制を取り除くことである。

補助金は、有害であり不公正なものである。なぜある種のビジネスには他人に施しをするために課税されなければならないのか?なぜ、政府が優遇するビジネスを支えるために、よりたくさんの税金を払わなければならないのか?

このような馬鹿げたことはやめよう。そうすれば、ビジネスはフリーマーケットの中で操作することができるし、我々はより良い物を食べることも出来るし、より良いものを着てより良い家により安く住むことが出来る。

--------------------------------------------------------------------------------

11.自由貿易になれば、関税を設けるよりも生活が向上しますか?

自由貿易はより安い値段でより良い品物を消費者に提供することを可能にする。貿易制限は、その反対である。品質の悪いものをより高い値段で消費者に提供するのである。

自由貿易では、消費者は製品により安いお金を払うことで、他の商品(国内品や外国品)に使うお金が残ることになる。

自由貿易は世界平和をもたらすことにも貢献する。1920年代から1930年代の間で、貿易障壁が世界中に行き渡ってしまったことで、それが直接的に第2次世界大戦を引き起こしたのである。もし商品が国境を渡ってこないのなら、軍隊が国境を越えてくるであろう。

全ての貿易制限を終わらせよう。世界中の原料が最も効率的で生産的に配置されるように自由にしよう。

--------------------------------------------------------------------------------

12.最低賃金法をどう捉えますか?

技術、経験のある働き手はより多くの賃金を得るが、それは雇用者がかれらを雇うための競争があるからである。教育のあまりない、経験もない若い人は仕事にありつけない。なぜなら最低賃金法があるために見習として雇用するにはあまりに賃金の高いものにしているからである。最低賃金法の撤廃は多くの若い人、マイノリティ、貧困者に働くチャンスを与えるだろう。

このことは問われねばならない。つまりもし、最低賃金法がそんなに良いアイデアであるというのならなぜ最低賃金を時給200ドルにしないのか?大抵の頑固な最低賃金法の主唱者でさえ、そのような提案はなにかおかしいと分かるはずである。

唯一のフェアで正しい賃金とは、雇用者たちの間で合意されたものである。我々は今すぐに最低賃金法を撤廃するべきである。

--------------------------------------------------------------------------------

13.貧困者の問題をどう考えますか?

私は、貧困の連鎖というのを断ち切りたいし、身障者達を助けたい。まず第一に雇用を妨げる法律を取り除き、2番目に許可制、ライセンス制度、区画制、労働法に基づいている福祉を民営化する。これらは全て働く意欲のある人たち、特にマイノリティーを、労働することを止めさせてしまうものである。これらの法律を廃案にしよう。個人的なチャリティはより哀れみのあるものであり、より多くのものを政府の政府政策よりは供給するものである。

我々は完全な世界を作ることはできない。我々は貧困な人々に対して非効率な政府計画を効率的で自発的な援助に置き換えることでより多くのことをすることができるのである。-- David Bergland

--------------------------------------------------------------------------------

14.人種偏見や男女差別をする雇用者に雇用差別をさせないためにアファーマティブアクションは必要ではないでしょうか?

リバタリアンは、いろんなタイプの人たちが最も調和のとれた関係のなかで働いているのを見たいと願っている。"Affirmative action"というのは、人々を望むと望まざるとに拘わらずの関係を結ぶことを強制するという法律である。わりと最近まで、多くの州において異なった人種がいろんなことを一緒にすることを妨げるような法律が存在してた。たとえば仕事をしたり、食事をしたり、結婚したりといったことである。 リバタリアンはこのような法律には断固反対する。なぜなら、人には集団や関係というのに入るか入らないかを自分で選ぶ権利があるからである。

古いことわざではこう言っている。"it takes two to tango."(タンゴを踊るには二人いなきゃならない。)。関係を結ぶには、また組織を作るには最低二人の人間が必要だ。我々は自発的な意思から関係を作ろうとするのを阻止するのに法律を用いることは正当化できない。また当人たちの意思に反して関係を強要することも正当化はできない。

政府の雇用というのは、また違ったケースといえる。政府の仕事における雇用や昇進の唯一の基準となるものはメリットであるべきである。憲法は人民の法の下における平等を要求している。政府というのは法律によって作られたものであるから、彼らは憲法上絶対的に平等な扱いをされなければならない。個人的な市民や法人は、愚かなことをする権利を持っており、その結果は自分でこうむるのである。

アファーマティブアクションで偏見を取り除こうという試みはうまくいっていない。このような法律は人種的な偏見をもった人間がその裏をかくことも簡単である。

--------------------------------------------------------------------------------

15. リバタリアンは、税金をどう捉えますか?

アメリカでは、既におおくの供給者が多くのサービスを提供している。郵便配達から教育、道路作り、やその保守まで、民間部門でやった方が、より効率的で低コストと考えられている。

我々は、税金を廃止したり減らそうという全ての運動を支持する。税金というのは不道徳に力によって維持されている制度である。所得税は特に害悪なものである。生産性に対する罰金であり、我々のプライベートなできごとを政府の捜査官にさらけだすことを強いるものである。

1914年の以前には、所得税というのはなかった。そしてアメリカは繁栄していた。所得税を自発的なファイナンシングサービス手法に置き換えるのが我々のゴールである。これにすぐに取り組むべきである。

--------------------------------------------------------------------------------

16.私は税金カットを支持しますが、実際問題、どうすればいいでしょうか?

政府というのを、サービス産業のコングロマリットと捉えてみたらどうだろう。これらサービスの提供者は政府の雇用者である必要はない。またサービスへは税金で払う必要はない。教育、安全、輸送、慈善、エネルギー、なんでも分野に拘わらず民間部門はすでにそれを少ないコストでやっている。税金を削減するためには、民間部門のサービス提供者が非効率な官僚制をとってかわることをゆるさねばならない。

市場の競争で、より低コストのよりよいサービスが提供されることになるだろう。

--------------------------------------------------------------------------------

17. リバタリアンは進みすぎてはいませんか?

私は、あなたに自分を自分で支配できるようになってほしい。

政治的なコントロールを自己統治に置き換えるのは、あなた次第である。だから実験して見よう。外国援助をカットし、運送の規制撤廃をし、ドラッグ法を撤廃し、農場補助金をカットし、税金をカットしよう。

「あなたが、自己統治出来るようになるにつれ、おそらくもっとそれを欲するようになる。決めるのは君に掛かっている。だれも君に自由になることを強制はできない。-- David Bergland

--------------------------------------------------------------------------------

18. リバタリアンの考えは性善説に基づいてはいませんか?

大抵の人達は、殆どの場合、 リバタリアンの前提である他者の権利への尊重をもってお互いに生きている。社会のごくごく一部の者が全ての犯罪を犯しているのである。多くの人がそうであったら社会そのものが崩壊しているであろう。

もし、人間が根本的に邪悪なものであれば、最後に欲しくなるものは大きな政府であろう。そして政府はそれら邪悪なものたちがスタッフとなっており、あなたを支配しようとするだろう。-- David Bergland

--------------------------------------------------------------------------------

Bibliography:
[1] "Liberty Communicator Course," Advocates for Self-Government, 1988.
[2] Bergland, David, "America's Libertarian Heritage: The Politics of Freedom," Orpheus Publications, 1773 Bahama Place, Costa Mesa, CA 92626, (714)751-8980, 1991.
[3] "The Liberator," Spring 1992, pp. 18-19, Advocates for Self- Government, 3955 Pleasantdale Road, No. 106-A, Atlanta, GA 30340, (800)932-1776.
[4] "The Liberator," Summer 1993, p. 13, Advocates for Self-Government



共通テーマ:日記・雑感

PLAYBOY INTERVIEW WITH AYN RAND

PLAYBOY INTERVIEW WITH AYN RAND
March,1964
1964 年3 月 プレイボーイ誌に掲載
P : PLAYBOY 誌のインタビュアー/アルビン トフラー
Rand : アイン ランド

P: ミスランド、あなたのエッセイや小説、特に、今、あなたの論争のまと
となっているベストセラーの「Atlas  Shrugged」などは、とても注意深く
設計された、内部的に首尾一貫した世界観を提示していると思います。それ
らは、実際達成的な哲学的なシステムの表現です。あなたは、この新しい哲
学でなにをなし遂げようとしているのでしょうか?
Rand: 私は人々に対し、それも何かを考えようとしている人たちに対し
て、まとまった首尾一貫した(consistent)理性的な人生観を提供しようとし
ているのです。
P: Objectivism の基本的な前提はなんでしょう?それはなにから始まる
のでしょうか?
Rand:それは、「存在するものはある」(existense exists)という原理からは
じまります。これはつまり、客観的なリアリティというのは、受け手や、受け
手の感情、情緒、希望、恐れなどというものとは独立に存在するということ
です。Objectivism では、人間の理性(Reason)だけがリアリティを受けと
める手段であり、行動への指針となるものであるという捉え方をします。理
性(= Reason)という言葉で、私が意味していることは、人間の感覚に与え
られた、物質存在というものを認識し、統合する能力のことです。
P: Atlas shrugged の中であなたのヒーロー= John Galt はこう宣言してい
ます。「私は、自分の命にかけて誓う。私は他人の為には決して生きない。ま
た他人に私のために生きて欲しいとも頼まない。」この言葉はあなたの原理
にどのように関係してくるのでしょう?
Rand: Galt の言葉は、ドラマ化されたObjectivism 倫理の要約のようなも
のです。いかなる倫理システムも暗黙的であれ明示的であれ、それはメタ
フィジクスに基礎を置き、それから派生しているのです。Objectivism のメタ
フィジカルな基礎から派生する倫理というものは、理性が人間の基礎的な生
1
存手段であることから、理性的であることをその高位の美徳として捉えるの
です。MIND を駆使すること、リアリティを知覚し、それにしたがって行動す
ることは、人間の道義的な使命ともいえるのです。Objectivist 倫理のスタン
ダードな価値とは、人間の人生とは人々の間をサバイバルすることであり、理
性的な存在であるその本性がそのサバイバルを要求するのです。Objectivist
の倫理のエッセンスとは、人間は自分自身の為に存在しているのだと把握す
ることです。また自己の幸福の追求は、もっとも道義的な手段であり、自分
自身を他人の為に犠牲にしてはならないということです。まして他人に自己
への献身、犠牲を強いるものではありません。Galt の言葉が要約しているの
はこういうことです。
P:あなたは、あなたの大義のために進んで身を捧げようとしますか?また、
あなたの追随者たちもそうするでしょうか?また非犠牲的なObjectivist に
とって、死ぬに値するほどの大義というのはあるでしょうか?
Rand:この問いに対する答えは私の本の中にはっきりとかかれています。
「Atlas shrugged」の中で私は人間は自分の価値に生きなければならないこと、
また必要があればその価値のために戦わなければならないということを説明
しています。
なぜなら生きるというプロセスの全ては、価値の達成というものからなっ
ているからです。人間は自動的に機械的に生きているわけではありません。
人間は理性的な人間として生きます。野蛮人としていきることは出来ません。
どんなに単純な価値たとえば食べ物でも、それは人間によって作られなけれ
ばならないのです。人間によって植えられ作られなければなりません。同じ
事が、より興味深く、より重要なことに対してもいえます。全ての価値は人
間によって、獲得され保持されるのです。そしてその諸価値が脅かされると
したら、必要とあれば、それに抵抗して自分が理性的な存在として生きる権
利の為に闘い、死ぬ覚悟が必要です。あなたは、私にこう尋ねましたね。「あ
なたはObjectivism の為に死ねるか?」と。私はできるだろうと答えます。し
かしより重要なことは、私はそのために生きるだろうといことです。そして、
このことはより困難なことなのです。
P:あなたの初期の作品である「Anthem」で、主人公はこう宣言していま
す。「選択することは私の意思である。私の意思による選択は、私の尊重する
唯一の命令である。」 これはアナキズムではないでしょうか?人間の欲求や
意志というのが人間の尊重すべき唯一の法律ということですか?
Rand:ある人の個人的な意思だけが尊重されるのではありません。これは、
多かれ少なかれ、Anthem という物語の全体のコンテキスト中ではっきりとさ
れる詩的な表現です。ある個人の私的な理性的判断というもの。ご存知のよう
に私は普通に使われる意味とは全く違う意味で、自由意志という言葉を用い
ています。自由意志というのは、人間の考える能力、もしくは考えないという
能力からなっています。考えるという行為は人間の最初の選択行為なのです。
2
理性的な人間は欲望や気まぐれで動くことはけっしてありません。理性的な
判断によってのみ行動するのです。これは人間が判断できる唯一の権威です。
これはアナーキーを意味しません。なぜならもし人が自由な文明化された社会
の中で生きたいと思うのであれば、理性が彼に法律を守ることを選択させるだ
ろうからです。尤も、その法が客観的で理性的かつ妥当なものである場合は、
ということです。私はこのことについて、「The  Objectivist  Newsletter」
に政府の必要性と政府の正しい役割(proper function of government)とい
う題で寄稿したことがあります。
P:あなたの見解では、政府の正しい役割というのはなんなのでしょうか?
Rand:基本的には、たった一つの正しい役割しかありません。それは個人の
権利を守ることです。人間の権利というのは、たんなる肉体への暴力(Physical
 Force)やそれから派生するもろもろの暴力によって、簡単に破壊されてし
まうのです。政府の正しい役割は、人々をそのような暴力を行使しようとす
る犯罪者から、守ることです。自由な社会においては、権力というのは、報
復手段としてのみ、そのような犯罪者に対して用いられます。これが、政府
の正当(proper)な仕事です。つまり、警察官として人々を暴力から守ると
いう役割です。
P:もし、権力(= Force)が、暴力(= Force)に対する報復にのみ用いら
れるのであれば、政府は、税金を徴収するのに権力(Force)を用いる権利
(right)を持っているのですか?たとえば、徴兵制度であるとか?
Rand:基本的には、私は税金というのは自発的なものであるべきだと思い
ます。他のすべてとこれも同様です。しかし、このことをいかに実行するか
は実に難問ですね。私にはひとつの方法を提案できますが、といってもこれ
を決定的な解決手段だとおしつけるつもりもありません。たとえば、政府運
営の賭博ですが、これはヨーロッパでは多くの国で行われていますが、これ
などは一つにいい形での自発的な課税といえるでしょうね。他の手段もいろ
いろあるでしょう。課税というのは、正当な政府サービスに対する、自発的
な寄付金のようなものでなければなりません。人々が必要とするものを提供
することに対する、人々の自発的な支払いである必要があります。人々が保
険に対して対価を支払うようなものです。しかし、税金は遠い将来、真に自
由な社会を達成した時には問題となるでしょう。税金を弁護するための改正
案としてはこれが、最後のものです。これ以上はありません。徴兵制に関し
ては、適切でなく違憲なものです。それは、根源的な権利(= Fundamental
 rights)つまり、個人の生命権への侵害です。
だれも、自分の大儀のために他人を死なせたり、戦わせたりする権利など
持っていません。国(= country)は、人々に自発的でない苦役を強いる権利
は全く持っていません。軍隊というのは、厳格に自発的なものでなくてはな
りません。そして、軍の専門家が言うように、志願兵からなる軍隊こそがベ
ストな軍隊なのです。
3
P:他の公共的なニーズにたいしてはどうでしょうか?たとえば郵便事業な
どは、正当な政府の役割と思いますか?
Rand:では、ストレートに申しますが、私の立場は完全に一貫性のあるも
のなのです。郵便局に限らず、道路や街路、とくに学校などは、すべて私的
に(Privately)に所有され運営されるべきものです。私は、国家(State)と
経済の分離を主張しています。政府(government)は権力の行使(Use  of
 force)が必要とされるような局面にのみかかわるべきです。つまり、政府
は警察、軍(Armed Service)や法廷において、人々の諍いを解決するといっ
たことだけに、拘わるべきであり、その他のことには一切拘わるべきではあ
りません。これら以外のことは全て私的に運営されたほうがよく、また、そ
の方がはるかにより良い運営がされることでしょう。
P:あなたは、新たな政府部門や政府法人のようなものを作ろうとしていま
すか?
Rand:いいえ。私はそういった議論は一切しません。私は、政府の計画立
案者ではありませんし、まして自分の時間をユートピアを作る構想で無駄に
しようとは思いません。私は、原理について話しているので、その原理から
導かれる派生的なものははっきりとしています。私が、暴力に反対している
といったとして、他になにを議論する必要がありましょうか?
P:それでは、外交政策についてお聞かせください。あなたは、どのような
自由国家でも、第2 次世界大戦期のナチドイツのような国に対しては、攻撃
する権利を持っていると仰っていましたね。
Rand:そのとおりです。
P: そして、さらに全ての自由国家は今日では、ソビエトロシアや、キュー
バや、その他の収容所国家に対して攻撃(invade)する道義的な権利(The
moral rights)を持っている。尤もこの権利は義務ではありませんが、という
ことですね。
Rand:そのとおりです。独裁制(dictatorship)を布いているような政府は、
その国の人々の権利を踏みにじっているのであり、アウトローであって、そ
れら政府は何の権利も主張できません。
P:あなたは、積極的(actively)にUSA がキューバやソビエト連邦に侵攻
すべきだと思いますか?
Rand: 現在のところでは、そうは思いません。それは必要ないと思います。
ソビエト連邦はなによりも経済封鎖を恐れています。私はキューバの封鎖と、
ソビエトロシアの経済封鎖を主張します。そうすれば、アメリカ人の一人た
りとも血を流さずに、それらの体制は崩壊するでしょう。
P:あなたは、アメリカの国連(United  Nations)からの脱退を歓迎しま
すか?
Rand:はい。このようなグロテスクなみせかけの組織、伝え聞くところによ
ると世界平和と人権のためにあるというような組織、それもソビエトロシア
4
のような歴史上最悪の侵略国家にして最悪の虐殺国家がその一員である組織
を認めることはできません。このソビエトロシアと共に人間の権利を守るな
どという考えは、権利という概念への侮辱であり、このような組織を認める
かと人に聞くこと自体がその人の知性にたいする侮辱です。私は人々が犯罪
者といっしょに協力すべきだとは、全く思いませんし、まさに同じ理由によっ
て、自由国家がこのような独裁国家と協同すべきではないと信じています。
P:あなたは、ロシアと外交を断絶すべきだとお考えですか?
Rand:はい。
P:あなたは、反共産主義者であり、反社会主義者であり、アンチリベラル
だと宣言されています。また、保守主義者(conservative)だと言われるこ
とも拒否しておられます。実際、あなたは怒りのこもった批判文を保守に対
して寄せていますが、あなたは、政治的にはどのような立場なのでしょうか?
Rand: 少し、訂正をさせてください。私は自分の立場をそのような否定的
な表現で主張したことはありません。私は、自由放任(Laissez-faire)の資本
主義の主唱者であり、個人の権利の主唱者であり、個人の自由(Individual
freedom)の主唱者であって、このようなことを主張している人は他には全く
いません。私はこの見地にたって、個人を集産主義への犠牲を強いるいかな
る教義、つまり共産主義、社会主義、福祉国家、ファシズム、ナチズム、最
近のリベラリズムのようなものに対して対抗しているのです。私は、この同
じ見地から保守派に反対しています。保守派は、混合経済と福祉国家の主唱
者です。かれらとリベラル派との違いは単に程度の問題にすぎず、原理原則
的(discipline)には違いがありません。
P:あなたは、アメリカは知的な破産に陥っていると指摘しています。あなた
は、このような糾弾においてナショナルレビュー誌のような右派の雑誌のこと
も含んでいるのでしょうか?このような雑誌は、あなたが体制主義(statism)
とよぶものに対する強力な声となってはいませんか?
Rand:私は、ナショナルレビュー誌をアメリカでも最悪で、最も危険な雑
誌だと思います。その雑誌が主張しているような類の資本主義に対する批判
のようなものは、間違いなく資本主義(Capitalism)に対する不信と破壊と
いう結論に陥るでしょう。あなたは、この理由を知りたいですか?
P:はい。是非。
Rand:なぜなら、それは資本主義を宗教と結びつけるものだからです。ナ
ショナルレビュー誌のようなイデオロギー上の立場は、実質上、次のような
ことを言っているに等しいのです。つまり、自由と資本主義を受け入れるた
めには、人間は神やなんらかの宗教、なんらかの超自然的な神秘主義を信じ
なければならない。ということは、資本主義に抗弁するうえでの理性的な根
拠というのはなにもないということになります。これは、理性が資本主義の
一つの敵であるということを認めるに等しいことです。同時に奴隷制社会や
独裁国家が理性的なシステムであると認めるに等しいのです。そして神秘的
5
な信仰に基づいてのみ、人は自由を信じることができるということを認める
に等しいわけです。
これほど、資本主義の価値を損なう根拠の無い主張はないでしょう。そし
て、真実はまさにその対極にあります。資本主義は理性によって抗弁でき、ま
た理性によって評価が可能な唯一のシステムであるのです。
P:あなたの認める政治的集団というのは、今のUSA にありますか?
Rand:そのような政治的集団はありません。今日のアメリカにそのような、
ちゃんとした一貫性のある主張をしているものがあるでしょうか?はなはだ
しい矛盾をもった主張ばかりです。
P:あなた自身は、個人的な政治的な野心というのはありませんか?今まで、
政治家になろうと思ったことはありませんか?
Rand:それは、はっきりとありません。そんなことを私に期待するほどあ
なたが私のことを嫌っていないということを信じたいですね。
P:しかし、あなたは政治に関心がおありになる。または、すくなくとも政
治理論に関心をお持ちですよね。
Rand:このように答えておきます。私がソビエトロシアからここアメリカに
来た時、私はたった一つの理由で政治に関心を持っていました。つまり、私が
政治などに関心を持つ必要がない日がくるようにするためにという理由です。
私は、自分が自分自身の関心や目標を追求できる自由な社会を確保したいと
思ったのです。政府(government)が干渉してそれを台無しにしてしまわな
いという社会。私の人生、私の仕事、私の未来が国家(state)の慈悲に左右
されるものでもなく、まして独裁者の気まぐれにも左右されない社会を確保
したかったのです。これは今でも変わらない私の立場です。今日では、この
ような社会というのは理想であり、まだ達成されたものではありません。ま
た他人にそのような社会を私の為に達成してくれと期待することも出来ませ
ん。また私は、他の全ての責任ある市民と同様に、これを達成するために自
分で出来る限りのことをしなければなりません。言い換えれば、私が政治に
関心があるというのは、単に自由(Freedom)を確保(secure)し、守るため
なのです。
P:あなたは、作品を通じて、現代社会の運営のされ方では、資本主義の国に
おいてさえも、個人を埋没させ、独創的な才能や企業家精神(initiative)を
窒息させてしまうと言っておられます。「Atlas Shrugged」で、John Galt は
人々のmind のストライキ(strike)を指導します。そして、これが、自分の
周りの集産主義社会(collectivist society)の崩壊という結果をもたらします。
あなたは、今日の芸術家や知識人、創造的なビジネスマンが、このようにし
て、その才能を社会から引き上げる時がきていると思われますか?Rand: い
いえ。まだその時期はきていないと思います。しかし、このことを説明する
前に、あなたの質問の一部分を訂正しておかなくてはなりません。我々が今
日持っている社会とは資本主義社会(capitalist society)ではなく、混合経済
6
(mixed economy)の社会です。これは、自由(freedom)と規制(controls)
の混合(mixture)なのです。そして、これは今の大きなトレンドとしては、
独裁制(dictatorship)に向かって動いています。「Atlas  Shrugged」の中
での行動は、社会が独裁制の段階に到達した時点で起きるものです。もし、
独裁制が起こたときは、ストライキを行うときでしょうが、そのときまでは
する必要がありません。
P:あなたは独裁制(dictatorship)という言葉でなにを意味しているのです
か?それをどのように定義づけされますか?
Rand:独裁制とは、個人の権利を認めない国(country)であり、その政府
(government)が、完全で究極の権利を人々に対して持っている国です。
P:あなたの定義によると、混合経済と独裁制をわける線はどこになりま
すか?
Rand:独裁制には、4つの性質があります。1党支配、政治的な葛藤もな
く権力が執行されること、個人財産の押収、または国有化、それと検閲制度
です。特に、この最後の項目=検閲は、人々が自由に話したり書いたりでき
る限りは、検閲はないのであって、人々には社会を改良(reform)し、より
ましな道へ導いていくチャンスが残されています。検閲制度が科せられた際
は、人々が知的なストライキを打つ時です。つまり私が言いたいことは、そ
のような社会システムにはいかなることがあろうと協力してはならないとい
うことです。
P:このようなストライキが無い場合、あなたが望ましいとみなすような社
会的な変化をもたらすにはなにをなすべきと考えますか?
Rand:社会のトレンドを決めるのは観念(idea)です。社会システムを作る
のも破壊するのも観念なのです。ですから、正しい観念、正しい哲学、が唱道
され広まる必要があります。現代の世界の大失敗、-資本主義の破壊を含み
ますが、これは、利他主義的な集産主義哲学によって、引き起こされたもの
なのです。人々が拒否しなければならないものは、この利他主義(altruism)
なのです。
P:では、あなたは利他主義をどのように定義しますか?
Rand:それは、人間には自分自身のために存在する権利はないとする倫理的
なシステム(moral system)です。それは、他者への奉仕が自分の存在を唯
一正当化するというものです。また倫理的な自己犠牲(moral sacrifice)が、
もっとも高い倫理的な義務であり価値であり美徳だとするものです。これが、
集産主義や全ての独裁制の倫理的な基礎となるものです。自由(freedom)と
資本主義を追求するためには、人は神秘主義的であってはならず、利他主義的
であってはならず、倫理における理性的な規約(rational code of ethics)を
持つ必要があります。この倫理(morality)には、人間は犠牲的な動物ではな
く、人間は自分自身のために生きる権利を持っているということと、自己の他
者への犠牲も他者の自己への犠牲もしないという意味があります。言い換え
7
れば、今日の社会において、決定的に必要とされているものは、Objectivism
の倫理(ethics)なのです。
P: では、あなたが仰っていることは、これらの変化をもたらすためには、
基本的には教育的な方法、または、宣伝活動が必要だということですね。
Rand:はい。もちろんそのとおりです。
P:あなたの反対者が、あなたのObjectivism の倫理的、政治的な原理があ
なたをアメリカの思想のメインストリームから排除するだろうということを
どう思いますか?
Rand:私は、そのような思想のメインストリームというものを知りません
し、認めません。そのようなものは、独裁制においてふさわしい言葉です。
集産主義社会においては、思想はコントロールされ、スローガンというメイ
ンストリームがありますが、それは思想といえるものではありません。アメ
リカにはそのようなものは存在しませんし、今まで一度たりともあったこと
がありません。私はイノベーターなのです。これは他と区別するための言葉
であり、名誉ある言葉であって、隠し立てしたり弁解したりするようなもの
ではありません。なにか新しいもの、または価値のあるアイデアを提供でき
る人はだれでも、知的な世界(intellectual status quo)の外に立つことがで
きるのです。これ(intellectual status quo) は流れ(streem)ではありません
し、ましてメインストリームというものではありません。それは淀んだ湿地
帯です。人類を前進させるのがイノベーターの役割です。 
P:あなたは、哲学としてのObjectivism は、次第に世界中に広まっていく
とお考えですか?
Rand:そのような質問にはだれも答えることができません。人間は自由な
意志をもっています。人々が理性的であろうことを選択するという保証はど
こにもありません。どのような時代でもどのような世代でもです。また、哲
学にとって世界を席巻する(sweep the world)ということは重要なことでは
ありません。もしあなたがその質問を少し違った表現で尋ねるとしたら、つ
まり「あなたは、Objectivism は未来の哲学となるか?」と質問するのであれ
ば、私は、そうだと答えましょう。しかしこの保証には前提があります。つ
まり、人々が理性に立ち還るのであれば、また理性が独裁制によって、破壊
されていなければ、またもう一つの暗黒時代に沈み込んでいなければ、また
充分な考える時間があるほどに自由でありつづけたならばという前提があり
ます。そうであればObjectivism は彼らが受け入れることのできる哲学とな
るでしょう。
P:なぜでしょうか?
Rand:人々が自由であった、どのような歴史的な時点でも、常にもっとも理
性的な哲学が勝利を収めてきたのです。私が、Objectivism が勝利するだろ
うと、いうのはこのような見地からです。しかし、このことになにも保証は
ありません。それに関して予定説的なことを言う必要はありません。
8
P:あなたは、あなたの捉える今日の社会に対して、するどく批判的です。
またあなたの著書は、単に社会の形を変えるというだけでない、人々の仕事、
考えること、愛することに対するラジカルな提言が含まれています。あなた
は、人間の未来にたいして楽観的なのでしょうか?
Rand:はい。私は楽観的です。集産主義は、知的な権力として、また倫理的
な理想としては既に死んでいます。しかし、自由と個人主義、またその政治
的な表現形である、資本主義(Capitalism)というものはまだ見出されては
いません。私は、人々はそれを発見する時がくるだろうと考えます。死に絶
えつつある集産主義の哲学が今日もたらしているのは、堕落、無気力、絶望
のカルト以外のなにものでもありません。近代の芸術や文学をみると、そこ
にあるのは救いようの無い人間という姿と、失敗と不満、破壊に運命付けら
れた魂の無い生き物です。これは集産主義の心理学的な告白なのかもしれま
せん。しかしそれは人間の本当の姿ではありません。もしそうであるならば、
人間は洞穴からでてきはしなかったでしょう。しかし人間はそこから出てき
たのです。自分の周りを見れば、そして歴史を紐解いてみれば、人類のmind
の達成を見ることができます。人類の偉大なもの(greatness)への無尽蔵の
可能性と、それを可能にする能力に気づくはずです。人間は本来、救いよう
の無い怪物ではないことがわかります。しかし、人がその能力と精神を捨て
去ったとき怪物になるのです。もし、あなたがこの偉大なもの(greatness)
とはなにかと聞くとすれば、私はこう答えましょう。それは、John Galt の
3つの根源的な価値、reason,purpose,self-esteem によって生きるという力量
(capacity)であると。



共通テーマ:日記・雑感

The only path to tomorrow

The only path to tomorrow

Readers Digestに1944年に発表されたアインランドのエッセイ

人類そして、文明に対する最大の脅威は、全体主義哲学の広がりである。
全体主義哲学の発展を最も助ける行為は、その支持者の献身によるものではなく全体主義の敵がなんであるかを混同することにある。

全体主義と戦うためには、我々は敵を理解しなければならない。
全体主義は、集産主義である。
集産主義は、グループに対する個人の服従を意味する
そのグループとは、民族、階級、国家を問わない。
集産主義は、人間がいわゆる「公益」のために集団行動と集団的思考に鎖でつながれなければならないと考える。

歴史を通して、圧制者は「公益」を代表すると主張することなく決して権力を得ることはなかった。
ナポレオンは、フランスの「公益に奉仕した」。
ヒトラーは、ドイツの「公益に奉仕している」。

自分の行動に、利己的な動機があるとは、考えようとしないのには恐怖感があり、その感覚は利他主義者が明白な意図をもって引き起こしているものである。利他主義者は、公益によって自分達を正当化する。
圧制者は、武器のみによっては、その権力を長く維持することは出来なかった。
人間は、主に精神的な武器によって隷属させられてきたのである。
そして、このうち最大のものは、個人を超越する国の主権が公益を構成するとする集産主義的な教義である。

もし人間が神聖な信仰として、人間には不可譲の権利があり、その権利はいかなる理由があろうとも、また、いかなる者からも奪われることはないという信念を持っていれば、独裁者が現れることはない。
それが、どんな人間によっても、悪人によっても、いわゆる後援者によっても奪われないという確信があれば。

これは集産主義に対する個人主義の基本的信条である。
個人主義では、人間とは、お互いを平等に対処する社会の中で彼自身の幸せを追求する不可譲の権利をもつ独立した実体であると考える。

アメリカのシステムは、個人主義に基づいている。
もし個人主義が生き残るべきものであるならば、我々は個人主義の原則を理解しなければならないし、また我々が向き合うあらゆる問題において、いかなる公共の問題に対しても、その基準となるものとして考えなければならない。
我々には、ポジティブな信条、はっきりした一貫した信念がなければならない。

個々人の権利の廃止が公益に資するという考えを、完全に邪悪な考えとして拒絶しなければならない。
社会全体の幸福が、社会全体の苦しみや、自己犠牲から生まれることはありえない。
唯一の幸福な社会とは、幸福な個人たちからなる社会の一つである。
人は、腐った木からなる健康的な森を持つことはできない。
社会の力は、個人に備わる基本的また奪うことのできない権利によって、常に制限されなければならない。
自由の権利とは、個人の行動への権利、個人の選択への権利、個人の主体性そして、個人の財産に対する人間の権利を意味する。
私有財産に対する権利なしでは、独立した行動は可能でない。

幸福を追求する権利とは、人が自分のために生きるという権利を意味する。
自分自身のプライベートな個人的な幸福を選択し、その達成に向けて働くということだ。

各々の個人は、唯一人のこの選択をして、また最終的に判断する者である。
人間の幸せは、他の個人によっても、自分以外の団体によっても規定されることはありえない。
これらの権利は、全ての人間に備わる無条件かつ一身上の、私的にして個人的な所有物であり、ただこの世に生まれたという事実のみにより、他のいかなる認可も必要とせずに、人間に与えられるものだ。

そして、このような考えこそが我々の国の創設者の概念だったのだ。建国の父達は個人の権利を、あらゆる集団的要求よりも上位のものとして位置づけた。
社会には、人間関係におけるお互いの交わりの交通巡査のような役割があるだけである。

歴史の始まりから、2種類の人間が敵対者として向かい合ってきた。まったく正反対のタイプの人間がいた。それはActiveな人間と、Passiveな人間だ。

Active Manは、製作者、クリエーター、創設者、個人主義者である。
彼に基本的に必要となるものは、考え、働くための独立性である。

彼は、人間に対する支配力を必要ともしなければ、求めもしない。また、彼をどんな形であろうと強制の下で働かせることはできない。
あらゆる種類のよい仕事は、レンガを積むことから、シンフォニーを書くことにいたるまで、Active Manによってなされる。
人間の能力の程度は異なる。しかし、基本的原則は同じである。人間の独立と主体性の程度が、人間としての彼の価値、労働者としての才能を決定する。

Passive Manは社会のあらゆる階層の中におり、大邸宅の中でも、またスラム街でも見つかる。そして、彼を特徴付けるものは、彼が独立を恐れることである。
彼は、他人に大事にされることを期待する寄生体であり、人に従い、服従し、管理されるよう指示命令が自分に下されることを願う。
彼は集産主義を歓迎する。なぜなら集産主義は、彼が自分で考え、自分の主体性でもって行動するあらゆる機会をなくしてくれるからである。

社会がPassive Manの必要に基いて作られるとき、それはActiveManを破壊する。
しかし、ActiveManが破壊されてしまえば、PassiveManはもはや誰にも面倒を見てもらうことができない。
そして社会がActive Manの必要に基づいて作られるとき、彼はPassiveManを、彼の力で導くことができ、また彼が立ち上がることで、passiveManとさらに社会全体を立ち上がらせることができるのだ。

これは、つねに人間の進歩のパターンであった。
一部の人道主義者は、役立たずや、Passive Manに対する哀れみから、集産主義体制を要求する。
彼らのために、Active Manを抑制したいと思う。
しかし、Active Manは、人に抑圧されるともはや機能できない。
そして、一旦彼が滅ぼされれば、Passive Manの破滅が必然的にあとに続く。
哀れみが人道主義者の第一要件であるとするなら、その哀れみの名において、PassiveManを助けるためにも、Active Manが自由にし活躍できるようにしておかなければならない。

長い目で見ればPassiveManを助けるには他のいかなる方法もない。
人類の歴史は、Active ManとPassiveManの争いの歴史である。つまり、個人と集団との争いである。

最も幸せな人間と最も高い生活水準を作り出した国、そして、最も大きな文化的な前進があった国は、政府の集団的権力が制限された所であったし、個人に独立した行動の自由を与えられたところであった。

例を挙げよう。
ローマの勃興は、当時の集産主義的な野蛮性に対して、市民の権利に基づく法律概念があったことによる。

イングランドの勃興においては、集産主義的な、全体主義スペインに対し、マグナ・カルタに基づく行政制度を持っていた。

歴史上、比類のないほどの合衆国の勃興は、その憲法により、集団に対してではなく、市民の一人一人に対して与えられた、個人の自由と独立性によるものである。

人が、文明の勃興と没落の原因をまだじっくり考えてる間に、歴史のあらゆるページでは、進歩には一つの源泉しかないことを我々に叫んでいたのだ。

それは、独立した人間による、独立した行動だと。

集産主義は、古代の野蛮性の原則である。
野蛮人の存在の全ては、種族のリーダーによって支配される。
そして文明とは、人間を人間から自由にするプロセスなのだ。

我々は、現在一つの選択に直面している。
前進するのか、後退するかの選択に。

集産主義は、「明日の新秩序」でない。
それは、「昨日のまさに暗黒の秩序」だ。
しかし、「明日の新秩序」は、存在するのだ。
それは、個人的人間(Individual Man)のものである。
彼こそが、人間性(Humanity)が今までに認めてきた、明日の唯一の創造者なのだ。



共通テーマ:日記・雑感

United Auto workers

Bail Out the Big Three Auto Producers? Not a Good Idea-Becker


The big three American auto producers General Motors, Ford, and Chrysler, are in terrible financial shape. They have asked the government for a bailout, and the Democratic leadership in Congress is eager to give them one. The United Auto Workers union was a strong supporter of President-elect Obama and of Democratic candidates.

These companies have lost tens of billions of dollars during the past few years, and they will shortly run out of cash. GM's shares have lost almost all their value, and Ford has not done much better. Cerberus Capital, a private equity company, owns Chrysler, and it has lost most of what it invested in the company. For this reason Cerberus is trying get out of the automobile manufacturing business. All three companies were heavily into producing trucks and SUV's when the sharp run up in gas prices induced consumers to shift away from these gas-guzzlers and toward smaller and more fuel-efficient cars. Moreover, what money GM had been making came mainly not from car production but from its automobile credit business, (GMAC). This company would borrow from banks to lend to consumers who needed help in financing their GM car purchases. The financial crisis has dried up the money available to auto financing companies, and hence eliminated the major source of their profits.

If GM is not bailed out, the company claims it will be forced into bankruptcy within a few months, and Ford's situation is only slightly better. GM is blitzing Congress, President Bush, and President -elect Obama with pleas for a bailout, followed by a warning that bankruptcy will also hurt auto suppliers throughout the nation that depend on GM's business. GM is also claiming that bankruptcy will put major financial pressure on the Pension Benefit Guaranty Corp, the federal agency that insures benefits to retirees in the auto industry as well as to million of other workers.

Nevertheless, I believe bankruptcy is better than a bailout for American consumers and taxpayers. The main problem with American auto companies is that during the good times of the 1970s, 1980s and 1990s, they made overly generous settlements with the United Auto workers (UAW) on wages, pensions, and health benefits. Only a couple of years ago, GM was paying $5 billion per year in health benefits to retirees and current employees because their plans had wide health coverage with minimal co-payments and deductibility on health claims by present and retired employees. In those days, the UAW was one of the most powerful unions in the US, and it bargained aggressively with the auto manufacturers, carrying out strikes when its demands were not met. When the American auto industry began to face tough competition from Japanese and German carmakers, they were saddled with excessive pay to their workers, and vastly excessive pensions and health benefits to their current and retired workers.

It is not that cars cannot be produced profitably with American workers: the American plants of Toyota and other Japanese companies, and of German auto manufacturers, have been profitable for many years. The foreign companies have achieved this mainly by setting up their factories in Southern and border states where they could avoid the UAW, and thereby introduce efficient methods of production. Their workers have been paid well but not excessively, and these companies have kept their pension and health obligations under control while still maintaining good morale among their employees. In recent years GM and the other American manufacturers have chipped away at their generous fringe benefits, but their health and retirement benefits still considerably exceed those received by American auto workers employed by foreign companies. As a result of lower costs, better management, and less hindrance from work rules imposed by the UAW, about 1/3 of all cars produced in the US now come from foreign owned plants.

Bankruptcy would help GM and Ford become more competitive by abrogating significant parts of their labor contracts with the UAW. One of the greatest needs would be sizable reduction in their health costs through sharp increases in the deductibility and co-payments, and a reduced coverage of medical procedures. Bankruptcy should also help bring the wage rates of GM and Ford in line with those of foreign producers in the US. Some of their pension liabilities may be shifted onto the Pension Benefit Guarantee Corp, but even that would be preferable to an overall bailout.

A good analogy is what happened to United Airlines. By entering bankruptcy it was able to reduce its inflated cost structure by breaking contracts it had with the pilots union and other employee unions. It exited bankruptcy a slimmer and more efficient airline. Whether it is able to compete effectively in the long run is still not certain, but it is in much better shape to compete than before it entered bankruptcy.

Bankruptcy may also force out the current management of GM and Ford. I do not know for certain whether they have competent management- GM surely did not have top management for much of its recent history. I do believe, however, that when a coach of a team loses a few games, he might legitimately explain that by injuries, bad luck, or even bad officiating. These excuses become lame when he consistently loses many games, and the correct and common practice is then to fire the coach. The same considerations apply to top management. When a company consistently does badly while some of its competitors (like Toyota) are doing well, its time to fire the management team, and see if another team can do better.

Is GM "too big" to fail? I do not believe the company is too big to go into a reorganization-which is what bankruptcy would involve. Such reorganization would abrogate its untenable labor contracts, and give it a chance to survive in long run. A bailout, by contrast, would simply postpone the needed reforms in these labor contracts, the business model of GM, and its management.

GMなどBig3をbailoutすることで、論争があるが、ここでベッカーが説明しているように、bailoutをせず一旦bankrupt(破産)をさせ、再建をさせるしか方法はない。
#普通の人は、破産すると会社が消滅すると思っているかもしれないが、再建という手段があるのだ。

もともとBig3が急速に競争力を失ったのは、UAW(United Auto workers )の圧力が強すぎて、とてつもない福利厚生を元従業員にまで行っているからである。
これではコスト競争力で全くお話にならない状態だ。
一方、日本のトヨタやホンダはUAWの影響力を逃れるために、南部などUAWの影響の小さい地域に工場を建設している。

ここでビッグ3が破産→再建の道を選べば、このUAWのパワーを減殺することが可能になる。このUAWの力が法的に保護されている限り、いかなる救済案をとっても、競争力が回復することはあり得ない。
破綻は、それを一旦破棄させるための絶好のチャンスとなるのだ。



共通テーマ:日記・雑感

「ロウソク職人の請願」

http://www.panarchy.org/bastiat/petition.eng.1845.htmlより訳出
請願書
 ロウソク、小ロウソク、ランタン、燭台、街灯、ロウソク消し、消火器に関わる製造業
者、並びに、獣脂、植物油、樹脂、アルコール、そして照明に関連する一般的にすべての
生産者より。
 立法議会の名誉ある代議士各位へ。
 方々
 皆様は正しい方向に向かっておられます。それは抽象的な理論を拒否し、余剰や低価格
ということについて関心を持っておられないこと、そして主に生産者の命運について御心
配になっているということです。生産者を外国からの競争から解放しようとなさっている
こと、つまり、国内市場を国内産業にとっておくということです。
 私たちは、皆様に対して、皆様の――何とお呼びすれば良いのでしょうか?皆様の理論?
いいえ、理論ほど詐欺的なものはありません。皆様の原則?皆様の体系?皆様の原理?し
かし皆様は原則などお嫌いですし、体系性には恐怖をお持ちです。そして原理につきまし
ては、政治経済にはそんなものの存在を否定されています。ですから皆様の実践とお呼び
しましょう――理論と原理のない実践を適用していただく素晴らしい機会をお持ちいたし
ました。
 私たちは、外国の競合者からの破滅的な競争に苦しんでおります。競合者は明らかに我々
の光の生産よりもはるかに優れた状況で働いており、信じられない低価格で国内市場に洪
水のようにやってくるほどです。現在のところ、その様子は、私たちの売り上げはなくな
り、すべての消費者は競合者に流れ、数え切れないほどの影響を持つフランス産業の一部
門が、完全に停滞してしまうほどに減産しているのです。この競合者は、まさに太陽その
ものなのですが、私たちに対してまったく無慈悲な戦いを挑んできており、その有様は、
不誠実な白国1によってそそのかされている(今日においては、すばらしい外交政策で
す!)と私たちは憶測しているほどです。特にこのことは、太陽があの傲慢な島に対して
は、私たちには示すことのない敬意を払っていることに明らかです。
 私たちは、すべての窓、屋根窓、天窓、内外にある雨戸、カーテン、覆い、円形ガラス、
ガラス窓、ブラインド、つまり、太陽光が屋内へと入りがちである、すべての開口部、穴
部、隙間や割れ目、を閉めることを要求する立法を、皆様に通していただく道徳的公正さ
を求めております。それらが、我が国に与えられたと私たちが誇りを持って言える公正な
産業の損失につながるのであり、我が国は、これまでの恩を裏切ることなしには、私たち
業者をこれほど不公正な今日の競争状態に捨て置くことはできないのであります。
 名誉ある代議士各位、私たちの要求を真剣に取り上げていただく公正さをお持ちいただ
き、そして少なくとも、私たちがこの議論を補強するために提出する理由をお聞きになら
ないままに拒否されることがありませぬようお願いいたします。
1訳(kura)注:イギリスの雅称、その白い白亜紀地層からなる沿岸部に由来する。執筆の1845年当時、
フランスとイギリスの関係はひじょうに険悪であった。太陽はイギリスでは霧で隠れることが多いが、
フランスでは燦々と降り注ぐことを、ここでは「太陽のイギリスへの敬意」と表現している。
 最初に、もし太陽光が入ってくることを出来るだけ遮断して、人工の需要を作り出すな
ら、一体フランスのどの産業が、最終的な拡大の利益を受けないというのでしょうか?
 もしフランスがより多くの獣脂を消費するなら、牛や羊はもっと多くなり、その結果、
開けた草地、肉、羊毛、皮革、そしてすべての農業的な富の基盤となる糞尿の増加につな
がるでしょう。
 もしフランスがより多くの植物油を消費するなら、ケシ、オリーブ、アブラナの栽培の
拡大につながります。これらの豊饒な、しかし土壌の養分を消耗してしまう植物は、牛の
放牧によってより肥沃になった土地を有益に利用することを、まさに適切な時に可能にす
るのです。
 フランスの原野は樹脂性の樹木で覆われるでしょう。無数のハチの群れが山々から、現
在は無駄になっている芳しい財宝を、ちょうど花から出るもののように、集めてくるでしょ
う。よって、大きく飛躍することのない農業分野は一つとしてないのです。
 同じことが運送についても当てはまります。何千もの船が捕鯨にいそしむことになり、
間もなくのうちに、フランスの名誉の維持ならびに、請願書の署名者とロウソク業者、そ
の他の者の愛国的な熱望を可能にするだけの海運力を獲得するでしょう。
 しかし、パリの製造業者の特産品については何が言えるのでしょうか?これから皆様は、
金装飾、青銅、そして水晶細工が、燭台やランプ、シャンデリア、装飾枝付きの燭台など
にほどこされ、広大な商業広場にきらめくのを見ることでしょう。それらに比べれば、現
在あるものなど、まがい物という程度でしかありません。
 砂丘をのぼる困窮した樹脂の採集者、暗い穴の奥に行く貧乏な鉱夫といった、結局は、
高い賃金を得られず、より大きな繁栄を享受することのできないような人もいなくなりま
す。
 方々、ほんの少しばかり考えただけで、アンザン株式会社の裕福な株主から最も小さな
マッチ売りに至るまで、私たちの請願がかなうことによって状況が改善されないものなど
フランス人にはおそらくいないことを確信されるでしょう。
 方々、私たちは反論があるだろうことを知っています。しかし、それらのすべては自由
貿易の信奉者によるカビ臭い古本に書かれていることです。私たちは、私たちに反対する
意見が、皆様と皆様のすべての政策を導く原理に即座に反するものではない、という考え
に挑戦いたします。
 皆様は、この保護政策によって私たちは得をするものの、消費者がその負担を課される
ということから、フランスは得るところがないとおっしゃるのでしょうか?
 私たちの答えは、以下のように、すでに用意されています。
 皆様は、もはや消費者の利益を引き合いに出す権利など持っていないのです。皆様は、
消費者の利益が生産者の利益と反する場合には、常に消費者を犠牲にしてきました。それ
は産業を振興し、雇用を増大させるためでした。同じ理由から、皆様は今回もまたそうし
なければならないのです。
 実際、皆様自身がこのような反対を予想されていたでしょう。鉄、石炭、ゴマ、小麦、
織物の市場への自由な参入が消費者の利益になるといわれた時、皆様は「そうだ、だが生
産者はその締め出しから利益を得る」と答えられました。すばらしい!当然に、もし消費
者が太陽光が入ることから利益を得るのであれば、生産者はその遮断から利益を得るので
す。
 皆様はなおもおっしゃるかもしれません。「しかし、生産者と消費者は同じ一人の人間
なのだ。もし製造業者が保護によって利益を得るのであれば、彼らは農民をも繁栄させる
だろう。その反対に、もし農業が発展していれば、それは製造された商品の市場をつくる
だろう。」すばらしい!もし皆様が私たちに日中の光生産の独占権を与えていただけるな
ら、まず最初に私たちは、我々の産業に供給するために大量の獣脂、松脂、植物油、樹脂、
蜜ろう、アルコール、銀、鉄、銅、そして水晶を購入いたします。そしてさらには、私た
ちとその無数の商品供給者が豊かになり、大量に消費して、国内産業のすべての領域に繁
栄をもたらすのです。
 皆様は、太陽光は自然からの無料の贈り物であり、それを利用する手段を促進するため
の言い訳として、それを拒否することは富を拒否することだとおっしゃるのでしょうか?
 しかし、もし皆様がこのようにお考えであるのなら、皆様自身の政策に致命的な一撃を
与えることになってしまいます。御記憶ですか、これまで皆様は、外国の商品を、それら
が無料の贈り物である程度に応じて、あるいはそうであるために、排除してきました。皆
様が他の独占業者からの要請に応じるための理由づけは、皆様の確立した政策に完全に適
合している私たちの要請を許容するための半分でしかないのです。そして私たちの要求を、
まさに他の者たちの要求よりもより理由付けられているという理由から拒否することは、
+ x + = - という等式を受け入れることと同値なのです。つまり不条理に不条理を重ねる
ということです。
 労働と自然は、国や気候に応じて異なった割合で、商品生産において協働します。自然
が貢献する部分は常に無料です。そして人間の労働による貢献部分が価値を持つのであり、
対価が支払われるべきなのです。
 もしリスボンからのオレンジがパリからのオレンジの半額で売られるのだとしたら、そ
れは太陽からの自然の熱、それはもちろん無料です、が、パリにおいては人工の熱によっ
てなされることをリスボンでしてくれているからなのです。そして、人工の熱は市場にお
ける代償を支払わざるを得ません。
 よって、ポルトガルからオレンジがやってくる場合、それは半分無料で提供されている
といえるのです。あるいはまた別の言い方をすれば、パリのオレンジに比べると、半額で
提供されているともいえるでしょう。
 さて、まさしくそれらの準無料(この言葉をお許しください)ということに基づいて、
皆様はそれらの禁輸を維持してこられました。皆様はおっしゃいます。「フランスではす
べての仕事をしなければならないのに、外国ではその半分しかする必要がなく、残りは太
陽がやってくれるのに、どうやってフランスの労働者は外国の労働者との競争に耐えられ
るというのだろうか?」しかし、もし生産物が半分無料であるという事実によって、皆様
が競争から排除するというのであれば、完全に無料であるという事実によって、どうして
皆様が競争に参入することをお許しになることができましょうか?つじつまが合わないこ
とをお認めになるか、あるいは、半分無料のものを我が国の国内産業に有害であるとして
排除した以上、完全に無料であるものもまったく同じ理由で、2倍の情熱を持って排除し
なければなりません。
 別の例を挙げてみましょう。石炭、鉄、小麦、織物といった産物が外国から来る場合、
あるいはそれらを私たちが自分で生産するよりも少ない労働量によって獲得する場合、そ
の差は私たちに与えられた無料の贈り物です。この贈り物の大きさは、その差に比例しま
す。それは、外国人が国内価格の4分の4、半分、4分の1を要求する場合、その生産物
の価値の4分の1、半分、4分の3なのです。このことは、ちょうど太陽が光を与えてく
れる場合のように、送り手が何らの対価も求めない場合に、まったく完全に当てはまりま
す。私たちがここで正式に提示する疑問とは、皆様がフランスに望むものが無料の消費か
らの便益であるのか、それとも面倒くさい生産というものにおける想像上の利益なのかと
いうことなのです。論理的になることなく、どちらかをお選びください。なぜなら、皆様
がなさっているように、外国の石炭、鉄、小麦や織物を、その価格がゼロに近づくに比例
して禁止する限り、一日中ただである太陽光をお許しになるというのは、なんとつじつま
が合わないことでしょうか?

共通テーマ:日記・雑感

Bastiatの「見えるものと見えないもの」

www.mind-trek.com/treatise/fb-twins.htm から訳出
見えるものと見えないもの
フレデリック・ バスティア 1850
 経済の領域では、行為や習慣、制度や法律は単一の結果を生み出すだけでなく、結果の
連続を生み出す。これらの結果のうち、最初のもののみが直截的なものであり、それは原
因と同時に明らかとなる―――それは見えるのだ。その他のものは連続のうちに隠れてい
る―――それらは見えない。もしそれらが我々にとって予見できるのであれば結構である。
良い経済学者と悪い経済学者の間においては、このことがまったくの違いとなる―――片
や見える結果について考慮し、片や見える結果についてだけでなく、予見する必要のある
結果についても考慮するのである。さて、この違いは巨大なものである。なぜなら、ほと
んど常に、直後の結果は好ましいものである場合、その究極的な結果は致命的であり、そ
の反対もまた真なるからである。よって、悪い経済学者は、その後に大いなる悪を呼ぶ小
さな現在の善を追求するということになるからである。その反面、本当の経済学者は来る
べき大いなる善を、現在の小さな悪と引き換えに追求するのだ。
 事実、これは健康の科学、芸術、そして道徳についても同じである。最初の習慣の結果
が甘いほど、その結果は苦いものであるということが頻繁にある。例えば、放蕩、怠惰、
浪費をとりあげてみよう。その見える効果に酔いしれている人が、未だに見えないものに
ついて認識する必要がある時、その人の性質によってだけでなく、計算によってさえも致
命的な習慣に屈してしまう。
 このことは人類の致命的に嘆かわしい状況を説明する。無知はそのゆりかごを包囲して
おり、その行動は最初の効果、最初の段階で見えるようなものだけによって決定される。
その他の効果を考慮することを学ぶのは、長期においてのみなのである。人はこの教訓を
二つのひじょうに異なった主人から学ばねばならない。それは経験と先見である。経験は
効果的に教えてくれるが、そのやり方は荒っぽい。我々は、無理やりに感じさせることに
よって、ある行動のすべての結果を知ることになる。もし火に入れば、火がこがすもので
あることを知らないことはできないのだ。この荒っぽい教師を、もしできることなら、私
はもっと心やさしいもので代用したい。つまり、先見だ。この目的をもって、これからあ
る種の経済現象の結果を、見える結果と見えない結果を対置することで検討してみよう。
1、壊れた窓
 気のいい店主であるジャック・ボノムが、彼の息子が不注意にもガラス窓を割ってしまっ
た時に怒ったのを見たことがあるだろうか?そういう場合に居合せたなら、そこにいるす
べての目撃者が、それが30人にも上ろうが、明らかに常識として、この不幸な店主に決
まり切った慰めを口にするのを、確実に見ることになるだろう。それは「みんなにとって
悪をもたらす風が、本当に悪い風というものなのだ。誰しもが生きる必要があるが、もし
ガラスが決して割れなかったら、ガラス屋はどうなるのだ?」というものだ。
 さて、このような形の慰めは、この単純な場面に十分に表れているような、全体的な理
論を含んでいる。不幸にもそれは、我々の経済制度の大部分を支配しているものと完全に
同じであるようなものである。
 ガラスを直すのに6フランが必要だとして、その事故はガラス業者に6フランの取引を
もたらしたと言う――6フランの取引を促進したのだと――。私はそれは認めよう。私は
それに反する言葉を持ってはいない。その理由づけは正しいのだ。ガラス屋が来て、その
仕事をして、6フランを受け取り、手を拭いて、不注意だった息子に内心では感謝する。
これらのすべては見えるものだ。
 しかしその反対に、よくあることだが、もしあなたが窓ガラスを割るのは、お金が回る
という点でいいことであって、その結果が一般的に言って産業の振興になると結論するの
であれば、私はそれに対して叫ばねばならない、「ちょっと待て!あなたの理論は見える
ものに限定されている。それは全く見えないものを考慮していない。」
 店主ジャック・ボノムがあることに6フランを使い、その他のことには使えないという
ことは見えないことだ。彼が窓を取り換えなくても済んだのなら、たぶん彼は古びた靴を
買い替えたか、あるいは蔵書棚にもう一冊を加えたことだろう。つまり、彼は6フランを、
事故によって実現しなかった、異なったものに利用できたのである。
 この状況によって影響を受けた、一般的な産業について吟味してみよう。窓が割れ、ガ
ラス屋の取り引きは6フラン促進される。これは見えるものだ。もし窓が割れなかったな
ら、靴屋の取り引き(または別のものの取り引き)が6フラン促進されただろう。これは
見えないものである。
 そしてもしプラスの効果を持つ見えるものと同じように、マイナスの効果を持つ見えな
いものを考慮に入れるなら、窓が壊れようが壊れまいが、一般的にどの産業も、また国民
労働の総合計も影響を受けないことが理解されるだろう。
 そしてジャック・ボモム本人について考えてみよう。もし窓が割れたという前者の場合、
彼は6フランを支出するが、窓から得られる恩恵は以前よりも多くも少なくもない。
 窓が割れなかったという第2の場合、彼は6フランを靴に支出して、窓と靴からの恩恵
を同時に享受することになっただろう。
 我々が「社会は、無意味に破壊されたものの価値を失う」という予期せぬ結論に至ると
き、我々は、保護主義者の髪を完全に逆立てるような格言に同意せねばならない。壊す、
ダメにする、ムダにする、というのは国民労働を促進することはない、あるいは、もっと
簡単には、「破壊は得にならない」。
 あなたはなんと言うのか、ミスター産業さん。パリを焼き払った場合に再築が必要とな
る家の数から、非常に正確にいくらの取り引き上の利益があるかを計算した、良きM・F・
シャマンの弟子たちよ、あなたたちはなんと言うのか。
 これらの天才的な計算を混乱させたことは申し訳ない。なにせその精神は我々の立法に
も及んでいるのだから。しかし、私は彼に、見えるものと同時に見えないものをも考慮に
入れて、もう一度計算することを乞う。読者は、2人の人がいるだけでなく、ここで提出
された小さな状況には3人が関係していることに注意なければならない。その一人、ジャ
キク・ボノムは消費者を代表しており、窓の破壊によって、一つの恩恵にしか与れなかっ
た。もう一人のガラス屋として登場したものは生産者であり、事故によってその取り引き
が促進された。3人目は靴屋(あるいは他の業者)であるが、その労働は同じ原因によっ
て同程度に害された。この3人目こそが、常に陰に隠れてしまうのであり、見えないもの
を体現しており、この問題に必要な要素なのだ。彼こそが、破壊行為に便益を見るという
我々の思考が、いかにバカげたものかを示しているのである。彼こそが、結局は部分的な
破壊でしかない規制というものを便益だとすることが、同じほどにいかにバカげているか
を教えてくれるのだ。よって、有利な証拠とあげられた議論の根本に遡るなら、見つかる
ものすべてが次の通俗的な物言いの言い換えでしかない――もし誰一人窓を壊さなかった
ら、ガラス屋はどうなってしまうのか?
2.軍隊の解散
 一つの民族に当てはまることは、一人の人間に当てはまることと同じである。ある民族
が満足を得ようというのなら、その費用に値るするかを考慮しなければならない。国にとっ
て、安全保障というのは最重要事項である。もし、それを確かにするために10万人の軍
隊が必要であるというのなら、私はそれに対して何の反対もしない。それは、それだけの
犠牲の上に成り立つ安楽なのである。私の主張の範囲については誤解しないでいただきた
い。ある議員が1億人の納税者の負担軽減のために、10万人の軍隊を換算しようと提案し
た。
 仮に私たちの答えが次のようなものにとどまるのなら、――10万人の軍隊と、数100億
の金は国家安全のために不可欠である。確かにそれは犠牲を伴うが、その犠牲なしにはフ
ランス国家はバラバラに引き裂かれてしまうか、他国の侵略を受けるだろう――私はこの
議論、それが事実正しいかもしれないし、正しくないかもしれないが、それが経済に悪い
影響を与えないことから、それには何ら反対しない。間違いが起こるのは、犠牲そのもの
が誰からを利するものであるから利点なのであると主張されるときだ。
 さて、先ほどの提案者が席に戻って途端、別の演説者が立ち上がって、次のように発言
しなかったとするなら、私は非常に勘違いしているのだろう。「10万の軍を解散するだっ
て!あなたは自分が何を言っているのか、分かっていのか?彼らはどうなるのか?どこに
行って生計を立てるのか?どこでも職などは滅多にないことを知っているのか?すべての
牧場は人手あまりなのだ?あなたは、彼らを放り出して競争を過当にし、賃金を引き下げ
ようとするのか?今現在、生きることそのものが難しい中で、10万人のために国家が生
活をさせてやら中ればならないというのは、なかなかに結構なことだろう。さらに、考え
て見たまえ、軍はワイン、衣服、武器、――それらは駐屯都市の産業活動を促進するだろ
う――を消費する。そして、つまりそれは神の使わした大量の食糧調達者なのだ。いった
いなぜ、この巨大な産業的運動を捨て去るという単なるアイデアに震えなければならない
というのか。」
 この論説は、明らかに、サービスの必要性と経済的な考慮から、10万人の軍隊の維持
に賛成することで結語する。私が論駁するのは、これらの経済的考慮のみである。
 1億ものお金を納税者のコストとする10万人の軍隊は、生活して1億フランで買えるだ
けのものを調達者に持たらす。これは見えるものだ。
 しかし、納税者の財布からとり上げられた1億フランは、その限度において納税者の元
での購入はできなくなる。これが見えないものだ。ここで、計算してもらいたい。合計し
て、人々にとってどんな利益があるというのだろうか?
 どこに損失があるのかを指摘しよう。議論を簡単にするために、10万人と1億フランに
ついて語る代わりに、1人の人間と1000フランにしよう。
 ここで、我々がA村にいたとしよう。リクルート隊員が巡回して、1人の男を連れて行っ
た。徴税官が同行し、1000フランを徴収した。男とお金はメス市に行き、お金は男を1年
食わせるだけに使われた。メス市についてだけ考えるなら、あなたの考えは正しい。その
方法は非常に有益である。しかしA村について考えるなら、異なった考えを持つだろう。
なぜなら、盲目でもない限り、村は1000フランの消費によって広がったはずの経済活動
を失っていると同時に、1人の労働者とその労働報酬である1000フランを失っていること
が見えるからである。
 一見して、これには補償があるように感じるかもしれない。村でおこったはずのことが、
メス市で起こっている、それだけだというのだ。しかし、損失は次のように計られなけれ
ばならない――村では男は穴を掘り、働く。メス市では、彼は右を見たり、左を見たりす
る。彼は兵士なのだ。金銭とその循環は2つのケースで同じである。しかし、一方では
300日間の生産労働が存在し、他方では、300日間の非生産的な労働がある。もちろんこ
れは、軍隊のある部分は公共の安全には不可欠ではないと考えてはいるのだが。
 ここで、軍の解散が起こったとしよう。あなたは10万人の余剰労働者が生じ、競争が
刺激されて、賃金が低下するという。これは見えるものだ。
 しかし、見えないものは次のものだ。あなたは、10万の軍を解雇するということは、
100万フランを捨てるということではなくて、納税者に返すのだという点を見ていない。
10万人の労働者を市場に投げ出すということは、同時に、それらの労働者の支払いに必
要な1億フランもまた市場に投げ出すということだ。結果的に、人手の供給を増加させる
ということそのものが、重要もまた増加させるのであり、賃金の低下のおそれが幻想だと
いうことを見ていない。軍隊の解散以前にも、以後にも、国内には1億フランと、それに
応じた10万人の男がいることを見ていない。すべての違いは次のような点にある。解散
前には、国は10万人の兵士に1億フランを何の対価もなしに配っていた。解散後は、彼
らに同額を労働の対価として与える。つまり、あなたが見ないのは、納税者がその金を兵
士に無償で与えるか、商品と交換に労働者に与えるかという場合に、この貨幣流通の究極
の結果のすべてが、この2つのケースで同じだということであり、ただ2番目のケースで
は納税者は何かを得るのに対し、1番目のケースでは何も受取らないということなのだ。
その結果は、国としての完全な損失なのだ。
 私がここで戦っている謬論は、理論の試金石となる、論理の拡大テストに耐え得ない。
もし、すべての補償がなされ、利害関係者が満足した場合に軍隊を増やすのが利益になる
のなら、なぜ国中の男を入隊させないのだろうか?
3.税
 もしかして、あなたは次のような発言を聞いたことがあるだろうか。「税は最高の投資
なのだ。それによってどれだけの家庭が生活しているのかを見て、そして税が産業に与え
る影響を考慮するだけで良い。それは尽きることのない流れであり、生命そのものなの
だ。」
 この教説に反対するには、私が前述した否定法に言い及ばなければならない。政治経済
は、この議論をあまり好ましいものだとは感じない程度には発達しているので、こういっ
たことが言われるとき、繰り返しによって好ましくなる。よって、口頭での繰り返しが教
えるため、この考えは独自性を獲得し、納得されるのである。
 役人が勧める利点というのは、見えるものだ。その提供者に生じる利益もまた、見える
ものである。これがすべの目を見えなくするのだ。
 しかし、納税者が取り除けない不利益は、見えないものだ。そして、税が持たらす納税
者への被害もまた、自明なものだとは言え、見えないものである。
 役人がその利益のために余計な数フランを使うとき、それは納税者がその利益のために
数フラン少なく使うということを意味する。しかし、役人の出費は実行されるために見え
るものであるが、納税者のそれは、嗚呼、彼はそうすることを許されなかったために見え
ないものなのだ。
 おそらく、あなたは国家を干上がった土地にたとえ、税を肥料となる雨にたとえる。そ
うするのも良い。しかし、あなたはその雨の原因を自問しなければならない。もしや税そ
れ自体が大地から湿気を奪い、乾き切らせているのかを。
 またしてもあなたは、土が雨によって、そこからの蒸発と同じだけの貴重な水を受け取
ることができるのかを自問する必要があるのだ。
 一つ非常に確かなことがある。それは、ジャック・ボノムは徴税官に数百フランを計上
しても、見返りに何も得ないということだ。結局、役人がその数百フランを使って、ジャッ
ク・ボノムに返すというとき、それは同じ価格のコーンや労働の代わりにである。最終結
果は、ジャック・ボノムの5フランの損失である。
 確かに、多くの場合、多分、非常に多くの場合、役人はジャック・ボノムのために相応
なサービスを提供しているというのは真実だ。この場合、双方に損失はなく、単なる交換
があるだけである。よって、私の議論は、有益な役人についてはまったく当てはまらない。
私が言っているのは、もし役所を作りたいのなら、その有用性を証明せよということなの
だ。ジャック・ボノムに対する役所の価値が、彼へと提供されたサービスによって、その
費用と等しいことを示せ。しかし、こういった内在的な効用から離れて、役所がもたらす
役人やその家族、その取引業者にもたらす利益といった議論を持ち出してはならない。そ
して、役所が仕事を生み出すという主張はしてはならないのだ。
 ジャック・ボノムが本当に役に立つサービスの対価として百フランを政府の役人に支払
うとき、それは彼が百フランを靴を買うために靴屋に支払うのとまったく同じだ。
 しかし、ジャック・ボノムが政府の役人に百フランを支払って、迷惑以外の何ものも受
け取らなかった場合は、それは泥棒に与えたのと同じだ。政府の役人がその百フランを国
民労働の大いなる利益のために使うだろう、などと主張するのはナンセンスなのだ。泥棒
も同じことをするだろう。そして、もしも彼が路上で余計な寄生的官憲に、あるいは合法
的なハイエナに呼び止められなかったら、ジャック・ボノムだってそうなのである。
 それなら、見えるものだけで判断するというのは避けて、見えないものによっても判断
するように、自分たちを習慣付けようではないか。
 去年、私は財政委員会の一員だった。なぜなら、有権者の賢明な判断によって、投票に
おいて野党党員がすべての委員会から組織的に排除されるということはなかったからだ。
委員会では、「彼らのもの」氏が次のように述べたのを聞いた、――「私は正統派や宗教
派に反対することに人生を捧げてきた。しかし今や、我々の共通の危機のために彼らとも
交流し、知るようになった。そして個人的に話をしてみると、彼らは私がかつて考えてい
たような怪物ではないことがわかった。」
 その通り、不信は誇張されており、憎しみは互いに交流しない党派から生まれる。そし
てもし、多数派が委員会において少数派の存在を認めるなら、おそらくは異なった党派の
考えもそれほどお互いに離れたものではないということ、そして何より、その意図におい
てはそれほどひねくれてはいないことがわかるだろう。しかし、昨年度、私は財政委員だっ
た。私たちの同僚が、共和国大統領や大臣、大使たちの予算をわずかでも変えようとする
と、必ず答えが帰ってきた――
 「そういった役職の価値のためには、有能な人物を引き付けるべく、ある程度オフィス
を華麗で威厳あるものにする必要がある。共和国大統領には、不幸な人々が大量に陳情に
来るのであり、それを常に拒否する義務を負うというのは、大変な苦痛を伴う仕事になっ
てしまうだろう。ある種の貴族的スタイルが大臣応接室にあるというのは、立憲政府機構
の一部なのだ。」
 こういった議論には反論があるとはいえ、確かに真剣な考慮に値するものである。正し
く見積もられているかどうかはさておき、それは公益に基づいた正しい議論である。そし
て、私の関与する限りでは、狭隘な倹約心や嫉妬に精神に突き動かされている、我々の多
くの指導者たちよりも私の方が強い尊敬の念を持っている。
 しかし、私の経済的な良心に反し、この国の知的資産に照らして私が赤面するのは、こ
のバカげた封建時代の名残が、いつも起こっていることだが、次のように拡大されて、好
意的に受け止められてもいるということだ――
 「さらに、偉大な政府の役人たちによる贅沢というのは、芸術や産業、労働を促進させ
ている。国家のリーダーと大臣たちが夜会を開けば、必ずや社会という体の血管を循環さ
せることになるのだ。そういったやり方を減らせば、パリの産業、そして結果的には国全
体の産業を窒息させてしまうだろう。」
 皆さん、私は皆さんに、少なくともこの計算に対してよく注意してもらわねばならない。
そしてフランス国民議会の前で、恥ずかしいことに議会は、足し算を上から足すか、下か
ら足すかによって合計が違うのだという点において、皆さんとは意見が合わないなどとい
わないでもらいたい。
 例えば、私は下水工事人と、土地に排水溝を百フランで作ってもらいたいということで
合意している。前述したように、私たちの制度では、徴税官が来て百フランを私から持っ
てゆき、内務省に送る。私についてはこれでおしまいだが、大臣はテーブルにもう一皿加
えることになる。一体全体、どういった理由から、この公金支出が国家産業を助けている
というのか? この場合、満足と引き換えの労働という事態とは反対のことしかないこと
が、見えないというのか? 大臣はテーブルをより良いものにした、それは事実だ。しか
し、ある農家がその土地の排水が悪くなったのも、また同じように事実なのだ。パリの酒
場の店主は百フランを得たかもしれない、それは認めよう。しかし同時に、下水工事人が
5フランを得ることができなかったということも認めねばならない。それは結局、次のよ
うなことなのだ、――役人と酒場の店主が満足するということは見えるものだが、排水の
悪いままの土地や仕事を奪われた下水工事人は、見えないものなのだ。なんということだ!
2足す2が4だと証明することが、こんなに大変だなんて。そして証明が成功して、言わ
れるのだ、「そんなことは自明で、本当に退屈なことだ。」そして彼らは、まったく何事
も証明されなかったかのように投票するのである。
4.劇場と工芸品
5.公共事業
7.産業規制
8.機械
9.信用
10.アルジェリア
11.倹約と贅沢
12.働く権利を持つ者は、利益を得る権利を持つ
 
 
 

共通テーマ:日記・雑感

Freedonomics

Freedomnomics 『自由の経済学 なぜ自由市場はうまくいくが、残りの半分はダメなのか』 
概要
この本は、アメリカでベストセラーになった”Freakonomics” 『ヤバい経済学』によって
流行っったnomics (経済学)という表現を使っている。『ヤバい・・』の内容を一部批
判しているが、それは主眼ではなく、全体としては、自由市場の効率性、有効性を、厳密
な学術研究に基づきながらも、わかりやすく説明するシカゴ大学教授の著作である。
前書き
 市場はうまく機能している。これはアメリカの経済のことだが、1848年にマルクスが
資本主義に疑義を示して以来、常に懐疑的な見方は存在している。しかし、かつて存在し
た計画経済はソヴィエトから北朝鮮まで、すべて商品の不足に悩んで、その経済制度を放
棄してきた。現実に成功している社会主義国の中国は、自由企業を再導入してきたのだ。
 自由市場はスミスが指摘したように、利己的な精神を持つ人々が、自発的に交換をする
ことから利益が得られることで成り立っている。これはすべての財について当てはまって
いて、コンピュータからクルマまで、それを買う人は、金銭以上の価値を見出すからこそ
商品を買うのだ。
 レヴィットとダブナーによる『ヤバい経済学』は、驚異的な成功を収めたが、そのテー
マである「医者や葬儀屋、保険外交員まで、すべての人があなたから金を巻き上げている」
というのは、行きすぎだろう。不動産屋、相撲とりからクー・クラックス・クランのメン
バー、政治家にいたるまで、ウソをつきまくっているというのは、マイケル・ムーアの映
画と同じで、訴えかけるところがあるのだろうが、間違っている。
 本当に市場では、騙しが横行しているのか?大企業のトップから販売員に至るまで、あ
なたから金を巻き上げようとしているのだろうか。私の研究はこれらの問題にこたえよう
としてきた試みなのであり、その結実が本書である。人々は確かに時にはウソツキかもし
れないが、市場は大まかに言って誠実なものに報いている。
 一つのエンロン(破たんした詐欺的エネルギー企業)に対して、すべての市場において
順法的な企業の数は数千社以上ある。市場では、単なる「貪欲な企業」という見方以上の、
複雑な力が働いているのだ。
 これは市場が、誠実さを評価するからである。消費者のだれもが騙されたくないと感じ
ているため、一度でも騙されたなら、他の会社の商品に移ってしまう。対して、誠実な企
業は、リピーターとなる顧客を獲得して大きな利益を上げることになる。
 市場を批判する人たちが見逃しているのは、評判の価値だ。通常、企業が詐欺をすると
き、その損失のほとんどは、罰金から生じるのではなくて、評判を失って、顧客を失うこ
とから発生する。そして、テクノロジーの発達は、新たな評判の獲得機会を生み出してい
る。例えば、インターネット・オークションのeBayを見てみよう。評価の高い出品者か
らは、多少高くても人々が買おうとすることがはっきりしている。
 これは政治家についても言える。政治家は、特殊利益から金を集めて、そのために働い
ていると考える人も多いが、再選される必要のない議員の活動を見ると、彼らが心から自
分の信じる価値を持っているということが分かる。再選の必要がなくても、議員の多くは
同じ行動をとり、つまりミシガン州の議員は自らの政治信条から自動車産業を守ろうとす
るのだ。
 選挙活動に多くの金が必要になったことを批判する人もいるが、つまりそれは、政治が
昔よりもはるかに多くの金を扱うようになったからにすぎない。では、なぜ政府は肥大化
してきたのか?興味深いことに、それは女性参政権が確立したことが原因なのだ。
 インセンティブを理解しないことは、企業の高い値段づけから、企業や政治家を誠実に
させること、政治家に特定の方向で投票させること、に至るまで、政府規制を正当化する
ことにつながる。市場が機能していないのなら、政府が公正を確保すべきだというのだ。
その結果、政府系の企業は肥大化し、マーケット・シェアを求めて、掠奪的な価格付けを
行うことになる。
 犯罪もまた、インセンティブを理解するべきことでは同じである。なぜ1990年代に犯
罪が減少したのかは、死刑の再開、高い検挙率、銃の携帯の許可、など複数の政策の結果
である。反対に、「壊れた窓」の理論や、警察組織のアファーマティブ・アクションは、
あまり関係ない。『ヤバい経済学』の議論とは反対に、中絶の合法化は婚外子とシングル
マザーを増やし、犯罪を「増加」させたのだ。
 
学会でのインセンティブ:個人的な経験
 私はUCLAで経済学の博士号を取った後、しばらく間、モンタナ州立大学に勤務した。
その時、固定資産税が高すぎると主張する高齢の女性たちの意見を弁護することになった。
当時、固定資産税は州税の4分の1ほどであったが、税率を下げることへの弁護意見のマ
スコミや議会への陳述は、大学の他学部だけでなく、学部内からも批判された。
 私はほどなくカリフォルニアのフーヴァー研究所に転勤したが、その後も学術的な応援
を続けたが、私の評価は、純粋な学術研究を除くすべての項目で最低になってしまい、学
部からも白眼視されることになってしまった。
 私はこのとき、公共教育が税金で行われているという事実は、学問の自由と相いれない
という感覚を強く持った。そしてそれは、後述するように、大学だけでなく、義務教育や
高校においても同じように当てはまるのである。
やってみて学習する(Learning by Doing)
 学会が税金で賄われているという事実に加えて、学者のほとんどすべてが学校で一生を
過ごすという事実がある。学者は他の学者に対してのみ論文を書くが、それは自動車会社
が自社の労働者に対してのみクルマを作るに等しい。要は、誰も自分のやっていることが
よく分かっていないことが多いのだ。
 私は1988年から1989年まで、アメリカの裁判判決委員会に属して、どういった企業犯
罪や個人犯罪がどの程度の罰を受けるべきかを検討する機会を持った。このとき、多くの
制度的な情報を得ることができたが、学会で議論されている多くの犯罪論は、まったく的
外れであったり、制度を理解していないことが多いことに気づかされた。
 経済学では、独占の弊害を取り除くために適切な量の補助などを考えるが、実際にはこ
れはまさに推計することの難しいものだ。同じように、公害などについても最適な税率と
いうのを考えるが、その算定は、郊外が公害であるという事実によって、非常に難しい性
質を帯びるのである。
 フリードマンが言ったように、政府の適正な政策は理論的には望ましいが、現実には害
をもたらすことがほとんどである。1970年代のガソリン不足に際して、政府規制がなかっ
たらもっと価格は上がっていただろうが、どこへ行ってもガソリンが変えないという予想
外の事態は起きなかっただろう。
 計画経済には訴えかけるものがある。市場は何の規則もない混とんであり、どうして適
切な機能が期待できるだろうか。しかし、現実には、価格の決定に際して、当局がすべて
の要素を事前に計算することなどできないのであり、分散的に自由にやってみるしかない。
政府規制の結果は、必ず不足なり、ブラック・マーケットなりを生み出してしまう。スミ
スがいうように、高価格はそれに対するインセンティブを与えるため、人々の努力を引き
出す。計画経済がうまくいくように見えても、市場の方がはるかに機能するのが現実なの
だ。
1章、あなたはヒドい目にあっているのか
投機家、欲張り、と残りのいい人たち 
 通常、投機家や強欲家が、いい人たちを食い物にしていると信じられているが、事実は
その逆だ。例えば、オイルショックにおいても、投機家がガソリンの値段を上げることは、
節約につながり、結局は後日のガソリン価格を下げることを意味している。つまり社会的
に有用なのだ。
独占と価格差別がどうやって人の命を救うのか
 エイズの薬が高すぎることによって、多くのエイズ患者の命が失われていると、市場を
批判する人が言う。しかし、エイズの薬を強制的に安くするなら、薬の開発は止まってし
まい、逆にエイズ患者の命が失われてしまう。裕福なアメリカ人に対する価格と、貧しい
アフリカ人への薬価を差別することによって、製薬会社はアメリカから利益の8割を得て、
同時にアフリカ人の命を救っている。
なぜレストランのアルコール飲料は高いのか
 レストランはアルコール飲料を高く売ることによって、ボロ儲けをしていると考えられ
ている。しかし、事実は、アルコールを飲む人は、食事だけをする人に比べて非常に長い
時間レストランの席を占領してしまう。そのため、次の客を入れることができないレスト
ランとしては、アルコール飲料を高くせってせざるを得ないのだ。
なぜギリギリの飛行機チケットは高いのか
 飛行機のチケットは、事前に予約すれば、直前に予約する場合の半額程度であることが
多いが、これも価格の差別だとして批判されることがある。しかし、直前にチケットを購
入する人は、時間の価格が高いビジネスマンが多いが、事前に購入する人は学生や高齢者
など時間の価格の低い人たちである。チケットの価格が異なることによって、それぞれに
応じたサービスを提供できているうえ、会社は効率性を高めているため、これらのチケッ
ト価格を平均すれば、利用者は大きな利益を得ている。
どうして、セルフサービスに比べたフルサービスの価格がハイオクとレギュラーで違うの

 セルフの給油価格は、ハイオクとレギュラーのでは異なっている。別に異なる理由もな
いように思われるが、これはどういう理由があるのだろうか。実は、レギュラーを入れる
人たちはハイオクを入れる人たちよりも所得が低いことが多いため、満タンにすることが
少ない。そのため、少量を入れることになって、効率が悪いため、レギュラーの方がハイ
オクよりも、セルフとの格差が大きくなるのだ。
侵略的な価格設定というのは、それほど簡単ではない
 多くの人々は、大企業は中小企業をつぶすために侵略的な価格をつけて、中小企業を市
場から追い払っていると考えている。しかし、スタンダード・オイルの例を調べれば明ら
かなように、実は大企業が低い価格をつけるというのは、自滅的なことがほとんどで、実
際にはほとんど不可能なことなのである。
典型的な「市場の失敗」神話の間違い
 『ヤバい経済学』で扱われている、市場の失敗には、中古車の急速な価格の低下がある。
新しい中古車は、それが隠れた問題を抱えている可能性があるため、安売りされていると
いうのだ。しかし、実際に価格を調べてみると、価格の急速な下落などは全く起こってい
ない。自動車メーカーが3万マイルあるいは3年保証ということをするようになったため、
市場の失敗は全く起こっていないのだ。
 また、住宅市場についても『ヤバい経済学』では、業者は自分が儲けるために、売り手
に売り急がせるという。その証拠として、業者が自分で保有する物件では、平均より3%
高くうっている、あるいは半年長く売るのを待っているというデータを挙げている。しか
し、自己保有物件の場合、時間的な都合は自分で完全に知ることができるが、顧客の時間
的な都合を知ることは難しい。また、業者が自分で保有する物件が高いのは、彼らが毎日
仕事として不動産取引をしているからであり、その中には掘り出し物があるのは不思議な
ことではない。
ロジャックという非効率的な商品
 自動車の盗難を防ぐ防犯用品に、GPSでその位置を知らせるロジャックという商品が
ある。ある研究によれば、これをつければ盗難は大幅に減少するが、自動車のオーナーは
そのコストを支払いたくないために普及していないという。これが「市場の失敗」である
とされる。
 しかし、現実は違う。ロジャックがそんなに素晴らしいものならレクサスやポルシェな
どの高級自動車メーカーはすぐにでも自社製品に取り付けるするはずだ。そうしないのは、
実は自動車が盗難された場合、場所を特定して自動車を見つけた時には、すでにすべての
部品がバラバラに取られた後で、残骸になった車しか発見できないという現実によるのだ。
つまり、市場はまったく失敗していないのだ。
良き意図を持った判決とその悪しき結末
 市場に弱者と強者がいれば、裁判所は弱者を勝たせようとする。それは意図としては素
晴らしいが、結果としては悲惨なことがほとんどだ。
 例えば、小児ポリオの予防接種を受けて子どもが、それ以前にかかっていた病気のせい
で、麻痺が残った。これを救うために、裁判所は、「病気の理由がポリオワクチンの製造
会社にないとしても、子どもを救う義務が生じる」と判決した。この結果、少女は救われ
たが、現在のポリオワクチン価格の90%以上は、万が一の場合に備えた保険費用になっ
てしまい、100万人を超える貧しい子どもがワクチン接種を受けることができなくなって
しまった。
 また別の例では、有毒物質を扱う仕事などのリスクの高い仕事は、保険によって危険を
カヴァーすると同時に、リスクプレミアムとしての高い給料を受けることで、成立してい
た。しかし1970年代の一連の判例によって、リスクは会社が直接に保障する必要がある
ことになった。このため、損害を受けた労働者は、それまでの高い給料と実際の損害の補
償という2重の利益を得たが、その結果、多くの企業が倒産し、労働者が職を失うことに
なったのだ。
2章、 評判のもつ価値
 市場は悪いプレイヤーを排除するために、評判というものを利用するが、これは実際に
ひじょうにうまく機能している。
政治家や企業を誠実にさせるもの
 政治家の多くは他人からの推薦を得て、政治の階段を少しずつ昇るが、評判はもっとも
重要な要素である。ブッシュ大統領を見ても、政治家が父親からその評判を受け継ぐこと
はもっとも普遍的であり、政治においては金銭よりもはるかに重要である。40%の政治
家は引退後にロビー活動を全くしていないが、それでも選挙公約を守っていることは、信
念が時に金銭以上の価値を持つことを意味している。
なぜ人々は選挙キャンペーンに金を寄付するのか
 人々が政治家に寄付をする時、何らかの見返りを求めていると考えられることが普通だ。
しかし、多くの人々は見返りよりも共感によって寄付をしている。多くのメディアが腐敗
した政治について書きたてるが、実際に引退する直前の政治家の法案への賛否の投票を研
究してみると、選挙資金という見返りがないにもかかわらず、政治家のほとんどは一貫し
て立法活動をしている。長期的には、評判によって人々は正しい人を選んでいるのだ。
選挙資金改革
 選挙資金を規制するマッケイン=ファインゴールド法案は、政治活動には金のかかりす
ぎるという批判を受けて、人々から支持されている。しかし、そもそも寄付金を多く受け
る政治家は、人々から支持されていることがほとんどであり、規制は能力のある政治家と
そうではない政治家を平等にするかもしれないが、それはそもそもバカバカしいことだ。
 あるいは、『ヤバい経済学』には、選挙資金は勝敗とはほとんど関係しないと記されて
いるが、これも実証研究によれば明らかに間違っている。キャンペーンの資金量は、現職
の候補よりも挑戦者にとって、より重要なのだ。結局、政治資金の規制は、知名度に勝る
現職の有利さを増長させているだけなのである。
なぜ選挙費用が高騰してきたのか
 選挙資金を規制するために、直接的な寄付を禁止する法律があっても、寄付をしようと
するものは自分とは別の法人を作って、結局目的を達成しようとする。例えば、銃器規制
に反対する全米ライフル協会は、選挙資金の寄付を禁止された際に、テレビ局を買収して
目的を達成しようとした。法を迂回する方法は数多く存在しており、結局は政治資金を規
制しない方が害悪がない。
 政府の予算は200兆円であり、その予算を動かす政権を得るための資金はその1000分
の1の2000億円である。P&Gが1年につかう広告予算が4000億円であることを考えれ
ば、選挙資金が多すぎるというのは間違った認識だ。政府が巨大化すれば、当然に選挙資
金も大きくなるのである。
共和党、民主党の「両方への献金」という神話
 メディアによると、多くの政治団体が民主・共和両党に献金して、どっちが選挙に勝っ
ても影響力を保持しようとしているという。そして、これがアメリカの政治不信をますま
す大きなものとしているのである。
 しかし、現実はそうではない。両党に献金しているという団体をよく調べてみると、そ
のほぼすべてが、団体としての政党献金と、その構成員が異なった意見を持っている個人
の政党への献金が、同じ団体による献金であると報告されているにすぎない。人々や団体
は確かに政治的な信念を持っており、利益を確保するために両方に献金するというのは神
話である。
個人の評判と犯罪
 世間では、アメリカの司法制度には、良い弁護士を雇える金持ちに対して不当に軽い刑
を課し、弁護士を雇えない貧乏人に対しては厳しい判決を下すという不正が横行している
と考えられている。しかし、現実には、高額所得者が有罪判決を受けた場合、その後の所
得は激減し、金銭的な罰を大きく受ける。これに対して、低所得者の場合、それほど金銭
的な不利益は顕著ではない。
 実際、株式のインサイダー取引で有罪となったピーター・バカノビッチやマーサ・スチュ
アートは、その後の収入はほとんどなくなってしまった。同じことは、有罪判決だけでな
く、被疑者となっただけでも当てはまる。大学生が被疑者になった場合でも、その経済的
な損失はひじょうに大きなものとなるのである。こうした評判の持つ効果は、有罪・無罪
の判決よりも重要であるが、それらとは違ってメディアではほとんど報道されない。
評判、それは企業を誠実にするもの
 多くの人々は、企業による会計詐欺をはじめ、あまりにも多くの企業の強欲さが、社会
的な問題なのだと感じており、それを反映して罰金を高額化する法律が次々と作られてき
た。1980年代では、企業の詐欺行為に対する罰金は、1ドルの詐欺につき75セントに過
ぎなかったが、環境規則の違反については1ドル当たり3,71ドルにもなっていたのだ。
 しかし、実証研究をしてみると、企業が顧客に詐欺行為を行った場合、その90%以上
の損失は顧客を失うことによる反面、環境規制の違反の場合には、損失のすべてが訴訟と
罰金によるものであった。取り引き詐欺に対する罰は、環境詐欺の場合の11倍にもなっ
ており、これ以上、取り引き詐欺の罰金を挙げるのは、結局は企業の生産コストをあげて、
経済を弱体化させてしまう。すべての商品に完全を求めるなら、全員がレクサスを買うこ
とになってしまい、結局は過剰にタカついてしまうのだ。
 ガソリンスタンドのフランチャイズでも同じことが言える。地元密着型のフランチャイ
ズ店では、サービスは評判となるため、中央からの監視の必要はない。しかし、高速道路
の入り口にある店は直営店である。なぜなら、そこでは客はブランドを信頼してくるが、
2度と戻ってこないことが多いからである。評判を守るためには、直営店にしなければな
らないである。
3章 政府は万能か?
 市場が失敗しているように見えるとき、人々は政府による完全な政策を期待する。しか
し、現実には、政府の行為を待つよりも、市場による解決の方がはるかに優れていること
がほとんどなのである。
急いでただ乗りをしろ
 前に、自動車セキュリティの商品であるロジャックについて説明した。そこでは、ロ
ジャックは外部経済性を持つために、政府がロジャックの取り付けに対して補助金を出せ
ば社会的な効率化が達成されると主張された。しかし、その額の算定をすることは現実的
には不可能だ。
 この状況は、すべての人がピストルを隠し持っていれば、犯罪はなくなるというのと同
じだ。しかし、現実にピストルの携帯許可証を得るためにはお金がかかり、この意味で負
の補助金が課されている。フリードマンはこのような場合にも、私的な理由だけでも十分
にうまくいくことを主張した。
 教育はその例だ。高等教育は外部にもメリットをもたらすが、個人的なメリットだけで
も十分に教育を受ける理由となっている。ラジオについても、初期にはラジオ放送は外部
経済性はあるが、金銭を回収できないという理由から、政府が放送をするべきだという意
見があった。しかし、広告によって放送資金をまかなうという方法が、市場によって発明
された。政府が放送をしていたなら、こういった方向での努力はなされなかっただろう。
 ミツバチは果樹に受粉するという外部経済性を持っている。実は、果樹園のオーナーと
ミツバチのオーナーは相互契約によって利益を得ていたのだ。しかし、政府がミツバチの
外部経済性を法制化し、ハチミツを高値に維持したため、1984年までにはアメリカの納
税者は、年間100億ドルを失うことになってしまった。
 政府の予算となる税金は57%が上位5%の納税者から集められ、下半分の納税者はわず
か3.3%しか支払っていない。これが、政府がいい加減な法律をどんどん作る要因なのだ。
洪水保険は政府が直接に運営しているため、リスクに応じた保険費用となっていない。
ヒューストンのある家は16回も洪水に流され、それに対して80万ドルが支払われてきた。
これが民間企業であれば、すでに倒産しているだろう。つまり、納税者の負担になってい
るのだ。
 政府は一般的に、保険金などの価格設定することが致命的にできないのだ。政府の行っ
ていた銀行預金の保険金はあまりにも低額で、1980年代の銀行倒産によって、納税者は
1750億ドルを失ってしまった。
 無料で行われる登山遭難者の探索活動も同じだ。一度オレゴン州は、登山者にGPSを
携帯するよう義務付けようとしたが、登山家の反対にあってしまった。それでは、「登山
のすばらしさがなくなってしまう」というのだ。しかし、それなら遭難者には1万ドルの
捜索費用を請求するべきだろう。
 道路や鉄道の建設のための、土地や建物の公共収用にも同じ問題が生じている。ゴネる
人がいる場合にうまく解決できないのだ。連邦最高裁の判決では、公共性がある場合には、
公正な市場取引価格で政府や企業が不動産を収用できることになっているが、これは不当
であろう。所有者は不動産に愛着を持っているだろうからである。しかし、問題はそれが
どの程度の金銭的なものなのかということだ。
 これに対する最も良い方法は、ガス・電気事業を行っている私企業であるコーク・イン
ダストリーのものだ。彼らは、異なった路線を候補として、所有者たちに金銭を提示する。
これによって、最も早く応じたものが実行に移され、ゴネる人が得をすることはなくなる
のだ。
 クレムゾン大学の経済学部でも、新任教員の採用に際に同じことをしている。同じ程に
望ましい教員候補がいる場合、一人に採用通知を出すと、その人物はその採用通知を持っ
て、他の大学を探そうとする。このプロセスを省くために、複数の候補者に採用通知を送
り、最初に応諾した人物を採用するのだ。
 政府の不効率性について、ワシントン大学のカーポフは、1818年から1909年までの極
地探検を調査した。政府が資金提供している場合、個人的な資金による探検に比べて、4
倍以上の予算で臨んでいるにもかかわらず、結局のところ、より高い確率で遭難している。
6度の最重要な探検のうち、5度は個人によるものなのだ。おそらく、これは私的な冒険
ではクルーの選択にチームワークが生まれるが、政府の場合は多様な利害関係者が集めら
れてチームワークがなくなることや、私的な冒険はその結果が完全に個人的な功績となる
ことによるのだろう。
 公共教育では40%以上が教員以外に費やされるが、私立教育では20%以下でしかない。
市場は完ぺきではなくとも、政府ははるかに完璧からほど遠いのである。
分散投資、それは企業の平和を意味する
 現代の常識では、資産は分散してポートフォリオを組むことになっているが、これは同
時に企業活動の平和的な安定に貢献する。
 私がウォートン・ビジネススクールで教えていた時、教員共済資金の副社長をしていた
人が興味深い話をしてくれた。テキサコとペンゾイルという二つの巨大石油会社が、ひじょ
うに長引いた法廷闘争に大きな金をつぎ込んでいた。そのままでは、どちらかが勝つが、
それは単なる金の移転であり、法律事務所が大きな利益を得るだけであった。教員共済は
両方の会社の株を持っていたので、この係争をやめさせて、両社に和解をさせることによっ
て、莫大な法定費用を節約したのだ。また、彼はアップルとマイクロソフトの法廷闘争も
やめさせることに成功している。
 これと同じことは、日本の「系列」会社にも当てはまる。アメリカ人投資家であるピケ
ンズ氏が、日本の小糸製作所の大株主となり、トヨタへのライトの低廉な納入価格に対し
て、価格引き上げの株主提案をした。しかし、小糸製作所の他の株主はトヨタ系列の会社
と株の持ち合いをしており、ピケンズ氏は、その意見を通すことができなかった。小糸だ
けを見れば、納入価格の引き上げは利益を増大させただろうが、系列全体としてはそれは
生産的ではなかったからである。
 系列と同じような役割を果たしているのは、アメリカでは大きなミューチュアル・ファ
ンドである。例えば、アップルの29%、マイクロソフトの20%の株式はミューチュア
ル・ファンドによって保有されており、無意味な法律的係争が回避されているのだ。
 私とハンセンの研究では、企業買収にもこの効果が表れている。買収される企業の株価
は、買収の発表と同時に上昇するが、買収する法の株価は下がる傾向があり、これは近年
顕著になってきている。二つの会社の株を持つ関係者が多ければ、彼らは全体の株式価値
にのみ興味を持つだろう。彼らにとって、企業買収は二つの企業の業績の分散をなくして
しまう分だけ、望ましくないのである。このことは、買収される企業が私企業であり、株
式を公開していない場合には、買収会社の株価が上昇していることに、裏付けられるので
ある。
 市場は長い時間をかけて、政府に頼らなくても、自然とうまいメカニズムを生み出すの
だ。
国家的な侵略者と私的な被害者
 人々が侵略的な企業というとき、ほとんど私的な大企業を思い浮かべる。教科書的な例
は、ロックフェラーのスタンダード・オイルのような会社である。スタンダード・オイル
は1800年代の終わりから1900年の初頭まで、他者を飲み込んで、あるいは工場閉鎖に追
い込んで、最高裁によって分割されることになった。最近では、アメリカン・エアライン
が同じような嫌疑を受けたが、この種の私企業がやり玉に挙がるのは公正とはいえない。
 私企業が侵略的な価格付けをすることは、あまりにも犠牲が大きいのだ。価格を下げる
ことによって、会社は侵略することができるかもしれないが、それではコストが引き合わ
ず、利益を落としてしまうのが実情なのである。
 しかし、政府系企業は利益を上げつ必要がなく、雇用を優先したり、あるいは市場での
シェアを重視したりすることが可能だ。政府系企業の多くは、税制上の優遇を受けたりと、
私企業にない特権を与えられること多く、私企業を閉鎖に追いやっている。
 例えば、ヨーロッパのエアバスを見てみよう。2006年にエアバスはA380の納入の
遅れによって、巨大な損失を出したが、にもかかわらず、ドイツもフランスもイギリスも
より多くの株式を保有しようとした。どの国でも雇用者がいて、その失業を恐れたからで
ある。
 イギリスの納税者はA380計画だけでも1000億円以上も失っている。機体はドイツ、
主翼はイギリス、尾翼はスペインから、最終組み立てのためにフランスまで運ばれてきて
いるのだから当然である。
 政府系の企業はまさに侵略的な存在だ。1980年代のアメリカには、天気予報をする企
業があったが、これを気象庁が行うことによって消滅してしまった。
 同じことは、教育市場でも当てはまる。私が卒業したUCLAでは学生一人当たり400
万円が使われているが、授業料は65万円でしかない。大学内での書店や販売にも、無料
のテナント料が適用されるなど、私企業が競争できない状況を作り出している。1965年
から2005年の間に、私立大学に比べての公立大学の授業料は、22%から18%に減少
した。これに応じて、公立大学に進学する学生も67%から79%になった。コストを下
回る価格は、政府のみが与えることができるのである。
 公立大学は、多くの私立大学を破産の危機に脅し、公立大学へと吸収してきた。ジョー
ジ・メイソン大学法学部、バッファロー大学、ヒューストン大学、ピッツバーグ大学など
である。バッファロー大学では、ニューヨーク大学の一部にならないのなら、大学の隣に
公立大学を作ると脅されているのだ。
 私企業は、独占禁止法によって市場を独占できない。ライバルを閉鎖に追い込んだとし
ても、その設備を使って、別の会社が挑戦することができるのだ。
 郵便局は世界中で、政府からの独占力を付与されて、競争者を閉め出している。2001
年にドイツ・ポストは、第1種郵便の利益を別のセクターに回すことで、競争者を閉め出
した。2005年には、デンマーク、スペイン、フランスでも同じことが起こっている。
 アメリカでも、翌日配送の価格がすでにコストを下回り、大きな赤字が出ていたにも関
わらず、さらなるシェアアップのために、価格が引き下げられた。競争者を閉め出す意図
がなくても、シェアを上げれば、同じことになってしまう。
 こういった例にはキリがない。アメリカ森林サービスは、木材購入企業に対して、売れ
る木材と売れない木材を抱き合わせて、購入させている。なぜなら、利益よりも木材の総
量を増やすことによって、林業道路建設などの予算がより多く獲得できるからだ。
 NASAもまた、コスト以下でのサービスを提供して、私企業の参入を阻止してきた。
本来NASAのような組織は、より高い独占価格を要求するものであるが、NASAの興
味は利益ではなく、宇宙事業の独占という栄誉にあるのだ。
 面白いことに、アメリカ政府は中国の衛星打ち上げビジネスを、侵略的な行為だとして
批判している。こういったことは珍しくないが、政府系企業による侵略的な価格の方が、
他国政府からより大きな批判を受けるのだ。
 政府系企業は侵略的なシェアの上昇そのものを目的とできるが、私企業は利益を上げる
必要があるために、侵略的であることは難しい。そういった脅しをかけることも難しいが、
政府系企業だけが、そういったことを容易にできるのだ。
現代のギルド
 政府は直接に予算を使うだけでなく、ビジネスのあり方に規制をすることで、間接的な
影響も与えている。競争をより「フェア」にするためと称して、自由競争を巧妙に阻む免
許制が採りいれられているのである。
 こういった制度の歴史は長く、中世ヨーロッパのギルドでは、10年にも及ぶ徒弟制を
経てのみ、開業が許された。この状況を見た、経済学の父アダム・スミスは、その意義が
自由競争の阻止と、賃金の引き上げにあると結論している。
 中世のギルドは、親方たちの主張とは異なり、その生産物の品質を保証するためにあっ
たのではない。薬などと違い、生産物の質が一目でわかるような、留め具、机、ボタンな
どにもギルドがあり、13世紀のパリでは10年、ジェノバでは11年の修業が開業のために
必要であった。親方たちは、相互に住居や給与などの条件を守り合い、労働市場の流動性
を抑えていた。
 政府の許可は、これと同じ役割を果たしている。特殊な教育が本当に必要なのだろうか?
弁護士になるのにロー・スクールに通う必要があるのか?ほとんどの教育機関では、2年
分の授業を1年にとって、早く卒業することも許していない。
 眼鏡作製のの検査技師になるためにも、資格試験を受けるためには、8か月のコースを
6期以上取る必要がある。医師になるには、少なくとも3年半の学業を経る必要があり、
それより早く卒業を許す大学は、医学協会から除名されてしまう。
 39の州では、最低でも9カ月以上の理容学校に行かなければ、理容師になれない。皮膚
美容師になるのは、さらに厳しい。麻薬中毒カウンセラーや歯科衛生士、インテリア・デ
ザイナー、ネイル美容師から看護師、ポリグラフ検査士でも同じだ。クラスの出席率も求
められる。22の州では、不動産業を営むには、授業への100%の出席を要求される。
 これを博士号と比べるといい。博士号の取得には平均5.5年がかかっているが、必要
とされる授業と論文執筆を3年以下で終えている学生も1%いる。10%が8年以上かけ
ており、20年もかけるものもいる。
 博士号では、能力とやる気を、必要時間の短さによって示すことができる。そういった
学生は有利に職を得ることができ、教授たちも誰が最も優秀であるかを話し合う。時間の
短さは、学生のやる気と能力を示す明確な証拠なのだ。
 資格取得においては、もっとも優秀な人がその才能を示すことを許さない。最もできな
い人に合わせられて、競争が排除されている。
 不動産取り引きの資格試験では、単純な算数と不動産に関する法律の知識が問われる。
やる気があれば、自分でも勉強できるだろう。もっとも優秀な人は、ペンシルバニア州の
試験が要求する9か月も授業を受けないだろう。
 私はシカゴ大学ロースクール、ペンシルバニア大学ウォートンビジネススクール、ライ
ス大学など多くの一流大学で、新入生から博士過程まで教えてきた。しかし、私は公立高
校で教えることはできない。内容がわからないからでも、やる気がないからでもない。実
際、私は息子の高校でゲスト講師として授業をしてきた。つまり、私は規定年限の「教育
課程」の授業を受けていないのだ。
 教育学の学位、または3年以上の教育課程の取得が必要である。このために多くの優秀
な人物が教育職を得ることができない。アーカンザス州では、絶対的に不足している数学
と科学の教師に、この要件を緩和して優秀な人材を確保しようとしているほどだ。
 私は、多くの大学院教員にこの理由を聞いてきた。理由はないというものもあり、ある
いはアメリカ弁護士会、アメリカ医師会が要求するからだというものもあった。あるいは、
そういったカリキュラムが必要なのだというものもいた。しかし、なぜそういったカリキュ
ラムが必要なのか?なぜ理容師や弁護士にそれが必要で、経済学博士や科学博士には必要
ないのか。急ぐ学生はBグレードしかとれないかもしれないが、それは順番に授業をとっ
てBをとる学生と同じことだろう。
 なかには、医師になるためには、臨床経験を積み、実験スキルを経るなど、容易には判
断できない内容を習得する時間が必要だと主張する者もいた。これはそうかもしれないが、
しかし、卒業までの時間短縮を許さないほどのものではないだろう。その他の資格につい
ては、まったく理由になっていない。理容師になりたいものや、不動産取引業者になりた
いものが自習できないというのは、その理由が参入障壁であるためなのだ。
 アダム・スミスが正しくて、専門業者たちがより高い賃金を得たいために、新規参入を
阻止したいのなら、なぜ資格試験を難しくしないのだろうか?難しい試験は能力を測るの
にはいいが、優秀なものが成功し、そうでないものは失敗する。必要年限を長くすれば、
優秀なものは来なくなるだろう。つまり、多くの既存業者は優秀な新規参入者が来て、競
争が激しくなるのを避けたいである。
 政府関係の職はこういった政府の資格によって永続化されている。自由な参入を妨げる
ことによって、既存業者は大きく利益を得ているが、産業としては活力を失っているのだ。
喫煙禁止
 これまで見たような、市場の創造性と政府の非効率は、政府の干渉が常に望ましくない
ということを意味するわけではない。なかには、企業が他社に対して不当な不利益を課し
ている場合もあり、政府の規制が必要な場合があるが、その一つが公害規制である。
 公害は、ある者の行為のコストが他人にかかってくるという点で、公共の場での過剰な
漁業と同じである。公共の場では資源がなくなるまで、漁業がおこなわれてしまう。しか
し、私的に管理された場所では、漁業者は必ず翌年の分を残し、漁獲量を確保する。
 屋外の公害は共有地の問題に似ている。クルマや工場からの排気ガスは有害だが、それ
らを禁止するという人はいない。海で漁をしている人と同じく、公害の不利益は他人にか
かるのだ。利他主義には限界がある。政府が、総量規制、排出税、その他を使って公害を
規制する必要がある。
 問題は、政府がその規制を次第に拡大し、市場に任せるべきところにまで、強制力を行
使し始めることである。明らかに、地方政府は、飲食業において喫煙を禁止しようとして
いる。レストランのオーナーは、食事の質や量、飾り付けと同じように、喫煙制限につい
ても真剣に考慮している。そうしないレストランは、すぐにつぶれてしまうだろう。
 これが、レストランでの喫煙が、共有地問題とは異なる点だ。レストランでは、喫煙者
がタバコを吸いたいという欲望だけでなく、すべてのことに注意する必要がある。完全に
クリーンな空気から、一寸先も見えないほど煙った状況の2者択一だけでなく、二つのセ
クションを分けることもできるのだ。しかし、この解決法も禁止されてしまっている。
 レストラン業は大変に競争的な産業であり、サイドディッシュからバックグランドの音
楽まで、すべてが重要である。煙草への好みが、好きであれ、嫌いであれ、そんなに強い
のなら、レストランのオーナーはそれに反応して、その問題を解決するはずだ。
 レストランの喫煙は、共有地ではなく、私有地の問題であり、客が望むような空気を市
場において提供させればいい。結論として、市場は信じられないほど想像力に富む反面、
政府はその動機においては良くても、政治的・経済的な問題から金を食って、非効率になっ
てしまう。フリードマンが指摘したように、「誰も、自分の金を使うのと同じ程に注意深
くは、他人の金を使わない」のである。NASAや各種の免許制度を見ると、この意見に
反対することはできないだろう。
4章、犯罪と刑罰
 なんであれ、コストが上がれば消費は減る、というのが経済学の教えである。大学バス
ケットボールにおいて、審判が2人から3人になった時、ファールの数は38%も減った。
見逃されていたものを含めれば、もっと大きな現象だったはずだ。
 アメリカンリーグで1973年にDHが採用され、ピッチャーが打席に立たなくなると、
ビーンボールが増えた。これは、仕返しをすることができなくなったからだ。
 反対に、価格が下がれば、それは多くなる。倫理的であろうとなかろうと、そうなのだ。
飛行管制官がストレスによる職務不能を訴えることが容易にできるようになると、飛行機
のスケジュールは遅れがちになった。これは、犯罪にも、死刑にも、その他のすべてのこ
とにあてはまるのである。
90年代の犯罪の低下
 1960年から91年までに犯罪は378%に増えたが、2000年までには30%以上も減少した。
これはカナダでも少なからず起こったのだが、未だに多くの学者にとって大きな謎だ。犯
罪の減少は、実ははるかに大規模だ。人々は46%も多く犯罪を警察に報告するようになっ
たからだ。
 窃盗では20%しか報告されないが、レイプや暴行では63%、68%である。これは当然
のことだろうが、90年代の犯罪率の低下に伴って、人々はより多くの犯罪を報告するよ
うになった。警察の態度の変化と検挙率の増加、罰の厳格化、死刑の再開、銃器所持の解
禁、警察のアファーマティブ・アクションの廃止、その他の多くの理由があったのだろう
が、まず、理由とならなかったものから検討しよう。
何が犯罪を減少させた理由ではありえないものなのか、パート1
中絶の合法化
 主要な新聞によると、すでにアメリカの子どもの10人に4人は婚外子であり、白人で
は3分の1、黒人では3分の2がそうだ。1973年のロー対ウェイド事件判決では、最高裁
で中絶が認められた結果、それ以降は「求められない子ども」は中絶によって生まれなかっ
た。これが90年代以降の犯罪の低下の理由であるといわれることがある。これは「ヤバ
い経済学」でも主張されているものだが、現実はその逆だ。
 求められない子どもについては、1970年73年と過去から様々に指摘されてきた。ス
ウェーデンの調査でも、そういった子どもは非行に走りやすいと結論されているが、これ
は因果関係ではなく、単なる相関関係でしかない可能性がある。ドノニューとレヴィット
の研究でも、犯罪減少の半分、さらに殺人減少の81%が、中絶の合法化の結果だとする。
 実際には、70年代初頭にも、中絶はリベラルな医師たちによって行われていたのだ。
例えば、中絶禁止のカンザス、ワシントンDC、ニューメキシコ、オレゴンでは、1000
人の出産に対して、277、703、219、206の中絶が起こっていたが、中絶が合法化されて
いたアラスカ、ハワイ、ワシントンでは、それぞれ160、261、265、の中絶があった。
 なるほど、求められない子どもが中絶によって生まれなければ、犯罪が生じることはな
いように思われる。現実にアフリカ系アメリカ人は白人の6.5倍の犯罪を起こすが、その
中絶率は3倍であるからだ。これは確かに、あまり議論されないことであり、ドノニュー
とレヴィットの議論でも完全に抜け落ちている。一体、誰が、「犯罪が減少したのは貧し
い黒人の数が減少したからだ」などと主張できるだろうか。
 この問題は、もっと複雑なのだ。まず、中絶が合法化された場合、男にとっては子ども
ができて相手と結婚して子どもを養うというリスクが減るために、セックスのコストは下
がることになる。女にとっても、同じように望まない子どもを育てなければならないとい
うリスクが減ることによって、セックスのコストが下がることになる。結局、より多くの
男女がセックスをするような文化を作り出すことになって、逆に貧しい婚外子が増える結
果を生んでいるのだ。
 73年の中絶の合法化以降、80年代の終わりまでに、婚外子は5%から16%に上昇し、
黒人については、30%から62%にまで上昇した。それまで存在した「できちゃった婚」
は消滅し、男は女が出産を決めるのは、中絶を拒む自分勝手な行為だと考えるようになっ
たのだ。
 婚外子が養子に出されることも減少した。白人では19.3%から7.6%へ、黒人では1.5%
から0.2%になり、子どもたちは母親だけに育てられるようになった。一人で育てれば、
二人で育てるよりも世話をすることはできなくなる。同棲しているカップルの子どもも同
じように、世話を受けることは少ない。結婚に比べて、同棲を選ぶということは自分を犠
牲にする用意がないことを意味するからだ。(データは同棲している場合の子どもの問題
が、シングルマザーと同じ程度であることを示している。)
 中絶の合法化は、望まれない子どもの数を減らしただろうが、同時に婚外子の数も増や
した。どちらの要素が犯罪の減少に関係しているのだろうか。
 ドノニューとレヴィットの分析とは反対に、ボストン連邦銀行での研究や私とウィット
リーの研究では、中絶の合法化は7%の犯罪の増加につながったと結論されている。ドノ
ニューとレヴィットは犯罪減少の80%までの要因が、中絶の合法化によると報告してい
る。もしこれが本当なら、まず70年代以降に生まれた世代から犯罪は減少しているはず
だが、これは事実とは異なる。69年生まれの少年による同年齢時の殺人率は、77年生ま
れの殺人率よりもはるかに高いのだ。
 同じ反論は、カナダのおける中絶の合法化がアメリカよりも5年から15年も遅れてい
るにもかかわらず、その犯罪率の減少が3年ほどしか遅れていないことにも表れている。
中絶の合法化は婚外子を増やし、その結果、アフリカ系アメリカ人が多くの被害にあって
いるのだ。
 次に、もう一つ別の、犯罪を増加させた原因を検討しよう。
何が犯罪を増やしているのか パート2
警察組織におけるアファーマティブ・アクション
 1990年代に犯罪は減少したが、その時代はまた警察におけるアファーマティブ・アク
ションが始まった時期でもある。だが、これは犯罪を減らしたのではなく、むしろ増やし
たのである。
 警察に女性や黒人その他のマイノリティを採用することそのものは、犯罪を増やすわけ
ではない。人種に根ざしたギャングなどはその人種の警官の方が調べやすいし、その地域
に生まれた警官はより詳しく犯罪について知りえるだろう。また女性の警官は、DVなど
の検挙や防止に役立つことは間違いない。
 アファーマティブ・アクションでは、警官の構成が周辺住民とおなじ人種構成となるこ
とを求める。体力テストは女性に不利であり、知能テストや過去の犯罪歴は黒人に不利で
あるため、各地でこれらのテストの置き換えが進んできた。
 女性に対して異なった体力テストを課すという方法がある。また、知能テストに代えて、
気性や生活習慣などによって、警官を採用するようになってきた。黒人層に配慮して、知
能テストでは現在の警察官の下位1%に入ればよい、とするものまである。
 ルイジアナのケースはとくに注目に値するだろう。ある黒人応募者は、66%の白人がテ
ストを通過するのに、黒人では25%にしかすぎないことが差別であるとして、州警察局
を訴えたのだ。テストのどの部分が職務と無関係であるのかの主張はほとんどなされず、
また過去の別の町での連邦裁判所の判例でも、テストは差別的ではないと判示しているの
もかかわらず、ルイジアナは訴訟費用を嫌い、100万ドルを原告に支払い、さらに黒人を
18人警官として採用したのである。
 ワシントンDCでは、1986年から1990年の間に、3分の1の事件が不起訴になってい
るが、それは警官の書く報告書がまったく読めないものであったためである。多くの警官
は、理解可能な英語を書く能力を持たないのだ。
 シカゴでは500万ドルを支払って、人種バイアスの入らないテストを開発したが、結局
抽選で警官や消防士の採用を決めている。
 あるいは女性を採用するための採用枠では、女性の筋力が男性の半分であることを考慮
したテストがなされるが、それはつまり体力に劣る警官を意味する。このため、一人でパ
トロールをすることが減り、同時に自転車の代わりに車が必ず必要になった。
 アトランタの法廷では、100キロの男性被告を、50歳の155センチの女性警官が警護し
ていたところ、力ずくで銃を奪われて、裁判官、書記、検察官、警官が殺されてしまった。
メディアはこの事件を警察の配置の問題だとしたが、それはアファーマティブ・アクショ
ンの結果なのだ。
 私は、地方自治体のレベルで、アファーマティブ・アクションの与えた犯罪への影響に
ついて調べてみた。結果、アファーマティブ・アクションは犯罪を大きく増加させるが、
採用枠を設ければ、それほどでもないということがわかった。黒人警官を1%増やそうと
すれば、殺人が2%、暴力犯は5%、財産犯は4%増加するのだ。
 黒人警官が犯罪を増やすのではなく、黒人を採用しようとする際に、警官にふさわしく
ない心理テストを使って、白人、アジア人などの警官を採用することが問題なのだ。これ
に比べて、女性に低い体力テストを課すことは、男性の体力テストを上昇させることにな
るため、それほど大きな負の効果をもっていない。
 体力の低い女性警官の採用は、一人での徒歩や自転車でのパトロールを不可能にして、
二人でのクルマを使ったパトロールを要求し、結果、パトロールの量は減り、犯罪につな
がってしまう。銃の使用は女性警官の価値を平等化するが、しかし物理的に力があった方
が犯罪者を拘束しやすい。女性を採用しようとした地方では、拳銃の発砲が増加する結果
を生むのは、この理由からだ。
 アファーマティブ・アクションはマイノリティを保護するためだが、マイノリティこそ
が犯罪の被害者でもある。知能テストをやめるよりも良い解決法があるはずだろう。
何が犯罪を減少させたのか パート1
死刑
 犯罪を減少させた唯一の原因を特定することはできないが、死刑の復活はその一因だろ
う。76年に死刑宣告が再開されたが、90年代までその執行は行われなかった。
 警官という職業では、2005年に5600人に一人が死んでいる危険なものだ。彼らは、防
弾チョッキを着たり、その他あらゆる対策を行っている。これに対して、殺人犯では278
人に一人が死刑になっている。
 死刑が犯罪を抑止するとは思えないという考えはよく耳にするが、犯罪者が会計士や教
師ほどにはリスク回避的でないとしても、死刑のリスクを考えないほどに不合理であるは
ずはない。
 例えば、ニューヨークタイムズは、死刑を執行している州でも高い犯罪率のところはあ
る、としゅちょうしているが、これは何の意味もなさない。68年から76年まで死刑は不
採用となったが、この間、暴力犯は急増した。その後、死刑を再開した州では、76年か
ら98年までに38%の殺人の減少となっているのだ。
 76年にシカゴ大学の助教授であったアイザック・アーリックは、一回の死刑執行が20
-24人の人命を救うと結論した。リベラルな学会でこの発表は嫌われ、彼はシカゴ大学
を追われ、他の大学からも採用を拒否された。しかし、その後の研究は大まかに、彼の結
論を肯定している。(135ページ、グラフ、136ページ 表)
 90年に再執行され始めた死刑によって、犯罪は1991年から200年までに減少し、年間
9114件の殺人が減少し、年間71人が死刑執行されている。1件当たりの殺人減少効果は、
15-18人の殺人の潜在的な被害者を救っているのだ。90年代の殺人の減少の12-14%が
死刑に起因するものである。
 死刑によって影響を受けない殺人もある。大量殺人では、犯罪者が自分がその犯罪中に
射殺されるか、後に自殺することを覚悟しているため、そういった事件は減少しない。こ
れは私とランデスがシカゴ大学で行った研究で明らかになった。
 死刑は殺人だけでなく、レイプや傷害なども減少させているが、だからといって、こう
いった犯罪に死刑を適用すべきではない。死刑を多く使えば、犯罪の総数は減少するかも
しれないが、軽犯罪でも死刑を恐れる犯人が、被害者や目撃者を殺すことになり、かえっ
て殺人の被害者が増えてしまうことが考えられるのだ。
 アメリカでは死刑に68%が賛成しており、ブラジルやイギリス、日本でも同じである。
死刑を廃止した国はすべて国民ではなく、司法部による強制によって死刑が廃止されてき
たのだ。死刑が暴力犯を抑止することはようやく広く知られるようになってきている。
何が犯罪を抑止しているのか パート2
法の厳格な執行
 90年代の犯罪の減少にもかかわらず、収監されている犯罪者の数は増加してきた。こ
れは検挙率の上昇を意味している。これこそが犯罪の減少につながったのだ。殺人の減少
の16-18%が検挙率の上昇によって説明され、さらに12%が有罪率の上昇によって説明
される。これは暴力犯にはさらに大きな効果を持っており、財産犯ではさらに大きい。
 実際の服役期間のデータは研究者が得られないものだが、検挙率は確実なものだ。収監
率の増加によって、さらに12%の犯罪減少が説明される。逮捕や起訴でさえも、評判な
どを通じて大きな犯罪の抑止となるのである。
何が犯罪を抑止しているのか パート3
拳銃の携帯
 拳銃を護身用に携帯することは、死刑ほどには大きな話題にはならなくなってきた。
2007年までに40の州で銃の携帯が許可され、イリノイとウィスコンシンだけは銃の携帯
を許可していない。銃の携帯には、通常、20歳以上であったり、犯罪歴がない、許可証
を携帯する必要がある、などの条件が伴うが、すでにアメリカには400万の銃の携帯許可
証が発行されている。
 問題は、それがリスクを高めているのか、あるいは犯罪を抑止しているのか、である。
許可証を得ようとする人々はそもそも順法意識が高いのであり、犯罪者は許可証など申請
しない。フロリダでの100万の許可者のうち、0.01%が違反を犯しているが、そのほとん
どは許可されていない場所への意図せぬ銃の持ち込みであった。
 警察は犯罪に対する最大の抑止力だが、個人としては銃を持つのが最も効果的である。
これは134万人の調査でも答えられていることだ。実際、全負傷者のうち、銃を持って威
嚇しケガをするのは3.6%、走ったりクルマで逃げたものが5.4%、叫んだものは12.6%、
武器を持たずに威嚇したのが13.5%である。55%は何もしなかった人である。
 ガンジーは非暴力でもイギリスに抵抗できたかもしれないが、犯罪者にはそれは通用し
ない。ブロナースと私は、銃を携帯許可している地区と、していない地区にまたがる都市
を研究した。許可されていない地区は、暴力犯罪が4倍も多いのだ。犯罪者は残虐かもし
れないが、バカではないのである。
 銃の携帯許可は年間犯罪を1-1.5%減少させる。100万件の許可証の発行は、649件の
事故による死亡につながっているが、これは携帯を許可してもしなくても変わらないのだ。
 反論するものもあるだろうが、マーク・ダガンのサーヴェイでは、30の研究のうち16
が抑止効果を示しており、犯罪を誘発するとしたものは1件しかない(143、144ページ
表)。死刑の執行、検挙率の上昇、銃の携帯許可の3つで90年代の犯罪減少の50-60%
が説明されるのだ。
何が関係ないものだったのか パート1
年齢と人種
 殺人は20歳をピークにして、17-25歳の男性が起こすことが多い。20歳に比べ、30歳
では殺人の確率は半減する。しかしアメリカ全体が高齢化したことが、犯罪の減少の理由
とまではいえない。若年人口は増えているのだ。
 黒人の場合、白人の2倍以上の殺人を起こす確率がある。91%の黒人被害者は黒人によっ
て殺され、84%の白人被害者は白人によって殺されている。黒人の人口は1974年の
11.7%から2004年の13%まで増えているが、犯罪の減少はすべての年齢でおこっており、
人種の構成比率の変化はあまり関係ない。
何が関係ないものだったのか パート2
銃規制
 2004年の銃規制法の失効によって、銃規制賛成派は、大量の犯罪が起きるだろうと予
想したが、現実には、犯罪はまったく増加していない。独自に銃規制を持つ州では犯罪率
が若干低いが、そのうちどれだけが銃規制の結果であるのかは、はっきりしない。
 ブレイディ法案によって銃の所持が禁止されているのは犯罪歴のあるものであるが、犯
罪者はそもそも違法に銃器を手に入れるため、順法精神の高い人々から銃を奪うことが、
犯罪の抑止に効率的であるとは考えられない。
未だによくわからないもの
「壊れた窓」の理論
 1980年に犯罪学者のウィルソンとケリングは、「壊れた窓」の理論を提唱した。それ
は、壊れた窓は、さらなる破壊行為を生み、犯罪を生み出す温床となるというものだった。
小さなほころびが次第に大きくなり、犯罪文化を誘発するというのだ。
 1990年にニューヨーク警察はこの理論を採用し、落書きから道での泥酔、立ち小便に
至るまでの小さな犯罪が残らず罰せられた。7900の殺人減少のうち、ニューヨークでは
1580であり、全米の5分の1になる。ニューヨークの犯罪の減少率は全国の2.4倍にもな
るが、しかし今も全国の2倍以上である。
 ニューヨークの警官は2700人から40000人になり、給与も上げられた。アファーマティ
ブ・アクションは中止され、銃の引き金を引けないという体力的な理由で解雇者も出た。
 犯罪は確かに減ったが、それが「壊れた窓」の理論が正しいことを意味するわけではな
い。私の全国1万人以上の自治体を使った研究では、効果ははっきりしなかった。数字で
は、殺人と自動車窃盗は増加し、レイプや窃盗は減少していたのだ。ニューヨークでは何
かうまくいくための要因があったのかもしれない。
犯罪についてのいくつかのおかしなこと
家賃規制がどうやって子猫を殺してしまったのか:関係者すべてが望まない法規制
 暴力犯罪の被害を食い止めるのは難しいが、関係者が望まない法律の場合、状況ははる
かに複雑になる。この場合、関係者に法を順守させるために、相互不信というインセンティ
ブが必要になるのだ。
 かつて私がUCLAの学生だったとき、大学を離れる友人が、彼のネコをもらってくれ
ないかと頼んできた。私と妻はかわいそうに思い、アパートの管理人にネコを飼えないか
と聞いたが、管理人は、アパートのオーナーに聞くから、その返事が来るまではダメだと
言ってきた。
 2,3週間連絡がなかった。その間、私たちはネコがネコ白血病にかかっていることを
知った。ネコ白血病は伝染性で、抗体を与えないとすぐに死んでしまう。しばらくして、
私たちはオーナーが高い家賃を支払えばネコを飼ってもいいと言っていると管理人から聞
いたが、管理人は、これは家賃規制法に違反するから不可能なのだとも告げてきた。私の
友人たちにも聞いて回ったが、皆がすでにペットを飼っていた。アニマル・シェルターで
働く人は、伝染病のネコは処理しなければならないと伝えられた。
 私は規制委員会に電話をかけて、状況を説明し、許可を求めた。担当者は、「オーナー
がいいといえばいいし、ダメだと言えばダメです」と告げた。私は、高い家賃の許可が関
係していることを説明したが、担当者は同じ返事を繰り返すだけだった。次第に担当者は
怒り出し、オーナーの許可を得ることを繰り返し、40分以上もこうした会話が続いた。
 フラストレーションを感じて、UCLAのロースクールに相談したところ、相談員は
「単に規制を無視して、高い家賃を支払って、ネコを飼えばいいのだ。しかし、オーナー
たちはそれを受取らないだろう、なぜなら家賃規制違反が見つかった場合、2倍額を払い
戻す必要があるからだ」といった。
 短期間であれば、あるいは違反は機能するかもしれない。しかし、長期間化すれば、誰
かにゆすられる可能性は高まり、賠償額は膨大になる。入居者が同意した契約であっても、
オーナーが責任のすべてを負う。入居者は、犠牲者として扱われる。
 こういった区別は、家賃規制では普通だ。ロサンゼルスでは、3倍額を払い戻す必要が
あるが、委員会によれば、家賃規制を実効的にするために、こういう制度が採られている
という。1件の報告では十分ではないが、数件の報告で十分に違反を認定できるのだとい
う。最終的には、家賃規制に違反するものはほとんどいなくなってしまう。入居者が出て
行った後でさえ、賠償を請求される可能性があれば、誰も違反はしないのだ。
 悲しいことに、私たちは仕方なく、ネコを処分することになった。ネコの話は何を経済
学に教えるのだろうか?契約者の片方を犯罪者、片方を被害者と定義することによって、
法律は契約者間に不信感を生み出すことになる。長期間のうちには、被害者が裏切るイン
センティブが高まり、結局はこの規制は機能せざるを得ないことになるのだ。
 こういった不信による法律の順守というのは異例に思えるが、最低賃金法もまた同じだ。
最低賃金法は、それ以下の労働価値しかない人を失業に陥れてしまい、失業率を増加させ
るが、順法的な企業は法規を破ろうとしない。
 アメリカで最低賃金以下で働くアメリカ市民は1%にも満たない。それらの場合も、単
なる間違いによるものであることがほとんどだ。労働者が違反を申告すれば賠償を得るこ
とができるため、長期間のうちには申告を行うインセンティブが増大する。違反事件の
75-80%は労働者による深刻である。
 しかし、この状況はアメリカの不法移民には当てはまらない。企業が不法移民を雇うの
は、彼らがより低い給与で働くからであるが、彼らは不法に滞在しているために裁判所に
状況を訴えることができないからなのだ。これはギャングに入るためには重大な犯罪を犯
す必要があることに似ている。警官に訴えることによって失うものがあるものになって初
めて、ギャングの仲間入りができるのだ。
ガン・ロックと安全保管法
 ガン・ロックをつけることが、命を守ることだと思われている。銃を撃つのが大好きな
カウボーイだと思われているブッシュ政権の間でさえも、ガン・ロックは3200万ものガ
ン・ロックが配られたのだ。2005年にブッシュは、銃のメーカーを訴訟から守るために、
ガン・ロックをつけることを義務付ける法案を通している。各州でも同じであり、若者に
よって銃が使われた場合には、それを犯罪とするようになってきている。残念ながら、こ
ういった努力は実りがないものだ。ガン・ロックと安全保管法は、より多くの人命を奪っ
ているからだ。
 経済学者は、この他にも、予想に反して安全規制が安全性を下げ、犠牲者を増やす例を
発見してきた。これは、安全規制によって、人々がよりリスクを取りやすくなるからだ。
クルマの安全規制によって、より早く、不注意に運転する人が増えたのだ。事故あたりの
死亡率は下がっているが、事故の総数は上昇しており、結局死亡数は増加した。1980年
代には、「子どもに開けられない」キャップの採用によって、人々は子どもの手に届くと
ころに風邪薬をおくようになり、3500人の子どもが薬の誤用によって死亡した。それ以
上の子どもが、別の研究ではケガをしているという。なぜなら、公園が安全になったため
に、退屈を感じた児童がもっと危ない行動をとるようになったからだ。
 ガン・ロックについても同じだ。確かにガン・ロックは偶発的な事故を減らすが、防御
のための銃の使用を難しくしてしまい、犯罪者への攻撃は困難になり、犯罪はより容易に
なってしまう。ガン・ロック法が成立した後、屋内での強盗や殺人は20%も増加してい
る。防御のためにガン・ロックが邪魔をするのだ。
 偶発的な事故による死亡はまれだ。4000万人の10歳以下のアメリカ人のうち、2003年
に銃の事故で死んだのは20人だ。窒息ではこの40倍、水死はこの32倍、火事では20倍
の子どもが死んでいる。
 9000万人のアメリカ人が銃を持っていることを考えると、銃を持っている人々は非常
に注意深いのであり、ガン・ロックを必要とはしていない。
 とはいっても、子どもが誤って銃を発射し、兄弟や友人を殺してしまうのを防ぐために
は、ガン・ロックが必要だと考える人もいるかもしれない。しかし、これは誤りだ。偶発
的な事故は20代の男性によって引き起こされており、そういった人はアルコール中毒で
あったり、犯罪歴があったり、運転違反があったり、免許の停止を受けたりしている可能
性が極めて高い。悪意の大人は確実にガン・ロックを外せるが、10歳以下の子どもは実
は、銃のトリガースライドを引き上げることすらほとんどできないため、ガン・ロックは
機能しない。
 あるいは、自殺を防ぐためにはガン・ロック法と安全保管法は意味があると考える人も
あるかもしれない。ホイットリーと私が研究したところ、50州のすべてにおいて、この
効果は見られなかった。銃の所持は順法的な家庭によってなされており、規制法は、反撃
手段としての銃の有効性を下げるにすぎない。1977年から1998年までに、こういった安
全法は年間300の殺人の増加と4000のレイプの増加を生んだ。
 銃をロックし、持たせないようにすることは、死亡数を引きあげてきた。もっとも良き
意図を持つ法が、人命という代償を要求する予期せぬ効果を持っているのだ。
小さな環境汚染への大きな罰:驚くほど良い政策
 1990年代に、企業犯罪への罰の見直しが行われた。それまでの法律では、重油タンカー
の転覆による汚染などの大きな罪には比較的小さな罰が与えられていたが、海上に重油缶
をすてるなどの小さな環境汚染に対しては、被害額に比して大きな罪が与えられてきた。
委員会はこれを見直し、大きな罪にも大きな罰を科そうとしたのである。
 しかし、これはあまりいい考えではない。大きな汚染は発見されないことはないだろう
から、必ず罰が与えられるが、小さな犯罪は見つけることが難しいため、ほとんどを見逃
すことになる。被害額をはるかに上回る罰金は、めったに見つからない小さな犯罪に科せ
られるべきなのだ。
5章 投票権・正しい投票と間違った投票(Voting Rights and Voting Wrongs)
 自由市場と政治的自由は、通常、同時に存在する。権威主義的な政府が自由市場を維持
することも稀にはあるが、それは例外だ。人々の民主的な選挙を信じない体制では、経済
活動や情報規制においても人々を信じていない。
 選挙はあまりにも重要であるため、それを分析してみるのも面白いだろう。政府の膨張
はルーズベルト大統領によって始まったとされているが、私たちの第一の結論では、ある
政治集団の政治参加によって引き起こされた。第二には、選挙を改良するための秘密選挙
などの制度は、投票率の低下につながったのである。第三に、最近の選挙における詐欺に
ついて分析した。最後に、我々が世界についてもっとも多くの情報を受け取る、メディア
と公共教育における隠された目的を発見した。
女性参政権と政府の膨張
 19世紀にGDPの2-3%に過ぎなかった政府支出が、20世紀に急速に増えた理由は多
くの人にとって謎だった。ルーズベルトによるニューディールがその原因であるといわれ
ているが、政府支出は1920年代には急速に増大しており、ルーズベルトはその傾向を加
速させたにすぎない。本当の理由は女性の参政権獲得にある。
 世論調査によれば、女性は男性とは異なった意見を持っている。1980-2000年において
は最大22%にもなる民主・共和党の支持格差がある。女性が投票しなかったとすれば、
1968-2004年までのすべての大統領は共和党になったはずだ。
 最も大きな違いは、小さな政府と減税というものへの態度だ。女性は1996年の、生活
保護の受給にはある程度の諸局生活を必要として、受給総額に上限を設ける法案に、大き
く反対している。また医療保険、社会保障、教育支出にも賛成である傾向が強い。
 女性は男性よりもリスク回避的であることが知られている。人生のリスクを回避するた
めの政府プログラムを支持するのは理由がある。また、女性は平均的に所得が低く、また
所得変化も少ない。独身の女性が、累進課税を肯定するのは当然である。結婚している女
性は、その夫の所得も重視するため、高い税率に反対することが多くなる。
 結婚によっても、政治への態度は変化する。主婦になった女性は、市場でのスキルを上
昇させることができないため、離婚の恐れがある場合には、累進課税や各種の所得移転に
賛成する。離婚をすることがないと考えている女性は、そういった所得移転に反対する。
これは、誰も何の利益もなければ、自分の家庭の財布と政府の財布を一緒にさせる気がな
いだろうことを考えれば当然だ。
 本当に女性の参政権が、政府を肥大化させたのだろうか。48州の歴史を見ると、女性
参政権は西部家ら始まり、ワイオミング1869年、ユタ1870年、コロラド1893年、次い
で、1910-14年には8州で、17-19年には17州に拡大した。20年には憲法修正第17条が
認められ、女性の参政権が憲法に記された。
 女性参政権が政府を拡大させたのなら、それは統計に表れているはずだ。実際、女性参
政権が認められるとすぐに、政府支出は急速に拡大し始めているのだ(163ページ)。確
かにグラフは参政権が原因であるように思われるが、他の要因が存在し、女性参政権を拡
大すると同時に、政府支出も拡大したのかどうかを調べる必要がある。
 修正17条の規定にも関わらず、9州は即座にそれを実行したが、10州はそれを実行し
なかった。もしかりに、女性参政権以外の理由が政府を膨張させたというのなら、二つの
グループでは、女性参政権と政府の拡大時期が異なるはずである。しかし、データは、両
方が同じであることを示している。
 1960年までに女性の投票率は男性と同じになり、この事実は政府の肥大化の多くを
説明する。女性は、次第に大きな政治勢力となり、有権者として、組織されるようになっ
たのだ。
 だが、1970年代には、女性の多くが離婚してあるいは結婚しないでシングルマザー
になるようになった。離婚率が高いほど、女性はリベラルになる。結婚する以前の女性は、
男性よりも50%も民主党を支持しているが、結婚するとその差は3分の1になる。離婚
をすると、75%、より多くの女性が民主党を支持するというように、女性の人生では政
治思想は変化する傾向があるのだ。
 おそらく、政府政策は、より大きな政府を作り出しているのだろう。離婚しやすければ、
それだけ離婚者は増え、政府の生活保護が必要になる。離婚に相手の問題という理由が必
要なら、男性は離婚する際に、より多くの生活費と慰謝料を妻に支払う必要がある。しか
し、離婚に理由がいらないのなら、女性の地位は大きく弱まってしまう。この結果、女性
は結婚しても職を続けるようになり、その結果、夫婦の時間は減って、離婚が増加すると
いうわけなのだ。
 女性参政権が政治の世界を大きく変えたのは、政府のサイズと税制だけではない。女性
はより抑制的であるため、中流階層の女性によって、各種の規制法が作られることになっ
たのだ。アメリカでの女性の政治的な活躍は1960年代からだとされているが、実は、
それ以前からはるかに大きな影響を与えてきたのだ。
 
投票率の低下: 投票税、秘密投票と識字テスト
 
 ほとんどのアメリカ人は、秘密投票は民主主義を向上させるが、投票税と識字テストは
アフリカ系アメリカ人を選挙から追い出すため、民主主義を抑圧するひどい不正義だと考
えている。投票税は、投票時にお金を集めるもので、その資金はもともとは、ほんのわず
かな量であっても、選挙費用として献金されるものだった。しかし、世論では、投票税は
もっとも選挙を害するものだとしている。
 1870年代から続いた投票税は、1964年には連邦選挙、1965年には州選挙か
らなくなってしまった。主に南部諸州で行われていた投票税は、黒人を投票させないため
のもので、わずか1-2ドルで安定していたが、10%程度投票率が下がったと考えられ
ている。
 投票税は、廃止された後も長く影響を残した。税がなくなると4%程度の投票率の増加
がみられたが、1980年代になっても、1%程度の影響を残している。これは女性の場
合もそうだが、選挙行動には組織的な部分があり、政治活動への参加には長い時間が必要
だということを意味している。
 秘密投票は、投票税とは違うと考えられている。アメリカの伝統であるとも考えられる
秘密投票は19世紀にはじまり、20世紀に完成したもので、その選挙によって他人を怒
らせたり、傷つけたりしないために、投票をより公正にするだろうということで採りいれ
られた。
 秘密投票は理念とは異なり、実際には、投票税と一緒に採用された。当時の投票は色に
よって候補者を選ぶことができたために識字できないものでも可能だったのが、投票税の
廃止とともに黒人に投票させないために、秘密投票によって字を書くことを要求するよう
になったのだ。これによってわずかに投票率は下がったが、さらに票の買収ができなくなっ
たために、4-5%の投票率が低下した。
 識字テストは1900年後ころから使われ始め、それは合衆国憲法の一文を読ませるよ
うな形で行われた。1930-50年代には投票税に代わって南部諸州ではアフリカ系ア
メリカ人の投票を妨害するために広く使われ、5-6%の投票率を低下させていた。19
65年になって初めて全廃されたが、南部の政治に与えた影響は、投票税と秘密投票の方
が、識字テストよりも大きかったのだ。
 
投票詐欺
 席虚は公正で正確でなければならないが、不在者投票や身元確認方法、郵便による投票
などには論議がある。もちろん、投票税のように、投票のコストを引き上げれば投票率は
低下するが、研究によると選挙規制のいくつかは確かに投票率を低下させるが、逆に信頼
性の向上によって投票率が上昇するというものもあるようだ。
 アメリカにおける投票詐欺は、深刻な問題になってきた。フィラデルフィアでは、ニュー
ジャージーに住む男が、100回以上も死人の名をかたって、投票していたことが分かっ
ている。アトランタでも同じような例があり、セント・ルイスの投票者名簿は10年も更
新されていないため、死亡者の名をかたった詐欺が起こっている。
 2000年の大統領選挙で有名になったフロリダでは、1997年のマイアミ市長選挙
の際に、数千もの不在者投票詐欺が起こっている。翌年、八百十万人の有権者のうち、1
7702人は死亡しており、47000人が複数の投票所で登録し、50483人は刑の宣告
受けた重罪人であり、選挙権がなかった。他の州でも、投票数が住民数よりも多いという
ことが起こっている。ウォール・ストリート・ジャーナルの記者は、モンタナとヴァージ
ニアの2006年の上院選挙は、選挙詐欺によって当選が決定したと考えている。
 投票率の向上のために、不在者投票があるのだが、これが詐欺の大きな原因である。養
老施設の管理者は、その管理者の名簿にアクセスしやすいが、これがまた買収行為につな
がっているのだ。不在者投票はまた、投票者が明らかになるため、買収行為の対象ともな
りがちだ。
 郵便投票もまた買収にかかりやすい。ある左翼団体は、セント・ルイスでは1500、カ
ンザス・シティでは3000の、投票権のない子どもや死亡者の名をかたった明らかな詐欺
が起こったと報告している。
 このため、ジョージア、アリゾナ、ミズーリなど多くの地区で登録法と身元確認の要求
を巡って、訴訟が起こっている。
 他国を見れば、投票詐欺が投票率をどう変えるかがわかるだろう。メキシコでは、1990
年代の詐欺を受けて、不在者投票、郵便投票が禁止され、6か月前に選挙登録をし、身元
確認には写真や指紋を要求している。その結果、大統領選挙では改革前の59%に比べ、
改革後は68%の投票率になった。公正な選挙は、より多くの人を投票させるのだ。
 アメリカでは、メキシコほどの腐敗が起こっていないため、これほどの効果は期待でき
ない。しかし、どういった選挙投票規制も、投票率を下げるという結果は出ていないのだ。
この結果というのは、選挙規制によって、低下させられた投票率と、選挙規制によって、
人々がより多くの信頼をして投票率が上昇したという二つの効果の産物だ。
 詐欺が最も起こっている地区においては、選挙方法の規制は投票率をわずかに上昇させ
るが、詐欺が起こっていない地区では、そういった効果は見られない。選挙期日前投票も
また、投票率を低下させているのは、多くの人々にとって驚きであったが、それだけ、人々
は選挙の公正を気にかけているということなのだ。
投票に使用する機器
 投票詐欺は大きな問題だが、パンチカードを使った投票機が、組織的に多くの人々の投
票をカウントしないようになっているとも、広く信じられている。投票機をめぐって、
2003年にはカリフォルニア州知事選挙で選挙訴訟が起こり、2004年にはオハイオでも訴
訟が起こっている。世論では、30%のアフリカ系アメリカ人が、45%の民主党員が投票機
に問題がないと考えている。そして、すべての有権者でも、その60%しか完全に信頼し
ていないのだ。
 パンチカードは2000年には3400万回使用されたが、2006年には400万回し
か使われていない。光学スキャンは7000万回、電子投票は6700万回使用された。
パンチカードは問題があるが、他の方法よりも優れた点もある。
 2000年の大統領選挙では、パンチカード利用者が候補者を選んでいないという点を
めぐって、その解釈をめぐって大きな議論になった。しかし、パンチカードは他の方法よ
りも、10%程度の投票率の上昇を生み出す。2006年のオハイオの上院選では、10
分の1程度の投票が減少しているのだ。
 投票が重なっている場合、電子投票は10%程度よけいに時間がかかり、また高齢者に
はその使い方がよくわからなくなる。アフリカ系アメリカ人は、パンチカードを使った方
が、白人よりも投票率が高いのだ。これは、教育程度に依存していない。義務教育程度か
ら、大卒、大学院卒まで一貫した傾向だ。興味深いのは、高所得者層は投票を棄権するこ
とが低所得者層よりも15倍も多いことだ。
 電子投票はハッキングの危険性があるとされるが、これもまた誤りだ。電子投票機はオ
ンラインではないし、投票は書き換えできない方法によって記録されている。過去にハッ
キングされた例もない。ハッキングの可能性は、投票前と投票後のプログラムチェックに
よって阻止されており、その可能性は低い。
 陰謀理論は根強いが、そういった可能性は低いし、またそういった形での選挙批判は実
りがあることもないままに、将来の投票率を低下させるだけだろう。
2000年大統領選挙
 2000年のフロリダでの大統領選挙では、パンチカードの問題がクローズアップされた
だけでなく、組織的な黒人票の無効化が議論された。そういった疑問を呈したのは、黒人
指導者のジェシー・ジャクソン氏だけではない。
 確かに黒人の民主党員の投票は少なかったが、それ以上に黒人の共和党員の投票は少な
かった。ハッキングなどの陰謀理論は、これを説明できないし、その可能性は低いだろう。
選挙での「当選確実」の報道
 メディアによる当選確実の報道は、東部での選挙で確定すると、西部諸州での投票率を
大幅に下げてしまう。2000年のフロリダでも、ゴアが勝利したようだとの報道を受けて、
おそらくは10000票程度の共和党支持者が投票をしなくなったと見積もられている。報道
は、投票を阻害する重大な要因となっているのだ。
犯罪者の投票
 フロリダの選挙は537票差での共和党の勝利というものであったため、もしフロリダで
犯罪者の名誉回復による選挙権の復活が行われていたら、状況は異なっていただろう。驚
くことに、犯罪者の多くが、選挙権を獲得したのちに民主党の大統領に投票しているのだ。
 なお、犯罪者の多くは、出所後に所得も低いままに、貧困地区に住んでいるのが普通だ。
彼らが望むのは選挙権ではなく、銃の保持許可であるが、これは許可されていない。
 犯罪者が民主党を支持する確率は、同年齢、同じ社会階層、性別に比して、30%以上も
高い。93%もの選挙権回復者が、2004年の選挙で、共和党のブッシュではなく、民主党
のケリーに投票しているのだ。民主党が、犯罪者の名誉回復に熱心である理由が理解でき
るだろう。
メディアは偏っているのか?
 投票は市民の義務であり、多くの人は、自分が投票していないことを認めたがらない。
選挙後の調査では、20%も多くの人が自分が投票したと答える。2004年の大統領選挙で
は40%が、2000年の大統領選挙でも45.6%が投票しなかった。
 選挙民が議論の内容を理解していないのだろうか?それなら、彼らは自分の好きな団体
に、候補者を聞けばいい。全米ライフル協会に聞けば、銃規制反対派が誰か、シエラ・ク
ラブに聞けば、誰が環境保護派であるかを教えてくれるだろう。
 とはいえ、多くの有権者はメディアから情報を得る。立場の違いによって、どこがどち
らにどの程度のバイアスがあるのかという認識の違いはあるが、メディアが偏っていると
いうことについてはコンセンサスがあるようだ。
 保守主義者からすれば、ジャーナリストが自分をリベラルであると考えることそのもの
がバイアスの存在の証明だ。ジャーナリストが自分を保守であるとする割合は、
1994-2005年にが4%から7%に上昇したのに対し、リベラルは22%から34%になった。
 テレビ局員による政治献金もまた民主党寄りだ。CBSの98%、NBCの100%、保守
といわれるFOXでさえも81%が民主党に献金している。
 私はニューヨーク大学の歴史学教授から、メディアがすべて左派であるというなら、重
心が左派によっており、少しぐらいの左派では、保守的とみなされてしまう、というメー
ルをもらった。もし、すべてが偏っているとしても、どうやってそれを確証するのだろう
か?左派にとって重要な事実は、右派にとっては重要ではないため、確認することは難し
い。
 私とハセットは、メディアが偏っているかどうかを、1985-2004年の経済ニュースを分
析することで確認しようとした。客観的であるというのは、失業率、GDP、小売、耐久
財消費などである。我々は、ヘッドラインだけに注目することで、メディアの与えようと
するインパクトを推定した。
 大統領が民主党である場合、共和党である場合よりも、20%以上もよいヘッドライン
ニュースが流れていた。下院が民主党であれば、なお良いが、大統領も下院も共和党であ
る場合が、もっともニュースが悪い報告になっていた。
 10大新聞を見ると、シカゴ・トリビューン、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・
ポストやその関連新聞は同じように民主党を支持していたが、共和党には「ご当地効果」
があるようで、レーガンはロサンゼルス・タイムズに、ブッシュはニューストン・クロニ
コルに支持される確率が高かったようだ。
 メディアの偏りによって、おそらくは民主党の支持者は4%ほど増加していると推定さ
れる。これは2000年、2004年の大統領選挙が僅差であったことを考えると、大きなこと
である。
 
情報の政府規制:公共教育からメディアへ
 メディア以上に多くの人々が情報源としているのが、公共教育である。教師の言うこと
を信じない学生はいないし、教科書には何が未来の世代にとって覚えるべきことかが記さ
れている。そして、公共教育は、政府の信じる価値を広めるために存在しているのだ
 アメリカの教育史について語る前に、全体主義国家での教育についてみてみよう。彼ら
がそのイデオロギー教育を徹底する時、保守的な価値観を教えるとして、その対立者とな
るのが家庭なのだ。ソヴィエトでは1920年代、また50年代に、家族の価値観を破壊する
ために、子どもを共同寄宿舎に入れて、教育した。これは、ソヴィエトがアフガニスタン
を占拠した際にも繰り返され、3,4歳の子供たちがソヴィエトでの教育を受けて、将来
の共産主義者となるように養育された。
 大戦後のソヴィエトは、家庭教育を伝統的な価値の温床として完全に否定することから
始めたのだ。これは共産主義国家だけではなく、1969-73年のスウェーデンでも同じだっ
た。「反動的で、望ましくない」価値観を払しょくするために、スウェーデンでは子ども
の養育院が作られ、両親が共に働くための税制度を作り、家庭をバラバラにしたのだ。
 社会的な価値の伝達所としての公共教育が重視され、政府による独占となる。政府は公
正で正しいという考えが植え付けれるため、公共教育を受けた子どもは大人になってから
政府を支持することが圧倒的に多くなるのだ。
 全体主義では、教師の採用や解雇は政治的な目的によって行われるため、ソヴィエトで
は学術ではなく、政治的な要請によって昇進が決定されるのが普通であった。官僚も同じ
ように行動した。チェコスロヴァキアでは、学生による自主的な情報が当局に集められ、
教師が監視された。そヴぇ絵とでも、「クラスからの情報提供者」が教師を悩ませた。
 アパルトヘイト時代の南アフリカでも、教育機関は白人用、黒人用、アジア人用、混血
用、の4つに分けられ、それぞれの人種の教師によって教えられ、白人の優越を教えてい
た。黒人教師は頻繁に黒人社会からの恨みを買うため、殺されたりし、その結果、黒人教
師の給与プレミアムはもっとも高くなっていた。
 こういった教育は、イスラムでも同じだ。サウジアラビアその他のイスラム原理主義国
では、ユダヤ人は畜生と同じであり、彼らを殺しても構わないこと、アメリカが悪魔の使
いであること、すべてのイスラム国家が滅びる運命にあること、などが教えられている。
 これらの全体主義国家とは違い、アメリカの公共教育は偏っていないと思うかもしれな
いが、アメリカの公共教育制度の発達は国家的な価値の普及のためだったことは間違いな
い。
 1820年代には、教育は宗教的なものだった。ニューヨークでは、すでに93%の子ども
が学校に通っていたが、カソリック教会学校に通う子どもが将来犯罪を犯すため、そういっ
た犯罪と社会費用を減らすためと称して、プロテスタントの学校が補助金を受けるように
なった。
 その結果、カトリック家庭の子供を引き寄せるために、プロテスタント学校では、より
多くの数学、国語を教えるようになり、反対にカトリックの親の嫌うプロテスタント教育
は減少してしまった。そして、もともとのプロテスタント教育という目的にはそぐわなく
なったのだ。
 1867年までに、ほとんどの公共教育は競争を排除するために、政府からの支出で賄わ
れるようになった。これが、アメリカの教育の始まりだった。
 アメリカの公共教育が教えようとした理念とは、「すべては政府が解決できる」という
ものだ。これが広まった結果、前述したような、私自身の公立大学での経験が発生したの
だ。それは、公立学校が税金で賄われており、税金を減らすような改革は大学の基礎を掘
り崩す可能性があるために、大反対されるということだ。私は、減税に賛成することを大
学から禁止されたのだ。これは、高校の教師でも同じである。彼らは、その給与を税金か
ら得ている以上、政府の維持と拡大に権益を持っているのだ。
 各政党は、どちらがより多くの支出を教育に回すかを競い合っているが、これは大きな
疑問だ。全体主義国家では、教育予算は自由主義圏の2倍を超えているが、医療費ははる
かにわずかでしかないのだ。これはしかし、子どもを重視しているというわけではない。
ツベルクリン、DPT、小児ポリオなどの予防接種は、自由主義圏の方がはるかに普通だ。
東ヨーロッパで社会主義国が崩壊すると、教育費は激減し、代わりに医療費が激増した。
 アメリカでは医療を受ける自由は保障されており、公立病院でさえも自由に選ぶことが
できるが、学校は選べないことになっている。これは、これまでの議論に照らせば、納得
できるだろう。それはなぜなら、医療機関の競争は医療の質の上昇をもたらすが、教育機
関の競争は、政府の価値を覚える妨げになるからなのだ。
 
後書き
 利他主義は美徳であるが、大きな経済では、それは大きな役割を果たさない。アダム・
スミスは、利己性こそが社会を豊かにするという洞察において、正しかった。コストが高
くなれば、人々はそれをしなくなる。スミスは経済学の原理を理解していた。日常的な意
思決定のインセンティブを理解することは、経済、犯罪、政治、共通善の追求に至るまで、
重要だ。それは、自分の行為のもたらす便益を享受し、不利益もまた支払わせる、そして
民主主義への参加をも促す制度なのだ。
 人々が企業から搾取されているという考えは、一つの局面しか見ていない。政府なしで
も、発展し得る重要なメカニズムを見逃しているのだ。それは評判のもたらす効果だけで
なく、商品の品質を保証するようなメカニズムの進化も見逃している。テクノロジーの進
歩は、こういった制度の進歩ももたらすのだ。
 経済に不満を感じ、市場には問題があるため、政府が介入すべきだというのはやさしい。
8道製品からロジャックに至るまで生産者補助を増やすようにロビー活動をし、職業規制
に賛成する人々は、人々が自分の金が関係する時には、何か考えだすことを見逃している。
フリーライダーの問題はあまりにも多く目につく。しかし、ラジオ広告のように政府が乗
り出したら生まれなかったようなメカニズムは数多い。規制は往々にして、解決するより
も多くの問題を生み出してしまう。
 市場では、常に二面性がある。誰かがよりよい商品を提供して信頼を得れば、それは利
益を生む。政治でも、有権者は大まかにいって、誠実な人々を政治家として選んでいる。
 市場は完ぺきではないが、それは判断基準として適切ではない。政府もまた完ぺきでは
ないからだ。市場は富を生み出すだけでなく、自由も促進する。人々が自由に行動する限
り、アメリカ経済はもっとも生産的で、もっとも誠実な面を含んで発展するだろう。
 

共通テーマ:日記・雑感

自分を肯定する生き物

人間は根本的に自分を肯定したいものだ

自分を肯定する理由がほとんどない場合にもやはり肯定する

現代はなおさらである

自己肯定が肯定されている社会

共通テーマ:日記・雑感

自己愛修復

睡眠中に自己愛を自動的に修復しているのだという説もある
外界の現実を生きることは
自己愛を傷つけられることなのだという面がある

その意味でも睡眠は大切なのだが
睡眠自体がストレスにより妨げられる代表なので
話が難しい

ストレスがあると眠れないし眠れないと修復が進行しないしでなかなかよくならない

最近は仕事がきつくて会社近くのホテルに泊まらされて突貫工事みたいに
納期に合わせる話もよくある
ぎりぎりの睡眠でつなぐようだ

こんな条件の中で
キミは期待したほどで気ないんだねなどと言われると
修復が難しい

家族の中で修復され
睡眠の中で修復されるのに
家族とも切り離され睡眠の剥奪されでは
まるで新興宗教のマインドコントロールテクニックである

共通テーマ:日記・雑感

睡眠は生理的な自己愛状態という説

大人の場合で、生理的な自己愛状態は睡眠であるといわれる。
これはなかなか思い切った説だ。

人間は夜になると睡眠の中で赤ん坊の時代の一次的自己愛の状態に回復し、
朝に目が覚めると、赤ん坊から大人までの自己愛の発達を毎日繰り返しているのだ
という説もある。

これなどはフロイトが個体発生は系統発生を反復するという原則を精神発達にも当てはめて
口唇期、肛門期、性器期などと論じていったのと似ている論法で、
フェダーンの思いつき。
朝起きてすぐは自己愛状態。身繕いをしているうちにだんだん現実感覚を取り戻して外向きの自己愛を整える。そして仕事に出て行く。

寝付きのよい人は楽しい空想で一杯になって全能感に満たされて自分のことを楽観的に考えられる人。
自己愛状態にぱっとなれる人は寝付きがいい。

反対に自己愛状態に戻れない人は寝付きが悪い。

周りへの配慮を捨て去り、本来の自分に戻れる人は寝付きがいい。
眠るときも関心が外に向いていると眠れない。

自己愛をここまで拡張すると
概念の輪郭も保てないような気がするがいろいろな説があってもいいのだろう

共通テーマ:日記・雑感

風吹けば落つるもみじ葉 水きよみ 散らぬ影さへ底に見えつつ 

風吹けば落つるもみじ葉 水きよみ 散らぬ影さへ底に見えつつ (凡河内躬恒 古今集)

大意
風が吹いて紅葉が散る。池水が澄んでいるので、一方では池の底にある葉の像があり、他方ではまだ枝にある葉が池に映った像がある。この両者が重なり合って見える。

*****
紅葉のようにいくつかの恋があった
池の底にも恋は見えていて
水に映る恋もある

重なり合って見えているのは
どの恋にも宿る私のだめさ加減だし
女たちの涙だろう

同型を反復し
それは美しい模様を描く

*****
この歌をタクシーの中で女の人に話していた
タクシーの運転手がいい話を聞かせてもらいましたと
いわれて
さらに自身の体験を話し出し
驚きました



共通テーマ:日記・雑感

どこか悲しい音がする

のんきと見える人々も、
心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする

『吾輩は猫である』 夏目漱石



共通テーマ:日記・雑感

日本文明の謎を解く 竹村 公太郎

江戸学の助けになる

*****
 赤穂浪士の騒動を延々とさかのぼっていくと、長良川の水利権争いに行き着くんだって。長良川では、吉良と徳川が、上流、下流の利権を持っていたんだけどね、吉良の方が古くから上流の水源地を押さえて、いつもそこで威張っていたんですよ。
 しかも、徳川と吉良にはもうひとつの確執があって。徳川といえども、征夷大将軍の称号は1代限りだから、徳川家は将軍が代わるたびに称号をあらためなければならない。そのときの取り次ぎが吉良という高家で、徳川家はいつも吉良家に相談をしなきゃいけない。ということで、日ごろから吉良家をわずらわしく思っていて、それで赤穂浪士の討ち入りが起こったときも、ちょうどいいから吉良をつぶしちまえ、ということだった、と。今、僕はすごくはしょって言ったけど、それを証拠を上げながら丁寧に解き明かした本が、『日本文明の謎を解く』竹村 公太郎なんです。

*****
アマゾンでは
土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く (単行本)
竹村 公太郎 (著)

地形とデータにもとづいて、大阪の五・十日渋滞など国内11都市の謎を解き明かし、日本人と日本文明の本質を炙り出す野心作。
忠臣蔵は、徳川幕府の吉良家への復讐劇であった。地図を見るとそれがわかる。▼まず、皇居すなわち江戸城の正門は、一般的には「裏門」であると言われている半蔵門である。江戸の古地図や、半蔵門周辺の地形を考えればそうとしか思えない。いっぽう赤穂浪士たちは、半蔵門周辺にまとまって潜伏していた。そこから見えてくる真実は……後は、本書を読んでいただきたい。▼著者の竹村公太郎は、地形や気象、下部(インフラ構造)から、日本の各々の土地の謎を具体的に解き明かしてゆく。歴史文献だけでは決してたどり着けない真実、そして日本人と日本文明の本質があぶりだされる興奮の快著である。北海道、東京、鎌倉、新潟、京都、滋賀、奈良、大阪、神戸、広島、福岡、これらの土地について少しでも興味がある人、いや、日本に関心がある人なら、本書によって今までにない知的興奮を得ることができるだろう。特別編として、「遷都」「ソウル」の章も収録した。

*****
抽象的なものを思弁的にもてあそびそれで楽しいならば何も言う必要はないが
このように具体的におもしろいものが提示されると
知ることや考えることの楽しさが腑に落ちる。

*****
下部構造から歴史の必然を論じたとある。なるほど。



共通テーマ:日記・雑感

会議中の私語 了解不能な他人

若者は子どもの頃から私語を注意されない環境で育ってきた。大学生になっても講義中に私語をしている。
年よりは昔は私語をしなかったのに現在は会議中に私語をしている。

これは一体どう言うことなのだろうかといわれていて、
たぶん、テレビを見ていて、食事をしたり、話をしたりで、ながら族になっていて、
授業や講演会もテレビと同じ感覚ではないかといわれたりもする。
しかし他人に迷惑になるのは明白だし
自分の部屋ではないのだから
区別はつくだろうともいわれていて、
なぜなのかよく分かっていない。

*****
会社での会議中にも問題になるのだが、
大学でも講義中の私語が話題になっている。
注意しても学生さんは私語をやめないし携帯もやめないという。

90分くらい我慢すればいいのにと思うが、それに講義を聴きに来ているのだからきちんと聞けばいいだろうと思う。
聞くのは嫌だが出席だけはしていたいというなら迷惑にならないように静かにしていればいい。

前の方で講義に集中したい人から意見が出て、教室の後ろに固まった人たちが私語をしてうるさい、静かに講義に集中したいとのこと。
大学側は講堂の後ろのほうに係員を二名おいて、私語を注意し、携帯使用を注意しているらしい。

嫌なら講義なんかでないで自分で勉強すればいいし、
出席点が必要といわれるなら、自分は出席するよりも有効に時間を使うからといえば、
強制はせずに試験だけで点数がもらえるのではないかと思う。
勉強しても理解できないのは本人の責任ではない部分が大きいので、
何とかしてあげようということで、講義も工夫するし、場合によっては出席点も加味することにして、
単位をあげたいと思っているはずだ。
そこまで配慮してもらっていながら邪魔をするというのはどういうものかと話題になる。
邪魔をしている気持ちもあまりないというのが実際らしい。
90分の間も携帯の電源を切っておけないのだから
もう価値観が根本的に違うのだろう。

会社ならばさすがに少人数ではあるし、誰かが頭に来るとして、上司に言いつけるので、上司はさっさと評価を減点することになり、それが怖いのである程度は抑制になる。
会議中に仕事はないけれどノートパソコンで他のことをしていたりするので、
大事な話の時には、「ノートパソコンは閉じて、携帯も切って」と前置きして集中させるらしい。

このような傾向は最近はお年寄りも同じで何かの会合でずいぶんお年寄りで地位もある人で、全く人の話は聞く気がなくて、これは俺は偉いんだということの示威行為なのだろうとか思ったくらいだ。
この人が小学生だったときはきちんと私語なく先生の話を聞いていたはずだ。

学級崩壊を防ぐために壁のない学校というものがある。
実験的な試みだと数年前に聞いた。
学級ごとの壁がなく、いくつもの学級が体育館みたいな広さのところで
それぞれの勉強をしている。
うるさくて大変らしいのだが、
それでも、誰かが暴れていたりすれば教員はそちらに一気に集中することができて、学級が孤立して崩壊しないですむ。
ふらふら歩き回る子がいてもいずれにしても視界の中にいるから大丈夫らしい。

*****
テレビを見る態度の延長だろうというのは分かるけれど、
まさかいまテレビなのか講義中なのか区別ができないはずはない。
理解できないというのが本当のところだ。

一体どうなっているのか。
そのような「了解不能な他人」が実際増えていると思う。



共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。