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薄れる記憶

200805021.jpg

きみがいなくなって
しばらくは何もかも思い出さないように用心深くしていた
うっかり心が動かないように慎重に引きこもっていた

以前は宮沢りえをみて
フラッシュバックを起こしたものだが
最近は平原綾香のポスターを見るとフラッシュバックの不全型を体験する
どきどきするが息が苦しくはない
冷や汗も出ない
でもそのときまで何かを考えていても
全部忘れている

この軽いフラッシュバックはしばらくなくしたくない

あの頃
君は本当に美しかったよ



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君といる時間の中で - 平原綾香

君といる時間の中で - 平原綾香
http://www.youtube.com/watch?v=wEW0Mq9fOiE&NR=1

 



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使い捨てカイロで緊急充電

使い捨てカイロの熱量もなかなか侮れないと感じる。
これを緊急時のラジオと携帯の充電に使えないかと考える。
手回し発電の方が能率がいいのかな。

それから手回し発熱カイロを作りたい。

*****
また、発熱後のカイロを再生・再利用する工夫はあるのだろうか。

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口内炎

食欲が急にゼロになって絶食している間に
口内炎ができた

適当に食べていないと
口の中が荒れるとは
食べた方が荒れると思うのだが

唾液に補修効果でもあるのだろうか

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インフルエンザと乾燥

インフルエンザの予防に大切なのは
一つには乾燥対策である

冬になって空気が乾燥している
晴れた日がずっと続くと風邪引きが多くなる
途中で雨がふってぐずくずするようだと比較的少なくなる
乾燥が多少和らげられることが原因らしい

せめて部屋の中で
加湿器を使うこと

鼻の中が乾く感覚でもいいし
髪の毛の具合でもいいし
化粧の具合でもいいから
乾燥のチェックをして
気道系の保湿を心がけよう

電車に乗っていると
隣に座った男性の呼気にたばこの匂いが含まれていることに気付く
それを私が感じているということは
隣の男性の呼気をそのまますっていることになる
とてもうんざりだし
これだとインフルエンザも喜々としてうつってくはずだ
それを防ぐ意味でもマスクをして
半分くらいは自分の呼気をすって他人の吐いた息を吸わないようにしたいと思う

マスクのウィルス遮断効果については疑問があるようだ
それよりも保湿効果が感染予防に有効なのだと思う

特に電車に乗って口を開けて寝てしまったりした場合
ウィルスにとってはチャンスになる

寝る間に口が乾燥してしまう場合には
マスクを使うのも手だと思う

携帯カイロと保湿マスクと葛根湯がインフルエンザ対策だ

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”見えないもの”を見るための技術

What is not seen

”見えるものと見えないもの”というバスティアの有名なエッセイがある。
この”見えないもの”とは、いわゆる機会損失を意味する。
それとは意味が異なるが、存在はしているが見えないものを見るのが科学技術というものだ。
星を見るには望遠鏡が必要であり、微生物を見るには顕微鏡が必要だ。
それらがなければ、存在しているものを見ることはできない。
つまり、見えないものを見るためにはテクノロジーが必要であり、テクノロジーを発明することで、諸々の発見が生まれてくる。
そして現代のコンピューターは、望遠鏡や顕微鏡に相当する。
コンピューターの本質とは”見えないもの”を見るための技術だというのが私の定義である。
そしてコンピューターが見えることを可能にする”見えないもの”とは、物理的存在だけではなく、機会損失をも含むのである。


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Passive Man 卑劣で声のでかい最悪の人間

採録

The age of Passive Man

今の日本は冗談でなくファシズムの方向に向かっている。
このような”空気”になると、日本は急速にその方向に流れる。戦前しかり。
ポジティブ・フィードバックがかかり、不安定系の様相を呈する。

ファシズムの時代では、卑劣で声のでかい最悪の人間が重用され、良識のある人間の声は掻き消されていく。これはナチスの時代にコンプライアンスということが盛んに言われたのと符号している。そもそもコンプライアンスというキャッチフレーズはファシズムワードなのだ。

 
コンプライアンスという権力の決めたルールに従うことを、個人の良識や判断よりも上位におくということが、ファシズムにおける権力の源泉となるのだ。これは倒錯した倫理である。そして、こういったPositive Law、Legal Positivismがナチスの権力を根本で支えた法権力だったのだ。

全体主義とは法権力が示すベクトルの帰結なのだ。

卑劣で声のでかい最悪の人間=Passive manが法権力をかさにきて、Active Manを迫害する時代になった。

日本はすでに法の正義と法権力は別ものとなっている。正義を主張するものは、法権力の前にたたきのめされる時代になった。正義が蹂躙され、権力が正義だとされる時代になった。
この流れはしばらくは止まらないだろうし、止まるとしたら全てが壊滅した後だ。
自由人は、これから身の防衛を考えなければならなくなるだろう。



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政府に無条件に権力を与えすぎている

Fight Monkey with machine guns
日本政府(=司法+立法+行政)の愚劣さと卑劣なメディアの翼賛体制を見るにつけ、怒りを通り越してあきれかえるしかない。もはや日本は終わっているとしかいいようがない。

立法、行政、司法といった政府権力は、族ではなく”賊”といった方が適切であろう。
この3権を称して”三賊”と呼ぶといいかもしれない。さらにメディアはそれにこびへつらう下賊である。
これは、バスティアが”法”で書いたLegal Plunderの世界を大規模にしたものである。その点、政治世界は堕落こそすれ、全く進歩などしない。

今のDemocracyという法システム、もしくは社会システムに根本的な欠陥があり、政府に無条件に権力を与えすぎているということだ。アメリカのConstitutionalismとは、この権力の抑制の仕組みに他ならないのだが、これはやはりハイエクがLLLで書いたようにもはや完全な失敗に終わった実験であろう。ハイエクのLLLは、Constitutionalismが明らかな失敗に終わったために、新しい制度的発明の必要があるとして書かれたものなのである。
しかしハイエクのLLLがその新しい制度的発明として成功しているとは言い難いが、リバタリアニズムとはこういった問題意識を背景として生まれてきたものだ。


それでもアメリカのConstitutionalismもF.D.ルーズベルト政権になる前までは無傷だったのだが、FDRのファシズム政権によって致命傷を負ってしまった。レーガンが連邦最高裁のChief Justiceに任命したレーンキストのNew Federalismによって、徐々にConstitutionalismは回復に向かうかにみえたわけだが、いったん壊れてしまったガラスは完璧には元通りにはならないということか。
しかしそうはいってもアメリカには日本よりは可能性がある。ランディ バーネットがいうようにアメリカ憲法は、少なくとも政府権力と戦う武器にはなるからだ。
その点、日本は権力と戦う武器が一切ないし、はじめからない。
権力の前には理屈も通らないし、学問も無力である。
”長いものには巻かれろ”という格言?は、日本のそういう歴史的な現実からきた言葉なのだろう。つまり戦うことが不可能であれば権力の言うままににするしかないということだ。
だが、これも当然に間違いである。
やはり馬鹿になって戦うのが人間のあるべき姿だろう。だが、どうやって?

 



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J-Sox

Much ado about J-Sox
J-Soxと呼ばれている日本の金融商品取引法24条の4の4は、上場企業の内部統制体制構築の義務を定めたものと考えられているが、実は違う。
この点に私も漠然と疑問を持っていたのだが、本法律は内部統制体制構築義務を謳っていないというのはほぼ決まった解釈と考えて良いだろう。実際、そのようなことは一切書かれていないからだ。

このことの意味するものは大きい。要するに内部統制報告書の提出義務はあるが、内部統制報告書に”内部統制体制の構築はお金がかかるので特にしませんでした”と書いておけば法律上は全く問題がないということだからだ。

アメリカの場合は、Sox法制定以前に監査法人側が訴訟対策としてCosoフレームワークのような詳細なものを作っていて、それを実際に使っていた。そしてSox法制定によってそれがデファクトスタンダードのようになった。
だが日本の場合は、内部統制報告書提出義務だけを定め、内部統制体制構築の義務を定義しなかった。このことは正解だったが、金融庁のプレゼンテーションが恐ろしくまずかったために、これを新たな強行規定が生まれたと誤認し、内部統制体制構築狂詩曲状態が生まれたわけだ。


監査というのは一般に民間の基準がベースで、法律で詳細を定めているわけではないらしい。その点に混乱原因の一因があるのだろう。
金融商品取引法24条の4の4では内部統制体制構築の義務を謳っていないにも関わらず、実施基準ではかなり具体的なことが書かれている。つまり法律上は強行規定ではないのだが、法令となる実施基準で、具体的な内部統制体制構築の方法をあれこれと書いたために、やはり強行規定だと誤認されたのであろう。
これは、法律屋と監査屋の法認識のずれがあることで生まれた混乱だ。
八田進二氏と木村剛氏の対談本をざっと読んだ限り、八田氏が法律に疎いことが伺われた。
もしかすると八田氏は強行規定の意味すらよくわかっていないのではないだろうか?
法律で強行規定ができれば、その要件を分析し、対応するのが筋だが、内部統制体制構築の義務が強行規定でない以上、なにもやらないというオプションをまじめに考える価値が生まれる。
だから、金融商品取引法24条の4の4が内部統制体制構築の強行規定だと誤認されたことによる、この混乱の原因は金融庁と監査法人=公認会計士の双方にある。


アメリカにおいても、Sox対応は株主との間で経営がリスクシェアするという対応も生まれている。つまりSoxの内部統制体制構築をしないことを株主総会で決めるのだ。これによって、株主とリスクシェアし、無駄なコストを省くわけだ。

結局儲かったのはITゼネコンだけで、それ以外は皆損をしたのである。

 



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ピエール ルミュー「無政府国家への道」

Liberty and Legal rule
アナルコ キャピタリズム研究で、ピエール ルミューの「無政府国家への道」という本の紹介をしている。
こういう地道な紹介は意義があることだ。
私も、この本は持っていたが、先の推薦リストには記入し忘れた。この本も当然にお勧めだ。

この本の序論の枕詞にはジョルジュ リベールの次の言葉が使われている。

「法に服従して生きる人間は知らず知らずのうちに卑しい心になる」

実に至言だ。これはコンプライアンス騒動の現在とその行く末を的確に表しているだろう。

私はリバタリアニズムを学ぶことは、自由主義の基本的原理をいろいろなケースに当てはめながら、基本原理を再確認する作業に他ならないと思っている。これはこれで難しいことだ。
このことは車輪の再発明とは違うし、この作業は日本では殆ど誰もやっていないことである。
何でも分かったような顔をして、これをオリジナリティがないなどとうそぶいている人間はリバタリアンではないし、そのように自称(詐称)すべきでもないだろう。

 



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「豊かさ」の誕生 ウィリアム バーンスタイン

「豊かさ」の誕生 ウィリアム バーンスタイン
この本は、以前、アナルコキャピタリズム研究でも紹介されていた本だが、これをこの二-三日で読了した。前から購入して持っていたのだが存在を忘れて本棚に埋もれていた。

非常に面白かった。久しぶりに内容の濃い面白い本を読んだ気がする。

この著者はアメリカの著名な投資家らしいが、これほどの蘊蓄に富み主張の一貫した歴史書を書くというのはただ者ではない。
おそらくこの著者の立場はHayekianであろう。しかしリバタリアンでもオーストリアンでもない。このことは特に矛盾はしないのである。
この本自体がハイエクの後期作品を意識して書かれていることが伺えるし、それを最新のデータ、研究成果に基づいて総括しようとする意図が伺える。


簡単に言えば、この200年の人類の爆発的な豊かさの原因としては4つの原因があるとする。
・私有財産性
・科学的合理主義
・資本市場
・輸送と通信


このうちで、最も重要なのは私有財産性であり、法の支配である。
そして英米の植民地となった国は、私有財産性と法の支配が確立されたためにその後繁栄したが、南米などスペイン植民地となった国では、私有財産性と法の支配が確立されなかったために、スペイン同様に長く繁栄はできなかった。また著者は、現在の貧困な南アフリカ諸国に対しても、先進国ができることは、私有財産性と法の支配の種を蒔くことだけで、後は気長に芽がでるのをまつだけだという。
あと、日本の歴史に対する本書の記述は非常に冷たいものがあるが、これがあちらのインテリの正直な印象なのだろう。

なお、特許などの知的財産制度についても著者は私的財産権の一つとして、その制度的な意味を重視している。ここなどはオーストリアンやリバタリアンには特に異論のあることだろう。
また資本市場として「有限責任制」の登場を重視している。
私の興味ある点を広くカバーしている点では希有な本でもある。

これだけの本が書ける”インテリ”は残念ながら日本には大学人を含めて一人もいないだろう。
興味のある人は是非一読をお勧めする。結構な大著であるが、興味深い蘊蓄と新しい実証的な論考が多く飽きないで一気に読めるだろう。

なお、あまり本筋でないが、この3章の天動説、地動説の話で思ったことを書いておく。
よく言われるように、天動説が地動説になったことで科学的な真実に近づいたというのは、正確な表現ではない。
太陽系を考えた場合、太陽を基準として考えるのが最もシンプルな方程式になるだろうが、
地球中心に座標変換を行えば、数学的には全く等価だ。
もちろん、月を中心に座標変換をしてもよい。
絶対的な軸を想定しないのであれば、どの座標系も等価なのだ。
であるからして、コペルニクスからガリレオーケプラーーニュートンと連なる地動説への転回とは、正確に言えば、太陽系の火星や水星~土星といった惑星が太陽を中心として回っていると考えたほうが分かりやすく、かつ数学的にシンプルだというだけの話である。
もし、これを地球中心の座標系で考えれば、惑星はかなり複雑な動きをし、軌道方程式も複雑になるだけで、これら惑星が地球の周りを動いているとしても全く問題ない。


不思議なのは、数式的にきれいなものがより真実だと思え、全く等価だが数式的に汚いものは間違っていると人間はなぜ判断するのかだ?
これは種族のイドラなのだろうか?

*****
それが本質直感というものでしょう。



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自分の弱点をさらけ出さずに

自分の弱点をさらけ出さずに
人から利益を受けられない。
自分の弱点をさらけ出さずに
人に利益を与えられない

『断片』 夏目漱石



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入浴剤

寒くなってきたので入浴剤があればいいいと思い
駅前のドラッグストアーで特売品をいくつも買った。
津村の登別カルルスが一番好きと経験からは思っていたので探したが見あたらない。

代わりに津村のきき湯シリーズが特売だったので各種買った。
発泡するので湯船につかってから入れて、沫を体に浴びるようにしている。
なかなかよい。

花王の製品は液体で、たぶんエモリカだと思う。
こちらの方が入浴後のしっとり感は高いと思う。朝起きても、何となく入浴剤が効いている感じがする。

牛乳石けんのお湯物語うるおう乳液風呂も似た感じ。

クナイプは昔から好きでまだ使い残しが大分ある。
たまに使うと刺激が少し強い感じはある。

泡風呂になるタイプのものがあってあと少しなので使い切ろうと思っているのだが
なかなかなくならない。

一通り試してみると津村の日本の名湯くらいはとてもいい。
色がついているのはどぎついのもあって、
湯布院は盛大な色だけれど実際の湯布院温泉にこんな色がついているわけではないので
どうしてこんな色をつけたのか不思議な感じはする

どの入浴剤も主成分は同じだから
実験室で調達すれば一番いいのだと思い始めるが
やはり適切な程度の香料が入っていた方が好きだ

家族がいれば効率的なのだけれど
現状では自分が一回使って捨てている
つまらない気もするが
気を使ったり使われたりするよりはいいだろうと結論して
その先は考えないようにしている

温泉が気持ちいいのはどうしてだろうかと
不思議に思う
広い大きなお風呂はやはり意味があるのだろうか
体が全部使っていれば同じだと思うのだけれど

水の勢いの違いは感じる
家庭ではホテルや温泉ほどの水の勢いはない
これは立地条件によるのだろうか


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食料を買い物

先週はほとんど絶食に近く、
何も買わず冷蔵庫もヨーグルトがあっただけで、
そのヨーグルトもなくなり、
冷凍うどんやそばも少なくなり
手作りヨーグルトが1.5箱くらいだけある
白米はあまり食べなくなり
パスタをゆでることが多い。

ベルトも緩くなったし
いくら何でもこのままではまずいだろうと
買い物に出た。

ハナマサよりも三越に行きたい気分で
店の飾り付けなどを見ながら歩く。
例年ほどにはクリスマスの飾りが楽しくないのは
こちらの心が弾んでいないからなのだろう。

しばらく見て回るけれど
食べたいものがないし高いし
困ったけれど、それでも何か買ってきた。

薄い色の夕焼けが広がっていた。

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ガイトナー サマーズ

ガイトナー。47歳。財務省、IMF、ニューヨーク連銀総裁。日本語、中国語を理解。

サマーズ。53歳。ハーバード大学教授。ハーバード大学学長。世界銀行上級副総裁。財務長官。女性蔑視発言で辞任。28歳の若さでハーバード大学史上最年少の教授。有毒廃棄物を最低賃金国に投棄(dump)することは反論の余地のない提案であって、われわれはこの真理に直面しなければならないとメモに記した。「無節操なパワープレーヤー」尊大な性格。政治的に対立していた学長を、してもいない差別発言にかこつけて不信任決議するという、ハーバード大学にとっても不名誉な結末。

若い。にもかかわらず経験豊富。日本にきつい要求をしたことで有名。多くの人に不愉快な記憶あり。

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ほんとうの場所

自分がほんとうに生きる場所はどこで
自分が最後に帰る場所はどこかと
いまさらながら
つまらない問いを考えることもある

もし
自分が本来いるべき場所があるのなら
そこにいたらどんなに落ち着くだろう
もし
自分が最後に帰る場所があるのなら
そのことを知っているだけでどんなに落ち着くだろう

ドラマ「風のガーデン」では自然に本来いるべき場所と帰るべき場所が提示されている。
しかし多くの人にとってはそれは自明ではないし、
考えてもどこにもないのだ。
可能性として二つくらいというのでもない。
ひとつもないのだ。

人は親切で言ってくれるかもしれない。
ここはあなたに関係のある場所ではないですか、
本来の場所というわけではないけれど
落ち着くならいてくださいと。

しかしそれはほんとうの場所ではないのだ。
一時的な場所だ。

私には先祖代々の土地がある。
お墓もある。
守るべき人は私なのである。
子どもはいないので私で終わりになるのだが、
お墓については
誰か親戚の人に頼めばいいらしい。

先祖代々の家については
養子縁組みの形で
血縁者を相続人として定める話になっているらしい。
それと同時に墓の話も決まるのかもしれない。

そこがほんとうの場所なのかと言われると
そんな気もしないのだ。

ではどうしたいのかと聞かれても分からない。

広く言って、
この世というものが自分のすみかではないような気もする。
この世で私は旅人に過ぎないような気もする。

とりあえずの金策が大変という世の中で
何をのんびりしたことを言っているのかと言われそうではあるのだが。

睡眠の中で
深い睡眠の中で
私はほんとうの場所を感じていることがある

先日はベッドに横になっていて、
駐車場の方からのもの音で目が覚めた
夢うつつに私は昔住んでいた家の外から響いてくる音かと思っている
一瞬の後にそれは錯覚と気がつき
そんなことも思うものかと感慨を覚える
ちっぽけな人生だったなあと思う

思い出すことと言ってもただそれだけなのだ

いやそれには前段がある
そのときは夢を見ていたのだ
私はあまり深い夢を普段は見ないのだけれど
時期をまとめて意義深い夢を見る

そのときも印象に残る夢で
実際自分はこんなことを考えるのかと驚くような夢だけれど
そのことを背景にして
その朝の連想を考えるとあまりにも小さくて日だまりのようで
お人形遊びのようなほのぼのとした風情なのだ

思い出してみて心にかかる人間関係があるけれど
よく思い出してみれば
そんなものは枝葉に過ぎなくて
もっと幹の部分に当たるいろんなことが
ただ時間が過ぎたというだけで
何も変わらずにそのままで横たわっているのだ

そんな意味ではいろいろとあったことを
忘れているのだと最近は自覚してもいる

幹を忘れ
枝葉を思い出しているのは
これは一種の防衛反応なのだと
不思議に思う
都合のいいことだけ思い出すということかもしれない

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どこへ越しても住みにくい

住みにくさが高じると、
安いところへ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生まれて、画ができる

『草枕』 夏目漱石



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ヒエラルキーとフラット

人間関係のパターンとして、
ヒエラルキーを望む人と、
フラットな関係を望む人がい。
それぞれコミュニケーションの仕方がちがう。

これはどういうものかと思う。

上下関係を望む人と水平関係を望む人とがいて、
縦社会日本とか軍隊、官僚などはヒエラルキー型。
アメリカ人というのはフランクとかフレンドリーとかといって限りなく水平。

ヒエラルキー型の方が人間としてては本来のものなのだろうと思う。

水平な友達関係というのは、法律的な思考が普及して
フランス革命以降の自由平等観念が共有されてから後のものではないかと思う。

現実に家柄や財産力や社会的立場などでヒエラルキーはあるのであるが、
いまこうして酒場で飲んでいるかぎりはフラットな関係であることにしよう
という仮想的な状態を作り出している

ヒエラルキーはリアルで、
フラットはバーチャルなのだと思う。

*****
現実の社会ではヒエラルキーを前提として、
ときどきバーチャルなフラットを挟み込むと、
うまい具合に事が運ぶ。
フラットであることを演じられるのは高度な知性があるという証拠であるとお互いが認知している。

*****
義理と人情という世界は根本的にフラットなのかもしれないと思ったりする。
究極的には男と男で階級を超えて認め合う雰囲気はあるはず。
人間の中身の関係としてはフラットである。
しかし社会の中での席はヒエラルキーである。
そのような意識を生きている。

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1階は花屋とカフェ

アメリカでは超高層の足元に花屋さんがよくあるんです。それは、家賃をものすごく安く抑えても入ってきてもらうわけです。つまり、花屋さんは植木、並木と同じなんだ、と。並木から家賃を取るやつはいないだろうということで。確実に花を飾ってくれて、しかも自分でメンテナンスもする。そんないい並木はないよね。
要するに人間付き緑地ですよね。で、アメリカ人はコーヒーショップも同じように考えるんです。コーヒーショップは街に楽しい雰囲気を作ってくれるんだから、家賃を取っちゃだめだ、と。実際に、そういう店を低層部にうまく配置するだけで、街全体のイメージは全然変わるわけです。

*****
昔のビルの1階はしばらくの間カフェでしたが採算が合わなかったようなんです。
本店から人が指名されて、その人が店長。場合さんを使って仕事をするんですが、
いつ帰れるという約束を少しずつ延ばす。
これで耐えきれなくなったようです。せっかくきれいにテラスみたいな席も作ったけれど全部撤去。
もったいないことでした。
ずっと後になってブティックが入居。程なく閉店。

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鈍いかどうか知る部分も鈍い

現代人は感覚が鈍いですから。自分の感覚が鈍いということに気が付かないぐらい、鈍い。

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医療機械はアメリカから買わなきゃならないようにしちゃった

養老先生の発言 

ある病気に対する治療法も、一律ではないですよ。例えばがんの治療では、外科手術は実は安いんだけど、でも患者さんは大変でしょう。患者さんにとっていちばん楽なのが電子線治療。効果が高いのは放射線、粒子線治療。ただ、その治療をやるためには1クールで300万円ぐらいかかるんですよ。

粒子線治療が高くなっちゃった理由は大型コンピューターなんですよ。

中曽根が政治的なバーターで、医療機械はアメリカから買わなきゃならないようにしちゃったから。

そうするとバカ高くつく。日本製だったら安いに決まっているのに。

*****
とのこと。



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自己愛と妄想

自己愛のカプセルと
妄想のカプセルと
どう違うかと言われると
違いは明らかだけれど
同質のものではないかと言われれば
同質かもしれないとも思う

世界観のズレという言葉ならどうかと思うが
どうだろう

世界観のズレ
世界解釈のズレ

現実とまともに向き合って
比較し照合し訂正するプロセスを経過しないと
世界観の訂正はできないのだから
カプセルに包まれているという意味では
共通だとも思われる

共同体は自然な形で共同の幻想を持つものだ
それがカプセルとなって弱い自己を覆うようだ

共同の幻想に乗った方が楽であることは確かだ

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海は違った

採録。

*****
「誰が太平洋戦争をはじめたか」 別宮暖朗著


この本は、太平洋戦争がなぜ起こったかの原因を、日本官僚制に求めている。
この問題については、様々なことが言われてきたが、別宮氏の論説は私が今まで読んだり聞いたりしたものの中では説得力がある。この議論をもっと深めればミーゼスの官僚制論の方向に合流するかもしれない。外人が日本について書くとどうしても、日本の帝国主義(=imperialism=天皇主義)、植民地主義を戦争原因として見ようとする安直な議論になるが、これは正確ではない。

また真珠湾攻撃のルーズベルト陰謀説や、開戦通知が遅れたことが問題だとするデマは全くのでたらめであることを証明している。特に開戦通知の遅れについては、”パリ不戦条約で「戦争禁止=先制攻撃禁止」が定められてるため、最後通牒・最後通告・戦争宣言(宣戦布告)などいかなる宣言をしても、先制攻撃による戦争開始はできないこととなっていた。”そうだ。この点は法的にエクスキューズは一切できないのである。
ネタバレだが、誰が戦争をはじめたかは、海軍条約派の三羽烏と呼ばれる米内光政、山本五十六、井上成美ということになるらしい。特に真珠湾攻撃=ハワイ作戦は、山本五十六の罪が重大だ。山本はハワイ作戦が成功すれば米国民は士気阻喪し、ただちに手を挙げ休戦を申し込んでくると見ていた。驚くべきことにハワイ作戦は、海軍条約派によって日米戦争回避の手段として立案されたという。

「ヘーゲル、マルクス、ヒトラーと続く官僚寡頭政治=国家社会主義体制の主張にはドイツ国民の広汎な支持が集まり、最高度に発達した役人国家=ドイツが出現した。ところが日本には、常に有力な自由主義者が存在した。ハワイ作戦とは自由主義者=海軍条約派による国家社会主義者=陸軍統制派への最終的な問題提起=妥協案であり、重大な失敗であった。自由より統制が優れていると信じる官僚が優勢になり、ドイツ国家社会主義の影響が最大限に強まったときに太平洋戦争が発生したのである。」と結論している。
しかし、ここで自由主義者という言葉を用いるのが適切とは思えない。陸軍の国家社会主義に対立していたから海軍は自由主義だとはいえないと思うが、イメージは分かる。

昭和天皇の言葉のとおり、「海は違った」のである。

*****
山本五十六はその後も人気が高い人のようだ。ここでは主犯の一人とされている。



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債権本位 債務本位

”第2章の契約に定められている13個の契約は、すべて債務本位になっている。
さらに民法自身も、金銭債権といったり金銭債務といったりして債権を債務を混同している。
しかも、第1章総則は債権本位であるにもかかわらず、第2章契約は債務本位であるから、総則の理論を契約に応用することができない。

多くの法律家は債権と債務は同じという考えになってしまった。
ドイツ語のSchuldの本来の意味は債務でるが、これが日本語に翻訳されると債権になった。

100万円のローンについえ考えて見よう。
貸主は借主に100万円の支払いを請求できる債権をもち、借主は100万円を支払わなければならない債務を負担している。

しかし、債権は価値があるが、債務は価値がない
債権は財産であるが、債務は負債である。
債権は権利を行使することも、しないことも、放棄することもできる。
また財産であるから他人に譲渡することもできる。
これに対し、債務は法律により履行を強制され必ず履行しなければならない。債務の放棄も認められないし他人に譲渡もできない。
債権が多くなっても破産しないが、債務がおおくなると破産する。
債権は債権者に喜びを与えるが、債務は債務者に苦痛を与える。

契約が成立すると、代金を払うという債務と、車を渡すという債務が発生する。
債権本位に考えるとそもそも契約は成立しないが、債務本位に考えると契約が成立し、買主には代金支払い債務が、売主には車の引き渡し債務が、それぞれ発生する。

売買では、債務が重要で、債権は、債務から流出するということになる。
ドイツ民法241条1項は、「債務関係の結果、債権者は債務者に給付を請求できる正当な権利を有する。」 と、明記し、債権は債務から流出することを示している。
日本では債権民法で、欧米では債務民法で、ここに法律の摩擦が生じているのである。
地上げのために土地ころがしが行われ、売買が続けて5回されたとき、登記名義の変更は、第1の売買の売主から直接に第5の売買の買主にしてよろしいというのである。

中間者の登記が省略されるためこの名称がある。
どうしてこのようなことが可能なのか?債務本位の民法ではこれは許されない。なぜならば登記名義の変更は法律上の義務で、義務を放棄することはできないからである。

しかし、債権本位の民法ではこれができる。第1から5までの買主はそれぞれ自分に登記名義を移して欲しいという登記請求権を持っているため、権利であるため、これを放棄できる。

第1から4の買主が、それぞれ登記請求権を放棄すると、第1の売主から第5の買主に直接、登記名義を移すことができる。
これこそ、まさに債権民法による中間省略の登記の承認である。

このように日本民法が口約束だけで土地の売買ができ、中間省略の登記を認め、登記申請に際し契約書の提出を必要としないため、土地をころがして地上げすることを容易にし、バブルの形成に奉仕したのである。(※)


債権本位の立場にたつと、債権のみが問題となり、債務と債務の履行は無視される。売買契約によって、売主は代金債権を、買主はダイヤの引渡しを求める債権を取得する。

欧米の民法は、すべて債務本位で、債務者が債務を履行すると債務が消滅し、その結果債権も消滅する。ここには債務者の履行行為という弁済がある。
代物弁済は、本来、債務者の弁済することであるが、民法のこの原則を曲げて、債権者が代物弁済をできるという解釈をするよになった。”


※平成17年3月7日より施行された改正不動産登記法により事実上、中間省略登記ができなくなった。しかし不動産業界をはじめ産業界の強い要望もあってか内閣府規制改革・民間開放推進会議は法務省との折衝を重ね06年12月25日の最終答申で「第三者のためにする契約」というスキームを導入することで中間省略登記と同様の結果を適法に実現することを可能とし、翌26日の閣議で、最終答申の内容を全省庁が最大限尊重することを決定。http://www.nsk-network.co.jp/070102.htm

===

つまるところ、お互いにobligationを負う約束をすることで契約が発生し、その後に請求権として債権が発生する。最初に約束がないと相手にobligate=強制できない。あくまで契約が先で、債権と債務が同時発生するわけでもない。
ここはなかなか深いポイントだ。
さらにいえば欧米の民法に、債権という権利概念があるかどうか疑わしい。

債務(=obligation)を、債権という権利概念として間違い翻訳をしてしまったために、日本人は契約という概念を理解しそこねたのかもしれない。契約には義務しかなく権利はないという考えもできる。契約=contractとは、お互い=conがtract=引っ張るという意味だが、引っ張りあう行為がお互いの義務に相当し、押す行為はない。
債務の不履行は、契約違反として犯罪に等しい(債務者監獄行き)と考えれば、やはり権利概念はでてこない。

日本語では債権と債務はきれいな対言葉のようになっているが、英語ではそもそも債権という言葉にぴたりと対応する単語がない。あるのは債務(debt,obligation)という言葉だけだ。
もし、債務と債権なるものが同時発生するのであれば、債権という権利の放棄はやはりできると考えられる。しかし、それは契約の解消であるから一方の意志だけでの契約解消行為はできないと考えるのが筋だ。だから権利は契約によって発生しないと考えた方がいいのではないか。契約によって発生するのは義務だけだと。

このように、どうも債権という言葉は単なる誤訳にとどまらない根本的な間違いがあるような気がする。
日本の民法は、もともと存在しない債権という名前の権利を契約概念に埋め込んでしまったのではないだろうか。

 



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銀行は特別


「スーパーもレストランもどんな店でも経営に失敗してお金を失えば倒産するが、銀行はそれらといったいどこが特別なのだろうか?
読んだ記事の限りでは、銀行がなくなると誰もお金を借りられなくなり、経済が停滞するから。ということらしい。
しかし、銀行は自分のお金を貸しているわけではない。銀行は人のお金を貸している。
銀行が消えても、借手がいなくなるわけではない。さらに貸し手がいなくなるわけでもない。
唯一の問題は、借手と貸し手がお互いに出会えるかということだ。
銀行が破綻すればお金を借りるのが困難になるというが、銀行が潰れてもお金を貸すのが困難になるわけではない。お金の貸し借りは対称的なものであるから、それを政府の公式見解のように非対称に語るのはおかしい。

1930年代は、銀行の連鎖倒産によって、お金の貸し手と借手が出会うことが困難になった。
その結末はドラスティックであった。しかし当時と今では状況が大きく異なる。
第一に1930年の大恐慌は、銀行倒産が原因ではなく、30%ものマネーサプライの縮小が原因であった。
これは現代ではFedが容易に防ぐことができる。

第2にインターネットのようなテクノロジーによって、お金を借りたい人と貸したい人が出会うのは極めて容易なことになっている。
アメリカ以外の国々も危機になっているというのは分かっている。しかし他の国でもお金の借手と貸し手が出会うことが難しいことではない。
言い換えれば、私はこういった巨大銀行が本当に必要なのか疑問なのだ。それらが消えてなくなっても、別に寂しいとは思わないだろう。

以上で私が見落としているポイントがきっとあるだろう。
しかしもしそうなら、バーナンキ、ポールソン、とりわけブッシュ大統領にはそれが何であるのかを早急にそれを説明する義務がある。」

ランズバーグはアンドレ ヴェイユ(という天才数学者)から影響を受けたと自分で言っている。実に誰でも分かるクリアかつ厳密な説明だ。
銀行という企業形態は、普通の株式会社とは結構異なる政府規制の大きい業界だ。適用される法律も結構異なる。だが、その点を除けば銀行はその他の株式会社を変わらない。
だから銀行が倒産すれば、他の株式会社 と同様に有限責任で、株主と債権者が損をするだけだ。
そこに国家とか社会とか一般国民というのはでてこないはずなのである。

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「借りた金は返すな!」加治将一、八木宏之著債権者本位主義連帯保証制度

今回の経済危機はまだ終わっていないが、今後も、ほとんど全ての人間に大きな悪影響を及ぼすことになる。これは誰にとっても切実な問題だ。
株に一喜一憂するななどと、ふざけたことをのたまわっている麻生は総理として完全に失格だ。
また経済の歯車が狂うと、その影響で自殺者も激増するのが世の常だ。
借金を抱えて返せなくなる人も増える。
まずは、へこたれない気概が大事だが、運悪く、そうなってしまった場合、まず次の本を読むことをお勧めする。

ベストセラーになった本だが、「借りた金は返すな!」加治将一、八木宏之著 という本


ここに債権回収会社制度(サービサー法)の解説がある。
この法律は不良債権処理のために作られた法律だが、借金を時価で清算することを可能にするもので、
実は一般の人も利用できる。
この法律を活用することで、自己破産しなくても済むケースが多いという。


苦しい時にしてはいけないのは次の順番だろう。(この本にも書いてある)

1.自殺 
2.闇金からの借り換え 
3.親族を連帯保証人にする 
4.自己破産 ⇒最後の手段。その前にできることはいろいろある

日本の民法は、以前に書いたように債権者本位主義で、連帯保証制度などの恐るべき欠陥をもつ残酷なシステムだ。本来は弱者の味方であるべき民法が狂ったことになっていて、民事的な処理だけでは、どうにもならないが、捨てる法律があれば救う法律もあるということか。
やはり困ったときは一人で解決しようとせず、また弁護士よりも専門のコンサルタントに頼んだ方がよい。



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あのいかれたP.Klugman

今の状況は日本のバブル崩壊の時の状況と近い。
政府に対して市場をなんとかしてくれという依存心(困ったときの政府頼み)が高まり、それに乗じて政府が介入権力を大幅強化し、統制経済に大きく振れていく。
自由主義はだめだとがなり立てるバカの声が強くなり、ケインズ主義の復活が叫ばれる。
もとより日本の場合は、自由主義など全くなかったから、従来の統制経済路線の強化に走っただけであるが、アメリカの場合はもっと極端なChangeに走る危険性がある。つまりChange to Socialismだ。

アメリカの1930年代の金融危機の時は、共和党のHoover政権での失政によりクラシカルリベラリズムそのものが劣勢となり、続くFDR政権による極端な社会主義、ケインズ主義にばく進していった。

Hoover自身はどちらかというと共和党的なクラシカルリベラルだったようだが、フーバーがやってしまった大失策は、極端な保護貿易主義であるSmoot-Hawley Tariff Actの導入や、所得税の大増税など最悪の反クラシカルリベラル的政策であった。これをアメリカは今回も繰り返す危険性が高い。
もしオバマが大統領になれば、NAFTAの見直しを初めとする保護貿易主義の復活と大増税の両方を行い、あのいかれたP.Klugmanもブレーンに入れてNew NewDeal政策にばく進する危険性が高い。
このby productは、さらなる国際紛争の危険性の増大だ。

近視眼的な政策によりどの国も保護主義を連鎖的に強化する可能性が高いためだ。
これがまさに1930年代に起こったことだ。
保護主義の台頭によって、より困窮するのは後進国だから、大国に対する敵愾心が衰えることもないだろう。

フーバーの失策は自由放任政策ではなく、まちがった法律を作ったことである。
ミルトンフリードマンが言うように、1930年代当時に適切な政府介入(recapitalizationなど)を行うべきだったというのには前提があり、当時も金融市場が決して自由市場ではなかったという点だ。
今はJ.Cohraneなどがいうように金融市場は前よりは自由度が高まっているため、以前よりはrobustになっている。しかし、依然として大きな規制がある不自由な不完全市場だ。
大小、様々な規制が存在し、それが金融市場を統制市場にしている。しかし市場が市場であるためには、それはLaissez faireな完全自由市場であることが前提になる。

今回の危機も本質は、市場に対する規制が原因であることは間違いない。例えば住宅金融公庫などのGSEも政府規制の産物だ。またS&Pなどの格付け機関も、政府による参入規制が強い寡占業界だ(実質3-4社しかない)。リスク、リスクというが、政府規制の強い部分で社会的に大きなリスクを生み出している。
政府規制が、市場のリスクヘッジ機能を生む自生的な構造を破壊するのだ。
だがフーバーの時と同じく、それは市場の失敗とみなされ、さらなる規制強化へと政府は逆噴射していくことになる。



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政府には解決できない

政府には解決できない
 最大の問題は、多くのアメリカ人が、今年の大統領選の候補であるバラク・オバマやジョン・マケインが金融システムを建て直してくれると期待していることだと、私は考えている。私たちはいつから、自分の経済的な自立を政治家に託すほど、お金に関して弱くなったのだろうか。合衆国憲法のどこかに、政府は私たちのお金に関する問題を解決しなければならないとでも書いてあるのだろうか。 経済的に生き延びるのに政治的指導者をあてにしている人が、世界中にこれほど多いのが不思議でならない。ほとんどの人は、富やお金、住宅ローンの返済保証を約束する候補者なら、誰にでも投票するようにさえ見える。

一言で言えば、ファニーメイやフレディーマック、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズ、AIGのタワーが崩壊したとき、地に落ちたのはお金だけではなかった。この国が礎(いしずえ)としている「自由」、世界中が欲してやまない「自由」がいま、失われつつある。



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グラバーやサトウ

アーネストサトウや、メチニコフの本なども読んでみた。
中でもおもしろかったのが、加治将一氏の書いた「幕末維新の暗号」という本である。同じ著者の「あやつられた竜馬」もおもしろい。

当然、私にはこの本の内容がどこまで事実かどうかわからないが、非常におもしろく、なかなかに説得力がある。あの訳の分からない明治維新のスキームがすっきりと見えてくるような気がした。
もちろん、この本も陰謀論の一つと呼ばれるのだろうが、司馬遼太郎の幼稚なお伽話とはレベルが違う。
足軽~農民からなる若い日本人達が、自力で革命=維新を成し遂げたなどというお伽話を信じるのはもうやめた方がいい。
これは、黒幕のグラバーやサトウといった革命家によってなされた革命であり、維新の英雄達(足軽~農民)は、彼らに操られた情報部員だったというのは、事実なのだろうと私は思う。

「日本において、体制の変化がおきているとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」
(ハモンド外務次官からパークスへの手紙)

「自分は終始思っていた。徳川政府の反逆児の中で、自分がもっとも大きな反逆児であった。「自分に歴史はない」「自分の名は出さないように」(グラバー史談)

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報われる保証のない努力をしつづけた人間

基本的に、投資信託も含めて株式投資に、素人は手を出さないのが一番合理的なのだろうと思う。
基本的に人任せにして金儲けができるほど、甘いものではないのは自明なことだ。

いつの世でも、最終的に勝者となるのは、報われる保証のない努力をしつづけた人間の中のさらにごく一部の人間だけだ。

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利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0

日本の金融機関というのは、全くどうにもこうにもしょうがない存在だ。
利子は払わないは、金は貸さないわで、社会的な存在意義が0、いなマイナスの社会的害毒でしかない。所詮は日本の旧大蔵帝国の出先機関に過ぎず、未だにその本質は変らない。
しかし、ランズバーグが言うように、もともと大銀行など不要な存在なのだ。

グレーゾーン金利の金利規制で、多くのサラ金業者が消えて、闇金が増えているようだが、この問題の本質は、金利そのものにあるのではなく、民法の債権本位主義にあるのは前に書いたとおりだ。

つまり、あるべき姿は単純であり、債務本位主義に民法を抜本改正して、貸し手側にリスクを負わせることにつきる。
ようするに、債権者本位主義の民法に守られている以上、貸し手側は一切のリスクを負っていないのが現状なのである。
銀行もサラ金もリスクを負わないことが法律で保証されている状態で、金利が高いのどうのといってもナンセンスだ。なぜなら金利と貸し出しリスクが全く対応していないからだ。
サラ金の金利が高いのはリスクに応じたものではなく、単に銀行が金を貸さないことに対するプレミアム分にすぎないだろう。

アメリカでは、お金を借りるときも家を借りるときも保証人など要求されない。そのような要求は違法行為なのだ。ローンも原則、ノンリコースローンだ。
まして連帯保証人制度などという野蛮な4世紀前の制度を未だにもっているのは日本だけだ。

貸し手がリスクを負って初めて、リスク計算の必要性が生じる。リスクが最初から無ければ、日本の金融機関のようにリスク計算など一切しない。

日本は、このような劣悪な環境にありながらも、多くの偉大なアントレプレナーを戦後輩出してきているが、もはやそのようなハングリー精神を若者に求めるのはナンセンスである。
それは、経済的に無謀な冒険を相手に期待するに等しい。

日本の金融社会主義は、バブルの崩壊過程を経てさらに強化されたかのようにみえる。
まずは、連帯保証人制度の廃止をはじめとする、民法の抜本改正から始めなければ日本経済の将来はない。
そしてこうした一見関係なさそうな民法の正常化が日本の金融システムをも根本から変えることになるのである。



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Change to Socialism

オバマは早速社会主義政策を打ち出している。
Change to Socialismの第1弾といえよう。

Obama will call on citizens of all ages to serve America, by developing a plan to require 50 hours of community service in middle school and high school and 100 hours of community service in college every year.

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フリードマンバッシング

今はミルトン フリードマンに対するバッシングも相当なものである。
経済の調子が良かったときは、さんざん持ち上げておいて、悪くなると責任をおっかぶせるというのは、大衆の卑しさである。
とはいえ、実は、フリードマンに最も批判的だったのは、何もわかってない左派ではなく、むしろMises-Rothbardを戴くオーストリアンだったのも事実だ。

ミーゼスは、「定期的に経済危機が起こることは、銀行政策により繰り返されるマーケットの自然利子率を下げようという試みの必然的な結果である。
経済危機はこのような呼び水政策をやめることをしない限り無くなることはない。なぜなら、人工的に刺激されたブームは不可避的に危機と恐慌へと行き着くからである。
危機に対応して現れる介入主義者の政策の試みの全ては完全に見当違いのものである。」
と、レッセーフェールを唱えているように、フリードマンのマネーサプライ論もオーストリアンは否定する。そういった企ては全て政府の計画主義的市場介入だとする。
そして、現在の金融危機も、グリーンスパンの今までの自然利子率をコントロールしようとした金融政策の誤りの結果だったと主張しているわけだ。

政治的自由や市民的自由といった概念は何を意味しているのか定かでないが、リバタリアン的には政府から与えられる自由など自由とは考えない。「政治的自由は、状況によってが経済や市民の自由を促すが、状況によっては拒むこともある。」とあるように、フリードマンも政治的自由なるものを否定的に考えている。実際、アメリカのconstitutionalismとは(連邦)政府が自由に何でも立法できないようにしている制限憲法だという点が本質的なのだ。

また国有化と社会主義化とは、曖昧だが、前に書いたように、国有化も方法を間違えれば社会主義と変わらないだろうが、資本を注入する行為だけを見ればそれは市場ルールを大きく否定するものでもないので、あまりこの言葉にとらわれない方がいいと思う。

ところで、ジムロジャースは今の大暴落は、オバマ民主党が保護主義を主張していることを織り込んだ動きだと指摘している。だから、オバマが今すぐにでもなすべきことは、この保護主義的主張を明確に撤回すると公言することだ。
Smooth-Hawley Tariff Actは、その案が議会に提出された時点で、大暴落を引き起こした。
当時も経済学者はこの案に大反対の声明をだしたのだが、市場はこのように政治を取り込むものと考えられているのである。
逆にオバマが保護主義を撤回すれば、市場はそれを折り込んで大反発するだろう。これは今考えられるいかなる政策よりもインパクトがあるはずだ。

決して間違ってはならないのは、市場が愚かな大衆心理で動いていると思い上がった勘違いをすることだ。
これは自称経済学者なる連中に多く見られる、Fatal Conceipt(致命的なうぬぼれ)である。
私の知る限り、偉大な投資家は決してそういう考えはしないし、その正反対の考え、つまり市場に対する畏怖を持っているように思われる。



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市場がどちらの方向にも極端に振れやすいポジティブフィードバック

景気浮揚策としていろいろ言われているが、どれも全くナンセンスだ。
景気と心理が不可分なのは当然だが、株式市場の上昇が購買心理を上昇させ景気がよくなり、反対に株式市場が下がって、資産が目減りすれば購買意欲は減退し景気は後退する。
これは、どちらもポジティブフィードバック関係にあり、株上昇→景気上昇→株上昇となり、株下落→景気下落→株下落となる。これは当たり前の話だが、市場がどちらの方向にも極端に振れやすいことを意味する。

今、景気なるものを良くしようとすれば、株の上昇トレンドによる資産回復しかない。
数万円の税金の還付など巨大な負の資産効果に対しては全く効果がない。
つまり、景気=boomとは、常に資産効果に連動したものであり、どのような製品がイノベーションによって市場に出てくるかとは関係がない。画期的な製品が生まれようとも、資産が半分以下になったら、普通購買意欲が無くなるのが人間心理というものだ。そして、全員の資産が平均的に半分になれば、お金の価値=購買力は上昇し、物価は下落する。そしてさらに給与収入は減る。
#プラスにもマイナスにもどちらの方向にも加速する市場の性格というのは、ソロスの観察とも合っているのではないか?

特にアメリカのように401kで、個人資産の半分以上が株式で運用されている場合、株式市場が与える資産効果は絶大だ。日本の場合は、土地バブルによる資産効果により景気が上がったのが80年代末のバブルだった。
その後マイナスの資産効果と0金利によるキャッシュフロー減少によって、長期不況が実現した。
もし景気なるものをよくしたいのであれば名目的なものでも個人のキャッシュフローが増える必要がある。資産が回復するのはこの後だ。そして、これを実現するベストの方法が所得税の超大型減税だ。(例えば、一律所得税を半分にするといった減税をするのである)

減税によるキャッシュフローの向上が最も効率的な景気浮揚策となるのは間違いない。
個人のキャッシュフローの向上が、消費とチャンスを増大させるからだ。
あまりにも多くの金を政府は個人から略奪し蕩尽している。
政府が増税によって個人所得を減らしながら公共投資による景気浮揚を考えているのがとんでもない大間違いであり、そこには消費者がいなくて生産者しかいない。チャンスがなく可能性もない。
愚かで高慢な政府がない知恵を絞るのではなく、役人が見下している個人や民間企業が様々な金の有効な使い方を考えることで、イノベーションが生まれる。
政府自身が、不況の受け皿とならなければならない。つまり、不景気になれば大型減税をして公務員の首を大量にきるという”ノーブレス オブリージュ”を公務員の法的義務とするべきである。
収入が減れば従業員の首を減らすというのは民間企業であれば当然のことだ。つまり社会の固定費を減らすのは政府が不況対策として当然にすべきことだ。
そもそも今の公務員にはリスクがないが、リスクのない職業などあってはならない。
またリスクのない職業の給与はボランティアと同じ、すなわち0であるのがふさわしい。



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Afraid to be free: Dependency as desideratum

Afraid to be free: Dependency as desideratum
JAMES M. BUCHANAN
March 2005

Abstract. Although collectivist ideas have everywhere fallen into disrepute, this essay arguesthat socialism nevertheless will survive and be extended in the new century.
That gloomy prospect looms, not because socialism is more efficient or more just, but because ceding control over their actions to others allows individuals to escape, evade and even deny personalresponsibilities.
http://www.springerlink.com/content/g6n46t030668m05m/fulltext.pdf
このブキャナンの比較的新しいarticleは、ざっと目を通した限りでは、E.フロムの「自由からの逃走」を連想させる。フロムもナチズムの原因心理として”自由からの逃走”を喝破した。

振り子は急激に反対方向へとふれてしまった。
悪い予感が当たって欲しいとは思わないが、社会の振り子も行き着くところまで行き着かないとゆり戻しがこないのは、歴史の示すところかもしれない。



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Soros on Recursiveness

Soros on Recursiveness

ソロスは昔から哲学者のように哲学を語る人間として知られ、カール ポパーの「開かれた社会」の実践者であるというのも面白いが、日本ではソロスはヘッジファンドの象徴として嫌われ、成金のイカサマ哲学者と扱われてきたように思う。だが、私の印象ではソロスは、真剣に検討されるべきマーケット思想家の一人と思われる。

ソロスは、この本でも「再帰性」の概念を分かりやすく語ろうとしている。「再帰性」とは、主観と客観といった二元論を超える哲学であることは知っていたが、何を意味しているのか不明であった。ソロスのような大規模な投資をすれば相場に影響を与えるのは当然だろうくらいに思っていたが、そういう意味ではないらしい。

本書より引用
「現行の均衡理論パラダイムに慣れきった人に最もわかりにくいのは、ここの部分だ。例えば再帰性の理論に対する批判の多くは、「市場参加者のバイアスのかかった認識が市場価格に影響をおよぼす」という自明の理を私が一生懸命説いているだけというものだった。だが再帰性の理論の核心はそれほど単純なものではないのだ。」


これは、ファンダメンタルズ=客観、市場のバイアス=主観とした場合、市場はファンダメンタルズを反映するというのは幻想だということだ。

実際、再帰性概念は、このファンダメンタルズ=客観という概念を否定している。
つまり、ファンダメンタルズと市場バイアスは、双方向的に操作可能であり、どちらも一方を変更しうるため、主観ー客観というパラダイムでは収まらない。市場バイアスは、ファンダメンタルズを実際に変更するし、逆も真なり。

均衡という概念自体が否定されなければならない。さらに均衡概念を前提とする合理的期待形成をはじめとする経済学理論は全て間違っているという結論になる。投資とは動く標的を追う行為となる。

市場のブームーバストという加速的なポジティブフィードバック過程に対する観察でソロスは自分の理論を証明しようとしているわけだが、それよりも実際にそれで儲けているというのがすごいことである。

 



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グリーンスパンの「波乱の時代」

グリーンスパンの「波乱の時代」の特別版2008年の8-9月。

*****
サブプライムモーゲージが原因になっていなければ、他の金融商品か市場で問題が発生し、原因になったのは間違いない。世界的にリスクが割安に振れ過ぎていたのが基本的な問題である。

ある金融機関は「大きすぎてつぶせない」という見方が一般的になれば、その機関は経営困難に陥っても政府の支援が得られると予想されるようになって、本来の信用力だけで判断された場合よりも低い金利で資金を調達できるようになる。

銀行はリスク管理制度を確立していて、一般に、あらゆる事態に耐えられるだけの資本を保有するようにしているが、100年に一回か2回しか起こらないような事態は例外としいる。そうした事態が起こった場合、その影響を封じ込める役割は中央銀行が担うことになる。
それに変わる方法は、商業銀行がはるかに大きな資本をいつも用意しておくことしかない。銀行はこの方法をとることに強く抵抗する。100年に一度の事態が起これば、破綻するリスクをとることを好んでいるようだ。

また、規制を強化することで金融市場が改善しうるとする見方にも、私は懐疑的である。とくに、FRBの役割を拡大し、市場の安定をはかる規制を行うようにし、そのために不均衡やバブルの芽を摘む幅広い権限を与えるという考え方には賛成できない。そのような任務は達成不可能だ。
政策担当者が金融ショックや経済ショック、あるいは経済的不均衡の結果を予想するよう、どれほど期待しても、実際には信頼性のある予想は不可能なのだ。

世界市場の自立的な調整に任される傾向が強まってきたからだ。この変化はおそらく、避けがたいものである。世界経済はとてつもなく複雑になり、ひとりの個人やひとつの集団では、どのように機能しているかを完全に理解することができなくなっているからだ。世界経済が機能していることは、事実をみれば明らかである。

例外は危機の時期であり、これは人間の弱点によって発生する。私の知る限り、どのような規制制度も、保護主義も、根拠なき熱狂や、市場と経済に打撃を与える恐怖心を安定した経済成長に変えることはできない。
経済を中央計画当局のもとで組織化し、高度な知識をもつエリートが運営することで、競争市場よりもすぐれた解決が図れると考えた人たちは、過去1世紀のに繰り返し失敗していきている。
*****

グリーンスパンをスケープゴートにしたメディア攻撃が盛んだ。しかし、政府(FRB、財務省)にできること、政府の法的役割、ミッションというのをほとんどの人は全く知らないはずだ。
政府は何でもやれるし、またやる権限があるとでも思っているのだろう。
しかし、「合衆国憲法のどこかに、政府は私たちのお金に関する問題を解決しなければならないとでも書いてあるのだろうか。」そんな役割も権限も能力も政府にはないし、またあってはならないのである。


 



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constitutional federal republic,not a parliamentary democracy

Bailout is unconstitutional
Which section of the U.S. Constitution gives the federal government the power to bail out banks? If you don't know, it could be because no constitutional authority exists for such an action. It is all too common for both Congress and the executive branch to ignore that the Constitution limits what they can and cannot do.


The United States is not a parliamentary democracy; it is a constitutional federal republic, giving basic rights to the people and limiting the powers of government. America's Founding Fathers understood that simple majoritarian democracy could trample the rights of minorities and could lead to tyranny. One of the major reasons for the relative success of the American republic is the difficulty of making significant changes in the government structure and policies. Many find this frustrating, but it allows momentary passions to cool and a more deliberative process to take place. As a result, fewer mistakes are made, in contrast to many parliamentary democracies. Because it was more difficult to put socialist schemes in place in the U.S., such as the nationalization of major industries, the people observed the failure of such programs in parliamentary countries, which diminished the enthusiasm for doing it in America.

bailoutは合衆国憲法に違反しているという指摘。
アメリカは議会制民主主義(parliamental democracy)ではなく、立憲制連邦共和国(constitutional federal republic)であると書いてあるように、この違いは実はものすごく大きい。

ハイエクが、constitution of libertyで書いたのは、アメリカの立憲制連邦共和国の意味だが、日本人でこの違いを認識している人間はまずいないだろう。

FDR Franklin Deleno Roosevelt 政権によって、このconstitutional libertyは消滅の危機に遭遇したわけだが、なんとか持ちこたえた。
しかし、今度のオバマ政権でも持ちこたえる保証はない。
アメリカのconstitution of libertyは今深刻な危機に直面している。



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Frequently Asked Questions about Libertarianism

Frequently Asked Questions about Libertarianism
Version: 1.3HTML1.0
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Contents:
1.リバタリアニズムとは何ですか?
2. リバタリアンはリベラルですか?コンサバですか?
3. リバタリアンはどのようにこの問題にアプローチしますか?
4.軍の徴兵制に対する リバタリアンのスタンスはどのようなものですか?
5.政府はラジオやTVや新聞を規制するべきでしょうか? 
6. リバタリアンはなぜ成人の合意あるセックスに関する規制を撤廃しようとするのですか?
6a. これは、売春もどうようですか?
7. リバタリアンは個人の自由を麻薬使用まで支持するのですか?
7a. しかし、麻薬が合法化されたら、中毒患者が何百万とうまれるのではないでしょうか?
8. リバタリアンは銃の所有を個人的な自由として支持するのですか?
9. リバタリアンは移民をどのように扱うのでしょうか?
10. リバタリアンは農場や産業への補助金をどう考えますか?
11.自由貿易になれば、関税を設けるよりも生活が向上しますか?
12.最低賃金法をどう捉えますか?
13.貧困者の問題をどう考えますか?
14.人種偏見や男女差別をする雇用者に雇用差別をさせないためにアファーマティブアクションは必要ではないでしょうか?
15. リバタリアンは、税金をどう捉えますか?
16.私は税金カットを支持しますが、実際問題、どうすればいいでしょうか?
17. リバタリアンは進みすぎてはいませんか?
18. リバタリアンの考えは性善説に基づいてはいませんか?
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1.リバタリアニズムとは何ですか?

リバタリアンは平和と物質的豊かさを備えた世界を欲している。また、それを勝ち取るための唯一の方法は、自己統治によるものであり、他者による統治ではないと考える。

自己統治とは個人責任と忍耐とを合わせたものである。責任とは自分で自分を統治するということである。忍耐とは自分の価値観を他の平和的で誠実な人たちに対して強制しないということを意味する。

「今日では、他者による統治が我々に危険と、摩擦、貧困をもたらしている。自己統治という遺産、伝統を再び蘇らせよう。敗者のいない世界を 作るために。我々は皆そのような世界からやってきたのである。」―アイン ランド

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2. リバタリアンはリベラルですか?コンサバですか?

単なる右翼か左翼かというより、ずっとましな選択肢があります。 リバタリアンは政治やビジネス、個人生活の全ての面で、それら以外の他の選択肢を提供します。 リバタリアンは個人的な自由と経済面での自由において、より程度の高い自由を主張しています。昨今のリベラルズは個人的な自由は好みますが、同時にあなたの経済的な問題にも首を突っ込みたがります。コンサバ系の人たちはその裏返しです。つまりより経済的な自由を主張しますが、あなたの個人生活に関しては締め付けようとします。

リバタリアンの立場というのは、いわゆる右翼でも左翼でもなく、またそれらが一緒になったものでもありません。 リバタリアンは個々人が自分がベストと思えるものを自分で決定する権利があると考える。またその確信にもとづいて行動する権利があると考える。もちろん、同じように自分の判断で行動している、平和的で誠実な人達の権利を尊重するという制限がつくが。

昨今では、リベラルもコンサバの人たちも、アメリカの遺産とも言える自由と自己責任を重んじる伝統を拒否している。彼らは国民に彼らにとって都合のいい拘束服を着せようとする。アメリカ人は足かせのない偉大な国を建国した。今こそ拘束服を脱ぎ捨てるときである。右翼だ左翼だという無意味なスペクトルをうちやぶらねばならない。全ての問題における自由というものを考えよう。

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3. リバタリアンはどのようにこの問題にアプローチしますか?

リバタリアンは政治へのアプローチに、愛情や面倒見のよさによって対処しようとする。

政治家は、法律や規制が生きた生身の人間に影響をおよぼすという事実をいつも忘れている。

リバタリアンは法律の持つこういった側面を重視する。我々は一人一人の個人がかけがえのない存在であり、大きな可能性をひめた存在だと考える。我々は自身のなかにある最高のものを見出すことを奨励するようなシステム、またそれを利用できるシステムを欲している。人々の調和のある関係性を発展させうるシステムである。

政治的な問題を扱う場合、 リバタリアンは人間に注目する。だれが問題を抱えているのか?と。
問題はなにか?なにを政府はすでにしているのか?もしかしたら、それこそが問題の原因なのではないか?と。
最も重要なこととして、 リバタリアンはこう尋ねる。誰かが他人の権利を侵していないかと?
だれかが、殺人、レイプ、強盗、盗み、横領、放火、不法侵入、etcをしていはしないか?
もし、そうであるならば、犠牲者を犯罪者から守るために政府を呼ぶのが適当であろう。しかし、そうでないのであれば政府を巻き込むべきではない。

多くの場合、人々は自発的な意思で自分の問題を解決しようとしたほうが、政府の強制力を使って問題を解決しようとする場合よりもいい結果が得られるものである。

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4.軍の徴兵制に対する リバタリアンのスタンスはどのようなものですか?
自由な人々は、我が家や自国を守るために頼りになる存在であるということは歴史が証明している。しかし徴兵制というのは奴隷制である。軍隊に居たいと思ってそこにいる人たちに守られているのはいいが、意思に反してそこにいる人たちにまもられているとは思わない。

アメリカを守ることに専念した軍隊であれば、世界の警察官としての軍隊に比べマンパワーが少なく出来るし、さらには徴兵制をなくすことにも、徴兵をとる理由もなくしてしまうだろう。

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5.政府はラジオやTVや新聞を規制するべきでしょうか?
アメリカの自由なマスコミというのは、世界中の自由を渇望する人たちからうらやましがられている。独裁者は管理したマスコミを用いて、反対意見を黙らせようとするし、うその情報を国民に与えようとする。アメリカ人は政府のつくった新聞や情報コントロールされた新聞など欲しないだろう。同様に情報コントロールされたTVやラジオがどうしていいのだろうか?印刷された言葉と同様に、放送による言葉は自由市場によって制限されるし、それによって制限すべきものである。アメリカ人は自分の見たり聞いたりするものを自由に選択できるべきである。政府によって、その選択を規制されるべきではない。

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6. リバタリアンはなぜ成人の合意あるセックスに関する規制を撤廃しようとするのですか?
性的な関係を形作る選択方法より以上に個人的なものというのはこの世にない。政府は人々のベッドルームに侵入するというのは政府の役目ではないのである。

このことは、他人の性的な行動を認めなければならないということではない。ただ単にその当事者が合意のとれた大人である限り、だれも彼らをやめさせたり罰したりするために政府の法権力を用いる権利はないということである。

性的な嗜好を理由に、無害(もしくは善良)なアメリカ人を刑務所においやる正当性などどこにも存在しない。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

これは、売春もどうようですか?

毎日、何百万ものアメリカ人がセックスをするということに同意をしている。かれらを刑務所に押し込める理由の正当づけなどできない。
これらは同意しあった大人同士の自発的で平和的な了解である。これらのほんの一部にお金がからんでいる。
犯罪としてのペナルティーを科したところで、売春はなくならない。それは本当の問題を生み出すだけである。
ある研究によれば、売春を検挙するたびに一回あたり2000ドルの税金が掛かっている計算になるという。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

セックスを犯罪視するのはやめよう。それらは個人的なこととして放っておこう。

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7. リバタリアンは個人の自由を麻薬使用まで支持するのですか?

禁酒法はかつてアメリカを引き裂いた。今はドラッグに関する戦争が起こっている。厳しい法律も、監獄行きという脅しも、罰金もドラッグの使用を止めさせることはできない。これらは全て人を助けるということを困難にしている。売春禁止が組織犯罪を生んだように、今では麻薬禁止法は、組織犯罪を生き長らえさせている。そして暴力と堕落がそれらとともに存続するという結果になっている。ドラッグが違法とされる以前は、アメリカ人はそれをたいした問題としてはとらえていなかった。他人が自分の身体をコントロールするという権利は尊重すべきである。

麻薬を犯罪視することをやめよう。それを必要とするひとたちを助けよう。そして警察には本当の犯罪から我々を守ってもらおう。

しかし、麻薬が合法化されたら、中毒患者が何百万とうまれるのではないでしょうか?

私ももちろん人々が健康的で生産的である社会に暮らしたいと思う。中毒性のあるドラッグで人生を破壊しているような人たちの社会はいやである。
1914年以前は、全てのハードなドラッグは合法的なものであった。そして中毒患者はあまりいなかった。多くの研究結果では麻薬でさえ生産的でありうるし、また麻薬が安価で買えたとしてもそれが犯罪には結びつかないとしている。

今日では、麻薬を犯罪視しているにもかかわらず、中毒患者が沢山いる。麻薬が違法であることによってひきおこされた暴力もある。
麻薬を犯罪視することは止めよう。そうすれば暴力を止められるし、助けを必要な人たちを助けることも出来る。

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8. リバタリアンは銃の所有を個人的な自由として支持するのですか?

リバタリアンは、他のアメリカ人と同様に、通りを安全に歩けることを望んでいるし、家の中で安全で居たいと思っている。市民の自由が犯されることを防ぐためにも、我々の憲法上の権利も守られることも当然望んでいる。特に、 リバタリアンは法の下で人々がどうように扱われるのを望んでいる。我々の憲法が要求しているように、アメリカの数百万人の銃を所有している人たちの権利が同様に守られることも望んでいる。

責任ある市民が平和的な活動をするのに許可や承認は必要ないというのは普遍の理である。銃の所有者たちは、それ自体では他人を傷つけることはないし、モラルの理由で犯罪刑罰を科すことを正当化することはできない。

責任のある、武器を持った訓練された市民というのは、国内の犯罪や外国の侵入からの脅威に対する最高の防御である。アメリカの建国者たちはそれを知っていたし、そのことは今日でもいまだに真実といえる。

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9. リバタリアンは移民をどのように扱うのでしょうか?

誰でも、どこへでも旅行をする権利がある。また提供される仕事を引き受ける権利も持っている。ただし、それが自分のお金を使って旅行するものであるかぎり。また他人の権利を侵害するものでない限り。

貧乏な人を助ける一つの方法は、仕事がある所へ国境の制限なく彼らを行かせてやることである。いろんな研究によれば、移民の受け入れは他人の仕事を奪うものではなく、経済に付加されるもので、それはより多くの仕事を生むことを助長する。

アメリカは移民によって建国された国である。彼らはここにまさに機会と自由を求めてやってきたのである。そして歴史上最も偉大でもっとも生産的な社会を築いたのであった。

人間の権利を尊重しよう。そして移民制限を緩和するという要求をしている世界中の貧困者にたいし同情しよう。

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10. リバタリアンは農場や産業への補助金をどう考えますか?

全てのビジネスに携わる人たちー農場経営者も含めてーは、自分の生産物を他者によって補助金が与えられていないフリーマーケットに提供することができるべきである。生産者、そして消費者を助ける方法は、アメリカの自由な事業システムをだめにしている政府計画や政府の規制を取り除くことである。

補助金は、有害であり不公正なものである。なぜある種のビジネスには他人に施しをするために課税されなければならないのか?なぜ、政府が優遇するビジネスを支えるために、よりたくさんの税金を払わなければならないのか?

このような馬鹿げたことはやめよう。そうすれば、ビジネスはフリーマーケットの中で操作することができるし、我々はより良い物を食べることも出来るし、より良いものを着てより良い家により安く住むことが出来る。

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11.自由貿易になれば、関税を設けるよりも生活が向上しますか?

自由貿易はより安い値段でより良い品物を消費者に提供することを可能にする。貿易制限は、その反対である。品質の悪いものをより高い値段で消費者に提供するのである。

自由貿易では、消費者は製品により安いお金を払うことで、他の商品(国内品や外国品)に使うお金が残ることになる。

自由貿易は世界平和をもたらすことにも貢献する。1920年代から1930年代の間で、貿易障壁が世界中に行き渡ってしまったことで、それが直接的に第2次世界大戦を引き起こしたのである。もし商品が国境を渡ってこないのなら、軍隊が国境を越えてくるであろう。

全ての貿易制限を終わらせよう。世界中の原料が最も効率的で生産的に配置されるように自由にしよう。

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12.最低賃金法をどう捉えますか?

技術、経験のある働き手はより多くの賃金を得るが、それは雇用者がかれらを雇うための競争があるからである。教育のあまりない、経験もない若い人は仕事にありつけない。なぜなら最低賃金法があるために見習として雇用するにはあまりに賃金の高いものにしているからである。最低賃金法の撤廃は多くの若い人、マイノリティ、貧困者に働くチャンスを与えるだろう。

このことは問われねばならない。つまりもし、最低賃金法がそんなに良いアイデアであるというのならなぜ最低賃金を時給200ドルにしないのか?大抵の頑固な最低賃金法の主唱者でさえ、そのような提案はなにかおかしいと分かるはずである。

唯一のフェアで正しい賃金とは、雇用者たちの間で合意されたものである。我々は今すぐに最低賃金法を撤廃するべきである。

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13.貧困者の問題をどう考えますか?

私は、貧困の連鎖というのを断ち切りたいし、身障者達を助けたい。まず第一に雇用を妨げる法律を取り除き、2番目に許可制、ライセンス制度、区画制、労働法に基づいている福祉を民営化する。これらは全て働く意欲のある人たち、特にマイノリティーを、労働することを止めさせてしまうものである。これらの法律を廃案にしよう。個人的なチャリティはより哀れみのあるものであり、より多くのものを政府の政府政策よりは供給するものである。

我々は完全な世界を作ることはできない。我々は貧困な人々に対して非効率な政府計画を効率的で自発的な援助に置き換えることでより多くのことをすることができるのである。-- David Bergland

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14.人種偏見や男女差別をする雇用者に雇用差別をさせないためにアファーマティブアクションは必要ではないでしょうか?

リバタリアンは、いろんなタイプの人たちが最も調和のとれた関係のなかで働いているのを見たいと願っている。"Affirmative action"というのは、人々を望むと望まざるとに拘わらずの関係を結ぶことを強制するという法律である。わりと最近まで、多くの州において異なった人種がいろんなことを一緒にすることを妨げるような法律が存在してた。たとえば仕事をしたり、食事をしたり、結婚したりといったことである。 リバタリアンはこのような法律には断固反対する。なぜなら、人には集団や関係というのに入るか入らないかを自分で選ぶ権利があるからである。

古いことわざではこう言っている。"it takes two to tango."(タンゴを踊るには二人いなきゃならない。)。関係を結ぶには、また組織を作るには最低二人の人間が必要だ。我々は自発的な意思から関係を作ろうとするのを阻止するのに法律を用いることは正当化できない。また当人たちの意思に反して関係を強要することも正当化はできない。

政府の雇用というのは、また違ったケースといえる。政府の仕事における雇用や昇進の唯一の基準となるものはメリットであるべきである。憲法は人民の法の下における平等を要求している。政府というのは法律によって作られたものであるから、彼らは憲法上絶対的に平等な扱いをされなければならない。個人的な市民や法人は、愚かなことをする権利を持っており、その結果は自分でこうむるのである。

アファーマティブアクションで偏見を取り除こうという試みはうまくいっていない。このような法律は人種的な偏見をもった人間がその裏をかくことも簡単である。

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15. リバタリアンは、税金をどう捉えますか?

アメリカでは、既におおくの供給者が多くのサービスを提供している。郵便配達から教育、道路作り、やその保守まで、民間部門でやった方が、より効率的で低コストと考えられている。

我々は、税金を廃止したり減らそうという全ての運動を支持する。税金というのは不道徳に力によって維持されている制度である。所得税は特に害悪なものである。生産性に対する罰金であり、我々のプライベートなできごとを政府の捜査官にさらけだすことを強いるものである。

1914年の以前には、所得税というのはなかった。そしてアメリカは繁栄していた。所得税を自発的なファイナンシングサービス手法に置き換えるのが我々のゴールである。これにすぐに取り組むべきである。

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16.私は税金カットを支持しますが、実際問題、どうすればいいでしょうか?

政府というのを、サービス産業のコングロマリットと捉えてみたらどうだろう。これらサービスの提供者は政府の雇用者である必要はない。またサービスへは税金で払う必要はない。教育、安全、輸送、慈善、エネルギー、なんでも分野に拘わらず民間部門はすでにそれを少ないコストでやっている。税金を削減するためには、民間部門のサービス提供者が非効率な官僚制をとってかわることをゆるさねばならない。

市場の競争で、より低コストのよりよいサービスが提供されることになるだろう。

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17. リバタリアンは進みすぎてはいませんか?

私は、あなたに自分を自分で支配できるようになってほしい。

政治的なコントロールを自己統治に置き換えるのは、あなた次第である。だから実験して見よう。外国援助をカットし、運送の規制撤廃をし、ドラッグ法を撤廃し、農場補助金をカットし、税金をカットしよう。

「あなたが、自己統治出来るようになるにつれ、おそらくもっとそれを欲するようになる。決めるのは君に掛かっている。だれも君に自由になることを強制はできない。-- David Bergland

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18. リバタリアンの考えは性善説に基づいてはいませんか?

大抵の人達は、殆どの場合、 リバタリアンの前提である他者の権利への尊重をもってお互いに生きている。社会のごくごく一部の者が全ての犯罪を犯しているのである。多くの人がそうであったら社会そのものが崩壊しているであろう。

もし、人間が根本的に邪悪なものであれば、最後に欲しくなるものは大きな政府であろう。そして政府はそれら邪悪なものたちがスタッフとなっており、あなたを支配しようとするだろう。-- David Bergland

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Bibliography:
[1] "Liberty Communicator Course," Advocates for Self-Government, 1988.
[2] Bergland, David, "America's Libertarian Heritage: The Politics of Freedom," Orpheus Publications, 1773 Bahama Place, Costa Mesa, CA 92626, (714)751-8980, 1991.
[3] "The Liberator," Spring 1992, pp. 18-19, Advocates for Self- Government, 3955 Pleasantdale Road, No. 106-A, Atlanta, GA 30340, (800)932-1776.
[4] "The Liberator," Summer 1993, p. 13, Advocates for Self-Government



共通テーマ:日記・雑感

PLAYBOY INTERVIEW WITH AYN RAND

PLAYBOY INTERVIEW WITH AYN RAND
March,1964
1964 年3 月 プレイボーイ誌に掲載
P : PLAYBOY 誌のインタビュアー/アルビン トフラー
Rand : アイン ランド

P: ミスランド、あなたのエッセイや小説、特に、今、あなたの論争のまと
となっているベストセラーの「Atlas  Shrugged」などは、とても注意深く
設計された、内部的に首尾一貫した世界観を提示していると思います。それ
らは、実際達成的な哲学的なシステムの表現です。あなたは、この新しい哲
学でなにをなし遂げようとしているのでしょうか?
Rand: 私は人々に対し、それも何かを考えようとしている人たちに対し
て、まとまった首尾一貫した(consistent)理性的な人生観を提供しようとし
ているのです。
P: Objectivism の基本的な前提はなんでしょう?それはなにから始まる
のでしょうか?
Rand:それは、「存在するものはある」(existense exists)という原理からは
じまります。これはつまり、客観的なリアリティというのは、受け手や、受け
手の感情、情緒、希望、恐れなどというものとは独立に存在するということ
です。Objectivism では、人間の理性(Reason)だけがリアリティを受けと
める手段であり、行動への指針となるものであるという捉え方をします。理
性(= Reason)という言葉で、私が意味していることは、人間の感覚に与え
られた、物質存在というものを認識し、統合する能力のことです。
P: Atlas shrugged の中であなたのヒーロー= John Galt はこう宣言してい
ます。「私は、自分の命にかけて誓う。私は他人の為には決して生きない。ま
た他人に私のために生きて欲しいとも頼まない。」この言葉はあなたの原理
にどのように関係してくるのでしょう?
Rand: Galt の言葉は、ドラマ化されたObjectivism 倫理の要約のようなも
のです。いかなる倫理システムも暗黙的であれ明示的であれ、それはメタ
フィジクスに基礎を置き、それから派生しているのです。Objectivism のメタ
フィジカルな基礎から派生する倫理というものは、理性が人間の基礎的な生
1
存手段であることから、理性的であることをその高位の美徳として捉えるの
です。MIND を駆使すること、リアリティを知覚し、それにしたがって行動す
ることは、人間の道義的な使命ともいえるのです。Objectivist 倫理のスタン
ダードな価値とは、人間の人生とは人々の間をサバイバルすることであり、理
性的な存在であるその本性がそのサバイバルを要求するのです。Objectivist
の倫理のエッセンスとは、人間は自分自身の為に存在しているのだと把握す
ることです。また自己の幸福の追求は、もっとも道義的な手段であり、自分
自身を他人の為に犠牲にしてはならないということです。まして他人に自己
への献身、犠牲を強いるものではありません。Galt の言葉が要約しているの
はこういうことです。
P:あなたは、あなたの大義のために進んで身を捧げようとしますか?また、
あなたの追随者たちもそうするでしょうか?また非犠牲的なObjectivist に
とって、死ぬに値するほどの大義というのはあるでしょうか?
Rand:この問いに対する答えは私の本の中にはっきりとかかれています。
「Atlas shrugged」の中で私は人間は自分の価値に生きなければならないこと、
また必要があればその価値のために戦わなければならないということを説明
しています。
なぜなら生きるというプロセスの全ては、価値の達成というものからなっ
ているからです。人間は自動的に機械的に生きているわけではありません。
人間は理性的な人間として生きます。野蛮人としていきることは出来ません。
どんなに単純な価値たとえば食べ物でも、それは人間によって作られなけれ
ばならないのです。人間によって植えられ作られなければなりません。同じ
事が、より興味深く、より重要なことに対してもいえます。全ての価値は人
間によって、獲得され保持されるのです。そしてその諸価値が脅かされると
したら、必要とあれば、それに抵抗して自分が理性的な存在として生きる権
利の為に闘い、死ぬ覚悟が必要です。あなたは、私にこう尋ねましたね。「あ
なたはObjectivism の為に死ねるか?」と。私はできるだろうと答えます。し
かしより重要なことは、私はそのために生きるだろうといことです。そして、
このことはより困難なことなのです。
P:あなたの初期の作品である「Anthem」で、主人公はこう宣言していま
す。「選択することは私の意思である。私の意思による選択は、私の尊重する
唯一の命令である。」 これはアナキズムではないでしょうか?人間の欲求や
意志というのが人間の尊重すべき唯一の法律ということですか?
Rand:ある人の個人的な意思だけが尊重されるのではありません。これは、
多かれ少なかれ、Anthem という物語の全体のコンテキスト中ではっきりとさ
れる詩的な表現です。ある個人の私的な理性的判断というもの。ご存知のよう
に私は普通に使われる意味とは全く違う意味で、自由意志という言葉を用い
ています。自由意志というのは、人間の考える能力、もしくは考えないという
能力からなっています。考えるという行為は人間の最初の選択行為なのです。
2
理性的な人間は欲望や気まぐれで動くことはけっしてありません。理性的な
判断によってのみ行動するのです。これは人間が判断できる唯一の権威です。
これはアナーキーを意味しません。なぜならもし人が自由な文明化された社会
の中で生きたいと思うのであれば、理性が彼に法律を守ることを選択させるだ
ろうからです。尤も、その法が客観的で理性的かつ妥当なものである場合は、
ということです。私はこのことについて、「The  Objectivist  Newsletter」
に政府の必要性と政府の正しい役割(proper function of government)とい
う題で寄稿したことがあります。
P:あなたの見解では、政府の正しい役割というのはなんなのでしょうか?
Rand:基本的には、たった一つの正しい役割しかありません。それは個人の
権利を守ることです。人間の権利というのは、たんなる肉体への暴力(Physical
 Force)やそれから派生するもろもろの暴力によって、簡単に破壊されてし
まうのです。政府の正しい役割は、人々をそのような暴力を行使しようとす
る犯罪者から、守ることです。自由な社会においては、権力というのは、報
復手段としてのみ、そのような犯罪者に対して用いられます。これが、政府
の正当(proper)な仕事です。つまり、警察官として人々を暴力から守ると
いう役割です。
P:もし、権力(= Force)が、暴力(= Force)に対する報復にのみ用いら
れるのであれば、政府は、税金を徴収するのに権力(Force)を用いる権利
(right)を持っているのですか?たとえば、徴兵制度であるとか?
Rand:基本的には、私は税金というのは自発的なものであるべきだと思い
ます。他のすべてとこれも同様です。しかし、このことをいかに実行するか
は実に難問ですね。私にはひとつの方法を提案できますが、といってもこれ
を決定的な解決手段だとおしつけるつもりもありません。たとえば、政府運
営の賭博ですが、これはヨーロッパでは多くの国で行われていますが、これ
などは一つにいい形での自発的な課税といえるでしょうね。他の手段もいろ
いろあるでしょう。課税というのは、正当な政府サービスに対する、自発的
な寄付金のようなものでなければなりません。人々が必要とするものを提供
することに対する、人々の自発的な支払いである必要があります。人々が保
険に対して対価を支払うようなものです。しかし、税金は遠い将来、真に自
由な社会を達成した時には問題となるでしょう。税金を弁護するための改正
案としてはこれが、最後のものです。これ以上はありません。徴兵制に関し
ては、適切でなく違憲なものです。それは、根源的な権利(= Fundamental
 rights)つまり、個人の生命権への侵害です。
だれも、自分の大儀のために他人を死なせたり、戦わせたりする権利など
持っていません。国(= country)は、人々に自発的でない苦役を強いる権利
は全く持っていません。軍隊というのは、厳格に自発的なものでなくてはな
りません。そして、軍の専門家が言うように、志願兵からなる軍隊こそがベ
ストな軍隊なのです。
3
P:他の公共的なニーズにたいしてはどうでしょうか?たとえば郵便事業な
どは、正当な政府の役割と思いますか?
Rand:では、ストレートに申しますが、私の立場は完全に一貫性のあるも
のなのです。郵便局に限らず、道路や街路、とくに学校などは、すべて私的
に(Privately)に所有され運営されるべきものです。私は、国家(State)と
経済の分離を主張しています。政府(government)は権力の行使(Use  of
 force)が必要とされるような局面にのみかかわるべきです。つまり、政府
は警察、軍(Armed Service)や法廷において、人々の諍いを解決するといっ
たことだけに、拘わるべきであり、その他のことには一切拘わるべきではあ
りません。これら以外のことは全て私的に運営されたほうがよく、また、そ
の方がはるかにより良い運営がされることでしょう。
P:あなたは、新たな政府部門や政府法人のようなものを作ろうとしていま
すか?
Rand:いいえ。私はそういった議論は一切しません。私は、政府の計画立
案者ではありませんし、まして自分の時間をユートピアを作る構想で無駄に
しようとは思いません。私は、原理について話しているので、その原理から
導かれる派生的なものははっきりとしています。私が、暴力に反対している
といったとして、他になにを議論する必要がありましょうか?
P:それでは、外交政策についてお聞かせください。あなたは、どのような
自由国家でも、第2 次世界大戦期のナチドイツのような国に対しては、攻撃
する権利を持っていると仰っていましたね。
Rand:そのとおりです。
P: そして、さらに全ての自由国家は今日では、ソビエトロシアや、キュー
バや、その他の収容所国家に対して攻撃(invade)する道義的な権利(The
moral rights)を持っている。尤もこの権利は義務ではありませんが、という
ことですね。
Rand:そのとおりです。独裁制(dictatorship)を布いているような政府は、
その国の人々の権利を踏みにじっているのであり、アウトローであって、そ
れら政府は何の権利も主張できません。
P:あなたは、積極的(actively)にUSA がキューバやソビエト連邦に侵攻
すべきだと思いますか?
Rand: 現在のところでは、そうは思いません。それは必要ないと思います。
ソビエト連邦はなによりも経済封鎖を恐れています。私はキューバの封鎖と、
ソビエトロシアの経済封鎖を主張します。そうすれば、アメリカ人の一人た
りとも血を流さずに、それらの体制は崩壊するでしょう。
P:あなたは、アメリカの国連(United  Nations)からの脱退を歓迎しま
すか?
Rand:はい。このようなグロテスクなみせかけの組織、伝え聞くところによ
ると世界平和と人権のためにあるというような組織、それもソビエトロシア
4
のような歴史上最悪の侵略国家にして最悪の虐殺国家がその一員である組織
を認めることはできません。このソビエトロシアと共に人間の権利を守るな
どという考えは、権利という概念への侮辱であり、このような組織を認める
かと人に聞くこと自体がその人の知性にたいする侮辱です。私は人々が犯罪
者といっしょに協力すべきだとは、全く思いませんし、まさに同じ理由によっ
て、自由国家がこのような独裁国家と協同すべきではないと信じています。
P:あなたは、ロシアと外交を断絶すべきだとお考えですか?
Rand:はい。
P:あなたは、反共産主義者であり、反社会主義者であり、アンチリベラル
だと宣言されています。また、保守主義者(conservative)だと言われるこ
とも拒否しておられます。実際、あなたは怒りのこもった批判文を保守に対
して寄せていますが、あなたは、政治的にはどのような立場なのでしょうか?
Rand: 少し、訂正をさせてください。私は自分の立場をそのような否定的
な表現で主張したことはありません。私は、自由放任(Laissez-faire)の資本
主義の主唱者であり、個人の権利の主唱者であり、個人の自由(Individual
freedom)の主唱者であって、このようなことを主張している人は他には全く
いません。私はこの見地にたって、個人を集産主義への犠牲を強いるいかな
る教義、つまり共産主義、社会主義、福祉国家、ファシズム、ナチズム、最
近のリベラリズムのようなものに対して対抗しているのです。私は、この同
じ見地から保守派に反対しています。保守派は、混合経済と福祉国家の主唱
者です。かれらとリベラル派との違いは単に程度の問題にすぎず、原理原則
的(discipline)には違いがありません。
P:あなたは、アメリカは知的な破産に陥っていると指摘しています。あなた
は、このような糾弾においてナショナルレビュー誌のような右派の雑誌のこと
も含んでいるのでしょうか?このような雑誌は、あなたが体制主義(statism)
とよぶものに対する強力な声となってはいませんか?
Rand:私は、ナショナルレビュー誌をアメリカでも最悪で、最も危険な雑
誌だと思います。その雑誌が主張しているような類の資本主義に対する批判
のようなものは、間違いなく資本主義(Capitalism)に対する不信と破壊と
いう結論に陥るでしょう。あなたは、この理由を知りたいですか?
P:はい。是非。
Rand:なぜなら、それは資本主義を宗教と結びつけるものだからです。ナ
ショナルレビュー誌のようなイデオロギー上の立場は、実質上、次のような
ことを言っているに等しいのです。つまり、自由と資本主義を受け入れるた
めには、人間は神やなんらかの宗教、なんらかの超自然的な神秘主義を信じ
なければならない。ということは、資本主義に抗弁するうえでの理性的な根
拠というのはなにもないということになります。これは、理性が資本主義の
一つの敵であるということを認めるに等しいことです。同時に奴隷制社会や
独裁国家が理性的なシステムであると認めるに等しいのです。そして神秘的
5
な信仰に基づいてのみ、人は自由を信じることができるということを認める
に等しいわけです。
これほど、資本主義の価値を損なう根拠の無い主張はないでしょう。そし
て、真実はまさにその対極にあります。資本主義は理性によって抗弁でき、ま
た理性によって評価が可能な唯一のシステムであるのです。
P:あなたの認める政治的集団というのは、今のUSA にありますか?
Rand:そのような政治的集団はありません。今日のアメリカにそのような、
ちゃんとした一貫性のある主張をしているものがあるでしょうか?はなはだ
しい矛盾をもった主張ばかりです。
P:あなた自身は、個人的な政治的な野心というのはありませんか?今まで、
政治家になろうと思ったことはありませんか?
Rand:それは、はっきりとありません。そんなことを私に期待するほどあ
なたが私のことを嫌っていないということを信じたいですね。
P:しかし、あなたは政治に関心がおありになる。または、すくなくとも政
治理論に関心をお持ちですよね。
Rand:このように答えておきます。私がソビエトロシアからここアメリカに
来た時、私はたった一つの理由で政治に関心を持っていました。つまり、私が
政治などに関心を持つ必要がない日がくるようにするためにという理由です。
私は、自分が自分自身の関心や目標を追求できる自由な社会を確保したいと
思ったのです。政府(government)が干渉してそれを台無しにしてしまわな
いという社会。私の人生、私の仕事、私の未来が国家(state)の慈悲に左右
されるものでもなく、まして独裁者の気まぐれにも左右されない社会を確保
したかったのです。これは今でも変わらない私の立場です。今日では、この
ような社会というのは理想であり、まだ達成されたものではありません。ま
た他人にそのような社会を私の為に達成してくれと期待することも出来ませ
ん。また私は、他の全ての責任ある市民と同様に、これを達成するために自
分で出来る限りのことをしなければなりません。言い換えれば、私が政治に
関心があるというのは、単に自由(Freedom)を確保(secure)し、守るため
なのです。
P:あなたは、作品を通じて、現代社会の運営のされ方では、資本主義の国に
おいてさえも、個人を埋没させ、独創的な才能や企業家精神(initiative)を
窒息させてしまうと言っておられます。「Atlas Shrugged」で、John Galt は
人々のmind のストライキ(strike)を指導します。そして、これが、自分の
周りの集産主義社会(collectivist society)の崩壊という結果をもたらします。
あなたは、今日の芸術家や知識人、創造的なビジネスマンが、このようにし
て、その才能を社会から引き上げる時がきていると思われますか?Rand: い
いえ。まだその時期はきていないと思います。しかし、このことを説明する
前に、あなたの質問の一部分を訂正しておかなくてはなりません。我々が今
日持っている社会とは資本主義社会(capitalist society)ではなく、混合経済
6
(mixed economy)の社会です。これは、自由(freedom)と規制(controls)
の混合(mixture)なのです。そして、これは今の大きなトレンドとしては、
独裁制(dictatorship)に向かって動いています。「Atlas  Shrugged」の中
での行動は、社会が独裁制の段階に到達した時点で起きるものです。もし、
独裁制が起こたときは、ストライキを行うときでしょうが、そのときまでは
する必要がありません。
P:あなたは独裁制(dictatorship)という言葉でなにを意味しているのです
か?それをどのように定義づけされますか?
Rand:独裁制とは、個人の権利を認めない国(country)であり、その政府
(government)が、完全で究極の権利を人々に対して持っている国です。
P:あなたの定義によると、混合経済と独裁制をわける線はどこになりま
すか?
Rand:独裁制には、4つの性質があります。1党支配、政治的な葛藤もな
く権力が執行されること、個人財産の押収、または国有化、それと検閲制度
です。特に、この最後の項目=検閲は、人々が自由に話したり書いたりでき
る限りは、検閲はないのであって、人々には社会を改良(reform)し、より
ましな道へ導いていくチャンスが残されています。検閲制度が科せられた際
は、人々が知的なストライキを打つ時です。つまり私が言いたいことは、そ
のような社会システムにはいかなることがあろうと協力してはならないとい
うことです。
P:このようなストライキが無い場合、あなたが望ましいとみなすような社
会的な変化をもたらすにはなにをなすべきと考えますか?
Rand:社会のトレンドを決めるのは観念(idea)です。社会システムを作る
のも破壊するのも観念なのです。ですから、正しい観念、正しい哲学、が唱道
され広まる必要があります。現代の世界の大失敗、-資本主義の破壊を含み
ますが、これは、利他主義的な集産主義哲学によって、引き起こされたもの
なのです。人々が拒否しなければならないものは、この利他主義(altruism)
なのです。
P:では、あなたは利他主義をどのように定義しますか?
Rand:それは、人間には自分自身のために存在する権利はないとする倫理的
なシステム(moral system)です。それは、他者への奉仕が自分の存在を唯
一正当化するというものです。また倫理的な自己犠牲(moral sacrifice)が、
もっとも高い倫理的な義務であり価値であり美徳だとするものです。これが、
集産主義や全ての独裁制の倫理的な基礎となるものです。自由(freedom)と
資本主義を追求するためには、人は神秘主義的であってはならず、利他主義的
であってはならず、倫理における理性的な規約(rational code of ethics)を
持つ必要があります。この倫理(morality)には、人間は犠牲的な動物ではな
く、人間は自分自身のために生きる権利を持っているということと、自己の他
者への犠牲も他者の自己への犠牲もしないという意味があります。言い換え
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れば、今日の社会において、決定的に必要とされているものは、Objectivism
の倫理(ethics)なのです。
P: では、あなたが仰っていることは、これらの変化をもたらすためには、
基本的には教育的な方法、または、宣伝活動が必要だということですね。
Rand:はい。もちろんそのとおりです。
P:あなたの反対者が、あなたのObjectivism の倫理的、政治的な原理があ
なたをアメリカの思想のメインストリームから排除するだろうということを
どう思いますか?
Rand:私は、そのような思想のメインストリームというものを知りません
し、認めません。そのようなものは、独裁制においてふさわしい言葉です。
集産主義社会においては、思想はコントロールされ、スローガンというメイ
ンストリームがありますが、それは思想といえるものではありません。アメ
リカにはそのようなものは存在しませんし、今まで一度たりともあったこと
がありません。私はイノベーターなのです。これは他と区別するための言葉
であり、名誉ある言葉であって、隠し立てしたり弁解したりするようなもの
ではありません。なにか新しいもの、または価値のあるアイデアを提供でき
る人はだれでも、知的な世界(intellectual status quo)の外に立つことがで
きるのです。これ(intellectual status quo) は流れ(streem)ではありません
し、ましてメインストリームというものではありません。それは淀んだ湿地
帯です。人類を前進させるのがイノベーターの役割です。 
P:あなたは、哲学としてのObjectivism は、次第に世界中に広まっていく
とお考えですか?
Rand:そのような質問にはだれも答えることができません。人間は自由な
意志をもっています。人々が理性的であろうことを選択するという保証はど
こにもありません。どのような時代でもどのような世代でもです。また、哲
学にとって世界を席巻する(sweep the world)ということは重要なことでは
ありません。もしあなたがその質問を少し違った表現で尋ねるとしたら、つ
まり「あなたは、Objectivism は未来の哲学となるか?」と質問するのであれ
ば、私は、そうだと答えましょう。しかしこの保証には前提があります。つ
まり、人々が理性に立ち還るのであれば、また理性が独裁制によって、破壊
されていなければ、またもう一つの暗黒時代に沈み込んでいなければ、また
充分な考える時間があるほどに自由でありつづけたならばという前提があり
ます。そうであればObjectivism は彼らが受け入れることのできる哲学とな
るでしょう。
P:なぜでしょうか?
Rand:人々が自由であった、どのような歴史的な時点でも、常にもっとも理
性的な哲学が勝利を収めてきたのです。私が、Objectivism が勝利するだろ
うと、いうのはこのような見地からです。しかし、このことになにも保証は
ありません。それに関して予定説的なことを言う必要はありません。
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P:あなたは、あなたの捉える今日の社会に対して、するどく批判的です。
またあなたの著書は、単に社会の形を変えるというだけでない、人々の仕事、
考えること、愛することに対するラジカルな提言が含まれています。あなた
は、人間の未来にたいして楽観的なのでしょうか?
Rand:はい。私は楽観的です。集産主義は、知的な権力として、また倫理的
な理想としては既に死んでいます。しかし、自由と個人主義、またその政治
的な表現形である、資本主義(Capitalism)というものはまだ見出されては
いません。私は、人々はそれを発見する時がくるだろうと考えます。死に絶
えつつある集産主義の哲学が今日もたらしているのは、堕落、無気力、絶望
のカルト以外のなにものでもありません。近代の芸術や文学をみると、そこ
にあるのは救いようの無い人間という姿と、失敗と不満、破壊に運命付けら
れた魂の無い生き物です。これは集産主義の心理学的な告白なのかもしれま
せん。しかしそれは人間の本当の姿ではありません。もしそうであるならば、
人間は洞穴からでてきはしなかったでしょう。しかし人間はそこから出てき
たのです。自分の周りを見れば、そして歴史を紐解いてみれば、人類のmind
の達成を見ることができます。人類の偉大なもの(greatness)への無尽蔵の
可能性と、それを可能にする能力に気づくはずです。人間は本来、救いよう
の無い怪物ではないことがわかります。しかし、人がその能力と精神を捨て
去ったとき怪物になるのです。もし、あなたがこの偉大なもの(greatness)
とはなにかと聞くとすれば、私はこう答えましょう。それは、John Galt の
3つの根源的な価値、reason,purpose,self-esteem によって生きるという力量
(capacity)であると。



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The only path to tomorrow

The only path to tomorrow

Readers Digestに1944年に発表されたアインランドのエッセイ

人類そして、文明に対する最大の脅威は、全体主義哲学の広がりである。
全体主義哲学の発展を最も助ける行為は、その支持者の献身によるものではなく全体主義の敵がなんであるかを混同することにある。

全体主義と戦うためには、我々は敵を理解しなければならない。
全体主義は、集産主義である。
集産主義は、グループに対する個人の服従を意味する
そのグループとは、民族、階級、国家を問わない。
集産主義は、人間がいわゆる「公益」のために集団行動と集団的思考に鎖でつながれなければならないと考える。

歴史を通して、圧制者は「公益」を代表すると主張することなく決して権力を得ることはなかった。
ナポレオンは、フランスの「公益に奉仕した」。
ヒトラーは、ドイツの「公益に奉仕している」。

自分の行動に、利己的な動機があるとは、考えようとしないのには恐怖感があり、その感覚は利他主義者が明白な意図をもって引き起こしているものである。利他主義者は、公益によって自分達を正当化する。
圧制者は、武器のみによっては、その権力を長く維持することは出来なかった。
人間は、主に精神的な武器によって隷属させられてきたのである。
そして、このうち最大のものは、個人を超越する国の主権が公益を構成するとする集産主義的な教義である。

もし人間が神聖な信仰として、人間には不可譲の権利があり、その権利はいかなる理由があろうとも、また、いかなる者からも奪われることはないという信念を持っていれば、独裁者が現れることはない。
それが、どんな人間によっても、悪人によっても、いわゆる後援者によっても奪われないという確信があれば。

これは集産主義に対する個人主義の基本的信条である。
個人主義では、人間とは、お互いを平等に対処する社会の中で彼自身の幸せを追求する不可譲の権利をもつ独立した実体であると考える。

アメリカのシステムは、個人主義に基づいている。
もし個人主義が生き残るべきものであるならば、我々は個人主義の原則を理解しなければならないし、また我々が向き合うあらゆる問題において、いかなる公共の問題に対しても、その基準となるものとして考えなければならない。
我々には、ポジティブな信条、はっきりした一貫した信念がなければならない。

個々人の権利の廃止が公益に資するという考えを、完全に邪悪な考えとして拒絶しなければならない。
社会全体の幸福が、社会全体の苦しみや、自己犠牲から生まれることはありえない。
唯一の幸福な社会とは、幸福な個人たちからなる社会の一つである。
人は、腐った木からなる健康的な森を持つことはできない。
社会の力は、個人に備わる基本的また奪うことのできない権利によって、常に制限されなければならない。
自由の権利とは、個人の行動への権利、個人の選択への権利、個人の主体性そして、個人の財産に対する人間の権利を意味する。
私有財産に対する権利なしでは、独立した行動は可能でない。

幸福を追求する権利とは、人が自分のために生きるという権利を意味する。
自分自身のプライベートな個人的な幸福を選択し、その達成に向けて働くということだ。

各々の個人は、唯一人のこの選択をして、また最終的に判断する者である。
人間の幸せは、他の個人によっても、自分以外の団体によっても規定されることはありえない。
これらの権利は、全ての人間に備わる無条件かつ一身上の、私的にして個人的な所有物であり、ただこの世に生まれたという事実のみにより、他のいかなる認可も必要とせずに、人間に与えられるものだ。

そして、このような考えこそが我々の国の創設者の概念だったのだ。建国の父達は個人の権利を、あらゆる集団的要求よりも上位のものとして位置づけた。
社会には、人間関係におけるお互いの交わりの交通巡査のような役割があるだけである。

歴史の始まりから、2種類の人間が敵対者として向かい合ってきた。まったく正反対のタイプの人間がいた。それはActiveな人間と、Passiveな人間だ。

Active Manは、製作者、クリエーター、創設者、個人主義者である。
彼に基本的に必要となるものは、考え、働くための独立性である。

彼は、人間に対する支配力を必要ともしなければ、求めもしない。また、彼をどんな形であろうと強制の下で働かせることはできない。
あらゆる種類のよい仕事は、レンガを積むことから、シンフォニーを書くことにいたるまで、Active Manによってなされる。
人間の能力の程度は異なる。しかし、基本的原則は同じである。人間の独立と主体性の程度が、人間としての彼の価値、労働者としての才能を決定する。

Passive Manは社会のあらゆる階層の中におり、大邸宅の中でも、またスラム街でも見つかる。そして、彼を特徴付けるものは、彼が独立を恐れることである。
彼は、他人に大事にされることを期待する寄生体であり、人に従い、服従し、管理されるよう指示命令が自分に下されることを願う。
彼は集産主義を歓迎する。なぜなら集産主義は、彼が自分で考え、自分の主体性でもって行動するあらゆる機会をなくしてくれるからである。

社会がPassive Manの必要に基いて作られるとき、それはActiveManを破壊する。
しかし、ActiveManが破壊されてしまえば、PassiveManはもはや誰にも面倒を見てもらうことができない。
そして社会がActive Manの必要に基づいて作られるとき、彼はPassiveManを、彼の力で導くことができ、また彼が立ち上がることで、passiveManとさらに社会全体を立ち上がらせることができるのだ。

これは、つねに人間の進歩のパターンであった。
一部の人道主義者は、役立たずや、Passive Manに対する哀れみから、集産主義体制を要求する。
彼らのために、Active Manを抑制したいと思う。
しかし、Active Manは、人に抑圧されるともはや機能できない。
そして、一旦彼が滅ぼされれば、Passive Manの破滅が必然的にあとに続く。
哀れみが人道主義者の第一要件であるとするなら、その哀れみの名において、PassiveManを助けるためにも、Active Manが自由にし活躍できるようにしておかなければならない。

長い目で見ればPassiveManを助けるには他のいかなる方法もない。
人類の歴史は、Active ManとPassiveManの争いの歴史である。つまり、個人と集団との争いである。

最も幸せな人間と最も高い生活水準を作り出した国、そして、最も大きな文化的な前進があった国は、政府の集団的権力が制限された所であったし、個人に独立した行動の自由を与えられたところであった。

例を挙げよう。
ローマの勃興は、当時の集産主義的な野蛮性に対して、市民の権利に基づく法律概念があったことによる。

イングランドの勃興においては、集産主義的な、全体主義スペインに対し、マグナ・カルタに基づく行政制度を持っていた。

歴史上、比類のないほどの合衆国の勃興は、その憲法により、集団に対してではなく、市民の一人一人に対して与えられた、個人の自由と独立性によるものである。

人が、文明の勃興と没落の原因をまだじっくり考えてる間に、歴史のあらゆるページでは、進歩には一つの源泉しかないことを我々に叫んでいたのだ。

それは、独立した人間による、独立した行動だと。

集産主義は、古代の野蛮性の原則である。
野蛮人の存在の全ては、種族のリーダーによって支配される。
そして文明とは、人間を人間から自由にするプロセスなのだ。

我々は、現在一つの選択に直面している。
前進するのか、後退するかの選択に。

集産主義は、「明日の新秩序」でない。
それは、「昨日のまさに暗黒の秩序」だ。
しかし、「明日の新秩序」は、存在するのだ。
それは、個人的人間(Individual Man)のものである。
彼こそが、人間性(Humanity)が今までに認めてきた、明日の唯一の創造者なのだ。



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